開運は自分を知ることから始まる 羽田一彦のブログ -16ページ目

膀胱に影があるんです

先日のご依頼は、ご主人の健康のこと。

 

もう十年近くお付合いくださっているご婦人で、季節の変わり目には必ずおいでになり、近況報告やら心配事などをご相談されて行かれます。

 

その方のご主人が、先日の健康診断で、膀胱に影が見つかったとのこと。

特に自覚症状は無いんですが・・・やはり気になりますので、というので、昨年末に見た、このご主人の年運を改めて見直してみたところ、健康運が

 

澤天夬 九三

 

でした。

 

 

周易で健康運を見る場合、この九三(3番目のポジション)という位置も考えます。

 

一番下のポジションであれば足元。二番目のポジションであれば足から腿あたり。三番目のポジションであれば腰回り・・・というように、身体の大まかな位置を考えて、これも参考にしながら考えるわけです。

 

で、このご主人の場合は三番目のポジションだったので腰回り。膀胱はまさにこの位置にある臓器です。

 

また澤天夬には手術、メスという象意も含まれますので、もしかしたら膀胱の影は手術をすることになるかもしれないと考えました。

 

 

となると、この次に考えるべきは、どこの医者、または病院に行くか。

 

皆さん自宅の近所だとか、あるいは有名な大学病院などを真っ先に考える方が多いのですが、これはとても危険です。

 

私の場合、自分と医者あるいは病院との相性というものを、まず第一に考えます。

どんなに名医といわれる医者でも、あるいは有名な大学病院であっても、患者さんとの相性が悪ければ治療は思うようにはかどりません。

 

これは師匠からも実例を幾つも聞いていますし、自分が関わったクライアントさんでも経験しています。

 

 

またこれは余談ですが、師匠はよく、「医者のことはお医者様て言いやがるんだ。そのくせ、俺に対しては易者様とは言いやがらねぇんだ」と、良くおっしゃってました。(師匠は江戸弁でした)

 

実際、師匠は知り合いの医者を紹介した上で、その医者に対してあれこれと指図されてました。師匠は易を立ててその患者さんの状態を医者に説明して、治療法までもアドバイスされていましたから、医者の方が師匠の易を信用していました。

 

 

閑話休題

ということで、そのご主人のご自宅の近く、行きつけの病院(本人の希望)と、東京のとある大病院(お嬢さんが医局に事務方でお勤めで、家族はこちらを希望)のどちらかにしたいんですが、と言われましたので、これにさらにこの他の病院、という第三の選択肢も含めて易を立てました。

 

すると、自宅近くの病院は

巽為風 上九

 

東京の大病院

沢水困 上六

 

その他

火沢睽 上九

 

と出たので、まず、自宅近くの病院は、今回は止めましょうとお話ししました。

 

巽為風は重卦といって、繰り返しを示唆しますので、以前にもこの病院を利用されていて馴染みがあったし、自宅の近くなので便利なのでしょう。

 

しかし、今回の上九(6番目のポジション)では、あまりお勧めできません。

 

東京の大病院は、自宅近くの病院よりは良いけれど治療に時間がかかるかもしれないと思いました。

 

で、その他という選択肢がこの場合は最も良いと思われたのですが、あまりにも漠然としているので、これから新たに病院なり医者なりを探すのは大変だから、ということで東京の大病院へ行くこととなりました。

 

通常は、この手の大病院は入院するにしても順番待ちで時間がかかるそうなのですが、お嬢さんの伝手もあって、すぐに予約が取れたそうです。

 

 

となると、この先は、この膀胱の影が本人の身体にどのように影響するのか、すぐに手術しなければいけないような状態なのかどうかも心配だったので、これについて易を立てました。

 

すると出た易は

澤火革 九五

というもの。

 

どうも急を要するような症状でもなさそうです。

 

 

しかし、方針を見ると

地水師 初六

という易だったので、こうお話ししました。

 

ご主人の膀胱の影は、おそらく時間をかけてこの大きさになったもので、それほど急に手術して除去しなければならないようなものでは無さそうです。

でも、この際だから、きちんと精密検査した方が、ご本人もご家族も納得できるでしょう。

 

それで「お陰様で少し安心しました。ではまずは精密検査受けさせます」ということでお帰りになりました。

 

すると、それから1週間ほど経ってからでしょうか。お電話をいただきました。

 

