「櫻花アジア・スターボーリング大会」からしばらくは経営面の絶好調は続いたが、レジャー産業の宿命で他店のゲーム代値崩れが始まった。オープン当初は1ゲーム最高40元(600円←日本と変わらない価格※)これは当時、上海労働者の平均月給からすれば1日半分の賃金にあたり、経営者か外資系に働く高級ホワイトカラーしか来れない価格だった。

上海160ボーリングセンター間の過当競争からどんどん値引き合戦が激しくなり、ある店では早朝のゲーム代が1元(15円)というところも現れてきた^^; 中国人は現金なので、少しでも安いところへ客は流れる。

 

櫻花ボーリングセンターはブランド力があったので、当初は値引き競争には加わらなかったが、徐々に稼働率が落ちるごとに少しづつ値を下げ、ついには当初の半値にまで価格を下げた。相変わらず(見た目は)流行っていたが、減価償却つまり最初に投資した7億円が返済できない状況になっていった。

 

やばい!

大阪(弊社)から投資した3.5億が回収不能になったら、遊企画(本社)は間違いなく倒産する!

 

財務データを見ながら、たいへんな危機感で悩んでいたとき、相方の共同経営者である叔父から・・私を含め「日本から連れてきた4人の給与(日本の家族が居るので日本並みの賃金)が突出して高すぎる」と、解任動議を突きつけられた~つまりはクビ!

共同経営は解消し、その代わり遊企画分の出資分は基本的に返すと☆天の声彡

 

助かった!と思った。

 

叔父は私たち4人の賃金浮いた分と、経営上の工夫で算段できると踏んでいたようだ。もともと叔父は単体でボーリング場を上海に開業しようとしていたところ、父が私を現地の社長に派遣するからと、無理やり共同経営を提案していて・・私たちをクビにすることで、共同経営するメリットも失せたということか彡

 

いずれにせよ1998年10月、私は日本に急遽帰国し、大阪本社(当時まだカラオケVIPSTARは営業継続中)の経営に戻ることとなった☆娘は笑顔でお出迎え^^

 

But大阪ではさらなる経営課題に向かうこととなる。

1990年代、中国の都心部は超ボーリングブームだった。アメリカ・カナダ・オーストラリア・台湾・香港・シンガポール・フランス企業など、全世界から160店ほどのボーリングセンター(日系企業としては、弊社と伊藤忠商事参入)がここ上海に百花斉放彡過当競争にてひしめき合っていた。

1997年7月に「上海櫻花ボーリングセンター」はオープンしたが、さて日系企業として知名度をどのように高めていこうか?そこで中国でも(日本と同様)国内で4年に一度「国民体育大会」がこの年10月に予定されていた。

そのプレイベントとして、桜花ボーリングセンターでは「アジア・スターボーリング大会」を企画しこれが爆発的に当たった♪

 

写真にある、香港でジャッキーチェンと並び有名なスター俳優アンディ・ラウ(劉徳華)や台湾の美人女優、中国国内の冒険家・テレビキャスター・モデル・芸人など有名人30人がボーリングを当センターで楽しんでいただいた。ホスト役はもちろん主催者の私^o^ ミーハーにも、アンディと挨拶・握手&サインもらった(笑)彼はマイボール持参だった♪

 

これはまさに広告対費用効果抜群だった!当日、櫻花ボーリングセンターの正門前の道路は見物客が大通りの車道まではみ出して溢れかえり交通渋滞oh~(それまでいろいろ苛められた警察署長自らが交通整理の陣頭指揮をかってくれた^^仲直り)

また中国の主要メディアも殺到し、当センターの存在を全土に知らしめてくれた^o^ 上海人はいったん知名度が出た店にはすぐ行ってみたくなる傾向は強い~♪

 

翌月から52レーンが24時間ずっと埋まりっぱなしで、売上はうなぎ登りだった。

 

もともと中国人にとって、日本企業経営のサービス施設は楽しく安心して遊べるというイメージがあったらしい。大切な友達や家族と連れ持って口コミはどんどん広がっていった。

 

また様々なグローバル企業や国内大手企業が得意先にも呼びかけ、大きなボーリング大会を当センターで頻繁に開いてくれた。

 

