最近、偽装などの問題が社会をにぎわす。
生肉摂取による食中毒事件も「偽装」がテーマではないが、
一部偽装があったらしい。
食品の偽装だけでなく、建築というフィールドでも偽装事件はあった。
安全でない建物を安全だとする偽装。

偽装の裏には「儲け」が必ずある。
偽装すると儲かるから偽装するのだろう、そう単純ではないが。

この「偽装」...人間が欲深い生き物であるうちは多分無くならないのだろう。

私の仕事である家作りの現場でも、悪魔のササヤキは聞こえる。
材料の偽装。構造の偽装。法的偽装....挙げればきりがない。

実際、細かな部分で言えば偽装されている建物は多い。
ロフト面積の偽装なんて、全国的に当たり前のごとく行われているのだろう。
先日もある建築士から、ある建物の売り出しについて協力を求められた。
残念ながら偽装物件。

建築屋の「法の遵守」に対する意識は、びっくりするぐらいに低い。
なかには、「確認申請は、どう検査する人間の目を誤魔化すかだ」と
思っているような人もいるくらい。

「越えてはならない一線」はやはり越えてはならない。

人間は弱い生き物。
「まぁ、このくらい良いか...」という小さな一歩。
その、「越えてはならない一線」を越える小さな一歩が、どんどんと大きな一歩となる。

売上を上げなければ、給料は増えない。
いゃそれどころか、給料が減ってしまう。
いゃ、いゃ、私のようにプー太郎にまで落ちてしまう。
そのためには、「越えてはならない一線」を越えなければならない瞬間もあるのかもしれない。

この一線を越えなければプー太郎。
この一線を越えれば、クビはつながるが犯罪者となる。

あなたなら、どちらを選択する?

私はこの問題を突きつけられたときに、前者を選択した。
建築基準法を守っていないどころか、構造的にも偽装というレベルを超えている粗悪品の建物。
私には売ることは出来なかった。おかげでプーになり、今苦労しているのだが、我が人生に後悔なし。
模倣犯〈上〉/宮部 みゆき
¥1,995
Amazon.co.jp
「模倣犯」を読んだ。
いささか、遅いというか、「今頃?」といわれてしまうかもしれないが...

とりあえず面白かった。色々なことをしながらだからなんだかんだで4日間ほど
かかったけどね。

「この手の小説」と言うと失礼なのだが、事件が発生して犯人を追い詰めていく
タイプの小説の場合、そのトリックのユニークさとか、誰が最初に真犯人に気付く
か?とか。その犯人が追い込まれているクライマックスシーンとかに期待して読む
まぁ、みんなそうだろうけどね。その部分について言えば、期待通りの作品だった。

「模倣犯」というキーワードの意味が、ああいう意味だったとはね。
後半に何度か「模倣犯」というキーワードが出てくるのだが、
そして小説のタイトルがそのまま「模倣犯」なので、そのキーワードの重要性から
いって、途中で出てくる「模倣犯」という言葉に、どうしても小説のタイトルになるほど
のインパクトと言うかエネルギーを感じることができなくて、
「まさか、みゆきさん...『模倣犯』っていうキーワードは、その程度の意味ではないよね」
と、小説を大分読み進んでから、「もしかして駄作?」なんてこともチラッと考えてしまった。

そんなわけないよね~、みゆき女史に限って。

最後の滋子が浩一にカマをかけるシーン。クライマックスとしては良かった。
だんだん犯人のアラも露呈してきて、警察も証拠固めに走っているときで、
滋子が勝負にでなくても、近いうちに浩一は捕まったことだろう。
滋子も一旦は真犯人の追及をあきらめ、警察に任せていたのだかが、
最後に訪れた滋子自身が吊るし上げを喰らうはずだったTV番組で、
滋子にとっての大勝負はなかなか面白かった。

