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ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

数日前に本を読んでいて私もちょうど同じようようなことを考えていた箇所がありました。けれども今いくら探しても見当たりません。

その大意というのは、誤っていることがふたつあり、ひとつは(歴史を見ずに)今しか見ていないこと、もうひとつは観念についてだったような気がします。読んでいたのは「長谷寺」という保田與重郎が書いた評論ですが、『長谷寺/山ノ邊の道/京あない/奈良てびき』の中に収録された他の文章だったかもしれません。

以前この本を読んだ時には共感した所を書き出したり付箋したりしていましたが、今回全て取り外して覚書も付箋もせずに読んでいました。

改めて頁をめくってみて、この評論は保田與重郎の長谷信仰に関する“考へと思ひの断片集”ととらえた方がわかりやすいと思いました。話が一筋に展開するのではなく長谷信仰の周辺を色々と探るので度々内容が別の話になったりします。それ故見過ごした所がなかなかみつからないのかもしれません。

「…嚴密な國史でない私記日記の類は、歴史の史料としては、百中の一の眞實と考へるべきである。歴史の眞をいふ百分の一の眞實といふことは、今日の新聞紙などの報道と大差ないと思へばよい。…… 」p.41

近頃益々嘆かわしく思う、こういう大事なことが筆のついでのようにさらっと書かれています。私は評論や論考は読者が追憶・追想するものが優れたものだと思っています。読んでいるときには意味がよくわからなくても後から、そういえばあんなことが書いてあった、こんなことが書いてあったと自然と頭に浮かんで著者の意を悟る、そういうと偉そうでしょうか。


保田與重郎の「長谷寺」は寺や仏像の解説では毛頭ありません。このような一文があります。

「…私の立場で「長谷信仰」を解明することは、これ(大倭朝廷時代の大和の國と、人のくらしと思ひの歴史)もふくめた範圍の國の初めの物語である。それは貫之朝臣や清少納言、また菅公ゆかりの長谷寺の濫觴ものがたりである。私の長谷案内は長谷寺に藏する古美術品を列品記述するものでない。」p.45 ( )内引用者補筆

さらに、評論の中には「古寺巡礼」のようなみかた、平たく言えば寺や仏像を骨董品のようにみる価値観を厳しく批判した嘆きがいくつもあります。

「…そのころ例の和辻博士の「古寺巡禮」の観賞法を次々に批判したのも、その一つの營みだつたが、早くさういふことの徒勞を知り、今もこれについてあきらめに近いものを感じてゐる。」p.21

この一文にも悲愴で非常な危機感が現れています。

長くなりましたので最後にその原因となっていることを表現している重要な箇所を引用してまとめとしたいと思います。

「…わが國の藝術の學びでは、骨董的市場的關心と文明開化の海彼尊重心からの脱却が未だに行はれず、歴史の學びでは、政治偏向の邪道を知つて避けるといふことを知らない。この二つのことを指摘しておくのである。それを指摘し、それを知つて脱却せぬ限り、眞理の扉はひらかれぬからである。…」p.30

 ※括弧内『長谷寺/山ノ邊の道/京あない/奈良てびき』より 「長谷寺」昭和三十九年歳暮 著述 



















私が初めて新型コロナウイルスのことを知ったのは、あるA型就労支援の事業所に通っていた時のことでした。私と同じ送迎車に乗っていたMさんが私にスマートフォンを見せて、「これ大変やで!《お知らせ》にあるの!」と教えてくれました。その時、私はそんなに大袈裟なことかな、Mさんはいつも不安や心配事ばかり口にしているから過剰に心配しているんだ、その時点では私は新型インフルエンザと同等程度に思っていました。しかしやがてそれがMさんの言ったように大変な事になってしまいました。

感染者があちこちで確認され流行し始めた頃から、事業所の仕事が減ってきて、仕事のない待機の時間が増えました。「3密」を避けるという事を言われ出したのもこの頃だったと思います。にもかかわらず事業所の利用者は増え続け密接密集状態でした。

私は換気をするために目張りされていた窓を開けるようお願いしました。しかし、この窓は以前社長が閉め切りになるように目張りしたものだから開けることが出来ないと言われました。そして、職員さんは小さな換気扇のフィルターを見て「フィルターが汚れてるから換気は出来てるよ」私はがっかりしました。

