ひだまり 日常生活 -9ページ目

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

【祈年祭:としごひのまつり】冒頭

集侍(うこなはれ)る神主、祝部等(はふりべども)諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)せと宣る。
高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す、皇睦(すめらがむつ)神漏伎命(カムロギノミコト)、神漏彌命(カムロミノミコト)以ちて天つ社(あまつやしろ)國つ社(くにつやしろ)と稱辭(たゝへこと)竟(を)へ奉(まつ)る、皇神等(すめかみたち)の前に白(まを)さく、今年の二月(きさらぎ)に、御年初め(みとしはじめ)賜はむとして、皇御孫命(すめみまのみこと)の宇豆(うづ)の幤帛(みてぐら)、朝日の豐逆登(とよさかのぼり)に、稱辭(たゝへこと)竟(を)へ奉(まつ)らくと宣る。
御年皇神等(ミトシノスメカミたち)の前に白さく、皇神等(すめかみたち)の依さし奉らむ奥つ御年(おきつみとし)を手肱(たなひじ)に水沫(みなわ)畫き垂り(かきたり)、向股(むかもゝ)に泥(ひぢり)畫き寄せて、取り作らむ奥つ御年(おきつみとし)を、八束穗(やつかほ)の伊加志穗(いかしほ)に、皇神等(すめかみたち)の寄さし奉らば、千穎八百穎(ちかひやほかひ)に奉(たてまつ)り置きて、𤭖(みか)閉高知(へのたかし)り、𤭖腹(みかのはら)滿て雙(なら)べて、汁(しる)にも穎(かひ)に稱辭(たゝへこと)竟(を)へ奉(まつ)らむ。・・・

御年皇神(ミトシノスメカミ):稲のことをすべ知らす神
奥つ御年:稲
𤭖閉高知り云々:米より酒をかもして澤山に供へ奉る



▼[祈年祭]「依さし奉る」に関する説明の箇所
  保田與重郎著『祝詞式概説』より抜粋

・・・この寄とか「依」(よさし)といふのは、「授」といふのとは異り、授くといふのは、主客の間で任を總て人に附け、それを附した上は己は與らぬのであるが、「依さす」の方は、主客の相違はどこまでもあつても、依す側も依された側もあくまで相離れぬのである。即ち農作のことは御年神(ミトシノカミ※)の神業ながら、公民を代らしめ、しかもその本意は神の為し給ふといふ意味になる。されば次の條に、農民の勤勞をのべて、天下公民が「手肱に水沫かき垂り、向股に泥かき寄せて」働くことも、神の「依」の上から解さねばならぬ。これはまことに誓ひの意である。しかし誓ひの眞意は「事依さし」に即して考へねばならぬ。かくの如く働くために皇神のめぐみもあるといふのではなくて「依さし」のゆゑにかくは働くのである。即ち働くことが「事依さし」である。この「事依さし」の眞意は、國の大典政道の上て重大なことである。わが國では大小のことみな「事依さし」給ふので「授け委ねる」といふことはない。さればこれを體することを、政治經済一切の根本として考へられねばならぬ。人力をつくせば神助があると思ふのは、この意味ではなほ人為のさかしらごとであつて、人力を盡すことが「事依さし」に仕へ奉るみちである。こゝの本末を顚倒してはならぬ。これも今の世の中で、深く思ひあたるところであらうし、我々の生き方を決定すべき教へともなることである。(中略) この「事依さし」の中で私心を介入させることが、幕府的なものの根據となるのである。

※御年皇神(ミトシノスメカミ):稲のことをすべ知らす神



▼思うこと
稲をはじめ野菜などの作物は人間が作って育てているようで、実は自然の恵み、天の恵み、目には見えない力の方がはるかに大きいです。もろもろの草木や動物、私たち人間にも自然の恵み、天の恵みが大きくはたらいているのですが、ともすると自分自身が傲慢に自立して生きているような感覚になってしまいます。

“「事依さし」に仕え奉るみち”の意味するところは、近代的な観念から理解しようとすると誤解されやすいと思います。例えば滅私奉公とか利他主義という考え方は、一か零か、甲でなければ乙であるというものの見方だからです。
私は未だ眞意がつかめたと言うことは出来ませんが、“「事依さし」に仕え奉るみち”とは、天の恵み(天つ神とそのみめぐみ)を感じ、それに応えようと生きる生き方なのかなと思います。