由美子の死後、歯車が狂い始めた犯人も精神的に追い詰められ、滋子の渾身の一撃に
思わず頭の回路が吹っ飛んだ....そんな感じだったが、その滋子の一撃をかわす犯人でも
良かったのかも。ちょっとここのところが、小説としては面白いのだが、これまでの犯人の
頭の回転の速さなどから言えば、犯人にとっての滋子の思わぬ反撃をさらにかわしてしまう
というストーリーの方が私には納得できた。

ただ、このクライマックスまでの道のりが長かったからね。
滋子と犯人の対決は、一気に行ってもらって読者としても助かったよ。
だって、寝る時間が本当になくなってしまうのだから。

しかし、犯人や被害者、その周辺の人たちの心理描写がよく個々まで細かく書けるものだ。
関心してしまう。それも、その人物の過去の思い出と絡めてしまう。それでいて読み手に飽き
させない。普通、枝葉があまり深くなってしまうと私の場合シラケてしまって、その小説は
面白くないと思ってしまうのだが、「模倣犯」に限ってそれはなかったね。
テーマとなる事件に直接は関係ないのだが、別の事件で心に傷を追っている少年。
彼もなかなかいい役どころだったしね。

最後に、義男が言った言葉
「世間を舐めるんじゃねえよ。世の中を甘く見るんじゃねえ。あんたにはそれを教えてくれる
大人がいなかったんだな。」

「世間を舐めるんじゃねえよ。」使い古されている言葉だが、義男が言うと重みが違うね。

もしかして、みゆき女史もこれを言いたかったのか?

《追加》

そうそう、大切な登場人物について書いてなかった...「建築家」である。
この物語の中では、脇役中の脇役。登場シーンは多くない。
犯人逮捕の決定的なヒントを出しているわけではないのだが、
私自身が建築関係者なので、この「建築家」の存在は面白いと思った。

実際には、建物(間取り)があそこまで施主の性格というか人となりを表す
ものでもない。アイデアは施主だったとしても、その建物を設計した人間
の考えも入ってくるので、また天井高についても、「低い天井高」を特徴
としている建築士も多いしね。
でも、そういう観点から事件を肉付けしていくというのは面白いとおもった。
物語で登場する「建築家」は元刑事。体を患ったことが起因となって建築士
に転職した移植の「建築家」でも、物語の最後のところでガミさんと
「あんたはやっぱり、骨がらみで警官なんだな」
「そうかね。だったら俺は、警官でいたかったから、警察を辞めずにはいられ
なかったんだろう...」
という部分は印象的だった。

警官と言えば、操作本部の刑事側ではなく、「デスク」と呼ばれる操作の裏方
の人間にスポットを当てているのも面白かった。
なるほど...こういう人たちもいるのですね。

なんにしても、面白い小説でした。
さて、本題である。
私の職業は「家作り職人」
職人気質をもって、施主のための極上な一棟を建てる。
それに真摯に取り組むことが心情。
おかげで前職を辞する結果となったが...


さて、家作りを思い立ったときにそれをどこに依頼するかが最初の難関。
依頼先についての私見はまた今度詳細を記すが、「建築家」には要注意!

誤解されることを覚悟で言おう!

「住宅建築の場に建築家なんて要らない」

思いっきり言うとスッキリするね。

そう、一般の人が住む、一般の住宅に建築家なんて要らない。
匠って言われている人はもっと要らない。

なぜかって?

奴らは、施主の金で自分の作品を作ってしまうから。
そもそも「建築家」って呼称は資格でもなんでもない。
あくまで「自称」。
だから、建築士の資格をまだ持っていない私が、明日から名刺の肩書きを
「建築家」としても何の問題もない。実際設計から現場管理果ては大工仕事まで
できるしね。そんな肩書きに意味なんてそもそもないのだが...

