【前回のあらすじ】


薩長同盟が成立し、増々その勢力を失いつつある徳川幕府。慶喜は、独り思い悩む。一方、春香はいつものように翔太郎と沖田を見守る日々を過ごす中、斉藤から一通の書簡が沖田の元へ届く。その内容に、沖田は心を定め京へ戻る決意を固めた。一方、翔太は龍馬たちと共に海援隊の一員として、その活躍の場を広げていた。


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【十六夜の月】 第33話


───慶応三年九月二十一日。三条新居。


昼八つ半(午後三時頃)。


「これで最後です」

「ありがとうございました、馬越さん」

「いえ、こんなの朝飯前ですよ」


馬越さんは、抱えていた荷物を土間に下ろし、翔太郎を膝に抱いたままの私に微笑むと外に停めたままの荷車へ戻って行った。



二週間以上かけて京へと辿り着き、屯所の門前で、「只今、戻りました」と、噛み締めるように呟いた沖田さんの、感慨深げな表情を思い出す。


私に一つ頷いて、玄関へと駈けてゆく沖田さんの嬉しそうな後ろ姿を、歩きたがる翔太郎の手を取ってゆっくりと追い掛けた。


笑顔で迎え入れてくれた隊士の方々との再会を喜び合い。以前、お世話になっていたお凛さん宅を訪れた後、馬越三郎さん、山野八十八さんに護衛されながら私達は無事、自宅へと戻って来ることが出来たのだった。


しかも、私達がいつ帰って来ても良いようにとの、お凛さん達の計らいもあり、部屋は隅々まで手入れされていた。


「…有難いなぁ」


と、感慨深げに息をついた。その時、


「邪魔するぜ」


(…え?)


馬越さんと入れ替わるようにして、玄関から入ってきた土方さんを迎え入れる。


「土方さん、お久しぶりです!」

「戻ってすぐに、知らせを受けてな」

「只今、戻って参りました…」

「おう」


土方さんは、私に頷くと「でかくなりやがったな」と、言いながら土間に腰掛け、両手を前につきながらゆっくりと立ち上がろうとする翔太郎を抱き上げた。


(少し、痩せたかな。土方さん…)


何となく、京を発った時よりも頬がこけたような気がしてじっと見つめていると、土方さんはそんな私に眉を顰めながらいつもの仏頂面を見せる。


「…どうした」

「え、いえ。翔太郎も、土方さんのように歩き出すのが早くて…いつも、目が離せないんですよね」

「ならば、将来有望だな」


土方さんは、慌てて取り繕う私にそう言うと翔太郎の頭上に手を置いて、土方さんの顔に手を伸ばそうとしている翔太郎と戯れ始めた。


「おっと、そうはいかねぇ」


初めて、土方さんが翔太郎を抱いてくれた時も、翔太郎は同様に手を伸ばしていた。今も、土方さんの頬に触れようとしては遠ざかる顔に手を伸ばし続けている。


「そう易々とは触れさせねぇぞ、翔太郎」


俺について来られるか?と、言って翔太郎を膝の上に乗せると土方さんは、辺りを見回しながら言った。


「で、総司はどうした?」

「以前、お世話になっていた半井先生のところへ挨拶に行かれました。お薬は、まだ良順先生から戴いたもので間に合うのですが、これからまたお世話になるからと…」

「そうか。で、これからどうするつもりだ」


土方さんの膝上から立ち上がって、よちよちと歩きながら隣の部屋へ向かい。開かれた風呂敷包みの上にある、いくつかの玩具の中から扇柄の風車を手にする翔太郎を見遣る。


「道中、軽めの咳は続いたものの、何事も無いまま京まで戻って来ることが出来ました」


と、視線を土方さんに戻した。その時、馬越さんの声に遮られる。


「それでは、私はこれで。副長、お先に失礼します」

「おう、ご苦労だったな」


私にも同じように言って一礼する馬越さんと、外で待機していた山野さんに改めて、お礼を言って荷台を引きながら屯所へ戻ってゆくお二人を見送り。


土方さんにお茶の用意をしながらも、私は京を離れてからのことを簡潔に話して聞かせた。


その間の土方さんは、用意したお茶を飲みながらも、真剣に私の話に耳を傾けてくれて。逆に、以前から気になっていた内部分裂に関して問いかけると、


「総司から聞いていたのか」

「はい。斉藤さんからの手紙を受け取った際に…」

「…そうか」


土方さんは、厳かに瞳を細めながらこれまでのことを話してくれたのだった。



私達が京を離れている間に、新撰組内部で起こっていた騒乱は留まるところを知らず。今年の三月にとうとう、伊東さんら十六名が屯所を去って行ったらしい。


それから、伊藤さん達は五条にある善立寺を宿舎とするようになり。その後、伊東さん率いる御陵衛士に間者として身を顰めていた斉藤さんの報告により、土方さん達は、御陵衛士との対決を余儀なくされているという。