しばらくして上海市政府から市内160ボーリングセンター中トップ企業(稼働率・客単価・売上)として表彰も受けた。大阪で培われてきたサービス業経営のあり方が、アジアで認められた瞬間でした(^^嬉^^)

カラオケブームが落ち着き、社長である父親は上海市静安区、旧市街地のど真ん中にあった広大な敷地(国営染色工場跡地)に勝手に国営企業側と10年間の賃貸契約したあと「上海でボーリング場するから、お前現地へいってくれ!」といきなり言われた^^;

私は官僚や共産党員の胸三寸で法解釈が変えられ、ビジネス習慣もまったく違う中国で、しかもまだ弊社に大きな借金が残されているにも関わらず、まつこと不相応な再投資することに猛反対したが、既に契約は締結されており・・後の祭りだった(泣)

 

投資したら回収しなくては会社は潰れる!

 

当時まだ小さかった下の娘は、私が長期出張になることを知りわんわん泣いていた。(後ろ髪を引かれつつ)1996年秋、3人の日本人スタッフを引き連れて、現地社長(董事総経理)として上海へ赴任した。

 

当初、日本のゼネコンを使おうとしたが見積もりがあまりに高すぎて断念し、上海現地の中堅ゼネコンを使った。ただ設計士だけは日本から呼び寄せ、漸進なデザインを期待✩ボーリングのレーン機器一式(52レーン分)はアメリカから最新式を導入彡船で上海港に陸揚げし搬入した。

 

工事期間は大幅に遅れその間(まるで漫画のような)筆舌に尽くしがたい出来事と日々向き合うことに!まず現地のゼネコンが設計通りには仕事をしないから、いつも施主側の私たちがいちいちチェックし文句を言いながら毎日の”戦い”に明け暮れる(笑)とりわけ上海の警察・消防・役所との折衝が死に物狂い!変電器・エアコンの室外機の騒音・・工事工程ごとに上海市政府の各部署が絡んでくる。理不尽なことを多々言われ、それでもこれ以上工期を伸ばすと営業前赤字が膨らんでいくので、やむなく接待や便宜を図らねばならない(悔)日本では申請ごとなど業者が皆やってくれるが、中国では施主側が全部やらねばならない。

 

アジアでは例え小さな買い物する場合でも、買い手側が自己責任にてチェックするのが当然で、もしマンションでも買おうものなら、買い手は2ヶ月ぐらい会社を休んでも、内装業者の仕事を一から十まで「監督」せねばならない^^;

 

そんなこんなで我々は開業するまでにすでにへとへとで、予定よりも数ヶ月遅れで1997年7月に「上海櫻花ボーリングセンター」オープン☆

弊社(株)遊企画と叔父の会社である(株)中日観光との(3.5億円づつ)共同出資7億円☆上海市体育委員会と名義上の合弁会社でスタートした。

 

「櫻花」は日本の国花で、日系企業というのが一目瞭然で、体育委員会(スポーツ施設も管理)の発案で命名されました^^

 

次回は大阪発の日本型経営が上海っ子たちにどのように受け入れられていったか~乞うご期待彡

好事魔多し~翌年の春、2号店と隣のソバ屋の境目から原因不明の出火彡

この日はメディアも大きな報道ネタはなかったみたいで、確か「ニュースステーション」の小宮悦子アナが取材に来ていたとの噂も(私はそれどころじゃなかったが^^;)

木造建物は半焼し、でもカラオケ機器など消防水にかかって使い物にならなく、4か月前にオープンしたばかりの2号店は半年以上かけて建物建て替え&全面リニューアルを余儀なくされた。

幸いAIU店舗総合保険に入ってはいたが、億を超える保険査定はニューヨークのAIU本社決済になり、とても時間がかかったことを思い出します。

しかし、あとから思えばピンチはチャンス!