天津神 あはれみたまへ 盡しこし
まこともあだと 亂れゆく世を

 天忠組 十津川郷士 田中主馬藏

(まこともあだと亂れゆく世… 天忠組は幕末の尊皇攘夷派、勤皇の志士であったが八月十八日の政変でこころならずも逆賊とされる。討死した志士もいれば、捕らえられ斬首された志士、また自刃した志士も(野崎主計)。田中主馬藏は脱獄の後病歿、享年三十五。)
『古事記』「事依さし」の主な箇所

【おのごろしまの段】
こゝにかの天神(あまつかみ)もろもろの命(みこと)もちて、伊邪那岐命(イザナギノミコト) 伊邪那美命(イザナミノミコト)二柱神(ふたばしらのかみ)に、此(この)たゞよ(漂)へる國を、つくりかためなせとのりごちて、天のぬほこ(瓊矛)をたま(賜)ひて、事依(ことよさ)し給(たま)ひき、故(かれ)二柱神(ふたばしらのかみ)、天(あま)の浮橋(うきはし)にたゝして、そのぬほこ(瓊矛)をさしおろして、うきあぶら(浮脂)な(如)せるものをかき(畫)給へば、しほ(潮)こをろこをろにかきなして(畫成)、引上給ふ時に、其矛(そのほこ)のさき(鋒)より、したゞるしほ(潮)つも(積)りて、嶋(しま)となる、これおのごろしま(淤能碁呂嶋)なり、


【三柱のうづの御子御ことよさしのくだり】
此時(このとき)伊邪那岐命(イザナギノミコト)いたくよろこばして(大歡)、のりたまはく、あれ(吾)は御子(みこ)うみ(生)うみて、うみ(生)のはて(終)に、三柱(みばしら)のうづ(貴)の御子得たりとのりたまひて、すなはち其(その)御頸玉(みくびたま)の玉緒(たまのを)もゆら(瑲々)に、とりゆらかして、天照大御神(アマテラスオホミカミ)に賜(たま)ひて、のりたまはく、汝(な)が命(みこと)は、高天原(たかまのはら)をしらせ(所知)と、事(こと)よさ(依)して賜(たま)ひき、


【國むけ御はかりの段】
天照大御神(アマテラスオホミカミ)の命(みこと)もち(以)て、豐葦原(とよあしはら)の、千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穗國(みづほのくに)は、吾御子(あがみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコト)のしらさむ(所知)國と、事依(ことよさ)し給(たま)ひて、あまくだし(天降)給ひき、こゝに天忍穗耳命(アメノオシホミミノミコト)、天浮橋(あまのうきはし)にたゝしてのり給はく、豐葦原(とよあしはら)の、千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)のみづほの國は、いたく(甚)さやぎて(喧擾)ありけりとのりたまひて、さら(更)にかへり(還)のぼらして、天照大御神にまをし(請)給ひき、


【御孫命御あもりの段】
こゝに天照大御神(アマテラスオホミカミ) 高木神(タカギノカミ)の命(みこと)も(以)ちて、皇太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコト)に詔(のりたま)はく、今(いま)葦原中國(あしはらのなかつくに)ことむけ(言向)をへぬ(訖)とまをす、故(かれ)事依(ことよさ)し賜(たま)へりしまにまに、降(くだ)りま(坐)してしろしめせ(所知看)とのり給ひき、こゝに其(その)ひつぎの御子(みこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコト)のまをし給はく、あれ(吾)は降(くだ)りなむよそひ(装束)せしほど(間)に、御子あれまし(生坐)つ、御名は、天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝命(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)、此御子(このみこ)を降(くだ)すべしとまをし給ひき、(中略) 故こゝをもてまをし給ふまにまに、日子番能邇々藝命(ヒコホノニニギノミコト)に命(みこと)おほせて、此豐葦原水穗國は、みまし(汝)しらさむ(所知)國なりと、事依(ことよさ)したまふ、

上の『古事記』は『神代正語』より


▼要約

[おのごろしまの段]
天神(あまつかみ)が伊邪那岐命(イザナギノミコト) と伊邪那美命(イザナミノミコト)に、此(この)たゞよ(漂)へる國を、つくりかためなせと事依(ことよさ)し給(たま)ふ
〈天神→伊邪那岐命・伊邪那美命〉

[三柱のうづの御子御ことよさしのくだり]
伊邪那岐命(イザナギノミコト)が天照大御神(アマテラスオホミカミ)に汝(な)が命(みこと)は、高天原(たかまのはら)をしらせ(所知)と、事(こと)よさ(依)して賜(たま)ふ
〈伊邪那岐命→天照大御神〉

