確かに知っている詩がある。
いつどこで知ったのか、どうしても思い出せない。
この詩を読んだときの感覚は鮮明に覚えているのだが…
春 〈パウル・バルシュ 上田敏訳〉
森は今、花さきみだれ
艶(えん)なりや、五月(さつき)たちける。
神よ、擁護(おうご)をたれたまへ、
あまりに幸(さち)のおほければ。
やがてぞ花は散りしぼみ、
艶(えん)なる時も過ぎにける。
神よ擁護(おうご)をたれたまへ、
あまりにつらき災(とが)な來(こ)そ。
『古事記』 志那都比古神(シナツヒコノカミ)
『日本書紀』 級長戸邊命(シナトベノミコト)または、級長津彦命(シナツヒコノミコト)
『延喜式 祝詞』
【龍田風神祭】: 天御柱命・國御柱命
比古神 ・ 比賣神
『龍田大社由緒略記』 天御柱大神・国御柱大神
(別名) 志那都比古神・志那都比売神
『大和名所図会』 延喜式 、天御柱命(アメノミハシラノミコト) 國御柱命(クニノミハシラノミコト)
日本紀、 級長戸邊命 級長津彦命
『古事記』(現代語訳)
次に風の神、名は志那都比古神を生み、次に木の神、名は久久能智神を生み、次に山の神、名は大山津見神を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神を生みき。
『日本書紀』(現代語訳)
「余の生んだ国は、朝霧だけ見えて、かおりに満ちているなあ」
と仰せられて、その息が神に化った。その神の名を級長戸邊命と申し上げる。または級長津彦命と申し上げる。これは風の神である。
(そのほか)
【六月晦大祓】: 科戸の風
『源氏物語』
「あな心う。その世の罪はみな科戸の風にたぐへてき。」
『萬葉集』 巻九-1748 高橋虫麻呂歌集
わが行は 七日は過ぎじ 竜田彦
ゆめ此の花を 風にな散らし
▼『日本書紀』の“級長戸邊命または、級長津彦命” この記述の疑問について
『神代紀髻華山蔭』
…女神とせるも、男神とせるも、又男女二神とせるも、おのおの一つの傳へなり、

『日本書紀』 級長戸邊命(シナトベノミコト)または、級長津彦命(シナツヒコノミコト)
『延喜式 祝詞』
【龍田風神祭】: 天御柱命・國御柱命
比古神 ・ 比賣神
『龍田大社由緒略記』 天御柱大神・国御柱大神
(別名) 志那都比古神・志那都比売神
『大和名所図会』 延喜式 、天御柱命(アメノミハシラノミコト) 國御柱命(クニノミハシラノミコト)
日本紀、 級長戸邊命 級長津彦命
『古事記』(現代語訳)
次に風の神、名は志那都比古神を生み、次に木の神、名は久久能智神を生み、次に山の神、名は大山津見神を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神を生みき。
『日本書紀』(現代語訳)
「余の生んだ国は、朝霧だけ見えて、かおりに満ちているなあ」
と仰せられて、その息が神に化った。その神の名を級長戸邊命と申し上げる。または級長津彦命と申し上げる。これは風の神である。
(そのほか)
【六月晦大祓】: 科戸の風
『源氏物語』
「あな心う。その世の罪はみな科戸の風にたぐへてき。」
『萬葉集』 巻九-1748 高橋虫麻呂歌集
わが行は 七日は過ぎじ 竜田彦
ゆめ此の花を 風にな散らし
▼『日本書紀』の“級長戸邊命または、級長津彦命” この記述の疑問について
『神代紀髻華山蔭』
…女神とせるも、男神とせるも、又男女二神とせるも、おのおの一つの傳へなり、