これまでビル2棟繋げて地主さんから賃借していたが「建物を貴社の方で建てるなら、借地権を提供します」とのことで、裏部分の土地30坪を2億円払い30年間契約で土地の地上権を買わしていただきました。(地主の権利2割・遊企画が8割)

翌年には千日前商店側の25坪の底地&建物も購入✩火事のあと、自前で軽量鉄骨5回建てビルも立てたので総額6億円以上の出費となり、カラオケ盛業がいつまでも続かないことを鑑み、不安いっぱいでした。(当時私は遊企画専務取締役の立場で、借金を現場の収益でどう返していくか、頭いっぱいでした)

 

案の定、日本全体で市場顧客は月3.3回平均カラオケを利用していたブームも、だんだんと飽きられていき、それに連れてVIPSTARの経常利益もだんだんと下がっていきました。

それでも大手を除き、ミナミの中小カラオケ店(最盛期は60店舗)が軒並み潰れていく中で、VIPSTARは平成17年まで15年半にわたり続きました。

(次回は上海へ進出の巻)

 

亡父とは、経営上の考え方でいつも対立していましたが「千日前でカラオケやれへんか?」と相談受け、初めて意見が一致し(笑)1988年12月6日私の35歳誕生日に、千日前ユニバース味園ビル地下一階180坪を改装しカラオケルームVIP STAR がオープンしました。

(まだアメ村のプリントショップSCRAMBLEも営業してたので、新店の準備と掛け持ちで多忙を極めた)

1つ父親に感謝するとすれば、私がまだ若いうちから事業継承を受けれたこと!億単位の資金を動かすことは私が40歳代半ばになってからとなるが、組織形成にて人を動かすサービス業現場マネジメントの経験は、のちの上海でのビッグ事業につながっていく。

 

当時カラオケのナイト市場ではパブやスナックが主流で、ディ市場ではカラオケ喫茶ぐらい彡そこに日本人はお酒が入らないと恥ずかしくて歌わない・・という通説を破って、郊外型カラオケボックスが流行りだし、主婦や学生たちがノンアルコールでもカラオケを楽しみだした。(日本の場合、家族や親しい友達同士でコミュニケーション手段の一環でカラオケがウケた^^)ただ地価の高い難波や梅田などに、会社帰りのOLや買い物客が気軽に楽しめるカラオケ店はまだなかった。ビルの中に防音壁で部屋を区切ったお洒落な「カラオケルーム」という業態をおそらく関西で最初に仕掛けたのが私だと自負してる^o^ (カラオケボックスとは別定義)

 

VIP STARは最初の半年は鳴かず飛ばずだったが、テレビ・タウン誌などに広告を打ち続け、認知度が高まるにつれて売上はぐんぐん上昇していった。

一年後の1989年12月には、すぐ近くの現在弊社 遊企画の本社ビルでも(喫茶と麻雀店経営を辞めて)1~3階全館もカラオケルームVIP STAR(全20室)として2号店オープン☆

2店舗あわせて45室のカラオケルームが千日前に出現彡2店舗あわせて、投資総額は4億円ぶっ込んだことになる。

 

2号店がオープンした直後の12月土曜日などは(1号店2号店とも)12時のオープン時から翌朝5時の閉店時までずっと満室状態が続きいた日もありました。この頃、社員・パート・アルバイト総勢80数名はフル稼働☆人材育成&マネジメントの醍醐味が体験でき、経営者として自身の成長も実感できました。

 

順風満帆に見えたカラオケ事業ですが「好事魔多し」(続きは次回へ・・)


私のベンチャー起業デビューは大阪心斎橋アメリカ村✩27歳(1981年)のとき・・

(それまで父の事業を手伝いながら、800万ほど貯金していました。)

あ、その前に準備期間がありました。妻のお姉さんの旦那さん(義兄)が西成でシルクスクリーンのプリント工場(Tシャツやトレーナー生地)経営していて、私は中古の製版機械を購入し、妻の実家を間借りしてシルクスクリーン製版業を見よう見まねで始めた。翌年、アメリカ村「TOMS HOUSE」というファッションビルの三階で「SCRANBLE」という小ロットのオリジナルプリント専門店をオープン☆大学生のサークル活動や美容室・フィットネスジムなどのユニフォームなど、多くの需要があった。お客さんと一緒にデザインを考え、一緒に世界で1つだけのオリジナル商品を創り続けるヒューマンな仕事が楽しかった~♪

デザイナーの卵たちも2人雇用した。デザインを武器に、パーティチケットやスタジャンのワッペン・エンブレムなどもつくった。企業向けの販促商品で「缶詰Tシャツ」(東洋タイヤ)や千葉真一が会長務めるジャパンアクションクラブ(太秦東映撮影所前)で販売するオリジナルロゴ入り手鏡・ボールペン・クシ・手帳なども卸制作した。

