グルグルとした思考 | 山本春王のブログ

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人は何故死んではいけないのだろう何故人は家畜とされる動物の死は何とも思わず自分のペットの死は悲しむのだろう

人と動物

ペットと家畜

何が違うのだろう

それは情とか愛着とかそういうことだろう

人だって他人の死にはそんなに興味がない人も多いだろう

人は人だから動物よりも人に情や愛着が深いのかもしれない

でも人より動物に情や愛着が深い人は動物の死の方が悲しいという人もいるかもしれない


俺は

一生悩み考え

正解なんてものは見つけられないだろう

でもそれでいいんだ俺は

誰かの作った正解に縛られたり

誰かの作ったものに何も疑問も抱かず

自分で考えることをやめてしまったら

俺はきっと俺ではなくなる

誰かの作った正解は

もちろんひとつの正解であったり

それを正解だと思う人が多いから

多くの人がそれを正解だと信じて成り立つ

しかし多くの人にとっての正解でも

それを正解と思えない人もいる

それは排除されていいものなのか

俺は人を殺すことすら必ずしも悪いこととは思えない

故意に人を傷付けたりすることは良くないとは思いつつも

もし自分の家族や大事な人が

誰かを殺さなくては死んでしまうような時

その誰かを絶対に殺してはいけないと

果たして言えるのだろうか

それでも絶対に人を殺してはいけないと言う人も

それなら仕方ないと思う人もいるだろう

しかし

もしそれが家族や大事な人でなく

自分を守るためだったら

どうだろう

きっとだが

この前提の話がない上で

自分が死にそうな時に誰かを殺していいですかと聞かれたら

家族や大事な人を守るために家族や大事な人が死に方な時に

と聞く時よりも

ダメだと言う人が増えるのではないだろうか

統計を取ったわけではないからわからないが

そんな気がする

何故なのだろう

色々な要因はあると思う

やはり人を守ることが美談とされて

自分の為より人の為というのが美徳だと

そう刷り込まれているからというのは

ひとつの要因ではないかと思うが

それもそれで何故なのだろう

今のところ考えても自分の中での答えは出なそうなのでやめておいて話を戻すが

さらに

その家族や大事な人や自分が

良い人と思われる人で

その誰かが

悪い人と思われる人だったら

それでも

その誰かを殺さずに自分の家族や大事な人や自分が死ぬことを選ぶ

それが正解だろうが

そして

その良い人や悪い人というのは

何が基準となるのだろうか

その良い人は本当に良い人なのか

その悪い人は本当に悪い人なのか

それは誰からの目線なのか

考えれば考えるほどわからない

正解なんてないと思えてしまう

しかしそれでも決められた正解はある

決められた正解ってなんだろう

考えても答えが出ないから

答えを決めてしまおう

考えるのは大変だ

考えなくていいようにしよう

私達が決めてあげるから

君達は考えなくても大丈夫だよ

はいこれが正解ってことになりました

考えるのは大変だろうから決めてあげたよ

ひょっとしたら根底はそういうことなのかもしれない

ふとそう思った

別にこれも悪いこととは言わない

いやそもそも悪いことってなんだろうって話が解決していないから悪いことってなんだって話だけどひとまずここは私にとっての悪いことという話で進めていく

そう

これもある

良いこと悪いことって

誰かにとっては良いことでも

誰かにとっては悪いことだったりする

だからこそ私はそれを出来るだけ忘れずに

良い悪いは誰にとってなのかを考える

ひとまず俺の話は俺にとっての話

しかしながら何かを悪いことにしたり悪者を生むことは出来るだけしたくないから

結局は悪いこととは言えない

それが俺だ

今の俺はそういう考えだ

今の俺

これも重要なキーワードかもしれないが

話が進まないのであとにしよう

今の俺というメモを残しておこう

その上で話を戻すと

考えても答えが出ないから

答えを決めてしまおう

考えるのは大変だ

考えなくていいようにしよう

私達が決めてあげるから

君達は考えなくても大丈夫だよ

はいこれが正解ってことになりました

考えるのは大変だろうから決めてあげたよ

根底はそういうことなのかもしれない

そう思ったがそれも悪いこととは言えない

秩序を守ろうと思ったらこれは正解のひとつであると思うし他に良案も簡単には思いつかないと思う

しかし考えなくても大丈夫だからと言っても考えてはいけないわけではないし考えることは出来る

本気で秩序を守ろうとした時は

考えてはいけないと刷り込んだ方が

きっと秩序は守れるのだろうから

ひょっとしたら考えなくてもいいよではなく考えてはいけないの方かもしれない

秩序を守らせたい人達からすればきっとそれがいい

しかしそもそも何のための秩序なのか

誰の為の秩序なのか

まずはその秩序を作った人達の為であろう

そしてその秩序の中で守られる該当者に当てはまる人達だろう

ならばその秩序では守れない人達は