以前、就労支援の事業所に送迎車で通っていた頃、途中に大きな斎場があり、その斎場の前のバス停に「次は 忌部」と表示がありました。私はそこを通る度にこの忌部という地名に不思議な興味をおぼえました。
それから、好奇心の向くままに齋部廣成の書き記したものを読んだりするうちに、この「忌」という文字や「斎(齋)」という文字が、私の持っている感じと違うのではないか、私の認識が間違っているのではないかと思うようになりました。
そして、これとは別に以前から気になっていたことがあります。古事記に出てくる「伊豆能賣(いづのめ)」という神です。この神は禍(まが)を直す神が成るときに成る神なのですが、何故「伊豆」というのだろうと不思議でした。先日、そのわけがようやくわかりました。
「伊豆(イヅ)は、既に汚垢(ケガレ)を滌祓(ソソギハラヒ)て、明(アカ)く清まりたる意にて、明津(アキヅ)のつづまりたる言なり……(中略)……齋清浄(イハヒキヨメ)つる意を以て、伊豆とは云うなり、※」
「伊都久(イツク)伊波布(イハフ)伊牟(イム)なども、本は穢惡(キタナキ)を除去(ノゾキステ)て、清明(キヨク)する意なれば、皆此ノ伊豆より出たる言なり、〔後には伊都久は敬う方に、伊波布はことぶく方に、伊牟はきらふ方になりて、別(コト)意なるが如くなれど、本は皆一ツにて、古書には相通はしていへること多し、〕※」
嚴(イツク)、祝(イハフ)、忌・齋(イム)。これらの言葉の本はこの伊豆(イヅ)から来ていることがわかりました。これで私の持っていた「忌」という言葉の印象がすっかり変わりました。忌は後の世には嫌うという意味の使い方になったけれども、もとは穢惡を除き去って清明にする意味だったとは。
この水曜日に三輪の大神神社へお参りに行きました。展望台は染井吉野と垂れ桜が競いあって咲き乱れ濃淡美しく、この世のものとは思えない風景でした。そして、狭井神社への途中、市杵島姫神社の池のほとりには三島由紀夫の「清明」の石碑がひっそりと鎮座していました。
※『古事記傳』より抜粋

追記
現在私は以前とは別の事業所に電車で通っています。そこでは、重い自閉症の人たちも一緒に作業しています。みなさん楽しく過ごしていて私もいつしか楽しい気分に。ある人がいつも「アケルン、アケルン」と独り言を言います。「アケルン♪、アケルン♪」「チョコレートかもしれない!ビスケットかもしれない!」
それから、好奇心の向くままに齋部廣成の書き記したものを読んだりするうちに、この「忌」という文字や「斎(齋)」という文字が、私の持っている感じと違うのではないか、私の認識が間違っているのではないかと思うようになりました。
そして、これとは別に以前から気になっていたことがあります。古事記に出てくる「伊豆能賣(いづのめ)」という神です。この神は禍(まが)を直す神が成るときに成る神なのですが、何故「伊豆」というのだろうと不思議でした。先日、そのわけがようやくわかりました。
「伊豆(イヅ)は、既に汚垢(ケガレ)を滌祓(ソソギハラヒ)て、明(アカ)く清まりたる意にて、明津(アキヅ)のつづまりたる言なり……(中略)……齋清浄(イハヒキヨメ)つる意を以て、伊豆とは云うなり、※」
「伊都久(イツク)伊波布(イハフ)伊牟(イム)なども、本は穢惡(キタナキ)を除去(ノゾキステ)て、清明(キヨク)する意なれば、皆此ノ伊豆より出たる言なり、〔後には伊都久は敬う方に、伊波布はことぶく方に、伊牟はきらふ方になりて、別(コト)意なるが如くなれど、本は皆一ツにて、古書には相通はしていへること多し、〕※」
嚴(イツク)、祝(イハフ)、忌・齋(イム)。これらの言葉の本はこの伊豆(イヅ)から来ていることがわかりました。これで私の持っていた「忌」という言葉の印象がすっかり変わりました。忌は後の世には嫌うという意味の使い方になったけれども、もとは穢惡を除き去って清明にする意味だったとは。
この水曜日に三輪の大神神社へお参りに行きました。展望台は染井吉野と垂れ桜が競いあって咲き乱れ濃淡美しく、この世のものとは思えない風景でした。そして、狭井神社への途中、市杵島姫神社の池のほとりには三島由紀夫の「清明」の石碑がひっそりと鎮座していました。
※『古事記傳』より抜粋

