「プレカリアート」(ガイ・スタンディング)
この本で一番議論を呼びそうな部分は、筆者がプロレタリアートとプレカリアートの共闘について懐疑的であるところだろう。懐疑的というより、この二つの階級の利害と世界観は相容れないとまで主張している。不安定なプレカリアートの労働条件と労働環境を、職場単位で組織された労働組合の要求で正規雇用化を図るという、従来からプロレタリアが使かう方法は、散発的に成功する例もあるがプレカリアート運動の主流にはなりえない。それは、この20年来のプレカリアートの異常な増大と、それに対する労働組合の無力、あるいは見て見ぬふりが示している。
資本は、プレカリアートの増大を図ることで正規雇用参入の入口を限界まで狭め、労働の価値を極度に高めた。労働組合はプレカリアートを排除することでプロレタリアートの雇用と組織を保身し、労働の価値を維持しようとした。この資本とプロレタリアによる以心伝心な共同作業は、労働の物神化と、それへの敵対を自覚する芽を持つプレカリアートの誕生をもたらした。
よってこの本では、労資が祭り上げ定礎した「労働」の倫理的経済的価値を直接打破し、そして歴史を通底する「仕事」を呼び覚ますことを軸にして、プレカリアート解放の道を開かんとする。そのためのベーシックインカムであり金融の再分配であり、労働者協同組合、時間のコントロール、公共空間の奪還といった方策が語られる。今だ正しい労働観と、それに裏打ちされた善良な国民像に呪縛され、方向性を見失っているプレカリアートは必読である。プレカリアートの敵は、資本とその上に鎮座する「労働」である。
『20世紀を通して、労働ー交換価値をもつ仕事ーが尊重され、一方で労働ではないすべての仕事は無視された。したがって、それ自体の有用性のために行われている仕事は労働統計にも政治のレトリックにも現れてこない。それは性差別的というだけでなく、他にも擁護できない理由がある。それは、いくつかの最も大切で必要な活動ー私たち自身や未来世代の能力の再生産や、私たち社会的存在を保持するための活動ーの品位や価値を下げてしまうのだ。私たちは労働中心主義者(レイバリスト)の罠から逃げ出す必要がある。それを最も必要とする集団がプレカリアートだ。』