五輪を観て思う、イタリアの天才と「発達障害」をめぐる大きな誤解

 

イタリアでの冬季オリンピックが始まりましたね。

 開会式で披露された素晴らしいデザインの数々に、

心が躍りました。

選手団のユニフォームから様々な装置に至るまで、

実に勉強になります。

 

 

その美しい映像を観ていて、

ふと、同じイタリアの天才、ミケランジェロや、ダヴィンチ

のことが心に浮かびました。 

 

そして、彼らに関して語られることがある説について

改めて考えました。

 

発達障害🟰天才??

 

その説とは、「彼らは発達障害だった」というものです。

 そして、そこから「発達障害🟰天才」という考え方が、

世間にはあるように感じます。

 

いまから四半世紀前には

たしかにそんな本も出ていました。

 

いまでは、大きな書店に行けば棚1つまるまる

発達障害に関しての本が並ぶところもあります。

 

でも当時はほんの、何冊か。。

そんなときに、「発達障害は天才だ」なんて本が

並んでおりました。

 

いまほど、この障害についてわかっていなかった時

だとはおもいますが、、、

 

この結びつけには、私は強い違和感を覚えます。

実際に、自閉症スペクトラム症のある人のうち、

驚異的な記憶力や計算能力といった

「サヴァン」的な能力を持つ人は

約10人に1人という研究報告はあります。

 

しかし、その中でも専門家が「天才的」と評するほどの

突出した才能を持つケースは世界でも100人に満たない

と言われるほど、極めて稀な存在なのです。

 

つまり発達障害の特性はまさに千差万別で、

一人ひとり全く異なります。 

 

「天才」という特定のイメージは、

かえって大多数の当事者やその家族を

追い詰めてしまうことにも繋がりかねないと思います。

 

本当に大切なのは、天才かどうかということではないのです。

 その人がもつ、「得意」や「大好きなこと」を見出し、

それを伸ばしていくことではないかと。

  • 嘘はつけない、手順を徹底するからこそ
  •  
  • 揺るぎない信頼を得られるということ。
  •  
  • 具体的な手順やゴールを事前に確認することで、
  •  
  • 多くの課題を乗り越えられるということ。
  •  
  • 好きなことに深く没頭できるからこそ、
  •  
  • 質の高い仕事に繋がる可能性があること。
  •  
  • そして、そのために心身が疲弊しないよう、意識的に休憩をとる術を身につけること。

これらはすべて、その人の特性が「福」となり得る考え方です。

 

もし、小学生の頃から子育てをやり直せるのなら、

 娘たちに毎晩少しずつ、「あのね…」と、

そのような視点を伝えていきたかった。 

そんな工夫をしてあげられていたら、

彼女たちの世界はどのように広がっていただろうか、

と思うのです。

 

皆さんは、身の回りにある

「思い込み」や「一般的な説」に対して、

疑問を感じたことはありませんか。 

よろしければ、コメントで皆様のお考えもお聞かせください。

 

 

 

 

失敗しちゃったあーーー!!!

 

 

今日娘が一人で、

少し凝ったデザインの手芸に挑戦していました。 

 

材料を買う時、一応私も立ち会いましたが、

デザインも制作も全て彼女一人です。

 

 初めて作るタイプでしたから、

私は少し離れた場所から見守りながら、

心の中で思っていました。 

 

「一回でうまく行かなくてもいいんだよ、慌てなくても大丈夫」と。

 

ですから、作業を始める前の彼女に、

そのように声をかけました。

 

そして、『やりたいこと』が、

『やらなければいけないこと』、

に変換してしまいやすい彼女なので

「楽しいうちに、

途中でも止めること、大事だから」と申しました。

 

でも、やはり途中で設計図通りには

いかなくなってしまいました。 

 

いや、彼女は自分の書いた設計通りにつくりましたが、

材料の素材上、その形にはならなかったのです。

その瞬間、娘は叫びました。

 

「失敗したーーーー!!!!」

「材料費がもったいない」「こんなに一生懸命やったのに」

 

「はじまっちゃった、、」 私の、心臓がきゅっと縮こまります。

 

なぜ、娘はこんなにも「失敗」に、耐えられないのだろう。

それは、彼女がまだ小学生だった頃から始まりました。

 

テストで99点を取ったとしても、100点ではないことで、その場でひっくり返って泣き崩れていました。

「100点のはずなのに……間違えないはずなのに……」

 

彼女の、頭の中にある「当然こうなるべき」という、

完璧な世界。 

その世界と現実が少しでもずれると、

彼女は、パニックを起こしてしまうことがあります。 

 

「こうかもしれないし、ああかもしれない」

という結果のバリエーションが、

彼女の中にはほとんど存在しません。

 

