山本春王のブログ

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山本春王プロフィール(2021年更新)

過去に、アンチによる粘着的な悪意のある攻撃やSNSアカウントの乗っ取られやなりすましされての悪評の振り撒き等を経験。

人間不信に陥り、死にたいと思いながらも死への恐怖が勝り死ねないという毎日を過ごす。

その後、半年程の引きこもり生活の後になんとか立ち直る。

今は、失ったもの以上に何かを得られるように色々な活動を再開中。

今も思い出したかのようにそのアンチからのいやがらせのような行動はあるし、表に立って活動をしていると事実の確認もせずに色々と勝手な噂や悪口を信じてバッシングしてくる人達もいるし、その都度しんどい苦しい思いもするが、それも、過去の経験も、全てが自分の糧となって今は心も強くなれたのではないかと思っている。

上記の経験の他に、発達障害の診断があり、HSP気質で、色々な生きにくさを感じているが、それでも楽しく過ごせるように今は前を向いて活動し、同じような生きにくさを抱えていたり苦しみを経験している人に何か与えられないか模索中。

人を責めたり攻撃をしたりする人達や自分を嫌うような人達のことは避け、自分を好いてくれたり慕ってくれる人達や仲良くしてくれる人達ことを想い、人それぞれ、その時々、と色々な側面から人や物事を考えたい。

そんな人間である。

アンチからの攻撃内容と事実


問題を起こしてしまった仕事は、全国の高校を回り進路についての演劇をする、というものだった。

芝居関係の収入だけで生活を出来るようになる、という自分の目標を叶えることも目的で はあったが、それ以上に、悩みを抱えた高校生の相談に乗ったり、学校生活の中で苦痛を感じている人の楽しみや支えになりたいという気持ちも強かった。

高校生の頃、引っ込み思案でクラスにひとりも友達を作れず色々と辛い思いをしていた過去の自分を思い返し、自分が高校生の時に、こうして突っ込んでお節介を焼いてくれたり、大人 として仕事としてではなく、お金とか見返りとか関係なく行動してくれる人がいたら、あの頃の自分も心を開き 救われていただろうな、という勝手な想いではあるが、そんなことも頑張る理由となっていた。 相談とかそういった個人的なやりとりは、当たり前といえば当たり前だが会社からはよく思われていなかった。 

しかし自分はそれがしたくてこの仕事を続けているということと、自分が辞めたら困るという立場をいいことに それを辞めろというなら会社を辞めますと言い続け目を瞑ってもらってきた。

相談だけではなく、相談から発展して告白されて付き合うことになってしまったりということもあった。

付き合うこと自体はお互い本気で好きになってのことなので本人達的には問題はなかったのだが、会社的、社会的、常識的には問題視もされるし、会社にばれたら首という覚悟もあってのことだった。

そしてその仕事を 5 年程続けた頃、大きなクレームを受けてしまい、会社を実質首になる。

付き合っていた子が原因ではない。

 親身に相談に乗っていた子が、実は不快だったと親に話したらしく、それが高校に渡り、クレームになったとのことだ。 

内容を見返してもとても不快に思ってたとは思えなかった、一つの悩みが解決してしばらく連絡をしていなくてもまた向こうから悩み相談が来るような感じのやりとりだった。

何故この子はこんな内容のやりとりをしておいて、こんな人の仕事を失わせるようなことを出来るんだ・・・。 

その時はそんな風に思ったが、そもそも会社のルールを破り個人的なやり取りをしていたわけだし、何かあったら首になっても仕方ないという覚悟の上で相談を受けたりすることを続けていたわけだと、そんなことを自分に言い聞かせ、仕事を失ったショックはありつつも、仕方ない、悔いはない、と自分を納得させた。 

今思い返せば、おそらく、その子から親、親から担任の先生、担任の先生から生徒指導の先生、生徒指導の先生 から教頭、教頭から会社、と伝言ゲーム状態だっただろうから、その子が実際親にどんな風に伝えたかは定かで ないし、親や先生の偏見や先入観で捻じ曲げられた部分もあるかもしれない、とも思っている。

しかしながら、このあとの出来事で、どんどん人間不信に陥っていく。

山本春王という役者は仕事で知り合った女子高生に手を出して断られ暴言を吐き性行為を強要した性犯罪者だ。 

と、SNSで明らかに嫌がらせのために作ったであろうアカウントにより事実と異なる噂を拡散される。 

手を出して、という部分は、言い方は不本意だが、たしかに事実、なので全てが嘘とは言えないがそれにしてもひどい風評被害に晒された。 

仕事を辞めた直後は俺を支えようとしてくれる人達もいたが、そういう人たちへも嫌がらせのDMを送ったり、俺への悪質な行動は執拗に続き、残ってくれようとしてくれていた人達も軒並み離れていった。 

それに便乗したのか知ったような風を装い勝手な想像で俺のことをあれこれ言うアカウントや俺の名前を語るようなアカウントも現れた。

さらには、アカウントを一時休止させようと、アカウントIDを変えた隙に元のIDを奪われる始末。

ちなみに、それらのアカウントの主を探り発覚した人物は、表では俺に対して文句も言わずにいい顔をしていた当時の演劇の仕事の部下だった。 

他にも、勝手な想像で知った風に事実でもないことを語るアカウント、偽物としてあることないこと書き込んでいるアカウント、どれも探ってみると慕ってくれていたと思っていた人達だった。 

実際はほんの数名に過ぎないアンチだが、当時の俺は精神的に弱りその事実に絶望し人間が怖くなってしまった。

そんなこともあり、支えようとしてくれていた人も離れていき、完全に人間不信に陥り、精神的不調から劇団も辞めた、今までやってきたことも全て辞めた、必要な買い物等以外はほとんど外に出ないような生活を半年ほど続けることになる。 

