こけ玉のブログ

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不惑の年などもうとうに過ぎたのに、いまだに自分の道も確立できていない。
そんな男の独り言。

もし、あなたの近所にゴミの収集をエスカレートさせて家全体がゴミ屋敷と化しているうちがあるとしたら、その家の住人はディオゲネス症候群(DS)かもしれない。

そのような住人をちょっとおかしいとは誰しもが感じるだろうが、それにはきちんとした診断名がついているのである。



DSは高齢者の行動障害である。

症状としては、

①極度の不潔な環境での生活、

②セルフネグレクト、

③非衛生的な状態、

などがあげられる。そして、

④自己決定による孤立、

⑤外部からの助けを拒否する、

⑥変わったものを溜め込む、

などという傾向が伴うとのこと。



実はこのDS、名前はついているが正式な疾患名とはなっていない。

その理由は、そのような人の中には通常の人たちの2倍の確率で認知症を伴っている人がいる。

 

そのため、認知症の一症状なのか、はたまた精神疾患としての症状なのか、生来のキャラクターによるものなのか、50年以上も様々な論文で語られながら、未だ統一された見解が出されていないからである。

また、社会的なかかわりを拒絶する側面があることから「ひきこもり」として捉える向きもある。

 

 

この「ディオゲネス」という言葉はソクラテスの孫弟子の一人の名前なのだそうだ。

 

彼は「必要なものが少ないほど神に近い」という思想を持ち、樽の中で暮らしていたという。

彼の生き方は、これまでの風習に左右されず、人間にとっての真の価値を追求するものとして称えられることも多いとのこと。

彼は肉体が必要とする最小限のもの以外は何もポリス(都市国家)からは求めない。

そういう意味ではセルフネグレクトともいえるほど栄養状態が悪く、社会と隔絶するかのような生活をしているDSの人らは一見ディオゲネスと似ているかもしれない。



しかし、ディオゲネスが提唱したコスモポリタニズム(世界市民主義)は、現存の国家や民族といった枠組みの価値観にはとらわれずに、世界をただ一つのコミュニティーとしてそこに所属すべきだという考えであり、周囲の価値観からは逸脱しているかもしれないが、国家や政府の存在を認めている。

そういう点で、「引きこもり」のように社会との接点を自ら拒絶し、孤立を深める者とは本質的に異なっているように思える。

また、ディオゲネスは肉体が求める最小限のものしか求めなかったが、ゴミ屋敷の住人たちは「何かの役に立つ」という価値観で、一般的にはゴミとされるものを収集するとか(能動型ディオゲネス症候群)、ゴミを捨てられずに自宅にため込んでしまう(受動型ディオゲネス症候群)、といったモノへの執着を見せる。

そういう点ではディオゲネスが提唱した世界観とは根本的に異なるように思える。

だが、一見した生活様式がディオゲネスと似ているためにその名がついたようだ。



年間の推定発症率は、在宅で生活する60歳以上の人口1000人当たり0.5人だそうだ。

ちなみに、2025年2月1日現在の盛岡市の60歳以上の人口は

100518人である。

全員が在宅で暮らしているわけではないと思うが、単純計算で約50人程度はこのディオゲネス症候群になっている計算である。

もちろん、個人差があるだろうし、戸建て住宅であれば庭などに集積されたゴミで周囲に認知されやすいかもしれないが、集合住宅では室内にため込まれたゴミに気づかれないこともあるだろうからそこまで目立つ存在にはなっていないかもしれない。

いずれ一定程度いることは確かであろう。

もちろん、若い層にも存在している。



社会経済的地位や職業に特異的なものはなく、誰しもが陥る可能性を持っているようだ。

基本的に男女差はないが、未亡人がなりやすいとの報告もある。

これは伴侶など大切な人を亡くした後、自分自身をケアする気力がなくなることで陥りやすくなるためかもしれない。

一般的には一人暮らしの高齢者が発症するが、兄弟姉妹や夫婦の症例もあるという。



本症が表す特徴は多くの疾患の症状にも含まれるため、特定の疾患として分類することは困難となる。

認知症、うつ病、強迫性障害、アルコール依存症などの合併症が原因、あるいは寄与因子としてあげられている。

精神医学的な分析では、彼らのパーソナリティーとして、親しみやすさ、頑固さ、攻撃性、独立性、偏屈性、被害妄想、飄々とした態度、無関心、強迫性、ナルシシズム、洞察力の欠如などを示すことが多いとされている。