[國むけ御はかりの段]
天照大御神(アマテラスオホミカミ)が豐葦原(とよあしはら)の、千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穗國(みづほのくに)は、吾御子(あがみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコト)のしらさむ(所知)國と、事依(ことよさ)し給(たま)ふが、かへり(還)のぼらして、みづほの國は、いたく(甚)さやぎて(喧擾)ありけりと、天照大御神にまをし(請)給ふ
〈天照大御神→(正勝吾勝勝速日天忍穗耳命)〉

[御孫命御あもりの段]
天照大御神 高木神が、皇太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳命に事依(ことよさ)し賜(たま)へるが、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命は降りなむよそひ(装束)せしほど(間)に、御子、天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝命あれ(生)ます
(※天照大御神 高木神は、)この御子(天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝命)に此豐葦原水穗國は、みまし(汝)しらさむ(所知)國なりと、事依(ことよさ)したまふ
〈天照大御神・高木神→天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝命〉

※括弧内引用者注:内容からとらえると正勝吾勝勝速日天忍穗耳命ではなく天照大御神と高木神が事依したと考えるのが自然かと思います。

おのごろしまの段では、伊邪那岐命と伊邪那美命が瓊矛(ぬほこ)をさしおろして、浮脂(うきあぶら)如せるものを畫き給へています。
近代的視野からはこの二柱の神(伊邪那岐命と伊邪那美命)しか見えないけれど、神代では事依さしている天神(あまつかみ)の存在があります。この世界を心に描けることが大切なのだと思います。

つづく
世の中にはいろんな人がいる、いろんな考えの人がいる。

私は新型コロナウイルスの件で、このことをより一層痛感した。

“ひとつに情報源”

SNSの普及で情報源がマスメディア一辺倒ではないにせよ、ある程度正確な信憑性のある情報を入手出来る人とそうでない人がいる。

また、自分の得た情報を鵜呑みにする人とその情報に疑問を持ち自分なりに反問する人。

そして、特に今回は未知のことが多く正確な情報が少ない。故に正確な情報を探そうとして混乱してしまう人、独自に推論を立てる人、またその推論にこだわってあたかも本当のことのように思ってしまう人などもいる。

“その人の置かれている環境”

在宅勤務の出来る人と逆に日々コロナウイルスに接しなければならない人がいる。職場の環境も様々である。密接、密集、密閉、いわゆる3密の職場、それを改善している職場もあれば、改善しようにも出来ない職場もある。
会社の上層部は安全な在宅勤務で指示を出すが現場の人の心境は分からない。現場からすると自身が捨て駒、まるで使い捨て手袋のように思えるのだ。

会社が休業して休業手当てが出る人、自主欠勤する人、やむを得ず出勤する人、やむを得ず退社する人。

自営業の人も一括りには出来ない。通販に重きを置いているかなど業種によって環境が異なる。

また、金銭的に余裕のある人とそうでない人。

コロナウイルスを過剰に恐れてしまう人もいれば、さほど気にかけない人もいる。無症状でうつしてしまうことに責任を感じてしまう繊細な人もいれば、誰もがうつしかねないということを分からない人もいる。

子供のいる家庭、いない家庭、病人や高齢者を抱えている家庭、独り暮らし…。
それぞれコロナに罹患すると誰が面倒をみるのか、独りではなおさらのこと。急に高熱が出て対処できるかという不安がある。

ネットの世界では極論をいう人もいるし、自身の利益の為に風説を流布する人もいる。

緊急事態宣言が解除される。
第2波への医療体制は整ったのだろうか。

今までの政府の対応に、医療と経済のバランスや宣言を出すタイミングなど適切適宜といえるだろうか。

妄想家の私は考える。

ここまで杜撰な対応に何か大きな力が働いているのではないか。まったくの個人の直感だが緊急事態宣言が出されたのは在日米軍に緊急事態宣言が出された直後だったと記憶している。こういうと私もいい加減なことをいう輩と同じになってしまうから、言いたくないが、そうでなければ官僚のサボタージュか、ああでもないこうでもないと妄想家の詮索は尽きない。


ただ、私なりにたどり着いた結論は、自分が出来る限りのことをして、少しでも穏やかに暮らすということ。そして、後悔のないように自分で自分の行動を決めるということ。

長々とお読みいただきありがとうございました。
どうか皆さまお体にお気をつけください。
一日も早い新型コロナウイルスの終息(共存)を願って。

最後に、私の頭の混乱を緩和した山中教授のページを添付させていただきます。
「エビデンスの強さごとに見る情報分類」
https://www.covid19yamanaka.com/cont7/main.html
昨日は金剛山にうっすらと雪がかぶりました。その昔は金剛山と呼ばずに葛城山といったそうです。葛城の連なる山々、金剛山も含めて葛城山と呼んでいたのです。