その数ヶ月は毎日のように死にたいと思い、しかし怖くて死ねない、そんな日々だった。

しかし、ひとりでひきこもりのような生活をしているうちに、少しずつ回復し、自分が高校の時クラスに友達がいなかったこと、発達障害の診断を受けたこと、ひきこもりのような生活を経験したこと、人から批判や攻撃をされるような経験をしたこと、そして今までやってきたこと、これらのことを踏まえ、似た ような辛さを感じている人達向けに自分のスキルを利用して何か出来ないか、そんな風に考えはじめた。

そんなことを模索し始めてから、知り合い伝手で、発達障害を題材にした漫画を舞台としてやりたくて演出やアドバイスをしてくれる人を探している人がいるからやってくれないかと声がかかりその仕事を受けることに。

しかしそこにもアンチからの嫌がらせがあったようで、そのメールの内容を見せてもらった。 そこにはその本人から、さっき上げたような俺の情報と、自分も障害者向けに活動をしているので自分を使った方がいい、というような内容が。 

その時も、あれから半年以上経つのにこうして俺の情報をチェックして風評被害をもたらそうとしているのか、 いつまでもこれはついて回るのだろうか、という恐怖や不安と、そうかこの人は自分がやりたいことを俺という 嫌いな奴がやってたりするのが悔しいのか、とか、自分を磨くのではなく人を下げることで自分のやりたいこと を実現しようとしてるのか、とか、そんな嫌悪している俺をずっと監視し続けるなんて、なんかかわいそうな心を持っているのだな、と感じてしまった。

そして、また活動をしていく中で、ちゃんと俺を信じてくれたり頼ってくれる人達も慕ってくれる人達もいるし、 数名のアンチに心を乱される必要なんてない、自分が堂々としていればそれでいい、それでも嫌う人や、そんな 明らかに悪意のある書き込みをしているような人の言うことを信じるような人なんて離れてもらってもいいし、 飛び火して離れていってしまったのは悲しいけど、それでも繋がっていてくれる人達を信じていればいいんだ、 自分が嫌だと思う人より好きだと思う人達に労力や目を向けた方がいいじゃないか、ということに気が付いた。

だからもう、俺はアンチの妨害に対抗しつつ、負けない心、強い心を持てたから、大丈夫。

今、慕ってくれている人達、これからこんな俺と関わってくれようとする人達を大事にして、俺を大事に思ってくれる人達を心の糧に、また歩んでいく。

1983年2月15日、生まれる。
一番古い記憶は、俺が立ってよちよち歩きしているのを楽しそうに見ていたり声をかけているおばあちゃんと他に何人か。
立ち歩きし始めの頃だとすると1歳かそれくらいだろうか。
そんな頃の記憶、よく覚えているもんだな。


次に覚えているのが、保育園の頃のいくつかのシーン。

アリにお湯を与えている先生。
お茶をあげているようなこと言っていて信じていたけど、退治や駆除の類だね、今思えば。

じゅんじくんの髪の毛をハサミで切って泣かせて怒られたこと。
髪の毛を切ることがそんなにいけないことだと思いもしてなかったからなんでそんなに泣くのか怒られるのかわからなかった。

ごっこ遊びで、さとるくんにチビキョンシーの役を取られて悲しかったこと。
思えばその頃から演じるのが好きだったのかな?

家の増設工事中、危ないからって家に友達を呼べなかった時期に、けんじくんを引っ張って連れてきて親に怒られたこと。
保育園の目の前がうちだった。
友達と家で遊ぶのが好きだったんだな。

いずみちゃんやあすかちゃんやみさちゃんの家やうちで家族ぐるみで遊んだりしてたこと。
妹もいたし親の交友が女の子の家が多かったからかお人形遊びとかもしたし女の子っぽい面もある感じだったな。

思い出そうとすればまだまだ色々あるけど、キリがないからやめておこう。

でも、保育園の頃にはもう俺の本質は出来ていたのかな、今も似たとこあるな、って思った。


小学校、無邪気に過ごしたな。

低学年、手塚先生。
女の怖いおばさん的な先生。
宿題していかなかったらゲンコツ。
今ではありえないけど、怪我させない程度のゲンコツならそんなに悪いこととは思わない。
暴力は嫌いだけど、それは今思っても、暴力ではないと思ってる。
全然、暴、ではない、ちゃんと愛や思いやりを感じられるものだったと、振り返れば思える。
痛かったけどさ。

高学年、後藤先生。
優しい良い先生だった。
放課後よく遊んでくれた。
先生をいつやめたか知らないけど、辞めて地元のお城の管理人みたいのをしているという噂を同級生から聞いていて、一昨年くらいに、そのお城の特集のテレビを見た時に出ていて、見れて嬉しかった。


中学、同じく無邪気に過ごしたな。笑

勧誘されて演劇部に入った。
帰宅部がよかったんだけど、どこか部活に入らなきゃいけない中学で、朝練とか、厳しいのとか嫌だったから運動部は避けて、演劇部に。
サボることも多かった。
用具室みたいなところに古いテレビがあって、ファミコンを持ち込んで部活の時間に遊んでたりもした。
文化祭の時もセリフや出番が出来るだけ少ない役にしてもらってた。
でも、発声とかはわりかしでかい声だしてた。
その少ないセリフの中で工夫して目立とうとしてた。
部活、真面目にやってなかったけど、俺の演技面の芯はそこですでに出来ていたんだなぁ。