しかし、一方で認知症や精神疾患の存在が認められないケースもあり、生来の性格的なものの関連も指摘されている。

予後は悪く、5年生存率は46%と低い。

これは衛生環境の劣悪さや、栄養状態の悪さなどに起因すると思われる。

「高齢者のセルフネグレクト」というキーワードで検索すると、まさにDSそのものの症状を持つものが上がってくる。

こうした高齢者の極端な自己否定的行動は、間接的な自己破壊的、自殺的な行動の一形態ではないかという人もいるようである。



以前、何かのTV番組で芸人がゴミ屋敷のゴミを片付けるということをしていた。

残念ながら時間の経過とともに再びゴミ屋敷へとまた戻っていったように記憶しているが、彼らにはどのように対応していくべきなのだろうか。

その不衛生さ、悪臭、彼らの頑迷さなどから、ともすれば地域住民とは対立的な関係になりがちだと思うが、基本的に彼らの意志の尊重という点は大前提としながら、おそらくモノの収集は孤独を埋める表れとも考えられるので、孤立を深める彼らだが、人との交流の楽しさみたいなものを思い出せるまでの粘り強い働きかけが必要なのかもしれない。

TV番組に出ていたようにちょっとした介入さえ許されるようになれば(家族でも第三者でも)、合併症の治療や衛生面での向上など身体的フォローもできるようになるであろう。

また、そのような状態に陥ってしまった背景なども知れるようになれば心理的なアプローチや、場合によっては服薬などによるフォローもできるようになるのではないだろうか。

「拒絶」を乗り越えるのは並大抵な覚悟では乗り越えられないだろうが…。


「社会的孤立」は現在では「自己責任」的なとらわれ方をしがちだが、ディオゲネス症候群の多くが認知症や精神疾患を背景にしているようなら個人の責任ではどうにもならない。

人類の生き残り戦略が「支え合うこと」によって生きながらえてきたのだとしたら、このような最も困難なケースにこそ社会資源が振り向けられるべきではないだろうか。

それと、誰もが陥る可能性があるディオゲネス症候群。

大切な人を亡くした時、心の隙間を埋めるなにかを持っていることも大事なのかもしれない。

世の中の独り身の人間には無視できない疾患である。

 


 

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〇「自己責任論」の持つ意味とその始まり
 

自分は「自己責任」という言葉が嫌いだ。

なぜなら、現在巷で使われている多くのケースが、社会に起きている物事の責任を個人に帰結させて、本来あるはずの国家の責任に免罪符を与える言葉になっているからだ。

宇都宮氏は、さらにその「自己責任」という言葉は本来支え、協力しあうべき力を持たない者たちの間に分断をもたらす言葉であるとも言っている。

国家の責任を見えなくさせ、国民の間に分断をもたらすその言葉は、「権力者」たちにとって非常に都合のいい言葉なのだ。

もちろん、世の中には自分の行動によって起きた結果に対し責任を持たなければならないことはある。

しかし、最近社会的弱者に対して投げかけられることが多く、世の中を跋扈する「自己責任論」は社会を壊してしまう論理だと自分は思う。



「自己責任」という言葉が一般化したのは、2004年のイラクで起きた日本人誘拐事件の頃からだろうと個人的に思っていたが、宇都宮氏もそのように捉えられていたようで、彼によるとそれ以前の広辞苑では「自己責任」という言葉は掲載されてもいなかったそうだ。

あの事件は本当にひどかった。

2003年からアメリカとの間でイラク戦争が勃発し、その戦地へ自衛隊が派遣された。

戦闘地域への自衛隊派遣は違法とされていたが、「あくまでも人道支援」を目的とし、強行されてしまったのだ。

しかし、イラクの人々からすれば戦闘服に身を包んで自分たちの国にやってきた軍隊は、あくまでもアメリカ側の軍隊として認知され、それまで現地の人々と友好な関係を築き、信頼を勝ち得てきた日本人の民間ボランティアに対する目も厳しくなっていったという。



日本政府は日本人ボランティアやジャーナリストたちに撤退勧告を出したが、それに従わずにとどまった人たちが誘拐されたのだ。

そのことに対して政治家の「自己責任」の言葉によって口火が切られ、日本中に非難の声が巻き起こったのである。

しかし、それまでの政府であれば自衛隊を派遣することはなかったはずであり、戦地派遣の実績を作りたい小泉内閣により自衛隊派遣が強行され、それにより逆にボランティアたちは危険に晒されてしまったのだ。

現地でのボランティア活動に全く興味のない人にとっては、「勧告が出たらさっさと引き上げればいいだろう」と思われるかもしれない。

しかし、現地で苦しむ人々に対しての責任感が強ければ強いほど、真剣であればあるほど簡単に見捨てることなどできないというのが心情ではないだろうか。

そして危険を顧みずにボランティアを続ける姿は必ずや現地の人々には感銘を与えたに違いなく、軍隊投入によって失われつつあった日本という国に対する信頼を取り戻すことに一役買っていたに違いない。

