「どう思う?」が我が家で絶えない理由

 

この催し物に行くか、行かないか。
参加するか、やめておくか。

それだけのことに見えて、彼女たちには結論を出すまでに

とても時間がかかる。

 

結果なんて、最初からわかるわけではない。
世の中のことは、算数の計算式みたいに、

これが正解、とすぐに出るものばかりではないからだ。

 

けれど、決定打がないものに結論を出すのは、

彼女たちにとってかなり難しい。

 

まず環境を想像する。
参加人数を想像する。
電車の乗り換えなど、

目的以外のところで

他人との接触がどのぐらいあるかを想像する。


そのうえで、自分がどのぐらい疲れるかを想像する。

となると、そりゃあ、

決断するまでに時間がかかるに決まっている。

 

だから、ある意味、我が家にはいつでもどこかに

「悩み」や「相談」がある。

 

ねえ、どう思う???
ちょっといいかな?
相談したいことがあるんだけど

これが常である。

 

小学校のころは、これがかなり単純な問題だったから、

添い寝しながら解決がついた。


でも、大人になると問題も複雑になる。
彼女たちにとっては、結論を出すまでに時間がかかる。


締め切りぎりぎりで応募したら、

はい、満員、、なんてこともざらにある。


だから余計に事態はややこしくなる。

今は、一人が風邪をひいている。
でも、どの程度なら家にいた方がいいのか、

どの程度になったら出かけていいのか、

その結論も簡単には出ない。

 

鼻や喉の具合にも敏感なので、
ちょっとつまった、
ちょっといつもと違う、
きのうと痛み方が違う、
そういうことがいちいち気になる。

 

そんなとき、こちらが一緒に考えたとしても、

結論が出ないことが多い。


私はもう、この言葉しかない。

 

大丈夫。一年たったら、そんなこと忘れているぐらいの問題だ。

 

この言葉が、ASDの彼女たちにとって何の解決策にもならないことは、わかっている。


でも、細かい彼女たちには、

私のようなドーン、デーンとした対応も、

ときには必要だと解釈している。

 

寄り添って、「それは大変だ」と言うことも大事。
でも、あるときは全部まとめて、
「大丈夫、どうってことない」


も必要に迫られて言うことがある。

今日も朝から、「大丈夫!!」である。

 

 

ノートにも関連記事を載せています。

 

 

 

「1」でも、行くと決めたから

 

 

「目的地にあと10分ぐらいで着くはず。

そうしたら電話をするけれど、電話がなかったら、どこかで倒れていると思ってて」

 

目的地の最寄り駅から、

息も絶え絶えで電話がかかってきました。

 

それ、どういうこと???

 

「そこで休んで帰りなさい!!」

そう言いましたが、とにかく行くと。

 

結果的には先方から電話が入りました。

とても具合が悪そうなので、

迎えに来てほしいということでした。

 

その日は、出かけない方がいいと、

本人も私も思っていました。

 

前日にとても疲れることがあったからです。

それでも彼女は、家を出ました。

 

「だって決めたから」

 

彼女は、一度決めたことが体調よりも優先されます。

自ら決めた約束を、自ら破ることはもってのほか。

 

そんな感じです。

 

あとで彼女に聞きました。

「大丈夫、行ける」を10。

「ダメだ、行けない」を0。

その日は、いくつだったのか。

 

答えは、1。

 

1でも、頑張れば行けると思ったというのです。

自分の状態は、聞かれないとわからない。

自ら、

「これは、ちょっと具合が悪いぞ。やめよう」

と判断することができない。

 

本人が一番納得するのは、熱が出ることです。

数字で明らかだからです。

 

でも、数字に出ない体調は判断しにくい。

車で送っていけば、行けたかもしれません。

でも、彼女たちの「電車は苦手」を

カバーしていくのは大変です。

 

それぞれに運転手さんでも雇えば別です。

電車の中に自分のブースを持ち込めば平気かも???

防音室があれば大丈夫かも???

でも、現実的には無理もいいところですね。

 

私が車で送っていれば、ことなきを得ていたかもしれません。

でも、こういう経験が積み重ならないと、

「前提」や「約束」は、

「自らの体調、命」よりも優先順位が低い。

 

そのことを、自覚できないのかもしれません。

命懸け??の体験です。。。

 

 

より詳しく書いています

 

 

 

「1」でも、行くと決めたから

 

 

「目的地にあと10分ぐらいで着くはず。

そうしたら電話をするけれど、電話がなかったら、どこかで倒れていると思ってて」

 

目的地の最寄り駅から、

息も絶え絶えで電話がかかってきました。

 

それ、どういうこと???

 

「そこで休んで帰りなさい!!」

そう言いましたが、とにかく行くと。

 

結果的には先方から電話が入りました。

とても具合が悪そうなので、

迎えに来てほしいということでした。

 

その日は、出かけない方がいいと、

本人も私も思っていました。

 

前日にとても疲れることがあったからです。

それでも彼女は、家を出ました。

 

「だって決めたから」

 

彼女は、一度決めたことが体調よりも優先されます。

自ら決めた約束を、自ら破ることはもってのほか。

 

そんな感じです。

 

あとで彼女に聞きました。

「大丈夫、行ける」を10。

「ダメだ、行けない」を0。

その日は、いくつだったのか。

 

答えは、1。

 

1でも、頑張れば行けると思ったというのです。

自分の状態は、聞かれないとわからない。

自ら、

「これは、ちょっと具合が悪いぞ。やめよう」

と判断することができない。

 

本人が一番納得するのは、熱が出ることです。

数字で明らかだからです。

 

でも、数字に出ない体調は判断しにくい。

車で送っていけば、行けたかもしれません。

でも、彼女たちの「電車は苦手」を

カバーしていくのは大変です。

 

それぞれに運転手さんでも雇えば別です。

電車の中に自分のブースを持ち込めば平気かも???

