つぬさはふ いはれのいけに なくかもを
けふのみみてや くもがくりなむ
百傳ふ 磐余の池に 鳴く鴨を
今日より見てや 雲隠りなむ
萬葉集 巻三-416
※「百傳ふ」は枕詞で「つぬさはふ」あるいは「ももつたふ」とも訓まれます。注には、「大津皇子の、死されし時に、磐余の池の陂(つつみ)に流涕して御作りたまひし歌一首」とあり、時は藤原宮の朱鳥(あかみとり)元年の冬十月、大津皇子は謀反の嫌疑により死を賜りました。

『懐風藻』(かいふうそう)に大津皇子の辞世の漢詩が残されています。
五言。臨終。一絶。
金烏臨西舎。鼓聲催短命。
泉路無賓主。此夕離家向。
金烏西舎に臨らひ、鼓聲短命を催す。
泉路賓主無し、此の夕家を離りて向かふ。
きんうせいしゃにてらひ、こせいたんめいをうながす。
せんろひんしゅなし、このゆふへいえをさかりてむかふ。
金烏は太陽のことで、西舎を建物と考えるなら太陽の光は西の家屋を照らしていると思われます。もしくは、太陽が沈む光景をこのように表現しているのかもしれません。鼓の音は短命を更にせきたてるようだと。泉路は黄泉への路、死へ向かう路。
萬葉集の歌と懐風藻の漢詩では同じ人物が同じ時に詠んだにもかかわらず、心の有り様がかなり異なるように感じます。萬葉集では率直にこの世を去るのは寂しく悔いが残るという感情が伝わってきます。一方、懐風藻では寂しさの中にどこかしら毅然として死を前に腹をくくった覚悟が感じられるのです。これは私の個人的な主観ですが。
懐風藻の成立は天平勝宝三年としるされています。伝わってきたばかりの漢字や漢詩。漢詩はどうしても表向きの雄々しい表現になってしまったのではないでしょうか。慣れない詩、詞の形態に当時の人たちはどのようにその気持ちを現そうとしたのでしょう。
この漢詩をよんだあと再び磐余の池の歌をよむと、私は今まで以上一層心に迫ってくるものがあるのです。
つぬさはふ いはれのいけに なくかもを
けふのみみてや くもがくりなむ