お、検査の結果が出たのかな? と思いながら聞いて見ると、少し興奮した様子で「有難うございました。本当にお医者さんにも全く同じことを言われました。膀胱の影はそれほど急に手術するような性質のものじゃないから、それよりも先に心臓を整えてから(昨年、心臓疾患を発症されました)の方が良いそうです。いや~今までも易でだいぶ助けてもらいましたが、またまたお陰様で云々」とのお話し。

 

ご主人が心配ないという喜びもあってでしょうが、多少上ずった声で延々とお話しくださいました。

 

私は医者ではないので、具体的な症状や治療法についてはなんとも言えませんが、少しでもクライアントさんのお役に立てたようです。

 

こういう時の気持ち良さは何度味わっても良いものですね。

 

 

でも、私も師匠のように医者にあれこれ指示できるようになれるほど、もっと研鑽を積まなければなりません。

神社参り

私の場合、小さい頃から地元にある氷川神社が遊び場だったから、という訳ではないと思うのですが、祖父が神仏に対する礼拝を毎朝欠かさずにしている姿を見ていたからか、神仏に手を合わせることには全く抵抗がありませんでした。

 

 

その後、ふとした縁をいただいて、神様のお仕事(なんと言って良いのかわからないので非常に曖昧な表現になってしまいますが)をされている方と知り合いました。

 

ちょうどその頃、私は占いに興味を持って勉強を始めた頃だったので、もしかして霊感とかが備わって「見える人」になったらスゲーじゃん、な~んてお気楽に考えていたのは、今から思えばあまりにも楽天的なおバカだったとしか言いようがありません。

 

 

その方と、やはり同じ頃に読んだ金井南龍師の本の縁もあり、自分なりの神様信仰をするようになりました。

 

そして南龍師の縁から、時々、滝行にも参加させていただいたりもするようになりましたが、お滝では何度か不思議なことも体験させていただきました。

 

 

師匠が生前言われていた「神も仏もあるんだよ」という言葉は、人生の大きな転機の時に実感することが何度かありました。

 

 

それで、最近はクライアントさんや生徒さんに、占いによるアドバイスの他に、その方にとって縁のある神仏へお参りされてみませんか、とお話しさせていただくことがあります。

 

ただ、どの神仏に縁があるかはその方それぞれに違うと思うので、私は易を立ててみます。

 

そのかたのお住まいや仕事場の近く、なるべく行きやすい場所にある神仏が良いとは思うのですが、人によっては全く違う地域の神仏に縁がある場合もあります。

 

お勧めした神仏にお参りした方からは、「とても良い気分のお社でした」とか、「気持ちが落ち着きました」という報告をいただくこともありますので、それなりに易もお役に立てているのかなと思います。

 

 

私自身は、師匠に地元のお氷川様に月参りをするように言われていますので、毎月1日には必ず参拝しております。

 

何かの都合でどうしてもお参りできない時は仕方なく二日とかに行くこともありますが、自分の都合でお参りをサボると大目玉をくらいます。

大目玉は確かに怖いのですが、やはりお参りすると気分が落ち着きます。

 

 

お氷川様だけでなく、関東のいくつかの神社は定期的にお参りするところもいくつかあるのですが、これらの神社もお参りする日は易を立てて決めています。

 

あちら様にはあちらさまのご都合もあることでしょうから、あらかじめご都合の良し悪しを伺った上でお参りするようにしています。

 

 

ただ、よく聞かれるのが、どこの神社に行けばどんなご利益をいただけるのか、ということです。

 

私自身はご利益が欲しいから行く訳ではなく(全く無いとは言いませんが)、その神社に行きたいから行くのであり、神域に足を踏み入れた途端に感じる、なんとも言えない幸福感のような感覚を味わいたいために行っています。

 

 

最近は、都内にもいくつかの神社に縁を結んでいただきましたので、近場であちこちに参拝できるので楽しみが増えました。

 

 

最近はパワースポット巡りなどと称して、あちこちの神社などを経巡る方も多いようですが、そこに行ったからとて、必ずしもパワーをいただける訳でも無いと思いますし、人によってはかえってマイナスエネルギーに影響されてしまうのでは無いかと思っています。

 

 

これは神社参りでも同じことで、ご利益を求めてお参りしても、それがあちら側に通じているのかどうかは分かりません。あちら側にもあちら側のご都合があるでしょうし。

 

師匠には「普段が肝心」と言われたことがあります。何かしらお願い事が生じた時だけ神仏にすがっても、普段は素通りしているのに自分の都合だけ聞き入れてくれ、というのは人間相手であっても受け入れてもらえるものではありませんね。

 

 