高校、無邪気だった俺はクラスでは姿を見せなかった。

高校のクラスメイト達に溶け込めなかった。
子供だった俺は、高校生という空気に馴染めず、3年間クラスに友達はひとりも作れなかった。
小学校や中学校の頃の俺は、やんちゃ坊主だったと思う。
学校全体使って鬼ごっこして屋根の上にのったりして目立ってたり、遊びに夢中で部活サボったりちゃんとやらなかったり。
でもそれとは種類の違うやんちゃな高校生達に、俺はついていけなかった。
辛いとは思ってなかった。
こいつらとは同類になりたくない。
悪ぶって人の気分を害して笑ったり見た目だけでかっこつけて中身が馬鹿なこいつらとは同じになりたくない。
だから別にこいつらと友達になる必要はない。
そう思っていた。
でも、学期ごとにノートを提出する授業で提出をせずに、その先生に呼び出されて、話をしていた時に
ノートくらい友達の写して出せばいいだろ
と、言われた時に、俺は泣いてしまった。
自分が情けなく悲しかった。
クラスに友達も作れない自分。
情けなかった、悲しかった。
それでもほとんど学校は休まず行った。
今思えば、よく行ったよ、3年間もそんな状態で。
その中でもたまに話しかけてくれていた石井くんは良い人だったんだろうなと今でも思う。
話しかけてくれたのに仲良くなれなくてごめん。


専門学校時代は暗い俺と明るい俺が混在。
高校卒業後は、これ以上好きでもない勉強はしたくないし、かといって就職もしたくなかったので、好きだったゲームやアニメの声優に興味を持ち、声優の学科がある専門学校へ。

そこでは、中学までの無邪気な俺が出せた。
けど、高校での暗い俺も残ってた。
二年のクラスでは元の友達以外とは全然仲良くなれなかった。
それでも楽しい日々だった。

東京に出てきて初めての友達、たけさん。
寮で知り合った。
お笑い科のアニメやドラマやゲーム好き。
一番の友達だった。
卒業後もよく遊んだ。

自分が台本を書いて先生にも協力してもらってラジオドラマを作って投稿したり、練習会を開いたり、自分で色々やっていた。

色々な基礎や土台をここで身に付けた。


専門学校卒業後、とある小劇団で活動。
だいぶ長くなってきたのでそろそろ色々と割愛したいが出来るかなぁ・・・。

2・3年間ほど活動した。
持ち小屋がある劇団だったので、近くに引っ越して、いっぱい通い、自主練もいっぱいして、2・3ヶ月に1回くらいのペースで舞台に立っていた。
ただ、だんだんと、目標としていた先輩達が辞めていき、自分が上の立場になってきた時に、得るものがなくなったと感じて辞めてしまった。


劇団を辞めたあとは、保育園で働いた。

一度、普通に働くということを体験しておこうと思い、どうせ働くなら少しでも好きなことをと、子供が好きだった俺は、保育園で働きたいとおもったが、頑張って資格取って、それで嫌だったらやだなと思い、ハローワークに通い詰めて、資格なしでも働かせてくれるところを探した。
アルバイト扱いではあるが、雇ってくれるところを見つけて働いた。

深夜から早朝にバイトをして、昼は稽古、みたいな生活にくらべて、すごく色々楽だった。
仕事自体は、女性特有のギスギスは嫌だった。
ただ、芝居から離れていると、中毒のようにやりたい欲がどんどん増して、結局1年で辞めた。

芝居と両立したいと思って園長に相談したら無理だどちらかにしなさいと言われ、辞めることを決意し伝えた。
それから園長は口をきかなくなった。
挨拶しても返さない。
こんな大人が子供達に挨拶しなさいとか言ってるのかと思ったら、本当になんなんだろうと思い、俺は返されない挨拶を、意地で毎日続けた。

好き嫌いせず食べろという大人が好き嫌いする。
喧嘩はダメよという大人が喧嘩をする。

個性個性と言いながらみんなと同じにする。

そんな大人たちが嫌だった。


保育園を辞め、事務所に入り、エキストラや脇役で映像の仕事をしつつ、舞台もしつつ、お笑いなんかも挑戦したり、2年くらい色々やった。

それからやっぱり声優になるために上京したのだからと思い、その事務所を辞め、声優事務所の養成所に入所。

そこでやっていくうちに、俺のやりたいことは演出側企画側かもしれないと気付き、自分で団体を立ち上げて活動を開始。

そのうちに、進路劇の仕事を劇団員が見つけて教えてくれて、それをメインに活動することに。
ここからようやく役者としてお金を得ていくことになる。
その劇団員には感謝しかない。
感謝の言葉と念しか返せてないが、本当に感謝している。

しばらくして立場も上になり本格的にその仕事だけで生計を立てられるようになり、何年か経ち、去年、2018年の12月、俺の不用意な言動によりクレームになり、それまでの疲れもあり、精神的に弱っていた俺は、逃げるように会社を辞めた。

5年以上やらせてもらったが、色々な葛藤で限界が来ていたみたいだ。

先月、2019年1月、正式に会社を辞め、精神的に参っていた俺は1ヶ月以上引きこもりのような生活をしていた。

親身に相談に乗っていたはずの人、そんな人に実は不快に思われていて、それがキッカケでクレームになり、俺は追い込まれた。
追い込まれたというのは、自分が勝手にしんどくなって、勝手に追い込まれたという話。
決してその人が悪いわけではない。
悪いのは不快に思わせてしまった自分。
その上での話だ。
俺は時に規則やルールを破る。
自分が本当に大事だと思うことのために。
基本的には規則やルールを破ることは、一般的には悪いことだし、一般的に考えたら俺は悪いことをした。

