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ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

今日、久し振りに『新々訳 源氏物語』を読みました。ようやく物語の中ほどにさしかかったでしょうか。「藤裏葉」という題です。

そこから、引き歌を二首。

君が植ゑし ひとむらすすき 虫のねの
しげき野辺とも なりにけるかな
『古今集』


うれしきも 憂きも心は 一つにて
わかれぬものは 涙なりけり
『後撰集』


現代はこのような歌を詠む人もいなければ、この心持ちの人もいない。

※いつもご訪問ありがとうございます。しばらく『いいね』を休止いたします。

その時代の歴史を知らずして、その時代の文学を深く味わうことは出来ないし、その時代の文学に親しまなければ歴史は皮相しか見えない。

この歴史と文学の関連が最近ようやくわかりかけてきた。

仁徳天皇の后、磐之媛命(イハノヒメノミコト)は嫉妬深いことで有名であるが、その嫉妬は我々現代人の個人的な嫉妬とは異質のものだったのではないだろうか。 磐之媛命は葛城襲津彦の娘である。葛城氏という氏族の意識も含まれた嫉妬の感情だろうと思う。その嫉妬心は人間の意識の奥底にあるどろどろと渦巻く物凄い力があるような気がする。萬葉集の歌にはそれが「美」となって秋の風景に描かれ、嫉妬の嫌味が微塵も感じられない。


秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 
いづへの方に 吾が戀やまむ

磐姫皇后(イハノヒメノオホキサキ)


私が初めて「時じく」という言葉に出会ったのは萬葉集で、山部赤人が不盡山(ふじのやま)を詠んだ歌です。

天地(あめつち)の、分れし時ゆ、神寂(かむさ)びて、高く貴き、駿河なる、富士の高嶺を。天の原、振りさけ見れば、渡る日の、陰も隠ろひ、照る月の、光も見えず、白雲も、い行きはばかり、時じくぞ、雪は降りける。語りつぎ、言ひつぎゆかむ。不盡の高嶺は。

巻三の三一七


「時じく」とは、時を定めず、常に、何時でもという意味だそうです。

この歌は絶え間なく雪が降っていて、まるで時という概念のない世界を感じさせられます。

「天地の分かれし時」は『古事記』の冒頭にも表現されている世界です。それは、浮脂のごと、大そらに、くらげなすたゞよへる時に、其中より、あしかび(葦牙)の如、萌え騰(あ)がりしは、天(あめ)となり、のこりとどまれるは地(つち)となれるのです。(『神代正語』参照)





その『古事記』の中で私の好きな話のひとつに「時じくの香(かく)の木の実(このみ)」というものがあります。


-また天皇(すめらみこと)三宅連等(みやけのむらじら)の祖(おや)、名は多遅摩毛理(たぢまのもり)を以ちて常世國(とこよのくに)に遣はして、ときじくのかくの木の実を求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂にその國に到りて、その木の実を採り、縵八縵(かげやかげ)・矛八矛(ほこやほこ)を以ちて将(も)ち来たりし間に、天皇すでに崩(かむあが)りましき。
ここに多遅摩毛理、縵四縵(かげよかげ)・矛四矛(ほこよほこ)を分けて大后に献(たてまつ)り、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵(みはか)の戸に献り置きて、その実をささげて叫び哭(おら)びて白さく、「常世國のときじくのかくの木の実を持ちて参上(まゐのぼ)りて侍(さもら)ふ」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。そのときじくのかくの木の実は、これ今の橘なり。-

※常世國(とこよのくに)は『古事記』の上つ巻に少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)が海のかなたにある常世國からやってきて常世國へと去ってゆく場面にも記されています。とても美しい光景を思わせるくだりです。


『日本書紀』でも「時じくの香の木の実」と同じ話が書かれていますが、所々異なります。書紀では持ち帰った橘は縵八縵のまま天皇に献られていて、大后には献られていません。また、常世國から帰ってくるまで十年の月日を費やしたと具体的に書かれています。さらに『古事記』では叫び哭びて死にきとの表現ですが『日本書紀』では、あからさまな言葉で自殺となっています。

ところで、三宅連(みやけのむらじ)は新羅系の帰化氏族だそうです。たとえこの話が帰化氏族でさえ忠心を持っていたことを意図して書かれていたとしても、素直に大切な人のために十年もの年月をかけて時じくの香の木の実を求め歩いて帰ってくる姿、その心。それを見る視点を失ってはならない、私はそんなことを感じました。
◇事依さしとかへりこと(返言・復奏)そして祝詞