事業所は運営の為か希望する利用者を職員として採用し、さらに利用者を増やす方向に進みました。精神疾患の利用者が職員になる、毎日がもめ事の連続でした。自明の理です。

朝礼でコロナ感染に注意を促す話が多くなりました。そして、ある日ワクチンを期待する職員さんの発言がありました。私は皆の前で発言などしたことがなかったのですが、この時初めて「インフルエンザウイルスはDNAが二重螺旋で構成されているけど、コロナウイルスは一重螺旋だからウイルスの変異が速く、ワクチンの開発は難しいって、ノーベル賞を受賞された、ほ、ほんじょ博士が仰ってましたっ」としどろもどろに言いました。一瞬その場が凍りついたようになりました。その頃既に世の中は治療薬よりワクチンありきで動いていたのかもしれません。それを言わずにはいられない私がいました。

それから密集密接状態は改善されず利用者が職員になりどんどん利用者が増える、もめ事の絶えないこの事業所をやめて他へ移る決意をしました。

通っていたA型事業所は送迎がありました。運転手さんは酸素ボンベを装着しないと生活ができない方で、送迎車の後ろに酸素ボンベがあり、たまにカタカタと揺れて後続車に追突されたらどうなるかといつも不安でした。ある日運転手さんはインフルエンザワクチンの後遺症で酸素ボンベをつけざるを得なくなった経緯を話してくださいました。私は何と言って返事すればよいか戸惑いました。私の数少ない友達に幼いの頃の予防接種が原因でC型肝炎を患っている人がいます。運転手さんもお友達もそうならなかったらどんな人生を送っていただろうと考えただけで涙があふれてきます。

就労支援事業所はそんなに数が多くないので通える所が限られています。私が見つけたのは自宅から2駅の所でA型B型併設でした。そこは広々とした空間で天井も高く密集にならない十分な空間があり、仕事も物作りの手仕事が中心で伝統産業と福祉との関わりの模索もされていて、私の考えと近かったので気に入りました。ただ、B型からはじめて少しずつ工賃が上がる制度が私には厳しかったです。説明が遅れましたがA型は最低賃金の時給が保証されていていますが、週に何時間と要件が定められています。一方B型は時間の制約がないのですが、お給料は工賃とされていて微々たるものです。

B型に移るとMさんに伝えた時、「そんなん生活やっていかれへん」と言われました。実はその時貯蓄も底をつきかけ逆に支払いがあったのですが、“毎日がもめ事で、補助金という金の卵を産むブロイラー”にはいられない(お世話になった所をこういう表現はしたくないのですが)と思い事業所を退所しました。新たな事業所は研修期間は時給60円だったので交通費にもなりません。しかし私の考えに近い内容なので充実感はありました。その後しばらくして200円になりA型を目指しましたが道のりは遠く、やはりMさんの言ったように「生活やっていかれへん」状態が続きました。

今もそうですが、その頃も情報が溢れかえって何が真実か判断が出来ない状況でした。ウイルスが確認され1年以上経過してもそれが生物科学兵器研究所から漏れ出したものなのか自然発生的に成った物かすら結論が出ていない。ある科学者が唱えていたエビデンス(科学的根拠からの確かさ)の高いもの順に情報を整理すると少しは頭が楽になりました。が、そのことを唱えていた当の科学者が何故か逆の結論との情報を目にしたり、ワクチン慎重派だったある医師が急に推進派になったりと、さっぱり訳が解らなくなりました。これはもう“判断に必要な根本の情報が信憑性に欠けるからだ”いうことに私の中で決着しました。そして行動は自分の考えと矛盾しても本意でなくとも、最悪を想定して行動するしかないと思いました。

例えばマスクは感染を防ぐものではないかもしれないけれど、高齢の母に感染させたくなかったから着用していました。同調圧力ではなく自分なりの結論でした。不織布は息苦しかったので薄手の布マスクを着用しました。意味がないと言われようがこれも私なりの結論でした。毎日洗うのが大変でした。感染が本格的になってくると布マスクも次第に少数派になり何か肩身の狭さを感じました。

新しい事業所に移りしばらくしてワクチン接種なるものが開始されました。日に日に事業所で接種する人が増えてきました。自分から接種したことを私に話す人が幾人もおりました。「38℃熱が出た、しんどかった」「こんなに頭が痛かったの生まれ初めて」という人に向かってワクチンの疑義を話すことは出来ませんでした。接種した人は数日休むので次第にあの人もこの人も情報精査能力(リテラシー)の高いと思われた人も。人それぞれ事情がある、おかれた環境もある、個人の判断とはいえ、その事情や環境も判断の要因となり、そして最終的個人の判断となる。何とも一概に是は是、非は非とならないものだと思いました。