事実、人質解放に向けて現地の有力者から「その人たちはイラクの人々に尽力してきた人である」との働きかけがあったと、当時の報道があったことを今でも記憶している。



ボランティアたちの行動は讃えられることがあっても、非難されることではないはずだ。

実際、欧米では海外ボランティアに対する評価は高く、その身を守ることは国の責任とされている。

その為、当時日本に巻き起こった「自己責任論」に対して、海外メディアは一様に否定的だった。

数年前、アフガニスタンで中村哲医師が銃撃されて亡くなられた。

彼は英雄と讃えられたが、国に何ら負担をかけずに亡くなれば英雄で、何らかの負担をかける者はいかなる実績があろうとも非難すべき対象としてしまっていいのか。

自分には誘拐された人々も現地の人々を助け、戦地の状況を世界に向けて発信したという意味では英雄として讃えられるべき人々であったとしか思えない。

普段、世界の悲惨な現状に何ら関心もなく、安全な場所に自分の身を置いたままの人が、声高に「自己責任」を唱え、誘拐された人に対し指弾を浴びせる様はなんと醜かったことであろうか。



〇現在の自己責任
 

宇都宮氏は以前も何かで紹介したが、宮部みゆきの「火車」という作品に出てくる人情派弁護士のモデルとされている人物である。

「火車」はサラ金地獄に身を落とした人物を描いた作品だが、そのサラ金問題に積極的に取り組んでこられた弁護士さんである。

「サラ金地獄」という言葉が席巻していた頃、それこそ今で言う「自己責任論」のように「借主責任論」が世の中に溢れていたという。

すなわち、

「高利であることを承知で借りたのだろう」

「どうせギャンブルや遊興費で作った借金だろう」

「借りた者の責任だ」

などというもの。



そもそもギャンブルや遊興費が原因で自己破産したものなど5.6%(2011年破産事件記録調査)に過ぎず、圧倒的多くの理由は低所得、医療費、失業、給料減少等々、本人の努力ではいかんともしがたい理由のものである。

そのことを踏まえた上で、サラ金問題の裏に潜む国家的責任を見る必要があるのだ。

例えば、高利を許す抜け穴だらけの法律をあえて作った政治の責任はどうか(サラ金業者たちからの献金を受けていた政治家たちの責任)。

安定的な支払いができる能力があるのかどうか、事前審査をする貸主の責任はどうか(安易な借金を許さない仕組みであるはずの事前審査が甘い)。

苛烈を極める取立てを見て見ぬふりをしてきた行政の責任はどうか(恐怖により返済のための新たな借金を作り、どんどん地獄にはまっていく)。

借主の支払い能力を超えた過剰融資を野放しにしてきた責任もある。



もちろん、借主に責任は全くないと言うつもりはない。

いかんともしがたい理由ではあったかもしれないが、その後に訪れると思われる地獄がどれだけリアルに認識できていたか。

返済できるあては本当にあったのか。

借主の甘さの問題はあったかもしれない。

しかし、あれだけ社会問題化したことの背景には法律の穴が厳然と存在していたし、それを防ぐ手立てがあったことも間違いないのである。

宇都宮氏によると、借主たちは世間から指弾されるまでもなく一様に自らを責めていたという。

しかし、宇都宮氏の働きかけにより、上記のような様々な責任の所在に目を向けていく中で、「被害者」としての立場であることも認識できて、運動を始めることになっていくのである。

その結果、高利を許してきた出資法と利息制限法の矛盾(いわゆるグレーゾーン)は徐々に改善されていき、2006年の改正によってようやく出資法と利息制限法が掲げる最高利率が年20%に揃った。

それにより、いわゆるグレーゾーンがなくなり、今だに盛んにテレビやラジオで流される「過払い金」として返還されることとなったのである。



個人的には今頃正義漢面して「過払い金を取り戻す」と声高に宣伝し、その過払い金から利益を得ようとする弁護士にも何だかなあという気持ちがある。

聞くところによると、そうした弁護士の中にはサラ金との深い関係のある者もいて、過払い金を払わせて得られた利益が再びサラ金側に還流するという仕組みもあるのだとか。

借主にとってはいくらかでも手元に戻るのならいいのかもしれないが、法外な手数料で、本来戻るはずのお金がだいぶ目減りすることの無いよう良心的な弁護士などを見つけられるよう願うばかりである。



さて、話を戻そう。

このような「借主責任論」の構図は、現在の生活保護受給者や生活困窮者に対する「自己責任論」の構図と全く同じであると宇都宮氏は言う。

「努力が足りないから生活が破綻した」

「競争に負けたのは本人の責任」

そして、更には生活保護受給者に対して「ナマポ」などと揶揄する呼称をつけて

「怠けて金をもらっている」

「不正受給して贅沢している」

というイメージ操作する構造まで同じである。



しかし、そのイメージのような悪質な不正受給者はほとんどいない。

不正受給率は全体の1~2%に過ぎず、金額ベースでは保護費全体の0.5%程度である。

しかも、その内容の多くは、子供がアルバイトで得た収入も申告する必要があることを知らず受給し、知ったあとで差額を返還するというケースがほとんどなのだそうだ。

そのような実情を見ても、いかにひどいイメージが作られているかがわかる。



以前、売れているお笑い芸人の母親が受給していたことでバッシングが起きた。

息子は高給取りなのに受給するのかと。

責める意見も分からなくはないが、しかし、親子であろうとも別人格であり、制度的には不正受給には全く当たらないのだ。

良好な親子関係が築けているのなら「だったら息子が…」ともなるが、親子関係が破綻しているようなケースであれば、たまたま子供が高額所得者になれたとしても扶養する気になれないケースもあると思う。