「じゃあ、伊東さん達と…」

「ああ。近藤さんの命を狙っていると分かったからには、放っておく訳にはいかんからな」

「…藤堂さんとも?」


土方さんは、何かを思い出すかのように瞳を細め、「…ああ」と、静かに答えた。


(やっぱり、避けられないのかな…)


先程は会えなかったけれど、脱退するという藤堂さんを引き留めることも出来ないまま、新撰組に残ることになった斉藤さんの心中を考えると居た堪れなくなる。


藤堂さんは、試衛館からの同志だと聞いていたし、直にその良き関係を目にして来たからこそ、今回の一件に関しては特に気になっていた。


「それに、伊東は倒幕論者だからな。幕府の敵であるならば…真っ向から立ち向かうのみだ」


土方さんの、鋭い眼が更に細められた。その時、いつの間にか、土方さんの傍まで歩み寄っていた翔太郎が、「ふー、ふー」と、言いながら手にしていた風車をそっと、土方さんに差し出した。


「………」


土方さんは、無言でそれを受け取り、翔太郎から促されるままに息を吹きかける。風車が、はたはたと音を立てながらくるくる回る中、翔太郎は満足げに笑いながら手を叩いている。


「総司さんが、よくそうやって翔太郎をあやしているので…」

「…そうか」


止まった風車を見つめながら、薄らと微笑む土方さんの目が柔和に細められた。


「…総司がねぇ」


土方さんが呟いた。次の瞬間、再び引き戸が開かれ、「土方さん!」と、言いながら戸を閉めてこちらへ駆け寄ってくる沖田さんを迎え入れ、


「噂をすれば…だな」

「ふふ、ですね」


呟く土方さんに笑顔で頷いて、「え、何ですって?」と、言いながら真っ先に土方さんの傍へ歩み寄る沖田さんの、嬉しそうな笑顔を見上げる。


「いえ、何でもありません。お帰りなさい」

「只今戻りました」


沖田さんは、私に笑顔で頷くとその視線を土方さんへ向けた。


「いらしてたんですね!源さんから、近藤先生と二条城へ出向かれたと聞いたのですが」

「殿に呼ばれてな」

「例の件で、ですか?」

「ああ」

「そうでしたか…」


そう言うと、沖田さんは腰元から一刀引き抜いて床へ置き、土方さんの傍で沖田さんのことを指差しながら、「とー」と、言い続けている翔太郎に手を差し伸べた。


「おいで、翔太郎」


翔太郎は、その大きな手の平に自分の手を重ねてすぐ、沖田さんの胸の中へ飛び込んで行った。次いで、沖田さんに背を向けてその膝に座り込むと今度は、土方さんを指差し、「ふー、ふー」と、言って後ろを振り返るようにして沖田さんを見上げた。


「ふー、ふー?」


首を傾げる沖田さんに、さっきまで土方さんが風車を回してくれていたことを伝えると、「それを私に伝えたかったんですね」と、沖田さんは腕の中の翔太郎を覗き込むようにして言った。


私は、そんな沖田さんと翔太郎を。そして、同様に二人を見つめながら穏やかな表情を浮かべている土方さんを見つめた。


(土方さんも、嬉しそう…)


それから、沖田さんの分のお茶を用意している間も、お二人はこれまでの、会えなかった時間を取り戻そうとするかのように、どちらからともなく話を切り出しては熱く語り合っていた。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」

「さ、翔太郎はこっちへおいで…」


沖田さんの傍にお盆ごと置いて、翔太郎を受け取りながらも美味しそうにお茶を飲む沖田さんを横目に、土方さんにもう少し滞在して行けるのかを尋ねると、土方さんは少し残念そうに眉を顰めた。


「そうしてぇところだが…」

「すぐに屯所へ戻られるのですね。では、私も御一緒します」

「え…?」


土方さんの言葉を遮るように言う、沖田さんの一言に私と土方さんは同時に声を上げていた。沖田さんは、そんな私達の少し驚いたような顔を交互に見て、可笑しそうにくすくすと笑う。