なかでも春夏高校野球甲子園大会販売の「甲子園出場校校名入り記念Tシャツ」やキンチャク袋は飛ぶように売れた♪

 

またTOMS HOUSEビル全体の販促委員長やアメリカ村商店街の役員にて、地域のまちづくりにも貢献した。アメ村にはOMOROI経営者たちがいっぱいいた。梅田や難波などで大きな商売してて、でもアメ村では採算度外視で、面白いことしかしないチャレンジの街というのがその本質で、マイナー世界での超有名人がゴロゴロいてとても刺激を受けたよき時代だった。

 

さて、アメ村での人生最初の起業から7年経って、オリジナルプリント業界の需要も下火となり・・第2の本格起業は難波千日前にてのカラオケボックス

VIPSTARへとそのステージを移ることになる。

 

じつは私には、大学生とは別のもうひとつの顔がありました。

ここではちょっと、さすがに具体的には書けませんが(私が中学生あたりから)父が大型ボーリング場2件(吹田市と豊田市)など、その事業を大きく拡張し、オイルショックを経てとんでもない借金を抱えてしまい、私はしばしば未成年のうちからアンダーグラウンドな現金商売(三重県などで)を手伝ってきました。

つまり裏社会ビジネスと大学での日中友好社会活動&授業をいったりきたりの生活していた訳です。

 

そんな折・・1972年田中角栄首相が電撃的に中国を訪問し、周恩来首相との間で日中国交回復がなされ、世間は一気に日中友好ブームとなり翌年、名古屋の金城埠頭で日本初の大規模中国展覧会が開催され、私は中国側のコンピューター先端技術の説明員としてアルバイトがてら、そこに1ヶ月ほど常駐していました。妻とは(説明員仲間として)そこで知り合い、あとで知ったのですが私の両親と彼女の両親ともに昔からの知り合い(同胞)だったこともあり、とんとん拍子に3年付き合ったのち学生結婚しました。

経済事情の苦しい親からすると、アンダーグラウンドな現金商売に(身内の)労働力が必要だった。妻は苦労を承知の上で我が家に嫁に来てくれたこと、今もこの上なく感謝しています。

 

私の奇妙な働きながらの大学生活は結局8年続きました。(四年の学士卒業後も大学に残り勉強)この間、中国の林彪・四人組事件を通じて、社会主義の理想社会へ向かうはずだった文化大革命の大失敗に失望し、このあと名実ともに実業界に入っていきますが、高校・大学時代を通じた未曾有な社会体験は、50歳以降の「社会起業」をキーワードにした社会貢献人生への大きな下地となったことは間違いないようです。

 

さて次回はいよいよ社会に出て、私の最初の起業の話に移ります。

(高校卒業後)浪人生活は京都に居を構えました。銀閣寺ほど近い百万遍に「光華寮」という中国人留学生の寄宿舎があると聞いて、そこに住み込んで新聞配達などバイトをしながら受験勉強に集中するためでした。

ここは京大のすぐ近くで・・全学連の学生運動が盛んだったとき、中国共産党系学生組織の拠点だったところで、先輩諸氏らから様々な人生哲学を学びつつ、京都華僑総会青年部(大陸系)の活動も積極的に参加していました。

(当時、国民党の台湾や日本の右翼、日本共産党とも対立し、日中友好運動は極めて政治色が強かった。)

 

そんな中、豊橋の愛知大学が日本で一番”中国研究”に長けていると聞き、そこへ進学しようと思い立ちました。

京都での社会活動に忙しく、たいして受験勉強はできなかったのですが(笑)翌年には立命館・法政・中央大学の経済学部に受かりましたが、親の反対を押し切って愛大法経学部中国経済コースに入学しました。ここは人民公社の社会主義経済史や中国語で『資本論』読んだり、ユニークな授業が目白押しでした。

 

ここで私は自分のルーツ「なぜ日本に生まれ育ったのか?」✩私の学生時代は、唯物史観・東洋史・マルクス経済学・各種政治哲学・中国語会話など、自分の歴史的精神的現在位置を確認するため、あらゆるインプットをしつつ「中国語文研究会」というサークルにて、日中友好活動の現場に身を投じました。ボランティア精神も、このころから培われてきたように思います。

 