まあ、その芸能人の場合はそうではないらしいので、余計非難の声が大きかったのかもしれないが。



いずれ、子供が高収入であったとしても、扶養対象となっていなければ親が低収入であれば受給資格は当然あるのだ。

そもそも日本の保護制度は同居していない親族にも扶養義務を負わせており、そのこと自体国際的にも、時代的にも遅れたものであることを我々は認識すべきである。

例えばイギリス人にそのお笑い芸人のケースを話したとしても、「それの何が問題なのか」と言われるそうだ。

「家族」単位ではなく、「個人」単位での制度とみていくべきだろう。



ちなみに、受給した金をギャンブルに使おうが、何に使おうが、使い道にも基本的に制限はない。

日本的に捉えれば、そういう事例を見聞きすれば眉をひそめたくなるのはわかる。

おそらく自分も目の前にそのような人がいれば「まずは命をつなぐことにお金を使いなさい」と言いたくなると思う。

だが、「人はパンのみにて生きるにあらず」である。

精神的な拠り所を求めることも必要なのであり、西欧ではそれが当たり前のものと捉えられている。

「精神的な拠り所は生活に必須」と受容する社会の方が何かと生きやすくなるのではないだろうか。

また、そのような金の使い方をする人も全体の中では圧倒的にレアなケースであることも認識しておくべきだろう。

レアなケースに目を奪われてレッテル貼りをし、物事の本質を見失ってはならない。



〇問題とすべきはどこか
 

それよりも、問題にすべきなのは本来受給すべき人が受給せずに、あるいは受給できずに亡くなる事例が相次いでいることではないだろうか。

具体的な事例はぜひ本書をお読みいただきたい。

そしてさらに言いたいのは、受給者200万人という数が「現行制度で最多」などとセンセーショナルに報道されたりもするが、肝心なのは本来受給されるべき人がきちんと受給できているかを示す「捕捉率」という数字である。

そもそも200万人という数字自体が低く、人口比では日本では1.6%にしかならない。

しかし、ドイツ9.7%、フランス5.7%、イギリス9.27%、スウェーデン4.5%となっており、圧倒的に日本の受給者は少ない。

そして捕捉率で見るとドイツ64.6%、フランス91.6%、スウェーデン82%となるのに対し、日本では2~3割にとどまるという(調査機関によって数字に若干の違いがある)。

つまり、本来受給してもおかしくないほどの経済状態の人のうち、2~3割程度の人しか日本では受給できていないということだ。

これだけ見ても、日本の政治の弱者に対するひどさがわかる。



日本では生活保護を申請すること自体に心理的なハードルが高い。

親族にまで扶養能力の有無の確認が入るため、「親族に迷惑をかけてまで受給したくない」と断念する人も多いという。

職場にも収入の内容確認が入るため知られることになるし、世間的な風潮がそもそも受給をとどまらせてしまう。

何より政治家が率先してハードルを上げてしまうため、捕捉率は上がらないままだ。

水際作戦と称し、申請そのものが難しい手続きを必要としており、それも補足率を下げてしまっているのだ。

一見ホームレスや困窮者を支援するかのような法律が、生活保護の申請をさせないために逆利用されている事例も後を絶たない。

そのような水際作戦の数々についてもぜひ本書をお読みいただきたい。

そしてさらに言えば、「受給していない家庭で受給者よりも低い収入で暮らしている人もいる」として、更なる受給額の減額まで行われている。

困窮者の最後の砦である生活保護はプライドを剥ぎ取るだけでなく、更な攻撃の対象ともなっているのである。



〇なぜ「自己責任論」が蔓延るのか
 

経済の二極化が言われて久しいが、最も大事なことはその二極化、「富める者は益々富み、貧しき者はさらに貧しく」なる仕組みは人の手によって意図的に作られたものであるということだ。

本来、政治の役割とは国民の生命と財産を守り、憲法が保障する基本的人権を現実の社会に実現させることとされている。

そしてそのために富の再分配を行い、貧困や格差を解消することが政治の役割なのだ。

しかし、そこに「自己責任論」が入り込むと、凋落の責任を個人に押し付けてしまえることになり、政治は上記の役割に責任を持たなくてもいいようになる。

そして、仲間内だけの好き勝手な政治ができてしまうということになる。



例えば「社会保障充実のため」と言いつつ消費税がどんどん上げられていくが、税率が上がるほどに貧困者にはますます負担が大きくなる。

一方で、社会保障は充実するどころかどんどん後退させられ、法人税だけがどんどん引き下げられていく。

一方で低収入者が最も苦しむ消費税を上げながら、一方では高所得者が更に得をするように法人税を下げるのならば、いくら社会保障充実のためと宣伝しても、実質的には穴埋めに使われていうことに他ならない。

