ASDの思春期

 

 

 

凸凹があたりまえ、

みんなそれぞれ得意、不得意はありますが、

その凸凹の幅が深く顕著なのもASDの特徴ですね。

 

 娘たちには、思春期があったのかどうか、

それは私が彼女たちを否定しなかったこと

 

(うちの子は、本当にダメなんです、、、

みたいな卑下は一切しませんでした、

素敵な子たちですから。😄)

 

も起因しているかもしれませんが、

どうも、それが今来ている、、のでは?という

お話です

 

昨日は発達障害の診察日、

アメブロの投稿にも書いた、「昔はこうだったのに、、、」

もご相談しました。

 

 大変なバトル??やり取りがあったので。。。

 

 いつもは、

娘の相談事をきいていただきアドバイスをいただきます。

 

 が、昨日は私個人にも時間をとっていただきました。

といっても、何ヶ月も前にとった予約です。 

人間の予知能力はすごい??!! 

 

私の相談事は、

あまりに多くて、時間内に無理だと思えたので、

思いをすべて書面にし印刷して持参しました。 

 

なるほど、、、とドクター。本当にいつも真摯でいてくださる。

 

 その中の一つ、

「昔のお母様は、こんなじゃなかった!」

という気持ちがつよいこの頃。

 

 私としては

人間変わっていくのは当たり前だとおもいますが、

一昨日?も書いた通り

彼女の中の狼狽えはどうしたらいいのか?と。

 

 『いままでの母親はこうだった、、、』

という記憶は幼稚園からずっとかわらなかった。

 

だから、、 もしかしたら、、、思春期がやってきたのでは?と。

 

 母親だって人間なんだ、、、神様じゃなかったんだ

とある時期に思う我々ですが、

それが今、きているのでは?とドクター。

 

それをHにわかるように説明してくださった。 

「そうか、母親も人間なんだ」

とやっと思えてきたのか? 

 

それが、

すこしずつ精神的独立だの自立だのに繋がっていく

のか〜〜もしれない??? 

 

これ以外にも、

今週は大事なヒントをいっぱいいただけたのでした。

 

 Hにとっては、別件でちょっと辛いご説明もありました。

ちょっと就寝前に、

「あれ、ちょっとショックだった」

と申しましたが、

親子で受け入れて、プラスにしていこうねと話しました。 

 

昨日はNの時間もあり、

先生にとっては、我が家オールスターキャスト?の1日。

 

帰国以来、

一番おちついて、自分のことを話せていたと思いますが、

そこに見えない努力や辛さもあるだろうと

感じながら横におりました。

 

 あんなに出来ていたのに、と充実していた大学時代、

いっぱいイギリスで仕事をしようとしていたのに

ビザが取れずに断念せざるを得ない状況の中、

日薬を飲み、つけて、頑張っている姿に

思わず背中を撫でてしまいます。

 

 ビザを日本から取得することは不可能ではないし、

再トライしてパスする可能性もある。

 でも、それにチャレンジするエネルギーが今は全くないと、

ドクターに説明していました。

 

 似て非なるASDの双子を育て、

見守る私にできることは?といつも思いますが、

自分のアーチストとしての欲もでて来るのです。

日々の、一瞬一瞬のプライオリティを決めることが

私の日常です。
 

 

背が高くなっても、見える景色が変わらない

「最近、海辺で砂遊びしないね」

娘に時々、そう言われます。

私は一瞬、言葉に詰まります。

 

そりゃそうでしょう。

あなたたちは大人になったし、私だって忙しい。 

 

でも、彼女たちの目には、

それは「そりゃそうでしょう」ではないんですね。

 

 

昔を思い出すと、確かにそうだった、と思うことがあります。

彼女たちが小学生の頃、

私はもっと彼女たちの目線で話をしていました。 

食事のときに仕事の話はしなかった。

 オフの日に、携帯を見なかった。

携帯なんて、活用していなかった頃ですし。

 

 

 一緒に遊ぶことが多かった。

 小さな子どもに向けるような、

やさしい語り掛けがあった。

 

それは事実です。あの頃は、そうだった。

 