たまきはる 宇智の大野に 馬並めて
朝踏ますらむ その草深野
中皇命 (巻一の四) 

宇智(うち)の場所は諸説あるらしいのですが、金剛山南東麓の旧宇智郡の丘陵地帯の山野であったとも考えられています。

その金剛山(葛城山)のふもとの草の原っぱを想像しながら、たまきはる・・と読むと、御魂が来ることを「たまきはる」というではないか、また、御魂が降りて来て晴れることではないかなどと空想してしまいます。

意味はわからない語義未詳とされる数々の枕詞。

意味はわからなくとも、枕詞の音の響きの美しさは誰しも感じられるのではないでしょうか。
ちなみにこの「たまきはる」はウチ・イノチの枕詞とのことです。

その意味の探求はひとまず置いておいて、言葉ひとつひとつに思いをめぐらすことで、その情景が眼に浮かぶ気がします。

たまきはる 宇智の大野に 馬並めて
朝踏ますらむ その草深野

前回は谷崎潤一郎著『新々訳 源氏物語』の序に感動したことを書きました。

序文というものは作者や編者の思いが端的に現れているものだなと思います。

今日はそのほかの序文をとりあげてみたいと思います。

ひとつは『古今和歌集』仮名序

「…たとひ時うつり ことさり、たのしび かなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはの ちりうせずして、まさきのかづら ながくつたはり、とりのあと ひさしくとどまれらば、うたのさまをもしり、ことの心をえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、いにしへをあふぎて いまをこひざらめかも。」

文意「…たとえ時勢が変遷してしまい、楽しみと悲しみとが反対に変ってしまうことがあろうとも、この歌が文字で書きとどめられ撰集となった以上、なくなることはあるまい。いつまでも絶えず、なくなってしまうこともなくて、永遠に伝わり、この文字で書いた撰集が末ながく残りとどまっているならば、歌の本質をわきまえ、撰集の事情を心得るであろう人は、大空の月を仰ぎ見るように、昔の『万葉集』を仰ぎながめ、今の『古今集』を慕わないことがあろうか、そんなことはけっしてない。」

「いにしへをあふぎて 今をこひざらめかも」と文末が反語の表現になっていますね。筆者の強い意志が伝わってきます。


次に『古事記』の序文の一段目ですが、こちらも文末が反語になっています。

「…歩驟各異(ほしうおのおのこと)に、文質同じからずと雖(いへど)も、古(いにしへ)を稽(かむが)へて風猷(ふういう)を既に頽(すた)れるに繩(ただ)し、今に照らして典経を絶えむとするに補はずといふこと莫(な)し。」

文意「…このように歴代天皇の政治には、それぞれ緩急の差があり、派手なものと地味なものとの違いはあるけれども、古代のことを明らかにして、風教道徳のすでに衰えているのを正し、現今の姿を顧みて、人道道徳の絶えようとするのに参考にならぬものはない。」

「参考にならぬものはない」、要するに「参考になるはずである」と強調していますね。

千年以上も昔の人たちが、そのまた昔を考えて、当時の世の中を顧みていたのかと思うと、わぁ、すごいなと驚くばかりです。

今年も残すところあと数日となり、なんとなく気ぜわしくなってきました。気ぜわしくはあるけれども、単に月日の数字が動くだけの感じがします。年が暮れる明けるとはいっても、初春という季節感を伴っていないからかもしれません。春の兆しが見えてこその初春、新年なのかなと思います。

『古今和歌集』の一番始めの歌。
前書きには「ふるとしに春たちける日よめる」とあります。

としのうちに 春はきにけり ひととせを
 こぞとやいはむ ことしとやいはむ

太陽暦に馴染んでいる私たちには、なかなかこの歌の意味や趣がわかりづらくなってしまいました。なんだか残念ですね。

私にとって令和元年は季節とともに生きる、自然とともに生きる、時代とともに生きる、そのようなことを考えたりしながら古典を繙き始めた年でした。新しい年も古典に親しむことで、この歌の趣がより心に響くようになればいいなと思います。

としのうちに 春はきにけり ひととせを
 こぞとはいはむ ことしとやいはむ


引用:『古今和歌集』講談社学術文庫 p.54~55
『古事記』講談社学術文庫 p.18~19