防音室があれば大丈夫かも???

でも、現実的には無理もいいところですね。

 

私が車で送っていれば、ことなきを得ていたかもしれません。

でも、こういう経験が積み重ならないと、

「前提」や「約束」は、

「自らの体調、命」よりも優先順位が低い。

 

そのことを、自覚できないのかもしれません。

命懸け??の体験です。。。

 

 

より詳しく書いています

 

 

 

今の笑いはなに???

 

再放送ではありますが、トニー賞の授賞式を見ています。

私は何度かニューヨークでミュージカルを観ました。

そのたびに、

「どうして私は、この国に生まれなかったんだろう。」

と思ったものです。

 

圧倒的な巧さがそこにはあって

ショーを観ながら泣けて泣けて、立てなかったことがあります。

 

今よりも、当時はもっと日本との技術的格差もあったし

幼い頃からミュージカルを見ていた者としては

この文化を育んだ国が

うらやましかったものです。

 

時々海外から、落語が好き、歌舞伎が好き

盆栽が好き、鯉が好き

そんな方々が日本にいらしてここに住みたい

そうおっしゃいますね。

そんな感じでした。

 

終演後誰もいなくなった客席で

涙が止まらなかった、、

 

掃除をしていた方に、

「大丈夫?」

と声をかけられるほどでした。

 

ここに生まれたかった。

本当にそう思った物でした。

 

人には、それぞれ、

「ここが、自分の故郷なのかもしれない。」

と思う場所があるのではないでしょうか。

 

遠回しな表現では、よく意味がわからないことが多い娘たちは、きっと日本ではなかったのでしょうね。

 

昔、一人がウィーンへ行った時のことです。

郵便局はどこかと尋ねたら、

その人はニコリともせずに教えてくれたそうです。

 

「それが、とても居心地よかった。」

という話を、今でも覚えています。

 

日本には笑顔の種類がたくさんありますね。

 

前にも書きましたが、、娘たちは、

「今の笑いは何?」

「どうして笑っているの?」

と思うことが少なくありません。

 

 

愛想笑いの少ない国へ行ったら、、

きっと生活の何分の1かは楽になるかな?

安心できるかな?と思うことさえ

あります。

 

安心。

近年、この言葉をよく考えます。

娘たちに、安心して過ごしてほしい。

それが今の、私の一番の願いです。

安心のために、何ができるか?

安心がなるべく多い場所を

 

みつけたい。。。。

 

関連記事を書いています。お時間があったら見てください。

 

 

 

 「薬がない」と大騒ぎ。

でも本当の問題はそこではありませんでした

 

「こんなに散らかっていたら、

何がどこにあるかわからなくなるでしょう。」

 

そう思うのですが、その通りになります。

 

双子でも、ここは全く違います。

一人は、ポケットの多いバッグを選び、

物の定位置を決めています。

 

もう一人は、大きなバッグに、

その時その時で必要な物を次々と入れていきます。

 

「子」と言っても、もう成年です。

それでも、このバッグの使い方だけは、

小さな子どものように見えることがあります。

 

社会で生きるハードルが高いため、

落ち着くためのお薬をいただいています。

 

その薬も、10錠ずつのシートを一枚ずつ飲んでいけば

管理しやすいはずなのに、

こちらから2錠、あちらから3錠という具合に飲んでいきます。

 

その結果、

「もう薬がない。」

という日がやってきました。

 

「金曜日に主治医の先生のところへ行こう。」

そう話して寝た翌朝、私は薬の袋を開けてみました。

 

あ、、、

薬局でもらった袋が、そのまま何枚も入っています。

 

種類ごとにまとめれば、袋の数は半分以下になるはず。。。

 

一つひとつ見ていくと、

探していた薬は、別の袋、また別の袋から出てきました。

 

あっちゃー

 

「なくなった」のではなく、

「見つけられなかった」のですね。

 

世の中には、

「片付けられないのは心が乱れているから」

「頭の中が整理されていないから」

という話がいっぱい。

 

そう考えれば説明できる人もいるでしょう。

その通りの人もいるのでしょうね。

片付けて人生が変わったと言う人もいます。

 

でも、それだけでは説明できない人たちもいます。

片付けようと思っていないわけではない。

きちんとしたくないわけでもない。

 

それでも、その作業そのものが、

とても難しい人がいます。

「片付けなさい。」

 

その一言では届かない相手が、確かにいるのだと思います。

 

こういうことを一つ一つ丁寧に

見ていく学校がほしいと思いました。

 

それは家庭では難しいからです。

家庭だと、言い出したらキリがなくなっちゃう。

 

言い過ぎたらパンクします。

外でもいろいろ気をつけることがあるから。

 

だから、失敗して、覚えていき

注意ではなくて、経験を社会で積んでいく

そんな学校があったらいいな。

 

関連記事はこちらで。。。