でも娘たちにとって、それは「昔の話」ではありません。

 

ASD(自閉スペクトラム症)の特性として、

記憶が時系列の「線」ではなく、

感情と強く結びついた「点」として残ることがあるそうです。

 

定型発達の人は、記憶が連続した流れとして積み重なります。

だから

「昔はこうだったけど、こういう経緯で変わってきた」

という変化の過程を、自然に体感できる。

 

でもASDの場合、

感情的に強く印象づけられた瞬間だけが鮮明な点として残り、

その間の「だんだん変わっていく過程」が

記憶として定着しにくい。

 

だから娘たちには、変化が「だんだん」ではなく、

「なぜか違う状態になっている」として映るらしいのです。

 

さらに厄介なのは、

「正しい・正しくない」のジャッジが加わることです。

 

親子が一緒にいて、仕事の話もせず、

スマホも見ずに時を過ごす。 

これは「いいこと」です。娘たちはそれを知っている。

 

だから、「なぜそれが変わるのか」がわからない。

 いいことが、なぜ続かないのか。 

正しかったものが、なぜ正しくなくなるのか。

 

「昔はそうだったじゃない」は、懐かしむ言葉ではなく、

「なぜ今も続けないのか」という問いなのですね。

 

この2日間、大きなすれ違いがありました。

仕事とはなんぞや、

という問いが出てきました。 

 

昔は一緒の時間に寝ていた、という話が出てきました。

私には「いつの話?」という感覚があります。

 

でも彼女たちには、それが昨日のことのように、

そして今も続いているべき「正解」として存在しているのです。

 

あの頃、私はASDのことを何も知りませんでした。 

ただ、幼い子どもたちと楽しく過ごしていた。それだけです。

その時に「点」としての記憶のことが

わかっていませんでした。

 

 

その頃の思い出は、娘たちの中に

大切な財産として残っています。 

私はそれが大人への栄養になると思っていました。 

 

でもそれは、形を変えずに、そのままここにあるのです。

その後、

シングルマザーになり、

親が歳をとり、

会社を経営するようになり、

ASDの診断が出て、医療機関への対応が増えた。 

 

ゆっくり海に行けなくなったのは、

変わりたくて変わったのではありません。

生活が変わったんだ、、、

 

でも娘たちには、その経緯が「線」として届かない。

 

背が高くなると、見える景色もどんどん広がっていく。

 でも娘たちは、背が高くなっても、見える景色が変わらない。

 

お互い大好きで、お互いのことを知りたいと思っている。

 それでも、感覚的にわからない。 

それが時々、大きな言い合いになってしまうのです。

 

 

25年前の「大丈夫」

 

私は、娘たちの前では、なるべく明るく、

元気な母でいようとしてきました。

 

人前で、
「うちの娘、本当に困るんです」
「この子たち、仕方がなくて」
そんなふうに話すことはしませんでした。

 

もちろん、悩みはいっぱいありました。
でも私は、人前で家族のことを悪く言うのが嫌だったのです。

 

娘たちは小さい頃から、
「あれ、どうして自分の家族のことを悪く言うの?」
と言っていました。

 

「育てたのは自分なのに、

どうしてそんなふうに言うんだろう」
と。

 

私はその感覚を、とても貴重だと思っていました。
そして、どこか真実をついていると感心していました。

 

多くの人は、ある程度大きくなると、
「まあ、親ってそういうものよね」
と、少し距離を置いて受け止められるようになると思うのです。

 

でも娘たちは、そこがずっと変わらなかった。

冗談として流す、
少し引いて理解する、
そういうことが、脳の特性でできなかったんですね。

 

それを知らなかった私は
「大丈夫、大丈夫」
「私がやるから」
と、言い続けてきました。

 

でも最近になって、
もしかしたら私は、

「大丈夫」を言いすぎたのかもしれないと思うことがあります。

 

私が「母の娘」という立場だった頃、
母が大変そうにしていると、自然に手伝っていました。

 

運転して帰宅したら荷物を持ったし、
料理をしていたら横で見たり、手伝ったり、
母がどこかに寄るなら、「私が行くね。」と車を降りました。

 