でも俺は、ひとりの人と人としての大事な約束を破られたり、嘘の言葉で善意や好意を伝えておいてあとから悪意や嫌悪で攻撃されることが本当に辛く悲しいことだと感じて、自分の悪いことよりも、自分の心を守るのに必死だった。

結果、色々なものを崩し、捨て去り、失い、今に至る。

35年、それなりに長い時を経て得たもの積み上げてきたものを色々と失くし、本当に大事なものが見えた気がする。

だからこれからは、その本当に大事だと思ったもののために、新たな人生を始める。


春の王様ハルキング、山本春王は、ここで終えようと思う。
また何かをキッカケに復活する日もあるかもしれないが、ない気もする。
これからは、春王としてではなく、もっと俺として、俺らしく、どこの誰でもない、ただのひとりの俺として、生きていくつもりです。

これまで山本春王を応援してくれていた人たち、本当にありがとう。

春王を辞めても、俺自身を好きでいてくれる人とは繋がっていようと思うので、ツイッターのDMから声をかけてください。


自分で言うのもおかしいけど、俺自身と、俺の中の山本春王は、少し違う人格のように思っていたから言わせてください。

今までありがとう、お疲れ様、春王。


言葉や文字には力がある。

言葉や文字だけでも人を励ましたり支えたりすることも出来るが、言葉や文字だけでも人を攻撃し傷付けることも出来る。

自分をさらけ出した時に、自分が弱ってる時に、手を差し伸べてくれる人、励ましの言葉をかけてくれる人、そんな人たちに支えられて、なんとか立っているし、たとえ言葉だけでも、その言葉に背中を押され、前に進むことが出来る。

悪意のある言葉で攻撃されて前に進めなくなる時もある。

でも、俺が気にするべきは、励ましや支えの言葉をくれる人たちのはず。
励まそう支えようとしてくれてる人たちの言葉が及ばずに悪意のある攻撃をしてくる人たちの言葉が及ぶなんて、嫌だよな。

俺が受け取るべきは俺のことを好きでいてくれる人たちの言葉だ。

悪意のある言葉なんか、受け取らなくていい。

そう思えば、少しは強くいられる。

ありがとう、言葉たち。
ありがとう、その言葉をくれた人たち。
言葉だけでなく行動してくれた人たちにはさらに感謝だし、言葉や文字だけでも行動のひとつなんだから、それでも感謝だし。

人を攻撃して傷を負わせる言葉と、人を支えたり励ます言葉と、どっちがいい?
どっちの行動をする自分の方が好き?

行動に選択肢をつくり、自分の行動を自分で好きと言える方を選ぶ。

俺は、どんな俺が好き?

どんな俺が好きか、いつのどんな時のどんな俺が好きか、全部細かく書いていたらキリがない程に色々あるな。
とりあえずいつまでもうじうじしてる自分は好きではないな嫌だな。

失った物ばかり数えるな!!無い物は無い!!確認せい!!お前にまだ残っておるものは何じゃ!!


これ、ワンピースに出てくる好きなセリフだけどなんか最近このセリフが頭になかったな。


漫画だけどさ、あのルフィでさえ自暴自棄になることがあったんだ。

一時的にうじうじしてても、ちゃんと大事なことに気が付いて復活することが出来るシーン。

好きだな。


俺は前から、自分が漫画やドラマに出てきた時にその自分というキャラクターを好きになれるかを考えたい考えて欲しい、と思っている。


それも最近は頭から抜けていたな。


忘れっぽいから、だから発信して、言葉や文字にして、確認して、思い出して、ってのが、俺には必要だったんだな、きっと。


とにかく、好きな自分、好きな自分の考え方を、思い出しつつあるので、好きな自分に戻れるように、好きでいてくれる人たちの言葉や好きな言葉達に励まされ支えられ背中を押され、前に進んでいこうと思います。





人を陥れようと攻撃する人や、相手を不幸にしたくて行動する人がいる。


人が不幸になるより自分が幸せになることを考えた方がいいのではないかなと思ってしまう。


しかし人を不幸にすることがその人の幸せだとすると、どうなのだろう。


難しい問題になってくるな。


俺には、世の中のこと、何も否定することが出来ない気がする。


世の中は、良い悪いは決められていることでしかなく、結局は、良い悪いよりも、好き嫌いで出来ている気がする。


俺は、悪意を持って人を攻撃する人を嫌いだと思ってしまう。

俺と同じ意見を持つ人は少なくないと思う。


でも、攻撃される側をもっと嫌いな場合、その攻撃する側の方が好きだから同調する、なんてことも起きてくる。


俺は両方嫌いなら両方嫌いというだけで同調することはないが、両方嫌いなはずなのにより嫌いな方を同調して攻撃してしまう人がいるのだ。


同調して攻撃しなくても、嫌いだからと結局悪意を持って攻撃してしまう人もいたり、自分が嫌いなことをいつの間にか人にしてしまう人もいる。


俺だって実は気付かないだけでしている時があるかもしれない。

でも気を付けているつもりではいる。


これだってと捉え方によっては攻撃と言われる場 合もあるかもしれない。

悪意はないが。


それでも悪意があると言う人もいるかもしれない。

でも、悪意はない。


悪意なく、ここまで気を付けているのに言われてしまうなら、それはもう仕方ないし、気にしないという方法を取る。



発信する時は、色々考えてしまう。

考えた方がいいなと思っている。

俺は。


良い悪いで言う時は、俺は、という心を忘れないように気を付けている。


さっきも書いた通り、良い悪いなんてわからないけど、自分にとって良いか悪いかくらいは考えることが出来る。


断定は出来ないが。


考えれば考えるほど、文は長くなる。

発言も難しくなる。

けど、そんくらい難しくてもいいかと思う。


しっかり考えて発信していきたい。


考え過ぎたくないとは思うけど、考え無しや考えが足りないとなるよりは、考え過ぎの方が、俺はいいなと思う。


考えよう、いっぱい。



無理しないで欲しい、無理に元気になろうとしたり、無理に明るく振舞ったり。

無理しているつもりがなくても無理していることもあるから、そもそも無理をしないということは難しいことなのかもしれない。

俺も無理してないつもりで無理してたのかもしれない。

無理して溜め込んで破裂してしまうと色々なものを失うことになるかもしれない。
無理して頑張って得たものを、無理してたせいで失ってしまったら元も子もない。
だから、無理しないで欲しい。

