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ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

大津皇子

五言。臨終。一絶。
金烏臨西舎。鼓聲催短命。
泉路無賓主。此夕離家向。


金烏西舎に臨らひ、鼓聲短命を催す。
泉路賓主無し、此の夕家を離りて向かふ。


前回のブログでとりあげた『懐風藻』(かいふうそう)大津皇子の辞世の漢詩には類句があるそうです。

※下の類句は日本古典文学大系補注より


▽五代の後周の人、江為の臨刑詩

衙鼓侵人急 西傾日欲斜 黄泉無旅店 今夜宿誰家


▽明人金聖嘆の作と称する臨刑詩

衙鼓丁東急 西山日又斜 黄泉無客舎 今夜宿誰家


これらの類句を手本として作られたかは定かではありませんが、当時、漢字や漢詩が入ってきたばかりの状況を考えると、どの漢詩も何らかのものを見て真似たり影響されたりして作られたことが推察出来ます。『懐風藻』には当時の人たちが漢字や漢詩と格闘した痕跡があるのではないかと思います。

つぬさはふ いはれのいけに なくかもを
けふのみみてや くもがくりなむ

百傳ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日より見てや 雲隠りなむ

萬葉集 巻三-416

※「百傳ふ」は枕詞で「つぬさはふ」あるいは「ももつたふ」とも訓まれます。

注には、「大津皇子の、死されし時に、磐余の池の陂(つつみ)に流涕して御作りたまひし歌一首」とあり、時は藤原宮の朱鳥(あかみとり)元年の冬十月、大津皇子は謀反の嫌疑により死を賜りました。




『懐風藻』(かいふうそう)に大津皇子の辞世の漢詩が残されています。


五言。臨終。一絶。
金烏臨西舎。鼓聲催短命。
泉路無賓主。此夕離家向。


金烏西舎に臨らひ、鼓聲短命を催す。
泉路賓主無し、此の夕家を離りて向かふ。

きんうせいしゃにてらひ、こせいたんめいをうながす。
せんろひんしゅなし、このゆふへいえをさかりてむかふ。


金烏は太陽のことで、西舎を建物と考えるなら太陽の光は西の家屋を照らしていると思われます。もしくは、太陽が沈む光景をこのように表現しているのかもしれません。鼓の音は短命を更にせきたてるようだと。泉路は黄泉への路、死へ向かう路。


萬葉集の歌と懐風藻の漢詩では同じ人物が同じ時に詠んだにもかかわらず、心の有り様がかなり異なるように感じます。萬葉集では率直にこの世を去るのは寂しく悔いが残るという感情が伝わってきます。一方、懐風藻では寂しさの中にどこかしら毅然として死を前に腹をくくった覚悟が感じられるのです。これは私の個人的な主観ですが。

懐風藻の成立は天平勝宝三年としるされています。伝わってきたばかりの漢字や漢詩。漢詩はどうしても表向きの雄々しい表現になってしまったのではないでしょうか。慣れない詩、詞の形態に当時の人たちはどのようにその気持ちを現そうとしたのでしょう。

この漢詩をよんだあと再び磐余の池の歌をよむと、私は今まで以上一層心に迫ってくるものがあるのです。


つぬさはふ いはれのいけに なくかもを
けふのみみてや くもがくりなむ


今月の初め、雨上がりの朝に青垣の山を眺めていると低い山に雲がかかっていました。珍しいなあ、こんなに低い山に雲がたなびくこともあるのかと不思議に思いました。
この辺りは六月十日頃が田植えの時期で、今はちょうど方々の水田に水がはられ苗が植えられたばかりです。おそらくその雲は田畑や草木の水分が蒸発し、様々な気象条件が重なって出来るのでしょう。雲はふわふわとしてまるで繭をほぐした綿のようでした。

現在私は通っている施設で蚕を育てています。蚕はお蚕さんと呼ばれて大切に扱われています。芥子粒ほどの小さな卵から何度も脱皮をして今は半数近く繭になってきました。桑の葉を採りに行ったり、その葉を拭いてお蚕さんにあげたり糞の掃除をしたりと大忙しです。また、昨年の繭を紙漉きして絹の紙を作ったり、職員さんが繭から作った真綿を見たりしているので、低い雲を見るとすぐに繭や真綿を連想したのだと思います。

はるすぎて なつきたるらし しろたへの
ころもほしたる あめのかぐやま

(巻一-28)

この衣は諸人が干している衣というのが通説かもしれませんが、私は絹の神衣(かむみそ)ではないかと想像しました。神衣とは天照大御神に奉る衣服で、実際に干されていたかはわかりませんが持統天皇が天香具山の雲を御覧になり、絹の神衣のようだと感じられたかもしれないと思ったのです。

ここで古代の布について整理してみたいと思います。
○荒妙(あらたへ)・和妙(にきたへ・にぎたへ)
荒妙とは麻を原料にして作られた布。緑または青みがかっている。
和妙とは栲(たく)や穀(かぢ)など楮(こうぞ)類から作られた白く柔らかい布。または柔らかい布の総称で絹布も含む。
▽木綿(ゆふ)は楮から作る繊維。
※穀(かぢ)と楮(こうぞ)は木は別だが文字は通用。
○文布(しつ)=倭文(しつ)は麻や楮などの繊維で織った布。紋様が出来るので「文」の字を用いる。日本古来のもの。
○絹は秦氏(はだうぢ)と関係が深く、秦の名は秦氏が貢れる絹・綿が肌膚に軟らかであるから秦の字を波陀(はだ)と謂うと、『古語拾遺』にある。