だから大企業の内部留保だけが史上最高額をどんどん更新していく。

二極化を進める構造はそれだけではない。

本来社会的に弱い立場に置かれる労働者は法律によって守られるべきだが、非正規雇用の拡大を許す労働者派遣法が作られたために(現在は4割ほどが非正規雇用)、怪我などちょっとしたきっかけで貧困層に落ちてしまいやすい構造となっている。

それらは何も自然発生的に醸成されてきたものではない。

安い労働力を求める財界の求めに応じて作られた法律によってもたらされた社会構造であり、人の手によって作られた現象である。



そうして一度貧困層に身を落としてしまうとなかなかそこから這い上がることは難しくなる。

やむなく生活保護に頼る。

すると、生活保護基準にまで下がってはいないが、苦しい生活をしている者にとってはそれが面白くない。

自分が頑張って納めた税金があんな奴らのために使われるのか。

そんな時に「ナマポ」などと揶揄し、受給者を攻撃する声に接してしまうと、それに同調したくなるのも分かる。

あいつらは頑張りが足りないのだ。

転落は自己責任なのだと。

そうして弱き者の中に分断が生じてくるのである。

作られた二極化、政治の巧妙な仕組みにもっと目を向け、本当に正すべきはどこにあるのかを見極めていく必要があるように思う。



本来であれば力を持たざる者同士が協力し合わなければならないのに、いつの間にか生活の苦しさの中で誰かを攻撃することでしかアイデンティティーを保てなくなっているのかもしれない。

私たちはもっと貧困の実態を知らなければならないのではないだろうか。

相次ぐ医療保険料の増額で、2018年に医療費を滞納している世帯は235.3万世帯で、これは2013年度の372万世帯よりはかなり改善された。

財産の差し押さえも辞さない取り立てもしているようで、厳しい徴収の成果だろう。

だが、どこまで本当の悪質滞納者がいるものか…。

いずれ、まだまだ滞納せざるを得ない世帯が多いことは確かだ。

そして、これほどの世帯が払えないというのは「怠けている」のではなく、制度的な問題があるとみるべきではないだろうか。



教育の問題では2011年には全大学生のうち、実に37%の96万人が奨学金を借りているという。

そのうち、2004年度には約25万人だった滞納者が、2012年度は約33万人にも増えたとのこと。

奨学金を貸し出した独立行政法人日本学生支援機構(旧・日本育英会)は滞納者に対し、裁判も起こし2012年度は326件もの強制執行が行われたという。

まさにサラ金並みの取り立てである。

ここでもやはり「返さないほうが悪い」「最近の学生のモラル低下」などの自己責任の問題とされがちだが、大学卒業後の4割近くが無職・休職・非正規雇用という実態を見ておく必要がある。