でも、失ったからこそ気付くこともある。
そう思うと、無理をすることも、失ってみることも、悪くはないかもしれない。

悪くはない。
そう、悪くはないことって、いっぱいある。
悪いことなんて本当にごくわずかかもしれない。
それは考え方による。
あれも悪いこれも悪いという人もいる。

けどこう俺は思うし俺はこう伝えていこう。

悪くないよ。

俺は無理して欲しくないけど、無理して頑張るのも、素敵なことだ。

見方次第では、自分の周りの世界は、悪くない。
悪くないことや素敵なことが溢れてるはずだ。
自分の捉え方次第、自分次第。
前々から感謝ということをとても大事にしているつもりだ。
言葉にしない時もある、忘れてしまう時もある、それでも、あとからでも、気付いた時だけでも、出来る時だけでも、と、思っている。

助けてくれた人、救ってくれた人、支えになってくれた人。
そして、助けてくれようとした人、救おうとしてくれた人、支えになろうとしてくれた人。
これら全てに感謝、ありがとう。

それだけではない。
俺に嫌な思いをさせてくれた人であっても、状況によっては感謝の対象になる。

その嫌な思いをすることで苦痛は伴うが、代わりに得たものがあれば、失ったものより得たものの方が大きかったら、それは感謝だ。

新しい何かを得るキッカケや新しい道を見つけるキッカケにもなるから、ありがとう。

あと忘れてはいけないのが、元気な時も普通の時も弱ってる時も支えてくれてたり寄り添ってくれたりしている人たち。

今回色々なことがあってわかった。
俺に必要な人たちは、弱ってる時にこそ手を差し伸べてくれる人たちなんだなと。

元気な時に慕ってくれたり求めてくれたり必要としてくれる人たちも、もちろん嬉しい。

でも、元気じゃなくなったからとか、社会的地位や価値が無くなったからとか、他人から悪い噂を聞いたからとか、そういうので離れていく人たちは、俺にとって必要ではないのかもしれないし、その人にとって俺は必要ではないのだと思う。

そんなことに気が付いた。
今更かもしれないけど。

本当の俺を知ろうとしてくれる人、知ってくれる人、俺の本質を見てくれる人、俺の本質を見ようとしてくれる人。
そして、その上で俺を慕ってくれたり好きでいてくれたり応援してくれる人たち。

きっとそれが俺が求めるものなんだ。
俺が必要とする人たちなんだ。
実際に必要かはわからない。
でも、必要としたい、必要と思いたい。
だからそれがあることに、ありがとう。

俺を知ろうとして、本質を知ろうとして、知ってくれる人。
聞いてくれる人、もしくは、聞かなくても信じてくれる人。
聞いたら答えてくれる人、ちゃんと伝えてくれる人。

俺を必要としてくれる人、必要としたいと思ってくれる人、求めてくれる人。

それが、俺の必要とする人、必要としたいと思う人、求める人。


しばらく控えていた「発信」ということを再開してみた。

伝えること、吐き出すこと、アウトプットすること。
俺にはこれが必要なのかもしれないと思った。

寂しいんだ俺は。

共感してくれる人が欲しいんだ。

そんなの俺だけじゃないと思うけど。

構って欲しい心配して欲しい気にして欲しい。

そういう欲が強いんだな。

ほっといて欲しい、なんてことはない。
本当にほっといて欲しいって人なんて人はいるのだろうかと考えるくらい、俺はほっといて欲しくない。
グイグイに絡まなくても、気にして欲しい。

こういうことにも、素直でいたいし、気持ちに嘘をつきたくないし、本心を伝えていきたい。
本心で人と接したい。
本心で人に接して欲しい。
こうして欲しいどうして欲しいを知りたい。

だから俺は知ってもらいたい。
こうして欲しいどうして欲しいを伝え続ける。

もちろん叶わないこともある。
それならそれで仕方ない。
でも想いだけは伝えて欲しい伝えたい。

実際に叶うか叶わないかやるかやらないか。
叶わないからと、やらないからと、想いを閉じる必要はないと思う。
それでも想いは伝えて欲しい伝えたい。
伝える、知る。
伝えたい、知って欲しい。
知りたい、伝えて欲しい。
俺は、そう思っている。

しかし、伝えないと決意して伝えない方が良いということも、時にはあるかもしれない。
だから、伝えるも伝えないも、自由。
ただ俺は伝えたい伝えて欲しい、それだけだ。
みんな自由でいいんだ。


明けましておめでとうございます。

もう2月の5日です。
でも俺にとっては、ようやく明けましておめでとうと言える心境になりました。

今年の1月をもって、今までやっていた演劇の仕事を辞めることになりました。

理由は、簡単に言うと、俺が会社の規則を守らなかった故にクレームとなってしまったからです。

自分のせいです、自分が悪いのです。
それでも色々あって心が疲弊して病んで、1ヶ月以上ひきこもりのような生活をしていました。
本当に心を許せる人以外には関わりたくない。
外に出たくない、外が怖い、人が怖い。