「建築士」は要る。絶対に要る。職人的建築士は必要なんだが、建築家はいらない。
さっきも書いたが奴らは客の金で自分の作品づくりに精を出すから。
建築家って人のホームページなんか見ると、必ず「これらの建物は私が設計しました」
と自慢するページがある。

建築家というか設計事務所だって競争の真っ只中にいる。
他社(者)との競争に打ち勝つためには、「私だったらこんなに魅力的な家を設計して
ご覧に入れます。」と主張するしかない。それは分る。だけで、どこまで行っても
私の心の中にある"違和感"はぬぐえない。
そんなに自慢したいなら、まず自分の金で建てろよ!って言いたいね。

建築家が設計した家で、その施主たちご家族が幸せに暮らせているならいいよ。
でも、それでも、その建物はあくまで施主の建物なのだから、建築家がさも自分の作品
のようにどうどうとひけらかす行為には納得はできないね。

もちろん、優秀な設計をする建築士は沢山いる。
でもそういう建築士はわざわざ"建築家"なんて自分のことを称さない。

だから、私の考える「良い家作りのための第一原則」は
「良い家作りに、建築家と匠とそして営業マンはいらない」ということになる。

民間団体で「建築家」を認定しているところもあるが、それこそ、勘違いの最たるものだろうな~

"家"が作品作りたいなら自分の金でまず作れ。

まぁ、私の建築家嫌いはお金の話だけではないのだが、建築家はどう考えても要らない。

必要なのは、施主の頭の中にあるイメージを形にできる優秀な「建築士」
"士"と"家"の違いは相当に大きい。

私がもしプロデューサー的立場で、施主のためになりそうな建築士をフューチャーしなけれ
ばならないとして、適当な人材がいるか?と問うたときにでてくる答えは...まだ居ない。
建築家ほどアホではなく、ちゃんと施主の変えに耳を傾けられる人間は何人かいるが、
そもそも建築士としての腕がイマイチ。
いっぱしの図面とかが書けるようになると、どうしてみんな建築家を気取ってしまうのだろう?
まぁ、もっと厄介なのが、建築士としての腕も才能も知識もないのだが、建築家を気取っている
人間。これには...泣かされた。

しようがないから、私自身が建築士になるしかいまのところ方法がない。
本当は私は建築士側の人間ではないのだけれどね。
政府(首相指示?)が岡原発全停止を要請した、その根拠が「M8クラスの東海地震が発生する確率が87%」というもの。この「確率87%」ってどう評価するといいのだろう?

朝日.comに以下のような記事があった。

「原発停止要請の根拠…東海地震『発生確率87%』って?」
http://www.asahi.com/national/update/0507/TKY201105060460.html

上記記事より...
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この確率は「参考値」で「いつ起こってもおかしくない」状態と言われ、
中央防災会議はエネルギーが「臨界状態まで蓄積している可能性が高い」と指摘した。
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「87%」という数字は、高い・中くらい・低いで言えば間違いなく"高い"数値である。
今回の福島原発の二の舞にならないように準備をするのは当然だし、
そのために一旦原発を止めるというのも納得できる。
では、その地域に住む一般生活者はこの数値をどう捕らえればよいのか?

もちろん、これは「東海地震」で被災が予想される地域に限ったことではない。
宮城県沖は99%と言う確立であった。で、確かに巨大地震は来た。

巨大地震は沿岸部だけを襲うものではない、内陸部だって過去にはあった。
しかし、今回の"津波"被害を考えると、少なくとも沿岸部に居住している人は
本気で移住までを含めた地震対策を考えるべきなのであろうか?
「今後30年以内に...」と言われると、何となく「今日、明日ではないだろう。まだ
大丈夫」と思ってしまう。しかし、それでいいのだろうか?

16年前の震災で私達は何を学んだのだろう?
そして、今回の震災で何を学ぶのだろう?