そして、諸外国では授業料無料や奨学金制度であっても給付型が主であるのに対し、OECDの中で日本のみが貸与型の奨学金となっていることも忘れてはならない。

日本の若者の多くが大学卒業時点ですでに借金を抱えた状態で社会人生活をスタートさせているのである。

なぜ、他国では可能な教育支援が経済大国といわれる日本ではできないのか、いや、やろうとしないのか。

この現実をあなたはどう思うだろうか。



社会保障の中にも「自己責任」は忍び込んできている。

本来社会保障はみんなでお金を出し合って、みんなで支えあいましょうという、いわゆる「公助」で進められてきた。

しかし、最近ではやたらと「自助」「自立」が強調されるようになってきた。

まずは家族で養えというのである。

そもそも現在の介護保険は「家族介護」の限界ということから始まった制度であるのに、その根本理念を投げ捨て、保険料を取りながら「家族介護」へ逆行しようとしている。

最もわかりやすいところでいうと、介護保険における「要支援」レベルの人については介護の対象外として、地域や自治体でのボランティアにそのサポートを移そうとしている。

もちろん、時間のある方が自分の働き甲斐や社会的役割を求めてボランティアをしていただくこと自体は個人的にも否定はしない。

むしろ、積極的に推奨したいとも思う。

しかし、それは公的サポートがあった上での余力としてあったほうがいいというレベルのもの。

地域によってはボランティアの力を発揮できないところも出てくるだろう。

そんなボランティア頼みの制度は制度とは言えない。

自民・公明両党は介護保険制度を根本から壊しかかっていることを認識すべきである。



この「自助」「自立」を口実に、「家」あるいは「家族」という単位で制度を捉えることは非常に危うさをはらんでいる。

安倍政権時に改憲を目論んでいたが、その中の社会保障の理念に、この「家族」という概念を組み込もうとしていた。

これが組み込まれてしまうと、まずは家族が面倒を見ることが前提となる。

家族介護の悲惨さから始まった介護保険であるのに、今まさに時代に逆行する憲法に改悪して国の責任を放棄しようとしていることに私たちは警戒をなければならないと思う。



このように貧者がますます苦痛を強いられている一方で、富者はいかに儲かる仕組みが作られているか。

ぜひとも本書を読んでいただき、「法人税が諸外国と比べて高い」「法人税が高いと企業が外国に出てしまう」などのウソを知ってほしいと思う。



〇「自己責任論」の嘘を壊すには
 

このような「自己責任論」が蔓延する中で、その嘘を壊し、国の責任をしっかり果たしてもらうにはどうしたらいいのか。

宇都宮氏はまずは個人個人が基本的人権の意義を学ぶことが大切だという。

例えば、サラ金問題では業者は高い利息を許していた「出資法」を根拠に暴利を貪っていたが、実は「利息制限法」の制限金利を越えていれば、その超えた分の利息契約は無効になるのだそうだ。

借主を守ろうと思えば守れる仕組みはしっかりあったのだ。

宇都宮氏らは多重債務者にならないための小冊子を作り、それは中学・高校などで活用され、リベラルな首長がいる自治体では成人式で配られたりもしたそうだ。

その後この小冊子は金融広報中央委員会という公的機関に引き継がれ、金融教育の一環として使用されているという。



労働分野においても、本来力を持たない労働者を守るべき法律は欧州に引けを取らないほど整備されているという。

しかし、それらが正しく機能し、労働者が守られることは少ない。

そもそも労働組合の組織率が日本の場合18%と低く、組織そのものが身近にないことが多い。

また、あってもどこかの御用組合のように、逆に労働者の声を押さえ込む役割をもつ労働組合すらある。

このように現実はなかなか厳しいが、違法な雇止め、賃金未払い、過労自死が無くならない日本である。

労働組合を作る権利、賃金支払の義務、無法な首切りの禁止。

いかに労働者としての権利が踏みにじられているかを知ることは、自分の命を守る第一歩である。

宇都宮氏は社会人になる前、高校で労働者の権利を学ぶべきだと訴えている。



生活保護行政についても同じである。

おそらくほとんどの日本人は憲法第25条の「全ての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の文言を知っているだろう。

しかし、その理念を正しく理解している人はどれほどいるだろうか。

寒い部屋の中で暖房をつけずに我慢する、真夏の猛暑の部屋の中でエアコンをつけずに暮らす生活が健康的な生活と言えるだろうか。

人との交際費に使う金がなく、たとえ親しい人が亡くなっても香典すら出せない生活が文化的な最低限度の生活だろうか。

あなたは生きて呼吸をしているだけの生活が、「人」としての最低限度の生活だと思えるだろうか。

生活保護の申請すら許さない水際作戦は違法であり、すべての生活困窮者は生活保護を受ける権利があると社会に出る前の高校生は学ぶべきであり、ひいては全ての国民が学ぶべきであろう。



宇都宮氏は外国のサラ金の実態を調べるために訪れたフランスで羨望を禁じ得なかったという。

かつて、フランスでもサラ金のような業者が出てきたことがあったそうだ。

しかし、住民らはどうしてこのような業者を取り締まらないのかと行政に対し苦情を訴えたという。

その為、瞬く間にそれらの業者は取り締まられることとなり、その後そうした業者はなくなったとのこと。

日本の場合はサラ金の業者による被害を近隣住民が受けると、その苦情は行政に向かわず、債務者に向けられるという。

もし、これらの住民に「基本的人権」「国民主権」の意識が根付いていれば、苦情は国民の奉仕者であるはずの行政に向けられ、公権力を持って取り締まることとなっていたに違いないという。

恫喝や脅し自体が違法なわけだから、「民事不介入」などという言い訳は逃げの口実でしかない。



エリートと呼ばれる人々にこそ「基本的人権」の教育が必要だと宇都宮氏は言う。

法学部卒業でありながら、生活保護行政を「恥」と切って捨てるK議員(本書には実名記載)。

議員でありながら憲法の理念を全く理解していない。

女性議員に対するセクハラ野次。

1985年に女性差別撤廃条約を批准しながら、議員自らがそれを守らない。

「欧米で一般的に信じられている価値を日本は共有していないのではないか」と諸外国から思われるのも当然である。

議員自らが憲法の理念を学ぶべきだろう。



公権力に対して「お上」という意識をなくして「奉仕者」として捉える。

社会的な主張をするデモなどを偏見視せずに当たり前の行動として捉える。

そうした基本的人権を当たり前のものとして捉えられるような教育が必要だと宇都宮氏は言う。

そしてそれはリベラルな組織、団体にも向けられている。

現在改憲論議が行われているが、宇都宮氏自身も護憲の立場である。

しかし、護憲の運動を単に9条を守るという平和の問題だけに限局していては、近隣諸国からの圧力が現実にある以上うまくいかないのではないかというのである。

憲法の「基本的人権」である生存権や、勤労者の団結権、団体交渉権などが日常生活の中でうまく機能していてこそ、生存権を最大に脅かす戦争というものを許さない護憲の闘いもうまくいくのではないかと。