でも、最近ようやく、心も落ち着いて、自分のこと、人のこと、色々と考えて、外に出て行くことが出来そうになってきたので、まずはブログから始めてみようかと思い、久々にブログを書いております。

上手くいかなければまたしばらく引っ込むかもしれないけど、何かキッカケをつくっていかないとずっとひきこもりのようになってしまい、何も出来なくなってしまい、心が死んでしまいそうなので、上手くいってキッカケになればいいなと。

応援のメッセージとかが欲しいわけではない。
もちろんそんなのがもらえたら嬉しいけど、本当に自分の巻いた種なので申し訳ない気もする。
ただ、今は攻撃的な悪意を感じるようなものは見たくはない。
もしも、わざわざ攻撃的な悪意のあるような書き込みがあれば、それはきっと余程俺のことが気になる俺を攻撃するのが好きな人なんだな、と思うことにする、という予防線を張っておく、これでも来るならもうすごいなぁと思う。

規則は絶対守らなければならないもの。
そう思ってる人にとってはこの先はきっと不快になると思うので見るのはここまでにしておいてください。
ここから先はほとんど言い訳になるでしょう。

12月のクリスマス前くらいに問題は発覚し、心の負担を減らす為に元気に振る舞おうおしていたがそれも叶わず、それから1ヶ月以上、ひきこもりのような生活をしていた。
そろそろ立ち上がりたくてする言い訳。
別に読んでもらわなくてもいいような、自分が何かを吐き出して軽くなって歩きたいという為だけのもの。

規則は基本的には守るもの。
それは理解した上での話。

俺は色々な人の相談を受けていた。
本当はその人たちとは個別でやりとりしてはいけなかっただ、会社の規則的には。

でもずっとそれを続けてきた。
ひとりひとり個人個人と向き合いたかった。
仕事としてではなく、ひとりの人として。

ひとりの人として向き合うのであれば、仕事を通じて知り合うこと自体が間違いかもしれないが、俺のような存在を必要と思ってくれそうな人を探し出すには、キッカケにしてもらうには、すごく効果的だったのだ。

俺は昔、周りに相談が出来る人がいなくてすごく辛いという時期があった。
とても内気で自分から人に話せなかった。
そんな時に声を掛けてくれる人がいたら、上手く喋れなくても諦めずに聞いてくれる人がいたら、寄り添ってくれる人がいたら、どんなに気持ちが楽になれただろうか、そんな風に思って、自分がそんな存在になりたいと思った。

しかし、それを煩わしいと思ったり、それに嫌悪感を抱く人もいる。
それはそうだ、合う合わないは絶対にある。
今回、仕事を辞めるキッカケになったクレームも、それに嫌悪感を抱いてしまった人がキッカケとなっていた。
それも仕方のないことだ。
全ては俺の言動の招いた結果。
俺のせいである。

ただ悲しいのは、相談のやりとりをしている中では嫌悪を伝えてくれていなかったことだ。

俺は基本的に何でも聞く。
相手にとって嫌ではないか、望んでいるか、嫌なことは出来るだけしたくないし望んでいることを出来るだけしてあげたいし、察したりしてもそれに自信がないから必ず確認するようにしている、情けなく小さい男かもしれないが。
でもそれが嘘だと、俺にはもうわかりようがなくなってしまう。
だから、わからなかったんだ、嫌悪感を抱いていたなんて。
まだ、自信がなくても察することが出来る範囲であれば別の対処をすることも出来た。
けど、表面ではとても好意的にしてくれていたから全然気が付けなかったんだ。

でも、そんな人もいる。
きっと正面からぶつかったり嫌な態度を取るのが苦手なんだ。
それをわかってやれなかった自分にも足りないところがたくさんあったんだ。
そう思うようにしている。
相手を責めてもなんにもならない。
責める気はない。
今はただ吐き出して軽くなろうとしてるだけだ。


とにかく、その時に色々と考えた、考えれば考えるほどにハッキリしていったのは、自分がいかに子供かということ、いわゆる大人の社会の中で生きていくことは極めて難しいであろうということ、それでも自分は気持ちに嘘は付きたくない、その上で救える人を救いたい、俺のやり方だからこそ救える人を少しでも救えればいい、他の人に救いを求められる人はそれはそれでいい、今回のことも俺でない人に頼れているのだからそれでいい、ということ、もっと見極めて言動に注意すれば自分の立場も守れたし会社への迷惑もかけることなく済んだのでその言動をして大丈夫かどうかの見極めをもっと慎重に気を付けた方がよかった、という反省はあれど、この方法で救える人を救えなくなることを考えたら、見極めを気を付ければよかったなという反省のみでそれ以上の反省が思い付かないということ、このことからも、一線を退くべきであろうという考え、客観的に見ても会社という組織の中にこんな人間を置いていては、会社を危険に晒す可能性も高くなるような存在であり、会社を守ることを優先的に考えたら、置いておくべきではない存在であろう、という考え、生活のことを考えたら、一線は退くにしても、危険を及ぼす可能性が低い範囲で使ってもらえたらありがたいが、生活のためとはいえ、これ以上自分を偽って誤魔化して生きていくことはおそらく耐えられない気がするので、会社のためにも自分のためにも、退職すべきであろうという考え。


俺の意図がどんなものであろうと、相手からそう伝わっていて、相手がそのように感じたのであれば、それが相手からしたら紛れも無い事実なのだろう。意図や気持ちのすれ違い等はあれど、相手の言うことに間違いはなく、俺は、そのようなやりとりを、俺の意思で、した。