ある時職員さん同士がA社のものかB社のものがよいか議論されていて、私は「そのB社はmRNAの薬の開発目的で創設されてたかだか10年、論文も公表していない会社ですよ」とはとても言えませんでした。こんな状況下でも私達障がい者を支援して働いてくださっている立場の方に一利用者である私がそのようなことを言ってはならない気がしました。そしてもう情報そのものに不信感が高まり、なるべく最低限の情報しか見ないようにしようと努めました。私が得た情報に信憑性がないのだから意見はしないよう努めました。


数人から「接種した?」と直接的な言葉で聞かれました。私はその都度返答に苦慮しました。するつもりがないのに「まだ」とつい言ってしまったこともありました。私は十分な治験が行われていないことなど疑問点を10やそこらは挙げることが出来たかもしれません。けれどあえて議論を避けました。それは私に勇気がないからか、人間関係に軋轢が生じて居づらくなるのが嫌という保身からなのか、もしくは私の言葉が影響してその人が接種をせずに罹患したらどうしようという恐れからなのか、今もわかりません。


そして、とうとうある職員さんが接種の次の日から何ヵ月も休むという事態が起こりました。


私は何とも言葉が出てきません。



繰り返しになりますが、人それぞれおかれている環境も違えば事情もさまざまです。そこに知る情報が異なれば自ずから考えや結論も違ってくるのではないのでしょうか。

回想してみると私は自分の判断が正しいかどうかということではなく、この3年余り自分の環境下なりに最悪を避けてきたように思います。結果はどうあれ、そういう生き方をしてきたのだと。







おわり




萬葉集の巻二十に大伴家持が詠んだ桜の歌があります。

天平勝寶六年に兵部少輔となった家持は翌天平勝寶七年に防人に関する任務にあたる為、難波に赴任します。
当時は聖武天皇が譲位され聖武上皇となられて孝謙天皇の時代でした。先の聖武天皇は平城京から恭仁宮、難波宮、紫香楽宮、再び平城京と遷都を繰返されました。

これは家持がその難波の宮を讃えて詠んだ歌です。


桜花 今さかりなり 難波の海
おしてる宮に 聞こしめすなへ

(巻二十 4361)

日付は天平勝寶七年二月十三日で今の太陽暦では四月三日頃にあたります。





そしてその四日後に奈良の都から難波へ来た途中の竜田山を回想して詠んでいます。


_ 独り竜田山の桜の花を惜しみし歌一首

竜田山 見つつ越え来し 桜花
散りか過ぎなむ 我が帰るとに

(巻二十 4395)

二月十七日は太陽暦の四月七日ごろで、ちょうど今日がこの日にあたります。




それからおよそ二週間後の三月三日(四月二十二日)


含(ふふ)めりし 花の初めに 来(こ)し我や
散りなむ後(のち)に 都へ行かむ

(巻二十 4435)

※「含めりし花…」まだつぼみだった花


かつての聖武天皇の難波宮を満開の桜と共に讃え、都から越えて来た竜田山の桜花を惜しみ、花が散った後の都へ帰る未来を想う。この三首をみると桜は当時も今もまさに時の流れを感じさせる花なのだなあと思います。

兵部少輔という役職であった大伴家持は彼自身が無事で都へ帰ることと同時に防人たちも無事に故郷へ帰ることを祈っていたに違いありません。
「…此道は、古事記書紀の二典(フタミフミ)に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうへに備はれたり、…(中略)… 二典の事跡に、道の具備(ソナ)はれることも、道の大むねも、大抵に合点ゆくべし…」
『うひ山ぶみ』より

長い間 “事跡のうへに備はれたり” という言葉の意味がよくわからなくてずっと気になっていました。“道の大むね”もはっきりとわかりませんでした。

それが先日、祈年祭(としごひのまつり)で御神楽の奉納を拝見した後に、この事だと確信しました。

巫女さんたちの舞。それは神代の手振りで、眺めているとただただ心穏やかに楽しくなります。そこには何の理屈もありません。古事記に記されている出来事も理屈なく次から次へと起っていきます。もろもろの神々が生まれ御代御代が継がれていく。うまく説明出来ませんが、まさに事跡の上なのだと思いました。