追記
現在私は以前とは別の事業所に電車で通っています。そこでは、重い自閉症の人たちも一緒に作業しています。みなさん楽しく過ごしていて私もいつしか楽しい気分に。ある人がいつも「アケルン、アケルン」と独り言を言います。「アケルン♪、アケルン♪」「チョコレートかもしれない!ビスケットかもしれない!」
この頃少し寒さも和らいできたので、近くの遺跡を訪ねて歩いています。
薬師寺、唐招提寺、岡寺、蘇我馬子の墓(石舞台古墳)など。
古に心を寄せる気持ちで行ったつもりが、いつしかその場の雰囲気にのまれて、古物を玩弄するような眼、観光スポットを見る好奇の眼になってしまい、それを払拭しようにも、どうにも難しく、現代人だものと半ばあきらめてぶらぶらと歩きました。
唐招提寺では奈良時代に造られた国宝の鑑真和上坐像が六月の特別な日にしか拝むことが出来ないとのことで、精巧に造られた御影像(身代り像)を拝観しました。ですが、どうしても教科書で見た眼になってしまいます。それは鑑真和上を拝むという心から遠くかけ離れた客観的な学術的な眼なのです。そこへ、「いわゆる影武者やな」と言って一瞥して次を急ぐ人がいましたから、何かたまらなく虚しくなりました。
薬師寺は東塔だけが兵火から逃れ古をそのまま伝えています。ですから伽藍のほとんどが復元なのです。あの鮮やかな色彩は復元以外何物でもない。けれども、復元とはわかっていても、その伽藍の中の広い空間にいると心が安らぐ穏やかな気持ちになるのは一体どういう訳でしょう。
これこそ情緒だ、我々が昔から心の底に持つものだと、咲き始めた梅の花を眺め空想に耽っていると、よくぞ東塔だけでも残ってくれた、よくぞ復元してくれたという気持ちがわいてきたのです。
先日訪れた蘇我馬子の墓(石舞台古墳)は、もうすっかり観光地になってしまいました。お堀を復元したにもかかわらず、かえって古から遠ざかってしまった気がするから不思議です。薬師寺は復元で蘇ったような気がした一方、石舞台は復元したことが想像力をかきけしてしまうのです。ただ、古墳の向こうの低い山の生活の営みが何とも穏やかに見えました。そして石舞台公園の片隅に咲いていた梅の花が公園で遊ぶ人々を遠くから見守っているような、早春の訪れを告げていて、そこだけが色彩のあるような、そんな気がしました。

薬師寺、唐招提寺、岡寺、蘇我馬子の墓(石舞台古墳)など。
古に心を寄せる気持ちで行ったつもりが、いつしかその場の雰囲気にのまれて、古物を玩弄するような眼、観光スポットを見る好奇の眼になってしまい、それを払拭しようにも、どうにも難しく、現代人だものと半ばあきらめてぶらぶらと歩きました。
唐招提寺では奈良時代に造られた国宝の鑑真和上坐像が六月の特別な日にしか拝むことが出来ないとのことで、精巧に造られた御影像(身代り像)を拝観しました。ですが、どうしても教科書で見た眼になってしまいます。それは鑑真和上を拝むという心から遠くかけ離れた客観的な学術的な眼なのです。そこへ、「いわゆる影武者やな」と言って一瞥して次を急ぐ人がいましたから、何かたまらなく虚しくなりました。
薬師寺は東塔だけが兵火から逃れ古をそのまま伝えています。ですから伽藍のほとんどが復元なのです。あの鮮やかな色彩は復元以外何物でもない。けれども、復元とはわかっていても、その伽藍の中の広い空間にいると心が安らぐ穏やかな気持ちになるのは一体どういう訳でしょう。
これこそ情緒だ、我々が昔から心の底に持つものだと、咲き始めた梅の花を眺め空想に耽っていると、よくぞ東塔だけでも残ってくれた、よくぞ復元してくれたという気持ちがわいてきたのです。
先日訪れた蘇我馬子の墓(石舞台古墳)は、もうすっかり観光地になってしまいました。お堀を復元したにもかかわらず、かえって古から遠ざかってしまった気がするから不思議です。薬師寺は復元で蘇ったような気がした一方、石舞台は復元したことが想像力をかきけしてしまうのです。ただ、古墳の向こうの低い山の生活の営みが何とも穏やかに見えました。そして石舞台公園の片隅に咲いていた梅の花が公園で遊ぶ人々を遠くから見守っているような、早春の訪れを告げていて、そこだけが色彩のあるような、そんな気がしました。

