序文にみる作者・編者の思い | ひだまり 日常生活

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前回は谷崎潤一郎著『新々訳 源氏物語』の序に感動したことを書きました。

序文というものは作者や編者の思いが端的に現れているものだなと思います。

今日はそのほかの序文をとりあげてみたいと思います。

ひとつは『古今和歌集』仮名序

「…たとひ時うつり ことさり、たのしび かなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはの ちりうせずして、まさきのかづら ながくつたはり、とりのあと ひさしくとどまれらば、うたのさまをもしり、ことの心をえたらむ人は、おほぞらの月をみるがごとくに、いにしへをあふぎて いまをこひざらめかも。」

文意「…たとえ時勢が変遷してしまい、楽しみと悲しみとが反対に変ってしまうことがあろうとも、この歌が文字で書きとどめられ撰集となった以上、なくなることはあるまい。いつまでも絶えず、なくなってしまうこともなくて、永遠に伝わり、この文字で書いた撰集が末ながく残りとどまっているならば、歌の本質をわきまえ、撰集の事情を心得るであろう人は、大空の月を仰ぎ見るように、昔の『万葉集』を仰ぎながめ、今の『古今集』を慕わないことがあろうか、そんなことはけっしてない。」

「いにしへをあふぎて 今をこひざらめかも」と文末が反語の表現になっていますね。筆者の強い意志が伝わってきます。


次に『古事記』の序文の一段目ですが、こちらも文末が反語になっています。

「…歩驟各異(ほしうおのおのこと)に、文質同じからずと雖(いへど)も、古(いにしへ)を稽(かむが)へて風猷(ふういう)を既に頽(すた)れるに繩(ただ)し、今に照らして典経を絶えむとするに補はずといふこと莫(な)し。」

文意「…このように歴代天皇の政治には、それぞれ緩急の差があり、派手なものと地味なものとの違いはあるけれども、古代のことを明らかにして、風教道徳のすでに衰えているのを正し、現今の姿を顧みて、人道道徳の絶えようとするのに参考にならぬものはない。」

「参考にならぬものはない」、要するに「参考になるはずである」と強調していますね。

千年以上も昔の人たちが、そのまた昔を考えて、当時の世の中を顧みていたのかと思うと、わぁ、すごいなと驚くばかりです。

今年も残すところあと数日となり、なんとなく気ぜわしくなってきました。気ぜわしくはあるけれども、単に月日の数字が動くだけの感じがします。年が暮れる明けるとはいっても、初春という季節感を伴っていないからかもしれません。春の兆しが見えてこその初春、新年なのかなと思います。

『古今和歌集』の一番始めの歌。
前書きには「ふるとしに春たちける日よめる」とあります。

としのうちに 春はきにけり ひととせを
 こぞとやいはむ ことしとやいはむ

太陽暦に馴染んでいる私たちには、なかなかこの歌の意味や趣がわかりづらくなってしまいました。なんだか残念ですね。

私にとって令和元年は季節とともに生きる、自然とともに生きる、時代とともに生きる、そのようなことを考えたりしながら古典を繙き始めた年でした。新しい年も古典に親しむことで、この歌の趣がより心に響くようになればいいなと思います。

としのうちに 春はきにけり ひととせを
 こぞとはいはむ ことしとやいはむ


引用:『古今和歌集』講談社学術文庫 p.54~55
『古事記』講談社学術文庫 p.18~19