特別なことではありません。

「大変そうだから、私、やる」

「手伝いたい」

そう思っていました。

 

だから娘たちにも、
「やりたいと思ったらやってね」
という育て方を、長くしていました。

 

でも、
その「やりたいと思う」が、なかなか来ないのです。

あまりに来ないので、
ある時、聞いてみたことがあります。

「手伝おうって、思わないの?」

 

すると娘たちは、こう言いました。

「言われたらわかる。でも、言われなきゃわからない」

 

料理は、
音がうるさくて、
同時にいろんなことをしなければならなくて、
何を見ればいいかわからなくなる。

 

洗い物も、
水の音、食器の音、
濡れる感覚、
順番を考えること、
いろんな種類の作業が混ざっていて、
やりたいと思わない。

 

お店に一人で行くのも、
店員さんと話さなければならないから、
車から降りたくない。

 

そう言われて、
私は初めて、
「やらない」のではなく、
「ハードルが高い」
という世界があるのだと、少しずつわかってきました。

 

もちろん今では、
できることも増えました。

手伝ってくれる時もあります。

 

でも根本的には、
「気づいたら自然に動く」
ということ自体が、
娘たちにはとても難しい。

 

だから結局、
私がやってしまうことが増える。

そして私は、
また言うのです。

「大丈夫、大丈夫」
「私がやるから」

 

昔、娘たちのかかりつけの病院で

よく言われました。

「お母さんは特別パワフルだからね」
「真似しないようにね」

 

私は昔から、
かなり丈夫です。

徹夜もできるし、
疲れにも強い方でした。

だから、
子どもたちの前で、
つい、「私は大丈夫」
と言ってしまっていたのです。

 

でも、
人は歳をとります。

30年経てば、
さすがに同じではありません。

ところが、
私が「ちょっと疲れちゃった」と言うと、
娘たちは驚いたようにこう言うのです。

「だって、お母様はずっと元気だって言ってたじゃないか」
「ずっと大丈夫って言ってたじゃないか」

 

その時、
私は気づきました。

娘たちは、
25年前の私の言葉を、
“その時の励まし”ではなく、
“ずっと変わらない真実”
として受け取っていたのだと。

 

私は、
そんなふうに残るとは思っていませんでした。


私の誤算は他にもいっぱいあって、

いまだに戸惑うことがあるんです。

 

25年前の「大丈夫」

 

私は、娘たちの前では、なるべく明るく、

元気な母でいようとしてきました。

 

人前で、
「うちの娘、本当に困るんです」
「この子たち、仕方がなくて」
そんなふうに話すことはしませんでした。

 

もちろん、悩みはいっぱいありました。
でも私は、人前で家族のことを悪く言うのが嫌だったのです。

 

娘たちは小さい頃から、
「あれ、どうして自分の家族のことを悪く言うの?」
と言っていました。

 

「育てたのは自分なのに、

どうしてそんなふうに言うんだろう」
と。

 

私はその感覚を、とても貴重だと思っていました。
そして、どこか真実をついていると感心していました。

 

多くの人は、ある程度大きくなると、
「まあ、親ってそういうものよね」
と、少し距離を置いて受け止められるようになると思うのです。

 

でも娘たちは、そこがずっと変わらなかった。

冗談として流す、
少し引いて理解する、
そういうことが、脳の特性でできなかったんですね。

 

それを知らなかった私は
「大丈夫、大丈夫」
「私がやるから」
と、言い続けてきました。

 

でも最近になって、
もしかしたら私は、

「大丈夫」を言いすぎたのかもしれないと思うことがあります。

 

私が「母の娘」という立場だった頃、
母が大変そうにしていると、自然に手伝っていました。

 

運転して帰宅したら荷物を持ったし、
料理をしていたら横で見たり、手伝ったり、
母がどこかに寄るなら、「私が行くね。」と車を降りました。

 

特別なことではありません。

「大変そうだから、私、やる」

「手伝いたい」

そう思っていました。

 