【大國主ノ神 國さりのくだり】

天御饗(あめのみあへ)たてまつる時に、ねぎま(禱白)をして …〈中略〉… 火をきりいでて(鑽出)、まをしけらく、此(この)わが(吾)きれる(所鑽)火は、高天原(たかまのはら)は、神むすび御おや(み祖)の命(みこと)の、とだるあま(天)の新巣(にひす)の、すゝ(煤)の、八束(やつか)た(垂)るまでたきあげ(燒擧)、地(つち)の下(した)は、底津石根(そこついはね)に たきこらして(燒凝)、栲繩(たくなは)の ちひろなは(千尋繩)うちはへ(打延)、つら(釣)せる海人(あま)が、大口(おほくち)の 小はた(を翼)すゞき(鱸)、さわさわ(騒々)に 引(ひき)よせ(寄)あげ(上)て、さき竹(析たけ)の とをゝとをゝに、天(あめ)のまなぐひ(眞魚食)たてまつ(獻)らむ とまをしき、

『古事記』 表記は『神代正語』より


「…大意はさかんに火を燒いて食物を作り、又海人が海より獲た澤山の魚をお供えするとの意味である。〈中略〉 ともかくこの詞は、祝詞の形の上で一つの原型と考へられてよい、古代の美文である。」

『祝詞式概説』保田與重郎





▼思うこと
「かへりこと(返言、復奏)」や「ねぎま(禱白)」、そして「祝詞」も「事依さし」に呼応したものであると思います。譬えるなら“こだま”“やまびこ”のような感じです。



「…さればかゝる祝詞が、そのまゝ返事(カヘリコト)(復奏)の意になることを考へるなら、これは實に現實にあつて嚴肅の道である。詔命は復奏に、詔のまゝを返事申奉るとき、神ながらみち足りるのである。詔命のまゝを申上げ得る時に完了する。これが「事依さし」の根本義であつて、承詔必謹の謹もその眞義は、この神ながらに於て考へるべきものと自分は信じてゐる。されどこの嚴肅が決して苦しい強制として現れてゐないところに神の道のおほらかさが畏まれる。神の道はおほらかにして、世間俗情に於てみちは狭いのである。」

『祝詞式概説』保田與重郎 

承詔必謹:『日本書紀』巻二十二(憲法十七條)三曰、承レ詔必謹。
三にいう。天皇の命をうけたら、かならずそれに従え。譬えるなら君は天、臣は地。天が万物を覆い、地が万物を載せる。それによって四季は規則正しく移りゆき、万物を活動させるのだ。もし地が天を覆おうとするなら、この秩序は破壊されてしまう。そのように、君主の言には臣下はかならず承服し、上が行なえば下はそれに従うのだ。だから、天皇の命をうけたらかならずそれに従え。もし従わなければ、けっきょくは自滅するであろう。『日本書紀』現代語訳(笹山春生)


▼思うこと
率直にいうと「承詔必謹」は、時代によって思想の色をおびて都合のよいように解釈され、印象付けられてしまう言葉であるように思います。また、「神ながらに於て考へるべきもの」、此処の理解の拙さが独断の解釈に傾いてしまう要因かもしれません。そもそも神話を他国の観念で理解しようとするところにも問題があるようです。


▼結び
天忠組の草莽の志士たちの生きざまそのものが「事依さし」に呼応(こだま)する「かへりこと」だったように、保田與重郎が戦時中、戦地へ赴く人たちの餞として『校註 祝詞 全』を自費で出版したことも、「かへりこと」であり「ねぎま(禱白)」であったのだと思います。澄んだ心で空を見上げると、そこには“おほらかな道”があります。“いたく(甚)さやぎて(喧擾)”いるこの世に、何するでもない、唯々、穏やかな心になるよう努めるだけでも、「かへりこと」を体現しているのかなと、この頃ふとそう思うのです。



▼保田與重郎のことばと和歌

-今日の我々も亦、日本人の外國觀を根柢とする情勢論によつて、自國の態度を謬つてはならぬのである。こゝで頼るべきものは、外國觀でなく、よかれあしかれ自身自國の論理だといふことを悟るべきである。-


