天地否の心境 | 開運は自分を知ることから始まる 羽田一彦のブログ

天地否の心境

天地否(てんちひ)という卦が周易にあります。

 

大抵は、あまり良い判断はしませんね。

何事も思うようにいかない、ふさがっている、といった状態を表します。

 

 

私、就職活動をしている時、とある易者さんに就職運を見てもらったらこの「天地否」でした。(爻は忘れました)

で、結果はその通りに、希望通りの就職は出来ませんでした。

 

 

そんな天地否ですが、細かく分類すると6種類に分かれます。

周易というのは、同じ卦であっても微妙に異なる6種類の状況が描かれています。

 

 

私は生徒さんにこの天地否を説明する時に、よく登山に例えます。

 

初爻(一番下のポジション)から山登りが始まります。

 

上を見上げても全くゴール(山頂)は見えません。苦しいです。荷物は重いです。

でも歩かなければ頂上には到達できません。

 

 

そして二爻(下から2番目のポジション)は胸突き八丁。息も絶え絶え。汗はダラダラ出てくるし、足は痛くなるし、でも山頂は霞の中で全然見えない。

でも歩かねばなりません。

 

 

やがて三爻(下から3番目のポジション)。ここで多少休憩できます。

 

多くの周易の本の解説を読むと、この三爻が最も苦しいと書かれていることが多いのですが、私の師匠は「三爻は見た目ほど辛くない」と解説されました。

 

 

ここに辿り着くまでは闇雲に歩かなければならないので辛いです。

 

が、ここを過ぎると、体も多少慣れてきて、山の空気を味わう余裕も出てきます。

 

それが四爻。でも、まだまだこの山の頂上は見えないので、地道に登っていくしかありません。

 

 

そして五爻。山で言えば八合目~九合目あたりでしょうか。

やっとここで頂上が見えてきますが、まだ遥か彼方に思えます。

 

 

ここで最後の踏ん張りをすれば、やがては上爻(一番上のポジション)に辿り着きます。

 

易経には「否を倒す」と書かれています。

 

つまり、ここまでたどり着いて初めて、このふさがった状態を打ち倒すことができる。

登山で言えば山の頂上に立つことが出来るのです。

 

 

ここに来て初めて、これまでの苦労の意味が分かります。

 

目の前には360度の視界が開けています。

雲海も足元遥か。清々しい気持ちとともに、山に辿り着いた、つまりふさがった状態を打開できた喜びも味わうことができます。

 

 

 

 

この天地否のお話は、我々のように技術を使う仕事をする者にとっては常に心に銘じておきたいと思うのです。

 

私は周易も算命学も、ある程度自分で使えるようになるまでには10年前後の時間がかかってしまいました。

 

社会人として働きながらだったので余計に時間がかかったのかもしれませんが、大抵の方は同じような境遇で技術を習って身に着けてらっしゃるのではないかと思います。

 

ですので、数回セミナーに出席したり、3ヶ月や半年習っただけでプロとしてお金をもらうような輩は信用できないんです。

 

 

が、幸運だったのは、周易も算命学も、あるいは今はほとんど使いませんが、紫微斗数や四柱推命なども師匠には恵まれたことです。

 

長年教わっていても、その内容がとんでもなかった、ということも、この世界ではよくあることですから。

 

みなさん、すでに鬼籍に入ってしまわれましたが、良い師匠と過ごせた時間は自分の人生における宝物のようなものです。

 

 

 

しかし、一つの技術を習得するということは、まさに天地否の物語そのものではないかと思うのです。

 

 

そして今感じていることは、自分では天地否の上爻まで辿り着いた、つまり、ある一つの技術をある程度極めた、と一瞬は思っても、ふと周りを見ると、実は自分が立っている頂点と思っていたものは、まだまだ頂点ではなかったのですね。

 

 

ある一つの頂点かもしれないけれど、そのすぐ先に、さらに険しく、さらに高い大きな山がそびえているのが見えてしまったりするのです。

 

 

この、さらに大きなお山が見えてしまったからには、生涯をかけてもこの山道を登っていかねばならないのでしょう。

 

それは苦しくも楽しい道なのか、これまで以上に大変な道なのかはまだ分かりませんが、陽暮れて道遠し、といった心境の今日この頃です。

 

でも、好きで始めたことですからね。きっと苦しくて楽しい道なのでしょう。