その秩序に苦しめられている人達は

放っておいていいのか

正解は

放っておいていいむしろ排除しよう

である

その人達の考えた正解はおそらく

もちろんそうでない人達もいるだろう

しかし言葉や心でいくらそうでないと思っていても

実際にやっていることをみたら

どうだろう

しかしそれも悪いことではない

それで秩序が守れるのだから

秩序を守る為にはむしろ良いことだ

別に故意に犯罪をしたり故意にルールを破ることを考えているわけではないが秩序が全てではないと思っている

ただしこの考え方はひとつ間違えば犯罪者になりうる考え方だ

たとえ人間の本質的に罪を犯したわけでなくても罪を犯した者になってしまう

神を信じているわけではないが天や神が罪でないと思うことも人の作った法の下では罪になったりする

人の法に従って生きていくか

抜け道を探して生きていくか

人の目の触れない場所で生きていくか

戦争をするか

死ぬか

今の人の世ではこのどれかに当てはまる選択肢になるだろう

上ほど生存率は高く下ほど低い

人の法に完全に従って生きること

これは私には無理なのだろうと35年間生きて来てハッキリ自覚するに至った

時には戦うことも争うこともあるが出来れば戦争はしたくない

となると選択肢は残り3つ

どれにするかはゆっくり考えよう

もう35歳だがまだ35歳だ

先は長くはないかもしれないが長く思える

35年で選択の2つが削れたわけだから

あと35年で更に2つ削れたらいいさ

残ったものが俺の答えになるのだろう

今の俺はそう思っている

ここで

今の俺という話に戻ろう

人は変わるものだ

だから今の俺がこんなことを思っていても

この先の俺がこれを覆すような言動になってもおかしくはない

しかし俺の根底は変わらない

経験や知識によって培われた結果として肉がついたりして変わったように思えるが根底は変わっていない

自分の35年間を振り返ればそう思える

それまで変わってないからと言ってこれからも変わらないとは限らないが変わらない気がする

俺は発達障害を持っている

これは発達障害のせいもあるのかもしれない

症状のひとつに

こだわりが強い

というものもあるらしい

俺は発達障害と診断されているが発達障害も含め自分の性格だと思っているので発達障害だから許せと言うことはない

ただしこんな自分を理解した上で付き合ってくれる人やついて来てくれる人達と過ごしていきたい

人は人の表面しか見えていないことが多い

内面を伝えるということをあまりしない人が多いからだと思う

内面を伝えるということをしない人

内面を伝えるということが出来ない人

もちろんする人も出来る人もいるが

自分の内面を伝えてくれているなという人は少なく感じる

それも当たり前と言えば当たり前

内面まで見よう知ろうとする人も少ないから

各々がしっかり内面まで見よう知ろうとして

各々がしっかり内面まで伝えようとすれば

ある程度は内面まで知ることが出来るが

そうではないのが現状

たとえば

遊んでいたら反省していないのだろうか

反省している者は楽しく時を過ごしてはいけないのだろうか

遊べる時間は遊び

楽しめる時間は楽しみ

反省するべき時に反省する

これではいけないのだろうか

いやわかっている

いけないわけではないが

それが普通だからだ

そうしないと多くの人たちの目からは反省しているように見えないからだ

いくら本当に反省していようと

遊びや楽しみの中で反省している姿を見せても

反省してないだろと多くの人に言われる世の中だからだ

逆に

いくら反省したフリをしていても反省をしていない人だっている

しかしそれは深い付き合いの人にしかどちらも見分けられない

深い付き合いの人でも見分けられない場合もある

だから反省すべき者は目立って楽しむようなことをしてはいけないのだ

本当にいけないというわけではない

自分のことを何も知らないような人や大して知らないような人に対しては

そんな人たちに反省していると思わせるためには

それではいけないのだ

しかし俺は声を上げていきたい

本当にそれでいいのか

俺は嫌だそんな場所は

だから俺は伝え続ける

たとえ世界も世の中も社会も変わらずとも

せめて自分の周りはそういうことを認められる人たちであってほしいから

その為に伝え続ける

ごく少数でもいい

俺の言うことが全ての人から否定されるならおそらく俺が完全なる不正解だが

ごく少数とは言い難いくらいの人は俺に共感してくれる

それでも世界や世の中や社会からしたらごく少数ではあるかもしれないが

まだまだ伝えている母数自体が少ない

母数が増えても世界や世の中や社会全体からしたらそれでも少数かもしれない

しかし身の回りとしてみたら多数になるかもしれない

そんな人たちを探したり見つけたり増やしたりしていきたい

そんな人たちが集まる居場所を作りたい

自分の周りだけでもそんな世界にしたい

その為にも俺はそれを認められる人間で在りたい

全てを認めるなんて無理なことかもしれないけど

そう在りたいという心は決して捨てないように

生きるなら

そう生きて生きたい