だから娘たちにも、
「やりたいと思ったらやってね」
という育て方を、長くしていました。

 

でも、
その「やりたいと思う」が、なかなか来ないのです。

あまりに来ないので、
ある時、聞いてみたことがあります。

「手伝おうって、思わないの?」

 

すると娘たちは、こう言いました。

「言われたらわかる。でも、言われなきゃわからない」

 

料理は、
音がうるさくて、
同時にいろんなことをしなければならなくて、
何を見ればいいかわからなくなる。

 

洗い物も、
水の音、食器の音、
濡れる感覚、
順番を考えること、
いろんな種類の作業が混ざっていて、
やりたいと思わない。

 

お店に一人で行くのも、
店員さんと話さなければならないから、
車から降りたくない。

 

そう言われて、
私は初めて、
「やらない」のではなく、
「ハードルが高い」
という世界があるのだと、少しずつわかってきました。

 

もちろん今では、
できることも増えました。

手伝ってくれる時もあります。

 

でも根本的には、
「気づいたら自然に動く」
ということ自体が、
娘たちにはとても難しい。

 

だから結局、
私がやってしまうことが増える。

そして私は、
また言うのです。

「大丈夫、大丈夫」
「私がやるから」

 

昔、娘たちのかかりつけの病院で

よく言われました。

「お母さんは特別パワフルだからね」
「真似しないようにね」

 

私は昔から、
かなり丈夫です。

徹夜もできるし、
疲れにも強い方でした。

だから、
子どもたちの前で、
つい、「私は大丈夫」
と言ってしまっていたのです。

 

でも、
人は歳をとります。

30年経てば、
さすがに同じではありません。

ところが、
私が「ちょっと疲れちゃった」と言うと、
娘たちは驚いたようにこう言うのです。

「だって、お母様はずっと元気だって言ってたじゃないか」
「ずっと大丈夫って言ってたじゃないか」

 

その時、
私は気づきました。

娘たちは、
25年前の私の言葉を、
“その時の励まし”ではなく、
“ずっと変わらない真実”
として受け取っていたのだと。

 

私は、
そんなふうに残るとは思っていませんでした。


私の誤算は他にもいっぱいあって、

いまだに戸惑うことがあるんです。

「人形を持って行きたいけど、

見られるから置いていく」

 

 

今日は、ASD(自閉スペクトラム症)の娘の言葉から、

私たちが生きている社会がどれほど無意識に

「多勢が正しい」

という圧力を彼らにかけてしまっているか?

を感じたお話をします。

 

海外の動画には、よくありますが、

ASDの人には大人でも人形を連れて歩きたい

という希望があります。

 

でも、娘は、小さなバッグに入る人形以外は、

持っていきたい人形を置いて出かけます。

 

「大人が人形を持っていると『え?』って見られる。

見られるのは嫌だから、持って行かない」

 

小学生がぬいぐるみや人形を持ち歩くのは、

誰もが「かわいいね」と微笑ましく受け入れます。

しかし、それが大人になると、

社会は突然「不自然だ」「変だ」という視線を向けます。

 

娘は、その視線を誰よりも敏感に察知し、

自分にとって絶対に必要なお守りを手放して、

丸腰のまま過酷な外の世界へと出て行っているのだと、

思いました。

 

なぜ「目を見て話す」ことが正解なのか?

この話は、発達障害の支援本によく書かれている

「人の目を見て話しましょう」

というアドバイスと全く同じ構造だ!!そう思いました。

 

 

定型発達の人にとって、目を見て話すことは

「誠実さ」や「コミュニケーションの基本」です。

しかし、ASDの人にとって、

他人の目は「情報量が多すぎる洪水」であり、

目を見ることで脳が処理しきれなくなり、

肝心の会話の内容が頭に入ってこなくなります。

「目を見なきゃ」

「目を見るんだ、私、目を見るんだ」

に集中してしまうのです。

 

社会は「目を見ないのは失礼だ」

というルールが当たり前。

「目を見ると情報がいっぱいで大変なんです」

というASD側の切実な事情を理解することは

残念ながら

いつも後回しにされる気がします。

 

 