なんてことは、ず~っと昔から先人達が異口同音に言われていたことだと思うのですが、その片鱗をいくらかでも感じられるようになるまでに、私はけっこう長い時間がかかってしまいましたが、それもまたお導きなのでしょう。

 

 

この先の人生も、出来ることならあちこちのご神霊にお参りしながら過ごしたいものです。

 

天地否の心境

天地否(てんちひ)という卦が周易にあります。

 

大抵は、あまり良い判断はしませんね。

何事も思うようにいかない、ふさがっている、といった状態を表します。

 

 

私、就職活動をしている時、とある易者さんに就職運を見てもらったらこの「天地否」でした。(爻は忘れました)

で、結果はその通りに、希望通りの就職は出来ませんでした。

 

 

そんな天地否ですが、細かく分類すると6種類に分かれます。

周易というのは、同じ卦であっても微妙に異なる6種類の状況が描かれています。

 

 

私は生徒さんにこの天地否を説明する時に、よく登山に例えます。

 

初爻(一番下のポジション)から山登りが始まります。

 

上を見上げても全くゴール(山頂)は見えません。苦しいです。荷物は重いです。

でも歩かなければ頂上には到達できません。

 

 

そして二爻(下から2番目のポジション)は胸突き八丁。息も絶え絶え。汗はダラダラ出てくるし、足は痛くなるし、でも山頂は霞の中で全然見えない。

でも歩かねばなりません。

 

 

やがて三爻(下から3番目のポジション)。ここで多少休憩できます。

 

多くの周易の本の解説を読むと、この三爻が最も苦しいと書かれていることが多いのですが、私の師匠は「三爻は見た目ほど辛くない」と解説されました。

 

 

ここに辿り着くまでは闇雲に歩かなければならないので辛いです。

 

が、ここを過ぎると、体も多少慣れてきて、山の空気を味わう余裕も出てきます。

 

それが四爻。でも、まだまだこの山の頂上は見えないので、地道に登っていくしかありません。

 

 

そして五爻。山で言えば八合目~九合目あたりでしょうか。

やっとここで頂上が見えてきますが、まだ遥か彼方に思えます。

 

 

ここで最後の踏ん張りをすれば、やがては上爻(一番上のポジション)に辿り着きます。

 

易経には「否を倒す」と書かれています。

 

つまり、ここまでたどり着いて初めて、このふさがった状態を打ち倒すことができる。

登山で言えば山の頂上に立つことが出来るのです。

 

 

ここに来て初めて、これまでの苦労の意味が分かります。

 

目の前には360度の視界が開けています。

雲海も足元遥か。清々しい気持ちとともに、山に辿り着いた、つまりふさがった状態を打開できた喜びも味わうことができます。

 

 

 

 

この天地否のお話は、我々のように技術を使う仕事をする者にとっては常に心に銘じておきたいと思うのです。

 

私は周易も算命学も、ある程度自分で使えるようになるまでには10年前後の時間がかかってしまいました。

 

社会人として働きながらだったので余計に時間がかかったのかもしれませんが、大抵の方は同じような境遇で技術を習って身に着けてらっしゃるのではないかと思います。

 

ですので、数回セミナーに出席したり、3ヶ月や半年習っただけでプロとしてお金をもらうような輩は信用できないんです。

 

 

が、幸運だったのは、周易も算命学も、あるいは今はほとんど使いませんが、紫微斗数や四柱推命なども師匠には恵まれたことです。

 

長年教わっていても、その内容がとんでもなかった、ということも、この世界ではよくあることですから。

 

みなさん、すでに鬼籍に入ってしまわれましたが、良い師匠と過ごせた時間は自分の人生における宝物のようなものです。

 

 

 

しかし、一つの技術を習得するということは、まさに天地否の物語そのものではないかと思うのです。

 

 

そして今感じていることは、自分では天地否の上爻まで辿り着いた、つまり、ある一つの技術をある程度極めた、と一瞬は思っても、ふと周りを見ると、実は自分が立っている頂点と思っていたものは、まだまだ頂点ではなかったのですね。

 

 

ある一つの頂点かもしれないけれど、そのすぐ先に、さらに険しく、さらに高い大きな山がそびえているのが見えてしまったりするのです。

 

 

この、さらに大きなお山が見えてしまったからには、生涯をかけてもこの山道を登っていかねばならないのでしょう。

 

それは苦しくも楽しい道なのか、これまで以上に大変な道なのかはまだ分かりませんが、陽暮れて道遠し、といった心境の今日この頃です。

 

でも、好きで始めたことですからね。きっと苦しくて楽しい道なのでしょう。