以上のことを考え合わせると、白妙は絹の可能性もありますが、栲や穀から作る和衣(にきたへ・にぎたへ)、木綿(ゆふ)から出来た布、もしくは日本古来の文布(しつ)、または特定の布ではなく漠然と白い布などいろいろな解釈が出来ます。私自身は絹かもしれないと考えるのですが、白妙がどのような布だったとしてもこの御製は土地を褒め称える国ぼめの歌だと思います。これから田植えをして稲が立派に育ちますようにと、持統天皇がお詠みになられたと思うのです。そして、それは遠い神代の天照大御神が天の岩屋戸からお出ましになられた場面とも重なります。

「…天の香山の天のははかをとりて、うらへまかなはしめて、天の香山のいほつまさかきを、根こじにこじて、上枝に、やさかのまがたまの、いほつのみすまるの玉をとりつけ、中つ枝に、やたのかゞみをとりかけ、下枝に、しらにぎて青にぎてをとりしでて…」

『神代正語』(古事記)


いろいろ思いをめぐらすうちに白妙が何であったかというよりも、それを考えて古のこころに近づくことが大切なのかなと思いました。



はるすぎて なつきたるらし しろたへの
ころもほしたる あめのかぐやま
わが盛り またをちめやも ほとほとに
平城の都を 見ずかなりなむ

大伴旅人 (巻三-331)


前回のブログでは、大伴四縄の歌(藤波の花は盛りになりにけり…)に応えた歌として、大伴旅人の心情を考えました。今回は言葉の意味も踏まえてみていこうと思います。

この「わが盛りまたをちめやも」とは、私の元気盛んな頃がまた再び蘇ってくるだろうか、いや蘇ってこないだろう、という意味だそうです。そこには蘇ってほしいなという気持ちも滲んでいるように思います。
「おちめ」は「変若め」と書きます。
「ほとほとに」は、ほとんどという意味です。
では「わが盛り」は何を指すのでしょうか。
元気で若かった頃、人生の花が咲いていた頃、この時代を考えると旅人そして大伴氏が盛りだった頃ととらえることも出来ると思います。

そして、この「おちめやも」を使った歌が、一連の梅花の歌の後にあります。梅花の歌は大伴旅人がたくさんの人を招き宴を催して、それぞれが梅の花の歌を詠んだもので全部で三十二首あります。

「おちめやも」の歌は梅の花の歌三十二首と別枠に “員外の、故郷を思ひし歌両首” と題されて、詠んだ人の名は記されていませんが大伴旅人であろうと考えられています。


わが盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ
薬食むとも またをちめやも

(巻五ー847)


六十歳を過ぎ遠く九州へ赴いた旅人は着いてすぐに妻を亡くしました。この宴の二年ほど前のことです。おめでたいお正月の席ではその悲しい心情を表すことは出来なかったのでしょう。それで主人あるいは大伴旅人とはせずに、あえて員外の人としてその心情を残したのだと思われます。


また、その次には “後に梅の歌に追和せし四首” があります。下の歌はそのうちの一首です。


我がやどに 盛りに咲ける 梅の花
散るべくなりぬ 見る人もがも

(巻五ー851)

「見る人もがも」は、見てくれる人がいたらなあという意味です。見る人は旅人の亡くなった妻をさしていて、妻が生きていて見てくれればなあという旅人の気持ちだろうと思います。


元号の令和のもととなる梅の花の歌の美しい序文、その風雅を極めた華やかさの裏にこのときの大伴旅人の心のうちがここに残されているのではないでしょうか。


わがそのに うめのはなちる ひさかたの
あめよりゆきの ながれくるかも

あるじ

(巻五ー822)
藤波の 花は盛りに なりにけり
平城の都を 思ほすや君

ふじなみの はなはさかりに なりにけり
ならのみやこを おもほすやきみ

大伴四縄 (巻三-330)


この歌は藤の花咲く平城京のほのぼのとした美しい情景なのですが、この歌にこたえるように詠まれている大伴旅人の歌を考えると、この藤波は藤原氏を意味しているようにも解釈出来ます。






わが盛り またをちめやも ほとほとに
平城の都を 見ずかなりなむ

大伴旅人 (巻三-331)


わが命も 常にあらぬか 昔見し
象の小川を 行きて見むため

大伴旅人 (巻三-332)
※象の小川(きさのおがわ)


少し調べてみたのですが、そのようなことは書かれてなかったので、藤波を安易に藤原氏と結びつけてはよくないのかもしれません。


藤波の 影成す海の 底清み
沈く石をも 珠とそ我が見る

大伴家持 (巻十九-4199)


この大伴家持の歌はじつに美しく、本来余計な歴史的解釈など必要ないのかもしれませんが、仮にこの藤波が藤原氏だと想定するならば、今は藤原氏の影になって勢力の衰えている大伴氏(家持自身)だけれども、海(湖)の底にある石かもしれないが、それは尊く美しい玉である、私はそう見る、という家持の切なさと同時に強い誇りが感じられるのです。これはあくまでも個人的な解釈です。


ふじなみの かげなすうみの そこきよみ
しづくいしをも たまとそあがみる