「社会に出たら目を見て話すのが当たり前だから、

訓練しましょう」

 

それをうたった訓練所に行ったことがあります。ASDの人たちを多くカフェで働けるようにと訓練しているところでした。

私が入って行った途端、「ようこそいらっしゃいました」

と大きな声で挨拶をし、私の目を見ていました。

 

悲しかった。そんなことしなくて、いいんだ、

あなたたちは十分やさしいもの。。。

そうおもったことを覚えています。

 

定型発達のルールがいつも正しく、

それに合わせられない側が変わるべき

という思い込みがあるように感じる瞬間です。

 

 

「目立たないように持っていけば?」という残酷なアドバイス

 

人形の話に戻りますね。

もし誰かにこの話を相談したら、

きっとこんなアドバイスが返ってくるでしょう。

 

「それなら、カバンの中に小さく忍ばせておけば?」

「目立たないキーホルダーサイズに変えてみたら?」

一見、親切な解決策に聞こえます。

 

実際、AIもそういう答えを出してきました。

あんなにデータを持っているAIなのにね。

 

「目立たないように持つ」ということは、

結局のところ「大人が人形を持ち歩くのはおかしい」

という暗黙の当たり前に従うことになりますね。

 

それに合わせるためにASD側が

自分を偽る(マスキングする)ことを強要している気がします。

 

 

なぜ、安心のために人形を抱きしめている大人が「変」で、

それをジロジロと見る社会の側が「そうだよねーー」

なのでしょうね。

 

私ももしも、娘たちがASDでなければ

この辺の理解はできなかったと思うのです。

 

だからこそ、

自分が母親になった意味なども考えると

こういうこと、

発信しなきゃとも思うのです。


人間には、異物を危険と感知する癖があるのだと思います。
それは、大昔、まだまだ生きていることが大変だった時、

自分たちと違うものを、

危険かもしれないと判断、

生命維持のためにつくりあげられた

「脳」がもたらした「くせ」なのだと思います。

でも、彼女たちには、、とても視線が辛いのです。。

 

 

人形がもたらす「安心」の正体

心理学では、子どもが安心のために持ち歩く毛布などを

「移行対象」と呼ぶんですって。

 

定型発達の子どもは、

成長とともにその安心感を自分の内面に取り込み、

モノに頼らなくても

外の世界を歩けるようになると言われています。

 

私も、今は持たずに外を歩けます。

 

しかし、ASDの人にとって、

外の世界は定型発達の人が想像する以上に

圧倒的で、刺激が強すぎ、予測不可能な場所です。

 

それはこのブログでもいっぱいお話をしてきました。

音は突き刺さり、光は眩しすぎ、

暗黙のルールは「謎」のままです。

 

そんな過酷な世界を生き抜くために、

物理的に触れられ、決して自分を否定しない

「人形」という確固たるアンカー

(錨、、そう呼ぶんですって)

が必要になるのは、ごく自然ですし、

無事に帰宅できるまでのお守りというわけですね。

「外の世界の圧倒的な不安から身を守るために、

あの頃と同じ強度の安心が必要だ」

という切実なSOS。

 

できれば、安心して彼女には持たせたい。。

 

変わるべきは。。。

 

「大人が人形を持ち歩くのはおかしい」

「人の目を見て話すのが当たり前だ」

私たちが無意識に信じているこれらの「常識」は、

かれらを深く傷つけ、

彼らから生きるためのツールを奪ってる気さえします。

 

「人形をどうやって隠すか」ではなくて、

「人形を抱いている大人を見て、『え?』と思う側の、

その価値観に、理解を求めることだと思います。

我々が講演会をしているのも、

そういう理解を広めたいからなんです。

 

大人が人形を抱きしめて歩いていても、

「ああ、あの人は今、あれが必要なんだな」

と思ってくださったらうれしい。

 

目を見ずに話していても、

「この人は音に集中して一生懸命聞いてくれているんだな」

とわかってくださったら嬉しい。


人形を車に置いて

「よしっ!」と外にでていく娘の背中を見ながら、

理解を深める重要性を強く思いました。