-我々が歴史に於て道の學を立てるといふことは、己もしその世にあれば如何に己を行ふべきかの志によつて史蹟に今を學ぶものであつた。-


けふもまた かくて昔となりならむ
 わが山河よ しづみけるかも
  
「事依さし」と「言向け」

【國むけ御はかりの段】
此(この)葦原中國(あしはらのなかつくに)は、吾(あ)が御子(みこ)のしらさむ(所知)國と、ことよさし(事依)給(たま)へる國なり、故(かれ)此國(このくに)に、ちはやぶる あら(荒)ぶる國神(くにつかみ)どものさは(多)なるとおもほす(以為)は、いづれ(何)の神をつか(遣)はして言向(ことむけ)なむとのりたまひき、…

「言向く」:言葉で説いて説得して服従させる。平定する。
     言は事であり、向くはこちらを向かせる。(向くは背くの反対)



【大國主ノ神 國さりのくだり】
…おのれ(己)命(みこと)の御子(みこ)天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)に、經津主命(フツヌシノミコト)をそ(副)へて、天降(あまくだ)し遣(つかは)して、あら(荒)ぶる神どもを言向(ことむけ)、國つく(造)らしし大神(おほかみ)をもこび(媚)しづ(静)めて、大八嶋國(おほやしまくに)、うつし事(現ごと)あらはに事(顯ごと)、事さ(こと避)らしめき、故(かれ)大穴牟遲命(オホナムヂノミコト)、大八嶋國(おほやしまくに)事避(ことさり)まつ(奉)りて、己命(おのれみこと)の和御魂(にぎみたま)を、八咫鏡(やたかがみ)にとりつけて(取託)、倭(やまと)の大物主(オホモノヌシ)、櫛𤭖玉命(クシミカタマノミコト)と御名(みな)をたゝ(稱)へて、大美和(おほみわ)の神那備(かみなび)にませて(令坐)、皇御孫命(すめみまのみこと)の近守神(ちかきまもりがみ)と、たてまつり(貢)お(置)きて、八百丹杵築宮(やほにきつきのみや)にしづまりましき(鎭坐)、…


…故(かれ)、建御雷神(タケミカヅチノカミ)、返(かへ)り参(ま)ゐ上(のぼ)り、葦原中國(あしはらのなかつくに)を言向(ことむ)け和(やは)し平(たいら)げつる状(かたち)を復奏(かへりことまを)しき。※


【布都御魂(ふつのみたま)と八咫烏(やたがらす)】
…故(かれ)天の神の御子(みこ)《神倭伊波礼毘古命-神武天皇》、その横刀(たち)を獲(え)し所由(ゆえ)を問ひたまへば、高倉下(タカクラジ)答へまをさく、「己(おの)が夢(いめ)に云はく、天照大御神(アマテラスオホミカミ)・高木神(タカギノカミ)二柱(ふたばしら)の神の命(みこと)以ちて、建御雷神(タケミカヅチノカミ)を召して詔りたまはく、『葦原中國(あしはらのなかつくに)はいたくさやぎてありなり。我が御子等(みこたち)不平(やくさ)みますらし。その葦原中國は、専(もは)ら汝(いまし)の言向けし國なり。故(かれ)、汝(いまし)建御雷神(タケミカヅチノカミ)降(くだ)るべし』とのりたまひき。ここに答へてまをさく、『僕(あ)は降(くだ)らずとも、専(もは)らその國を平(ことむ)けし横刀(たち)あれば、この刀(たち)を降すべし』とまをしき。この刀の名は佐士布都神(サジフツノカミ)と云ひ、亦(また)の名は甕布都神(ミカフツノカミ)と云ひ、亦の名は布都御魂(フツノミタマ)と云ふ。この刀は石上神宮(いそのかみのかむみや)に坐(いま)す。 …

不平(やくさ)み:病気になること
《》内 引用者注



【初國(はつくに)知らしし天皇(すめらみこと)】(崇神天皇)
…ここを以ちて各遣はさえし國の政(まつりごと)を平(ことむ)け和(やは)して覆奏(かへりことまをしき)。ここに天(あめ)の下 太平(たひら)けく、人民(たみ)富み栄えき。…

上の二段落は『神代正語』より、※の段落以下は『神代正語』には記述されていないため、一般書籍の『古事記』より引用。



▼思うこと
古代は「事」と「言」が分かれおらず、事(コト)は言(コト)であり、言は事であると言われています。「言向け」「言向け和(やは)し」「平(ことむ)け」「平け和し」と微妙に表現が変わっていって、実に考えられて言葉を選んで記されている様が窺えます。

天神(あまつかみ)がその御子に事依さす、一方、國神(くにつかみ)には言向けます。「依さす」と「向ける」。この表現の違い、意味の違いなどを考えるとき、生き生きとした『古事記』の世界が蘇るのだと思います。