もちろん、私たちだって

目の前のことは「うまくいくように」と願って、生きています。 

 

バスが、時間通りに来ますように。

 この、お味噌汁が、美味しくできますように。

 

でも、私たち大人には、これまでの人生経験の中で培ってきた「自分史」があります。 

 

バスが、遅れても「まあ、こういう時もあるさ」と、

長い目で見たら小さい事、、とやり過ごせる。 

 

「あの時、飛行機が、遅れて、大変だったよね」と、

後で笑い話になることも知っています。

 

けれど、娘には、その経験の蓄積ができません。 

だから、彼女の世界では

「うまくいくように一生懸命やっているのだから、

うまくいくことが正解なのだ」

 

という、純粋な正義感が全てなのです。

 

 

そんな彼女を見るたびに、

私はついいつもの「正論」を言ってしまうのです。

 

彼女がこれから一人で生きていくために

その純粋すぎる正義感が彼女自身を傷つける

刃にならないように。 

その、一心でまるで言い聞かせるように、

語りかけてしまいます。

 

「あのね、人間失敗も成功もある。それが、人生だから」

すると、今日手芸の失敗で泣いていた娘が、

悲しそうに顔を上げてこう、言いました。

 

「……ねえ、悲しい時、『失敗したのが、悲しい』って、

言ったらいけない? 泣いたらいけない?」

 

そんなことはない。 悲しい時は悲しいと言っていい。

泣きたい時は泣いていい。 当たり前のことでした。

 

今日も、また、余計なことを、言ってしまった……。

発達障害の子育てには工夫が必要ですね。

 

 良かれと思ってかけた言葉が、ナイフのように相手を傷つける。 そんなことの、繰り返しです。

 

「そんなもんさ」を教えることと、「悲しみに、寄り添う」こと。 

この二つの間で、いつも私は揺れ動いています。

 

答えは、まだまだ先ですね。。。 

 

正論ってなんでしょう、

私、、、人間としてどうなの?

と思うことが彼女たちといるとよくあります。

 

「いやだったよね、がんばったのにね」

小学生の、あの日と全く同じように

寄り添えたらよかったなあ。。。

 

 

昔の失敗が忘れられない

「あの時の決断は、間違ってた…」

 数年前の出来事を、まるで昨日のことのように鮮明に思い出し、苦しそうな表情を浮かべる娘。

親として「もう終わったことだよ」と声をかけたくなるけれど、

彼女にとっては、まだ何も終わっていない。

 

こんなことがよくあります。

いまは4年前のこと、よく申します。

その時の自分と今の自分を比べてしまう。

 

そして、なぜあんなことに、、、と。

 

なぜ、彼女はこんなにも過去に囚われてしまうのか。

実はそこには、「気のもちよう」では済まされない、

脳の仕組みが関係していました。

 

【あなたのせいじゃない。

「ネガティブ・バイアス」という脳の罠】

 

ネガティブ・バイアスとも言いますが、

この言葉、私も知ってからそんなに月日が経っていません。

 

人間の脳は、もともと悪いことを記憶しやすい

そして、ASDの脳では、感情を司る「扁桃体」が過敏なため、

このバイアスがより強く働く傾向があることが

わかりました。

 

そう、性格や、考え方ではなく、これも

「脳の特性」なのですね。

 

 

【記憶が「写真」になる?鮮明すぎるディテールの苦しみ】

 

ASDの記憶は、物語としてではなく、

細部がやたらと鮮明な「写真」のように記憶されるんですね。

 

そして、その時の感情もすべて思い出す。

こんなことを言われた、、

こんな天気だった

こんなシチュエーションだった

その時にはこの人がいた

何を着ていた

 

だから、嫌な記憶も色褪せず、

いつまでも生々しいんですね。なんてこと。。。

 

【「忘れる」にも能力がいる。脳の”ゴミ箱機能”の違い】

 

脳には不要な記憶を「忘れる」機能があるそうですが

ASDの脳ではその働きが違う可能性があるらしいと、

読んだことがあります。

 

「忘れられない」のは、意志が弱いからではなく、

「脳のゴミ箱機能が、個性的」

 

でもその個性的なところが

辛いところです。

しっかりと映像化しておぼえているだけに

それを観念やアファメーションや、書籍、先人たちの言葉

では書き換えるのが難しいのです。

 

 

「昔は書き変わらない、だから未来をかんがえよう」

なんて言葉が、時にどれだけ無力で、本人を追い詰めるか。

 

 私たちがまずできることは、

その苦しみが「脳の仕組み」から来ていると理解し、

「忘れられなくて、辛いね」と、

ただ寄り添うことなのかもしれません。

 

【でも、それ、、親には難しい、、】

 