会社のルールを守らずに、俺個人の意思で。

会社としては、このようなルール違反をした者を置いておけないので、解雇処分という形で処置をすると相手側に伝えてもらえれば、相手側もある程度は納得してもらえるだろうと思った。

浅はかな考えかもしれないが自分なりに考えてみた結果だった。


ひとつ前のブログは、その時にグルグルと考えていた、結論も答えも何もない、ただの俺の内面的な、考え、気持ち、そういったものになるが、もし知りたい人がいれば知って欲しい気持ちもある。

俺という人間がどんなことを考えている人間かを知った上で好きになってくれる人を今は求めているから。

人は何故死んではいけないのだろう何故人は家畜とされる動物の死は何とも思わず自分のペットの死は悲しむのだろう

人と動物

ペットと家畜

何が違うのだろう

それは情とか愛着とかそういうことだろう

人だって他人の死にはそんなに興味がない人も多いだろう

人は人だから動物よりも人に情や愛着が深いのかもしれない

でも人より動物に情や愛着が深い人は動物の死の方が悲しいという人もいるかもしれない


俺は

一生悩み考え

正解なんてものは見つけられないだろう

でもそれでいいんだ俺は

誰かの作った正解に縛られたり

誰かの作ったものに何も疑問も抱かず

自分で考えることをやめてしまったら

俺はきっと俺ではなくなる

誰かの作った正解は

もちろんひとつの正解であったり

それを正解だと思う人が多いから

多くの人がそれを正解だと信じて成り立つ

しかし多くの人にとっての正解でも

それを正解と思えない人もいる

それは排除されていいものなのか

俺は人を殺すことすら必ずしも悪いこととは思えない

故意に人を傷付けたりすることは良くないとは思いつつも

もし自分の家族や大事な人が

誰かを殺さなくては死んでしまうような時

その誰かを絶対に殺してはいけないと

果たして言えるのだろうか

それでも絶対に人を殺してはいけないと言う人も

それなら仕方ないと思う人もいるだろう

しかし

もしそれが家族や大事な人でなく

自分を守るためだったら

どうだろう

きっとだが

この前提の話がない上で

自分が死にそうな時に誰かを殺していいですかと聞かれたら

家族や大事な人を守るために家族や大事な人が死に方な時に

と聞く時よりも

ダメだと言う人が増えるのではないだろうか

統計を取ったわけではないからわからないが

そんな気がする

何故なのだろう

色々な要因はあると思う

やはり人を守ることが美談とされて

自分の為より人の為というのが美徳だと

そう刷り込まれているからというのは

ひとつの要因ではないかと思うが

それもそれで何故なのだろう

今のところ考えても自分の中での答えは出なそうなのでやめておいて話を戻すが

さらに

その家族や大事な人や自分が

良い人と思われる人で

その誰かが

悪い人と思われる人だったら

それでも

その誰かを殺さずに自分の家族や大事な人や自分が死ぬことを選ぶ

それが正解だろうが

そして

その良い人や悪い人というのは

何が基準となるのだろうか

その良い人は本当に良い人なのか

その悪い人は本当に悪い人なのか

それは誰からの目線なのか

考えれば考えるほどわからない

正解なんてないと思えてしまう

しかしそれでも決められた正解はある

決められた正解ってなんだろう

考えても答えが出ないから

答えを決めてしまおう

考えるのは大変だ

考えなくていいようにしよう

私達が決めてあげるから

君達は考えなくても大丈夫だよ

はいこれが正解ってことになりました

考えるのは大変だろうから決めてあげたよ

ひょっとしたら根底はそういうことなのかもしれない

ふとそう思った

別にこれも悪いこととは言わない

いやそもそも悪いことってなんだろうって話が解決していないから悪いことってなんだって話だけどひとまずここは私にとっての悪いことという話で進めていく

そう

これもある

良いこと悪いことって

誰かにとっては良いことでも

誰かにとっては悪いことだったりする

だからこそ私はそれを出来るだけ忘れずに

良い悪いは誰にとってなのかを考える

ひとまず俺の話は俺にとっての話

しかしながら何かを悪いことにしたり悪者を生むことは出来るだけしたくないから

結局は悪いこととは言えない

それが俺だ

今の俺はそういう考えだ

今の俺

これも重要なキーワードかもしれないが

話が進まないのであとにしよう

今の俺というメモを残しておこう

その上で話を戻すと

考えても答えが出ないから

答えを決めてしまおう

考えるのは大変だ

考えなくていいようにしよう

私達が決めてあげるから

君達は考えなくても大丈夫だよ

はいこれが正解ってことになりました

考えるのは大変だろうから決めてあげたよ

根底はそういうことなのかもしれない

そう思ったがそれも悪いこととは言えない

秩序を守ろうと思ったらこれは正解のひとつであると思うし他に良案も簡単には思いつかないと思う

しかし考えなくても大丈夫だからと言っても考えてはいけないわけではないし考えることは出来る

本気で秩序を守ろうとした時は

考えてはいけないと刷り込んだ方が

きっと秩序は守れるのだろうから

ひょっとしたら考えなくてもいいよではなく考えてはいけないの方かもしれない

秩序を守らせたい人達からすればきっとそれがいい

しかしそもそも何のための秩序なのか

誰の為の秩序なのか

まずはその秩序を作った人達の為であろう

そしてその秩序の中で守られる該当者に当てはまる人達だろう

ならばその秩序では守れない人達は

その秩序に苦しめられている人達は

放っておいていいのか

正解は

放っておいていいむしろ排除しよう

である

その人達の考えた正解はおそらく

もちろんそうでない人達もいるだろう

しかし言葉や心でいくらそうでないと思っていても

実際にやっていることをみたら

どうだろう

しかしそれも悪いことではない

それで秩序が守れるのだから