「そんな顔をされるなんて、心外ですね」

「総司、お前…」

「“早く戻って来い”あの手紙には、そのような意味が込められていた。と、解釈したのですが…」

「………」


視線を逸らし、黙り込む土方さんを横目に沖田さんは続ける。


「それに、その為に戻って来たのです。私の死に場所は大阪でもここでも無い」


(…っ……)


その一言に一瞬、土方さんの眼差しが訝しげに顰められ、躊躇いの色を浮かべ始めた。


「隊を離れていた分、一矢報いてやります」


無言で私を見つめる土方さんの、困ったような瞳と目が合う。そして、その為に戻って来たのだと、真剣な表情で言う沖田さんに頷いて、私は翔太郎をあやしながらも、いつものように眉を顰める土方さんに訴えた。


沖田さんの夢を叶える為、その夢を翔太郎に語り継ぐ為に、何度もどん底から這い上がって来たことを。


「なので、私と翔太郎のことなら心配ありませんから…」

「だが、総司は」

「土方さん、お願いします!」


再び、私の膝元から立ち上がり、土方さんの傍へ歩み寄ってゆく翔太郎を引き留めようとして手を伸ばすも、


「あ、翔太郎…」


その手は届かず、また風車を土方さんに手渡し、「ふー、ふー」と、楽しそうに言って隣の部屋へ行く翔太郎の背中を見遣った。


土方さんは、受け取った風車を見つめながら長い溜息を漏らし。何度か視線を泳がせた後、一変、険しい顔つきで沖田さんを見つめた。


「戻って来るからには、特例は無いと思え」

「はい」


即答する沖田さんに、土方さんは再び溜息を漏らし、「どうせ、俺のいう事なんざ聞きゃあしねぇんだろう」と、困ったように微笑む。そして、沖田さんは尚も真剣な眼差しを土方さんに向けたまま、


「次、剣を振るえなくなったその時が…」


(…っ…)


「私の最期の時」


そう言って穏やかな笑みを浮かべた。その一言に、一点を見つめたままの土方さんの瞳が苦しげに歪み始める。


「嫌だなぁ、そんな顔しないで下さいよ。新撰組、鬼の副長の眼とは思えないほど弱々しい」

「…何だと?」

「ふふ、そうそう。その眼です」


怒りを露わにする土方さんをからかうように言う沖田さんの、満面の笑顔が今度は、他の玩具で遊んでいる翔太郎に向けられた。


「病に倒れた時から、何もかもを諦めていました。けれど、春香に支えられ…翔太郎の成長に勇気づけられながら、私は、生き続けたいと願った…」





「…総司」


その、「総司」と、呟いたか細い声に沖田さんは、再び視線を土方さんへと戻し、


「あとどれくらい生きられるのか判りませんが、やはり、誠の旗に託した夢を抱きながら皆と共に戦い続けたい…」


沖田さんは、泣き笑いのような顔でそう言うと、いつもの笑顔で私を見つめた。


「すみませんが、早速、出立の準備をお願いします」

「おい、お前ら…」

「今すぐに!」


まだ何か言いたげな土方さんを横目に笑顔で頷き返し、沖田さんに少しの間、翔太郎のことをお願いして寝室へ向かった。まさか、着いて早々に沖田さんを送り出すことになるとは思っていなかったのだけれど、いつ、沖田さんが屯所へ戻っても良いように、その荷物だけは別に用意してあった。


「えーと、確認しないと…」


風呂敷包を広げ、その上に浴衣やら手拭やらを綺麗にたたみ直し、一枚ずつ重ねてゆく。そうしながらも、何故か、思い出されるこれまでの日々に思わず手が止まった。


幸せと不幸せを交互に受け止める日々の中で、共に支え合いながら一生懸命生きて来た。


(帰って来たんだなぁ…)


再び手を動かし、これからが本当の意味での戦いなのだ。と、心を改め直した。その時、土方さんの突拍子もない声が聞こえて来て、私は荷物をそのままに、急いで元いた部屋へと駆け戻り…