萬葉集と小倉百人一首の始めと終わりの歌をみると、どうしても「時代」というものの始まりと終わりを感じます。
萬葉集の巻一は「籠もよ み籠持ち ふくしもよ・・・」雄略天皇の御製で幕開けします。舞台は早春の丘で、なんとも初々しい雰囲気です。
また、小倉百人一首の一番は「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」 天智天皇の御製(もともとは詠み人しらずの歌)で季節は秋ですが、稲を収穫し安堵した気持ちが伝わってきます。
どちらも穏やかな心が表現されています。
それとは対照的に最後の歌は、萬葉集、小倉百人一首共になんとも悲しげな嘆きに聞こえます。
〈萬葉集 巻二十 四五十六番〉
新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
大伴家持の歌で、字面だけみれば初春の雪、雪は豊年のしるしでおめでたいようではありますが、その心境はどうか良い事があって欲しいという切なる思い、祈るような心が滲んでいます。
小倉百人一首は最後の百番とその前の九十九番です。
〈九十九番 後鳥羽院〉
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は
〈百番 順徳院〉
百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
後鳥羽院は第82代、順徳院は第84代の天皇で承久の乱に敗れ、後鳥羽院は隠岐島に順徳院は佐渡島に配流せられました。私がいうまでもなく、これらの歌には二人の悲哀が溢れ出しています。
今のこの時期にひとつの時代が終わったこと、時代の終焉を感じているのは私だけではないでしょう。
どうか新しい年には吉事が積もって欲しいと願って、今年最後のブログにしたいと思います。

新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
右の一首は、守大伴宿祢家持の作りしものなり。
萬葉集巻二十 四五十六
※画像は令和二年万葉文化館のカレンダー11・12月「大原の雪」です。
萬葉集の巻一は「籠もよ み籠持ち ふくしもよ・・・」雄略天皇の御製で幕開けします。舞台は早春の丘で、なんとも初々しい雰囲気です。
また、小倉百人一首の一番は「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」 天智天皇の御製(もともとは詠み人しらずの歌)で季節は秋ですが、稲を収穫し安堵した気持ちが伝わってきます。
どちらも穏やかな心が表現されています。
それとは対照的に最後の歌は、萬葉集、小倉百人一首共になんとも悲しげな嘆きに聞こえます。
〈萬葉集 巻二十 四五十六番〉
新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
大伴家持の歌で、字面だけみれば初春の雪、雪は豊年のしるしでおめでたいようではありますが、その心境はどうか良い事があって欲しいという切なる思い、祈るような心が滲んでいます。
小倉百人一首は最後の百番とその前の九十九番です。
〈九十九番 後鳥羽院〉
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は
〈百番 順徳院〉
百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
後鳥羽院は第82代、順徳院は第84代の天皇で承久の乱に敗れ、後鳥羽院は隠岐島に順徳院は佐渡島に配流せられました。私がいうまでもなく、これらの歌には二人の悲哀が溢れ出しています。
今のこの時期にひとつの時代が終わったこと、時代の終焉を感じているのは私だけではないでしょう。
どうか新しい年には吉事が積もって欲しいと願って、今年最後のブログにしたいと思います。

新(あらた)しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)
右の一首は、守大伴宿祢家持の作りしものなり。
萬葉集巻二十 四五十六
※画像は令和二年万葉文化館のカレンダー11・12月「大原の雪」です。