秩序を守る為にはむしろ良いことだ

別に故意に犯罪をしたり故意にルールを破ることを考えているわけではないが秩序が全てではないと思っている

ただしこの考え方はひとつ間違えば犯罪者になりうる考え方だ

たとえ人間の本質的に罪を犯したわけでなくても罪を犯した者になってしまう

神を信じているわけではないが天や神が罪でないと思うことも人の作った法の下では罪になったりする

人の法に従って生きていくか

抜け道を探して生きていくか

人の目の触れない場所で生きていくか

戦争をするか

死ぬか

今の人の世ではこのどれかに当てはまる選択肢になるだろう

上ほど生存率は高く下ほど低い

人の法に完全に従って生きること

これは私には無理なのだろうと35年間生きて来てハッキリ自覚するに至った

時には戦うことも争うこともあるが出来れば戦争はしたくない

となると選択肢は残り3つ

どれにするかはゆっくり考えよう

もう35歳だがまだ35歳だ

先は長くはないかもしれないが長く思える

35年で選択の2つが削れたわけだから

あと35年で更に2つ削れたらいいさ

残ったものが俺の答えになるのだろう

今の俺はそう思っている

ここで

今の俺という話に戻ろう

人は変わるものだ

だから今の俺がこんなことを思っていても

この先の俺がこれを覆すような言動になってもおかしくはない

しかし俺の根底は変わらない

経験や知識によって培われた結果として肉がついたりして変わったように思えるが根底は変わっていない

自分の35年間を振り返ればそう思える

それまで変わってないからと言ってこれからも変わらないとは限らないが変わらない気がする

俺は発達障害を持っている

これは発達障害のせいもあるのかもしれない

症状のひとつに

こだわりが強い

というものもあるらしい

俺は発達障害と診断されているが発達障害も含め自分の性格だと思っているので発達障害だから許せと言うことはない

ただしこんな自分を理解した上で付き合ってくれる人やついて来てくれる人達と過ごしていきたい

人は人の表面しか見えていないことが多い

内面を伝えるということをあまりしない人が多いからだと思う

内面を伝えるということをしない人

内面を伝えるということが出来ない人

もちろんする人も出来る人もいるが

自分の内面を伝えてくれているなという人は少なく感じる

それも当たり前と言えば当たり前

内面まで見よう知ろうとする人も少ないから

各々がしっかり内面まで見よう知ろうとして

各々がしっかり内面まで伝えようとすれば

ある程度は内面まで知ることが出来るが

そうではないのが現状

たとえば

遊んでいたら反省していないのだろうか

反省している者は楽しく時を過ごしてはいけないのだろうか

遊べる時間は遊び

楽しめる時間は楽しみ

反省するべき時に反省する

これではいけないのだろうか

いやわかっている

いけないわけではないが

それが普通だからだ

そうしないと多くの人たちの目からは反省しているように見えないからだ

いくら本当に反省していようと

遊びや楽しみの中で反省している姿を見せても

反省してないだろと多くの人に言われる世の中だからだ

逆に

いくら反省したフリをしていても反省をしていない人だっている

しかしそれは深い付き合いの人にしかどちらも見分けられない

深い付き合いの人でも見分けられない場合もある

だから反省すべき者は目立って楽しむようなことをしてはいけないのだ

本当にいけないというわけではない

自分のことを何も知らないような人や大して知らないような人に対しては

そんな人たちに反省していると思わせるためには

それではいけないのだ

しかし俺は声を上げていきたい

本当にそれでいいのか

俺は嫌だそんな場所は

だから俺は伝え続ける

たとえ世界も世の中も社会も変わらずとも

せめて自分の周りはそういうことを認められる人たちであってほしいから

その為に伝え続ける

ごく少数でもいい

俺の言うことが全ての人から否定されるならおそらく俺が完全なる不正解だが

ごく少数とは言い難いくらいの人は俺に共感してくれる

それでも世界や世の中や社会からしたらごく少数ではあるかもしれないが

まだまだ伝えている母数自体が少ない

母数が増えても世界や世の中や社会全体からしたらそれでも少数かもしれない

しかし身の回りとしてみたら多数になるかもしれない

そんな人たちを探したり見つけたり増やしたりしていきたい

そんな人たちが集まる居場所を作りたい

自分の周りだけでもそんな世界にしたい

その為にも俺はそれを認められる人間で在りたい

全てを認めるなんて無理なことかもしれないけど

そう在りたいという心は決して捨てないように

生きるなら

そう生きて生きたい

芸名・山本春王
本名・山本春樹
ニックネーム・はるきんぐ
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5ヶ月ほど、書いてないようだな。

こんなに書かなかったのは初めてじゃないか?

まぁ、気にしない。


先日、過去の日記を読んだんだ。

俺は、熱を失っていたんだ。

あの頃の熱さと行動力は、今の俺には無い。


取り戻したいなぁ。

何故だろう。
満足してるのか、何かに嫌になってしまったのか、どちらなのか、いや、どちらもか。

よくわからないな。


とりあえず、自分の生きたい生き方は、それなりに出来ているかな。
でも、生きたい生き方をしようとすれば、人との衝突もある。
みんな仲良く出来たらいいのに・・・。


嫌だなぁ、と、思ったり。
でも、俺は俺の生き方を貫けばいい、と、思ったり。


真っ直ぐ向き合う今に、誇りを持つために、戦うことも必要なのさ。


そんな春の王様はるきんぐ山本春王!

そして、ご当地ゆるアイドルちとからファイブちとからグリーン三代目たきこ&ご当地ゆる怪人ちとかラビット!

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