詳細を書くスペースはあまり無いが、日本特有の選挙制度のおかしさ、異様さについても本書をぜひお読みいただきたい。

いくら政治を変えたいと思っても、一般の人は立候補すること自体が難しい制度となっており、また、いざ選挙戦が始まると、本来は知ってもらう期間のはずなのに、色々と制約が逆にかけられ、結局は大政党のような知名度の高い人、組織的な基盤のある人に有利な選挙制度となっている。

ここでもまた政治参加という基本的人権はないがしろにされているのである。



だいぶ前に、ある掲示板で「自然界では弱肉強食で強いものが生き残るのに、何故人間は弱いものを助けなければならないのか」といった質問が投げかけられていた。

それに対するある人の答えが秀逸でとても印象深かった。

「まず、自然界は弱肉強食で強いものが勝ち残るわけではなく、環境に順応したものが生き残るのである。種の存続のための手段として上手く環境に適応できたものだけが生き残れるのである。そして、人間の生き残りの戦略は『互いに助け合うこと』によって生き残ってこられたのである」

そういった趣旨の返答だった。

自分はその返答にえらく感動を覚えた。



確かに個体レベルで見れば弱肉強食かもしれないが、なるほど、本当に強いものが生き残るのであれば端的な例としては恐竜が生き残ったはずである。

しかし、実際彼らは絶滅してしまっている。

そして人間は各人がそれぞれの役割を担うことで互いに助け、支え合うことによって、この社会を維持し、生きてこられたのである。

生活保護受給者を「ナマポ」呼ばわりしている人もいつ凋落するかもわからない。

多くの預金や安定した仕事があればその確率は限りなく0に近くなる。

近くはなるが、決して0にはならない。

人に向けた侮蔑の声が、いつか自分に向けられるかもしれないのだ。

そんな想像力があれば社会的弱者に対する目も変わってくるに違いない。



外はまだまだ寒い。

こんなご時世だからこそ、静かな環境に身を置きながら、改めて「基本的人権」というものを考えてみるのも悪くはないのではないだろうか。



 

幸か不幸か、自分はアルコールに弱い(下戸の方です)。

たいがいビール350ml1本で十分満足できる。

おそらく体質的に分解酵素が少ないのだろう。

だが人によっては自らを破滅に導くまでやめられない人もいる。

一体、依存症とはどうなっているのだろう。

アルコールと脳の関係に関しては様々な研究がなされている。

依存症に導かれる仕組みも生理学的に解明されてきている。

現在は依存症を絶つ薬も開発されてきている。

断酒会などで苦しみながら依存症から脱出するのではなく、服薬で楽にやめられる日が訪れようとしている。

きっと、酒で失敗する人も次第に少なくなっていくことだろう。

ちなみに、酒にまつわるあの常識も覆される研究も進んでいる。

これは酒好きの人にはちょっと残念かも(笑)。



そもそも、アルコールを飲むと体はどのように反応するのだろうか。

アルコールは飲むと小腸で吸収され、血流にのる。

身体はアルコールを毒物と見なし、肝臓で分解してなるべく早く排出しようとする。

アルコールはまずアセトアルデヒドという毒性のある化学物質になる。

これが二日酔いの原因で、更に別の酵素によって無害のアセテートに変わり、尿となって排出される。

しかし、分解しきれなかったアルコールに含まれるエタノールは血液を循環し、最終的に脳へと到達する。

脳には病原菌など害のあるものを脳内へ入れないフィルターがあるが、エタノールは脂肪との親和性が高いので、脳内に入り込み、ニューロン間の信号伝達をめちゃくちゃにしてしまい、運動バランスや正常な会話を阻害して、いわゆる典型的な酔っぱらいの症状を示すことになる。



脳はアクセルとブレーキを使い分けることで様々な生命活動を維持させるが、アルコールは機能を抑制、すなわちブレーキの作用を持つので、運動を調整する小脳が抑制されると千鳥足になる。

自制や社会的抑制をつかさどる所が抑制されると気が大きくなり、感情的になり、危険な決断をしやすくなる。

ちなみに、酔った状態で通販サイトを見るとついつい余計なものまで買いがちになるのはこの所為なのでご注意を(笑)。



そして、短時間に大量のアルコールを摂取すると分解処理が追い付かず、脊髄が働かなくなり、最悪、心拍や呼吸の停止を引き起こしてしまう。

だから一気飲みはやってはいけないのだ。

アルコールが及ぼす害は脳や脊髄だけにとどまらない。

長期的な飲酒によって炎症を引き起こし(湿疹がひどくなるとか)、ホルモン量へ干渉し、細胞のDNA構造の修復を阻害したりもする。

ある種の癌を助長させることも明らかになっている。



そこまでの毒性を持ちながら、人はなぜアルコール依存症になってしまうのだろう。

酒のまつわる記憶というのは非常に強い。

それは何かの経験が脳に保存される通常の記憶とは違い、飲酒したときに活動した特定の神経線維の集団が形成されるという「記憶痕跡」というもののせいらしい。

これは物理的な存在のために、記憶が薄れるということがなく、どれだけ断酒を続けてもアルコールと関連づいたサイン(ラベルや赤ちょうちんなど)がトリガーとなって飲酒への渇望が引き起こされる。

