なぜわかってくれないんだ?!

 

学校という守られたところから社会に放たれた時、

ASD(自閉スペクトラム症)の娘たちが経験する

「こんな、はずじゃなかった」は、

私が思っているよりも、ずっとずっと多くありました。

 

舞台に出演する時には、

その前に打ち合わせなど「準備」が多々あります。

 

何人も参加しての打ち合わせ、

渡されたスケジュールの変更、

必要な音源が急に大きな音でスピーカーから流れる、

マイクがハウリングを起こす

ワイワイガヤガヤしているところでの打ち上げ

 

周りから見たら、「当然の流れ」。

「ハプニング」とは言えない小さな変化かもしれません。

 

でも、彼女たちにとって、それは「大変なこと」。

きっとこれを読んでいらっしゃる方の中にも、、

そう、、それが、大変なんだ、、という方が

いらっしゃると思います。

親にも見えない困難

車で出かけた帰りなど、、

私は何気なく言ってしまうのです。

 

「あ、ちょっとコンビニ寄りたい」

娘はしばらくたって答えました。

 

「いまだに聞かれること自体が、大変。

だって、このまま帰ると心も頭も思っているのに、

急に予定を変えたら混乱するって言ってるよね、何度も」

 

その度に私は自分の無神経さに気づきますが、

自分が生きてきた生き方や習慣を帰るのは難しいものです。

そして、私は正直に告白したいのです。

本当に「つらさ」が見えないと、

親の私でも理解に難しいことがいっぱいあるということを。

 

だから、私生活の中で何度も何度も言わてしまう。。。

「ねえ、わかってる?私たち、本当にこれ、大変なの」

 

ごめんねええ。

 

 

「おばあちゃまと同じこと」

 

私の母は20年ほど前に脳梗塞を患い、いまでも右半身は

ほぼ動きません。

97歳になりますが、左でできることはなんでもしており

そんな母の元に週に2日間ほど行っています。

 

その母に対する私の態度を見て、、、

 

「おばあちゃまが車椅子で、

歩けないことはいつも覚えているでしょう?

だから、おばあちゃまに階段使って新聞とってきて!

なんて言わないでしょう?

それとおなじことなのよ!!」

 

 

その言葉に、私は何度も自問自答しました。

どこかで自分の中で、

彼女たちは頑張ればできる、と思っているのか?

 

いや、そんなことはないはずです。でも、

自分でも情けなくなるほど

一番そばにいる味方のはずなのに

彼女たちが大変なことを、頼んでしまったりするのです。

 

「見える障害」と「見えない障害」

母が車椅子で歩けないことは、見えます。

だから、階段を上らせようとは思いません。

 

でも、娘たちが「その辺、なんとなく片付けておいて」の意味がわからないことは、見えません。

 

これを記しながら思ったのです。

障害が見えないから、無理難題を言ってしまうのではなくて、

彼らの感覚が想像つかないから、、じゃないか?と。

 

目が見えなかったら困ること、耳が聞こえなかったら困ること、歩けなかったら困ること、右半身がうごかなかったら困ること

これらは、想像つくのかもしれません。

 

 

でも、「『その辺、片付けておいて』の意味がわからない」

ということは、想像ができないのです。

脳の違いは、経験ができません。疑似体験もできません。

 

今、まさにこれを書いていて思いました。

 

就職を前にしたご家族へ

 

発達障害のあるお子さんが就職を控えているご家族は、

人にわかりにくい障害をもっていることを、

どう理解してもらえるか、を

考えておくことがとても大事だと思っています。

 

仕事をするにあたっては

大きな選択肢があるように思えます。

これは我々が選ぶことではなく、彼女たちが選ぶこと。

 

障害があるということを最初から言っておく、

または、それを隠して就職する。

 

この2つです。

 

欧米では多くの当事者がYoutubeで告白し、

社会に向けて、仲間に向けて、親世代に向けて発信しています。

 

こんなことが好き、こんなことをしていると幸せ、など、

障害の問題だけではなく、自然な自分を出しています。

 

でも日本ではまだまだ、

ドクターたちの発信や、ドラマなどで知ることが多いですね。

 

隠して生きることの弊害は、ハートネットTVでお分かりの通り、ストレスが蓄積し、本当の自分がわからなくなること。

 

障害を明らかにして生きることの弊害は、

まだまだ受け入れ体制ができていない社会の中で、

孤立することもあるかもしれないというリスクです。

偏見や差別を生むかもしれません。

 

そう、我が家族もまだまだ実験中、発展途上中です。

社会全体で「わかりたい」と思うために

「見える障害」への配慮が当たり前になったように、

「見えない障害」への配慮も当たり前になってほしいなあ。

 

いや、もっと言えば、一人一人のことを、組織にいても、

団体の中でも「わかりたい」って思うようになるといいですね。

 

障害が「目に見えるか見えないか」で、配慮の扱いが変わる。

この矛盾を、社会全体で認識することが、

発達障害のある人たちの職場での困難を減らす、

第一歩になる、そう思います。

親として、社会の一員として、私たちは学び続けています。