国(政府)に何かを期待すべきではない。
これは、別に「今の政府がグダグダだから何も出来ない」ということを言っている
のではなく、私達自身がまず自分の身を守るための方策を模索しなくてはならない
ということを言いたい。国が、県が、市が何かをやるだろう。
もちろん、色々なことをやってもらわなければならない。それが今回の浜岡に対する
要請であるなら、要請の良し悪しは別として国は仕事をしている。
県レベル、市レベルでも防災計画とか、防潮堤の築造とか、それぞれにできる
範囲でできることをやっている。ただ、それにおんぶに抱っこではいけない。

あまり悲観的な想定を突き進むと、「日本沈没」まで言ってしまうので現実的ではないが、
いざとなった瞬間は国も県も市も助けてはくれない。
その内助けはくるにしても、まずは自分で自分をまもる術を確率しておかなければならない。

今の日本で、絶対に安全な地域ってほとんどない。
だったら、海外移住か? 本気で語学に問題がなければそれも考えるべきなのではないか?

結論は出ないのだが、考える必要はある。

「87%」

私は、今回の事象で幸いにして被害を受けなかったが、そのすぐそばで暮らしている。
今は原発問題が心配だ。ただ、どこに逃げればいいのか?

少なくとも、今回のクラスの地震が発生した場合の避難先は見つけておくべきなのかも、
遠方に住む親・兄弟・親戚・友人のリストアップはしておくべきだろう。
「福島第1原発:東電社長、怒りの浪江町民を前に土下座」(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/nuclear/news/20110505k0000m040077000c.html

震災・原発事故以降東電への非難の度合いは高まるばかりだ。
もちろん、原発問題が原因でいまだに避難生活を強いられている人からすれば、
その怒りの矛先は東電に向けられるのは当然のことだろう。

ただ、原子力発電はそれを管理運営しているのは民間企業の電力会社であるのだが、
国としても重要な施設であり、民間企業と国の二人三脚で進められてきた事業である。
だとしたら、今回の原発事故の人災にあたる部分があるとしたら、半分は国にも責任が
あるはずである。

ところが、原子力安全保安員にしても、委員会にしても、「責任は東電にあり、私達は関係ない」
という態度を取り続けている。そこがどうにも腑に落ちない。

上記ニュースでも東電社長以下社員数人が、被災者を前にして土下座しているのだが、
なぜここに国側の安全保安員の方々が居ないのだろうか?
当然にして、彼ら国側の人間も今回の災害の片棒を担いでいるはずである。
今回の原発事故は単衣に「想定を超えた」という部分が問題。
この「想定」って誰が想定したのだろうか?

東電側が勝手に想定して、勝手に原発を作ったのであれば、
単に「東電がアホだった」という話になり、土下座するのは東電でいいだろう。
ただ、この「想定」は国も関与して作っていたのではないだろうか?
いゃ、100歩譲って、東電が「想定」したものを国が認めたという形であっても、
「それを認めた」という事実だけで、責任の半分はある。

実際には、東電側とスケジュールの調整が出来なかったとしても、
現地住民への謝罪行脚は東電だけではなく、国側も実施すべきではないだろうか?

「ごめんなさいで済めば、警察なんていらない」というとおり、謝罪にどこまでの意味が
あるのだろう...実質大して意味はない。誤っている暇があれば、まずは原発を問題ない
レベルまで落着かせることの方が先決である。
ただ、次のステップに進むためには、当事者が反省しなければならない。
どこに原因があるのか?何が問題だったのか?
起きてしまったことは致し方ない、と言うにはあまりにも大きな事故ではあるのだが、
時間は戻せない。だったら、責任の取り方は一つ。「二度と同じ失敗をしない」という
ことに尽きる。そのためにも、起きてしまったことの反省は必要。そのためにも、
自分の所作がどんなに大きな影響をもたらすのかを把握するためにも、
謝罪行脚は必要なのではないだろうか?だとしたら、やはりこの土下座の場に
保安員の姿が無いことに、今後の原子力行政に一抹の不安を感じる。

今回の事象の原因はどこにあるのだろうか?