これは回路が出来上がっているために、単純に意志の力でどうにかできるものではない。



マウス実験ではアルコールで活性化された神経線維の集団に対し、クロザニンN-オキシドという薬剤で鎮静化させてみたら、依存傾向に改善が見られたという。

マウスではこのアルコール関連の記憶痕跡が作られるまで15日間しかかからなかったという。

人間の場合はこの記憶痕跡がどのくらいの日数で作られるかはまだ分かっていないが、選択的にこの神経線維集団を抑制できれば依存症の改善ができるかもしれない。



また、依存症に関しては細胞レベルで記憶形成が行われているとの実験結果も出ている。

上述でアルコールが体内に入った際の過程を説明したが、肝臓で分解される際に「酢酸塩」という物質も生まれている。

この酢酸塩は血液の中を流れ、肝臓から脳の記憶を司る領域である海馬の細胞まで到達する。

すると今度は「ACSS2」という酵素が反応する。

このACSS2と酢酸塩との反応によって、遺伝子そのものは変えないけれども、遺伝子の機能を変えるという。

これが最終的にアルコールにまつわる強力な記憶を作るのだそうだ。

この他にも「ノッチシナリング」というたんぱく質が関与する記憶パターンも明らかになっている。

こうしてみると、アルコールの記憶形成は二重にも三重にも行われており、非常に強力であることが分かる。

これでは意志の力ではあらがえないかもしれない。



ちなみに、マウス実験ではACSS2のレベルを下げるとアルコールに対する嗜好性を示さなかったという。

アルコールにまつわる神経線維の集団に対する働きかけやACSS2を抑える方法はまだ確立はされていないようなだが、それら複合的な治療法が確立されれば、アルコール依存症患者は劇的に減らすことができるかもしれない。



現時点で行われている治療法を一つ紹介したい。

イギリスでは「シンクレアメソッド」といって、際限もなく飲みたくなる欲求を抑えることのできる服薬も含めた治療法が開発されている。

これは麻薬拮抗薬のナルトレキソンを飲酒の1時間前に服用すると、脳内のアルコールエンドルフィンをブロックし、中毒性を減らすことができるというもの。

完全に酒を断ちたくない依存症患者にはうってつけなのだそうだ。

なんとも至れり尽くせりになったものだ。

やれやれ、と思われるかもしれない。

しかし、完全に断とうとして失敗し、挫折するよりもほどほどに飲みながら徐々に改善させていく方が80%の確率で成功するという。

もちろん、服薬だけではなく、酒をやめることへの決意と、それに伴う自制心も求められはするが、これまでのアルコールを悪魔と見なし、意志の力で絶つ方法はある意味懲罰的であり、断酒会への参加に対し恐怖を抱かせるもとにもなっていた。

しかし、この方法ならばそのようなことはないらしい。

非常に意味のある治療法のようだ。

詳しい治療法は下記をご参照いただきたい。
アルコール依存症の救世主なるか?飲む前に飲む薬で依存症を取り除いていく「シンクレアメソッド」法(英研究) : カラパイア (karapaia.com)



ところで、「酒は百薬の長」と言われる。

飲みすぎれば数々の失敗を引き起こす酒も、適量さえ守ればかえって健康にいいのだと。

ところが、そんな酒飲みにとって都合のいい言葉が根底から覆される研究結果が露わになった。

「酒の適量はない」というのである。

体質や個人差はもちろんあるだろうが、飲酒は必ずその代償を支払うことになると。

これまでに「グラスワイン女性なら1杯、男性なら一日2杯程度なら心臓及び循環器系に良いようだ」という研究結果もあったが、ワシントン大学のマックス博士らは、それはアルコールの持つ些細な一面でしかなく、総合的にみるとガン・怪我・精神疾患・脳の早老化などに関連しており、飲酒量との関連を調べても「適量」というものは存在しないという。



もちろん個人差はあるので、酒やたばこを飲んでいても長生きする人もいる。

しかし、上述のようにアルコールは人体にとって毒でしかないので、そのような特異な例を持ち出して普通の人が飲酒し続けることはリスクを増大させるだけだろう。

別の研究ではアルコールを分解するために酷使した肝臓は、どれほど酒が強い人でも100%完全に元に戻ることはないそうだ。

私たちは強い人も、弱い人も、皆身を削って酒を飲み続けていることを自覚した方がいいのかもしれない。

さて、今夜は何を飲みますか(笑)?

 

 

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