より楽しい生活を送ってほしいといつも思っています。

もっと楽に生きていけたらなと願っています

ですから、「そんなちいさなこと、、」とか

「そんなむかしのこと」

と思えることは、ゴミ箱に捨てて前を向いてほしいと

いつも思うのです。

 

でも本人たちにとっては

あのとき、あの人にあんなことを言ってしまった

あの時の決断は失敗だった、

と引きずってしまいます

 

「大丈夫!!」そう言っても、

根拠がないので説得力がありません。

私は、自分が生きてきた経験や年月をふまえて「大丈夫」と

言っているわけですが、

「どうしてわかる?!」と言われても証拠は出せません。

 

そうか、、いやなんだね、

そうか、気になるんだね、、

そうか、、、後悔しちゃうんだね、

 

しか、言うことはできないのか?

先に進む魔法の粉はないのか?と思ってしまう時です。

 

特性がわかっても

改善できない、方法がみつからない

先生方に相談しながら一歩一歩諦めずに進みます。

 

だって、幸せな時間が増えてほしいもの。。。

 

 

 

 

 

「私は、なるべくカモフラージュをやめる」

 

 

ミュージカルシンガーとして、表現の道を歩む娘は、

今そう思っています。 

 

発達障害(ASD)という自身の特性を、

もともと隠すつもりはありませんでした。 ですが、どうしても「和を持って尊し」の日本では、

周りに合わせてしまうのが常でした。

 

これまでの記事で、

「予定変更への困難」や「”ちょっと”が伝わらない世界」

についてお話ししてきました。

 

それらの困難を抱えながら、

コミュニケーション力が問われる世界で生きていく。 

できるフリをして生きていくのは周りにも、

自分にも不誠実なのかもしれません。

 

われわれ親子は、

彼女たちがASDであることをオープンにしてきました。 

が、オープンにしても、

そこに「理解」がないと意味がなくなってしまいます。

 

「私はこういう特性があるASDです、

だから、こういうところが、わかりません、

よろしくお願いします」 

 

というような自分の取説を持ち、

初対面の方にはそれを渡します。

 

でも、、

誰かに笑われたりすると、、

彼女のカモフラージュがはじまります。

 

そうなると悪循環、、、

逆に 「え?そうは見えない、全然普通!」 

なんて誤解されてしまう。

 

すると本人も、それに値する人にならなければ、、、と

さらにカモフラージュする、という堂々巡り。

 

 

じゃあ、どうしたらいいんだ?

今日は「障害をオープンにするメリットとデメリット」

について、具体的にお話ししたいと思います。

 

 

■「オープン戦略」が招く、新たなジレンマ

私たちはこれまで、

娘の障害を「オープンにする」戦略を選んできました。

その方が、周囲の理解を得やすく、

彼女自身もすこしは楽に生きられると考えたからです。

 

オープンにすることのメリットと、

「隠す(クローズにする)」ことのメリット。

その両方を見ていきたいと思います。

 

【オープンにすることのメリット】

  1. 「具体的な配慮」を求める権利が生まれる: 

    「取説」を渡すことで、

    「曖昧な指示は苦手です」

    「大きな音はパニックになります」と、

    求める配慮を具体的に伝える「正当な理由」ができます。

     

     

  2. 仲間と繋がれる可能性: 

    ウィーンで、娘が首から下げていたストラップに気づいた

    レストランのスタッフの女性が

    「私もそうなの」と、

    笑顔で声をかけてくれたことがありました。

    相手もオープンでなければ成立しませんが、

    告白することで、

    世界にいる仲間と繋がれる可能性が生まれます。

     

     

    【クローズにすることのメリット】

     

  3. 「普通に見える」ことによる円滑な人間関係: 

    初対面の場など、あえてカモフラージュし

    「普通」でいることで、相手に余計な警戒心を与えず、

    スムーズな関係を築ける場面は確かにあります。

     

    第一印象で「面倒な人」と思われないための、

    処世術とも言えます。悲しいけど。。

     

  4. 「できる人」として扱われ、挑戦の機会を得られる: 

     

    「障害があるから」と最初から配慮されすぎると、

    挑戦する機会そのものを失うことがあります。

    あえてクローズにすることで、他の人と同じ土俵に立ち、

    自分の限界を試すチャンスを得られます。

     

  5. ありたい自分でいるための自己防衛: 

    カモフラージュは、自分を偽る行為であると同時に、

    「こうありたい自分」を保つための

    自己防衛でもあるのかもしれません。

■「カモフラージュという「見えないギプス」

娘が今、

「なるべくカモフラージュをやめる」と

決意しているのは、なぜか。 

それは、カモフラージュがもたらす代償が、

あまりにも大きいからです。

 

 

ちょっと想像してみてください。

 あなたは骨折しています。

でも、それはズボンの外からは見えません。

 