「どうかしたんですか?って、翔太郎!!」


開け放たれた障子から見えた光景に思わず息を呑んだ。目前、翔太郎が柱に吊るしておいたはずの脇差しを抜刀しかけていたからだ。


「おい、翔太郎!今すぐそいつを離せ…」


土方さんの、切羽詰まったような声を聞きながらも翔太郎から目が離せずにいる中。沖田さんは、平然と翔太郎に近づき刀を奪って鞘へと納め、


「すみませんでした。私が目を離した隙に…」


そう言いながら、ほっと胸を撫で下ろしている私に微笑むと、刀を柱に戻し翔太郎を抱き上げた。


「いえ、私の方こそ。やはり手の届かないところに隠しておくべきでした」

「貴女のせいでは…でも、届いてしまうとは思なわなかったな。こうなると、もっと上に調整し直さないといけませんね」


柱を見つめながら苦笑いを浮かべる沖田さんに苦笑を返し、「慣れたもんだな」と、言ってお茶を飲み干す土方さんを見遣る。


「じつは、以前にも同じようなことがあったので、気を付けてはいたんですけど…」

「仕方がありませんよ。私の息子ですから…」


俯きながら言う私に、沖田さんはにっこりと微笑んだ。そんな沖田さんを見ながら、土方さんは可笑しそうに笑って、「違ぇねぇや」と、呟く。


「しかし、土方さんも何ですか。先程の素っ頓狂な声は…」


呆れたように瞳を細めながら言う沖田さんに、土方さんは仏頂面のままその場に胡坐をかいて腕組みをした。


「馬鹿野郎、普通は吃驚するだろうが」

「土方さんの声に吃驚ですよ。鬼の副長が聞いて呆れます」

「お前、その減らず口だけは健在だな…」


なおも口喧嘩は続く中、沖田さんの腕の中でゲラゲラ笑い始める翔太郎の声にもつられて、私も声を出して笑った。


お二人の楽しそうな…

幸せそうな顔を目に焼き付けながら。


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春香達が京へ戻る、およそ三か月前の六月、近藤達は幕臣に取り立てられていた。


しかし、十数名の隊士らがこれに不満を抱き脱走。その後、脱走した隊士らが京都守護職屋敷に連盟の嘆願書を提出したことで、近藤達は公用方から呼び出された。


その後の話し合いは固持したまま。

脱走者の四人が切腹、残りの六人は追放処分を課せられ。


武田観柳斎や田中寅蔵らが無念の死を遂げる中。総大将である慶喜に、決断の時が迫っていた。




───同日、二条城大広間。


「相分かった」


脇息に凭れ掛かりながら呟く慶喜の目前、秋斉は閉じていた目蓋をゆっくりと開いた。


「上様のお考えは、いかほどに?」

「余は…」


近臣からの問いかけに、慶喜は大きく息をつき庭先に視線を送りながら呟いた。短くも長い沈黙。その物思いに耽ったような瞳をさらに細める。


「…帝へ政権をお返しすることが最善の方法だと、思う」


微かなどよめきを受けながらも、慶喜は薄らと微笑みを浮かべた。次いで、口々に何かを囁き合う近臣達の声を遠くに聞く。


(…もう、これしか方法は無い。)


その中で只一人、秋斉だけはそれに異を唱えた。


「お言葉ですが、上様。260年以上も続いた徳川幕府の世を、御自分の代で終らせるおつもりか?」

「…ああ」


真っ直ぐ視線をかち合わせて来る慶喜の、これまで目にしたこともないほどの決意の眼。絡め取られたまま、秋斉は逸らすことが出来ずにいる。


「たとえ、奴らに政権を奪われたとしても、国家運営を構えることなど出来る訳が無い。よって、薩長の思惑通りには行かぬ筈…」


そう言うと、慶喜は態勢を整えゆっくりと立ち上がり、日の差し込んだ縁側へと歩みを進めた。


薩長が開戦によって圧倒的な主導権を握ろうとし、あわよくば徳川家に朝敵の汚名を着せようとしているとの報告を得た慶喜は、“それだけは回避しなければならない”と、考えるようになっていた。




数日前。

土佐藩主である山内容堂より届いた、一通の書簡。


“帝へ政権をお返しされたし”との内容に怒りが込み上げたものの、同様に、心の内で安堵していたことを皆に伝えると、慶喜は一点を見つめたまま静かに口を開いた。


「余も、未だ納得出来た訳ではない。だが、これ以外に道は無いのだ」


その威厳ある物言いに、全ての近臣達の視線が慶喜に向けられる。慶喜は、それらの視線を受け止め、堂々と決断した。


大政を朝廷へお返しする、と。


各々が、平伏す中。

慶喜は厳かな表情を浮かべたまま、早々にその場を後にした。


(…慶喜。)


皆の、口々から溢れ出る慶喜への想いを遠くに聞きながら、秋斉は慶喜の背中を追った。





【終わり】




※途中ではありますが、いったん完結させて頂きます。