当時のおもしろエピソードには事欠きませんでしたが1つ・・愛大近くのまかない付き寮に住んでいましたが、ここは革マル派(愛大の自治会を主導する過激派)・創価学会・右翼・日共民青などと共同生活しており、食堂で毎日顔合わせながら、「ニクソン訪中がどうだとか・・」さまざま議論でき、絶妙に刺激的な空間で、いまも貴重な思い出でいっぱいな学生生活でした^o^

 

高校三年生になってバレー部活も春先の試合で引退し、そろそろ大学受験に集中せねばならない時期だったが、ホームルームの時間にあるクラスメイトがいきなり、みんなの前で「本名宣言」をした!大阪府立清水谷高校には、在日朝鮮・韓国の子弟がたくさん通っていたそうで、彼らは歴史的社会的事情で「通称名」つまり日本名を名乗っており、いきなり「なんのこと?」と皆、衝撃的に目が泳いだ。

 

それから毎週のようにクラスルームでは東アジアの歴史や、在日外国人への差別や靖国神社参拝問題などを議論した。

高校最後の文化祭へ向けては、ハングル文字や民族衣装などの学びを通じて、近くの韓国・朝鮮高校との交流も活発におこなった。

 

そんな中、本名宣言した韓国人クラスメイトは(元々、目立たない子)どんどんリーダーシップを育み、クラスで光り輝いていった。彼との個人的交流もあって、私自身同じ外国にルーツを持つ者として触発され、言葉・民族・社会体制がまったく違う「まだ見ぬ祖国」中国という国に対する関心を急激に高めていきました。

 

もうすでに大学受験は眼中になくなり(笑)それよりも自らの「社会性」と同時に「アイデンティティ」に目覚める・・人生の重要なプロセスに差し掛かっていました。

 

結果✩すべての希望大学には見事に落ち、京都で浪人生活に入りましたが、ここでもさまざまな社会体験が待ち構えていました。ルーツ探しの旅が始まります。

私は小学生時代から、女の子の前でもすぐ赤面する気の弱そうな生真面目系の男子でした。そして「施」という一文字姓を呼ばれることが嫌だった。(日本人は大概が二文字姓だから)「生まれも育ちも大阪で、日本人と全然かわりないのに、なぜ変な名前なんだろうか?」

グローバル経済の今でこそ、外国人は身近にいて違和感ないのだろうが、当時は超マイノリティ~でも、面と向かって差別されたり、いじめられた経験はなかった。

 

中学・高校の6年間は、バレーボール部活活動に明け暮れ、グレることもなく、スポーツですくすく育った。中学の男子バレー部(大阪市立船場中学)には、驚くこと確か100人ほど部員がいた。

その中で私はレギュラー選手だったが(九人制)当時身長が低くレシーブ専門でアタックを打ちたくてしようがなかった!中3になってバレー部を引退してから急激に身長伸びたこともあり(1年間で15cmアップ)高校に入ってもう一度バレーにのめり込むことになる。

 

伝統ある大阪府立清水谷高男子バレー部は歴代OB縦系列の結束は固く、練習は血を吐くぐらい厳しかった。愛情あるビンタや暴力は今の時代、考えられない指導法だった。高校入学時に20数名入っていた同期の新入バレー部員は1年も経たないうちに私を含めて4人に減った。1つ上の年代が2人しかいなかったのでぎりぎりチームを組めたが(6人制)ボール拾いがいないので屋外での練習時には悲惨を極めた^^;

それでも試合が近づくと、毎夜10時過ぎても練習を終わらず、警備員さんに体育館の電気を消すように叱られたことも(笑)にも関わらず早朝からの朝練、授業中に早弁して昼休みも練習し・・バレーおたくな青春時代だった。

おかげで大阪府下(夜間高校も含め)400校中、ベスト16(一部リーグ入れ替え昇級)

藤井寺工業・大工大付属高校など全国トップレベルの強豪ひしめき合う大阪で、公立高校としてチームは強かった。

その中で私は体力不足で練習ではよく倒れていたが(笑)試合では結構ラッキーボーイでチームは勝っていった^^

 

それまでの体育会系学園生活は、気の弱かったやさ男にいつの間にかド根性を付けさせ、それからの山あり谷ありのハード人生を生き抜くための土台づくりの時代だったように思える。

 

その最初の大きな人生転換の契機は、衝撃的な・・高三のホームルームの時間だった。(続く・・)