電車の中で、あなたは痛みをこらえ、

平気な顔で立ち続けています。

周りは誰も、あなたが激痛に耐えているとは気づきません。

 

 電車を降りた後、その足はどうなっているでしょうか。

痛みや疲れは、想像を絶するものでしょう。

 

カモフラージュとは、まさにこの「見えないギプス」です。

 周りに合わせるために「平気なフリ」を続けることで、

彼女の心と体は、

私たちの想像を絶するほどのエネルギーを消耗し、

疲弊しきってしまうのです。

彼女たちの戦い、、、

それは、「障害を告白するか否か」ではなく、

告白した上で、いかに本当の自分を理解してもらうか

です。

親として、その戦いをどうサポートできるのか。 ただ見守るだけでなく、社会の「普通って、何?」という思い込みそのものに、このブログを通して問いかけていく必要が

あるのかもしれません。

 

(3日間にわたり、ハートネットTVに関連する

投稿をお読みいただき、

本当にありがとうございました。)

 

 

 

発達障害の双子と共に

見えない障害と、親としての告白

 

「お母様、その『ちょっと』って、何分?」

私が何か他の作業をしているとき、声をかけられると

「ごめん、ちょっと待ってて」と娘に言ってしまう。 

 

怪訝な顔で聞き返され、私は一瞬、言葉に詰まります。

「そうだった、、そうだった」

 

 

彼女は「『あと5分待ってて』ならわかる。

でも、『ちょっと』はわからない。不安になる」

と言います。

 

 このやり取り、何度も繰り返しているのに…。

これこそが、私たちが日々直面している

「見える障害」と「見えない障害」の、

高く厚い壁の正体なのかもしれません。

 

 

一昨日の記事(

 

 

)では、予期せぬ「予定変更」への困難について書きました。

 

今日は、なぜ私たちが「ちょっと」という言葉を無意識に使ってしまうのか、その根底にある問題についてお話しします。

 

 

■見える障害を持つ母

 

一昨日のブログでお伝えしたように、

「見える障害」を持つ、私の母は97歳。

脳梗塞の後遺症で、右半身がほとんど動きません。 

 

母に「そこの棚の上にある本、取ってほしい」と思っても、

私は無意識に、瞬時に想像ができます。

「彼女には無理だ」と。

 

 母の不自由さが「見える」から、その大変さを具体的に「想像」できるのですね。

 

もちろん、これは決して「見える障害の方が良い」

という意味ではありません。

母が日々感じている不自由さ、葛藤は、

私などが到底計り知ることのできない、筆舌に尽くしがたいものです。

障害に優劣などあるはずもありません。 

ただ、ここではあくまで「周りからの想像のしやすさ」という一点において、違いがあるということをお伝えしたいと思います。

 

 

■「見えない障害」は、想像が追いつかない

 

そう、想像できないのではなく、追いつかない。

 

私にとって「ちょっと待ってて」は、

「ほんの数分」という共通認識が先に頭に浮かんでしまいます。 でも、娘の頭の中では、その「ちょっと」が

「5分なのか」「30分なのか」

「それとも忘れられてしまうのか」全く見当がつかず、

ただただ不安な時間だけが過ぎていく。

 

 

彼女にとって、それは拷問に近い感覚なのかもしれません。

 娘に言われてハッとするのが常です。

私は、母の「無理」は簡単に想像できるのに、

娘の「ちょっと」という言葉の迷路で迷子になる苦しさは、

想像するのに時間がかかります。

 

 

■社会に潜む「想像力の壁」

 

この「想像力の壁」は、家庭内だけの問題ではありません。

 もし、演出家が

「君の感性で、ちょっと自由に動いてみて」

と指示したら? 

 

共演者との打ち合わせで

「なるべく早めに集まろう」と決まったら?

 

定型発達の脳が判断する「常識」や「暗黙の了解」で

済ませているコミュニケーションは、

彼女たちを混乱させ、追い詰めます。

 

 

でも、それはもう、

本やセミナーなどで言い尽くされている気もします。

 

でも、いうは易し、

実践できないんです。簡単には。

すごく悔しいですが、、

 

だからこそ、「具体的な指示が必要だ」ということを、

周りに理解してもらう必要が出てくる。 

 

そのために、

自分がASD(自閉スペクトラム症)であると

告白すべきなのか…?

 

話は、彼女たちの「生き方」「働き方」という、非常に大きなテーマへと繋がっていきます。

(本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。)

 

【次回の予告】

俳優やシンガーとして生きていく娘にとって、

コミュニケーションは避けて通れない道。

 

曖昧な指示が飛び交う稽古場で、自分を守り、輝くためには

どうすればいいのか。次回は、「障害をオープンにすること」のメリットとデメリットについて、私たちの葛藤をお話しします。