清明の日に(4月4日) | ひだまり 日常生活

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日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

以前、就労支援の事業所に送迎車で通っていた頃、途中に大きな斎場があり、その斎場の前のバス停に「次は 忌部」と表示がありました。私はそこを通る度にこの忌部という地名に不思議な興味をおぼえました。

それから、好奇心の向くままに齋部廣成の書き記したものを読んだりするうちに、この「忌」という文字や「斎(齋)」という文字が、私の持っている感じと違うのではないか、私の認識が間違っているのではないかと思うようになりました。

そして、これとは別に以前から気になっていたことがあります。古事記に出てくる「伊豆能賣(いづのめ)」という神です。この神は禍(まが)を直す神が成るときに成る神なのですが、何故「伊豆」というのだろうと不思議でした。先日、そのわけがようやくわかりました。

「伊豆(イヅ)は、既に汚垢(ケガレ)を滌祓(ソソギハラヒ)て、明(アカ)く清まりたる意にて、明津(アキヅ)のつづまりたる言なり……(中略)……齋清浄(イハヒキヨメ)つる意を以て、伊豆とは云うなり、※」

「伊都久(イツク)伊波布(イハフ)伊牟(イム)なども、本は穢惡(キタナキ)を除去(ノゾキステ)て、清明(キヨク)する意なれば、皆此ノ伊豆より出たる言なり、〔後には伊都久は敬う方に、伊波布はことぶく方に、伊牟はきらふ方になりて、別(コト)意なるが如くなれど、本は皆一ツにて、古書には相通はしていへること多し、〕※」

嚴(イツク)、祝(イハフ)、忌・齋(イム)。これらの言葉の本はこの伊豆(イヅ)から来ていることがわかりました。これで私の持っていた「忌」という言葉の印象がすっかり変わりました。忌は後の世には嫌うという意味の使い方になったけれども、もとは穢惡を除き去って清明にする意味だったとは。

この水曜日に三輪の大神神社へお参りに行きました。展望台は染井吉野と垂れ桜が競いあって咲き乱れ濃淡美しく、この世のものとは思えない風景でした。そして、狭井神社への途中、市杵島姫神社の池のほとりには三島由紀夫の「清明」の石碑がひっそりと鎮座していました。

 ※『古事記傳』より抜粋



追記
現在私は以前とは別の事業所に電車で通っています。そこでは、重い自閉症の人たちも一緒に作業しています。みなさん楽しく過ごしていて私もいつしか楽しい気分に。ある人がいつも「アケルン、アケルン」と独り言を言います。「アケルン♪、アケルン♪」「チョコレートかもしれない!ビスケットかもしれない!」