「…神代より伝へ来しまゝにして、いさゝかも人のさかしらを加へざる故に、うはべはたゞ浅々と聞ゆれども、実(マコト)には※そこひもなく、人の智(サトリ)の得測度(エハカラ)ぬ、深き妙(タヘ)なる理のこもれるを、…」
※底ひ。深さのきわみ。
『直毘霊(ナホビノミタマ)』より


天地(あめつち)の初めより今の現(うつつ)までこの道があると思った瞬間、深い感動とともに自分の中に一本の細い線が通ったように感じました。


ヨノナカハ ヨゴトマガコト ユキカハル ナカヨゾチヂノ コトハナリヅル
(世の中は 善事禍事 行きかわる 中よぞ千々の 事は成りづる)
『玉鉾百首』



先日奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半)で類例のない盾形銅鏡と蛇行(だこう)剣が発見されました。〔1/25発表〕

“被葬者は中心埋葬者支えた大豪族か長髄彦伝承の原像?”との奈良新聞デジタルの表題もあり、やはり発掘地域から古事記や日本書紀に登場する長髄彦(登美毘古)を想起させられます。

県内に住み古典に親しみたいと思っている私としては、あまり掘り起こしてほしくないというのが本音ですが、最低限ならば、それが私たちの公な自信に繋がるのであればやむを得ない所もあるかと思います。事実今回はこの時代にこれ程の高い技術と芸術性を持っていたことが明らかになったのですから。




ところで、長髄彦(登美毘古)が登場する時代は古事記・日本書紀共に神武天皇の東征の頃になります。神武天皇は西から進行して、ちょうど現在の大阪から奈良に入ろうとしたときに長髄彦(登美毘古)と戦い苦戦を強いられた為、南の紀国(きのくに)の方から入られました。

このところは古事記日本書紀とほぼ同じ内容なのですが、大きく内容の異なるところがあります。それは、「邇芸速日命(にぎはやひのみこと)」(書紀では櫛玉饒速日命と表記)の記述です。

日本書紀では櫛玉饒速日命は天の磐船に乗って天降った事等を詳細に記されています。一方古事記ではかなり簡略化されていて、現代の私たちが読むとよく理解出来ない文章で一読では誤解してしまうようなものです。以下に引用します。

「かれ、ここに邇芸速日命(にぎはやひのみこと)参赴(まゐおもむ)きて、天つ神の御子に白(まを)さく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひて参降り来つ」とまをして、即ち天つ瑞(しるし)を献りて仕へ奉りき。かれ、邇芸速日命、登美毘古が妹登美夜毘売(いもとみやびめ)を娶(めと)して生みし子、宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)。こは物部連(もののべのむらじ)・穂積臣(ほづみのおみ)・婇臣(うねのおみ)の祖(おや)なり。……」『古事記』より

この記述の文頭の方の“天つ神の御子”は神武天皇をさして、台詞の“天つ神の御子”は邇邇芸命(ににぎのみこと)をさしているとのことです。これは文庫本の解説にも書かれてなかったので国立国会図書館のデジタルコレクション『古事記伝』 (巻十九 五十七~)で調べました。よく考えてみれば天降りされたのは邇邇芸命で古事記の内容を知っていて文章を注意深く読めば自ずと推察できるのかもしれませんが、私にはわかりませんでした。双方とも神武天皇のことと読んでしまいました。

では何故日本書紀には櫛玉饒速日命=邇芸速日命(にぎはやひのみこと)のことが詳しく記されていて、古事記には簡略化されているのでしょうか。

ここからは全く私の憶測ですが、日本書紀は物部の祖が天から降ったことをしっかりと記す必要性があったのではないかと思います。日本書紀は他の国の人も読むことを想定して書かれたならば、武(武器)を掌握するのは天から降った神であることを強調したかったのではないかと思います。
そして古事記ではそれは既に了知されていることだから詳しく書く必要性がなかったのかもしれません。当時の人はこの短い文章でこと足りたのでしょう。

古典は現代の私たちが読むとよくわからないことが多いのですが、当時の人ならその時代に生きていたのですから、文章が短くても省略されていても理解できたのだと思います。

古の人は私たちの想像以上に考えて考えて古事記も日本書紀も書かれたのではないでしょうか。

私は心の何処かに何かしら自信のなさがあります。
それは古典を学んで来なかったからかもしれません。
ネットでことさら日本を卑下したり悲観したり、また逆に讚美したりするのを散見します。私の何処かわからない自信のなさもこれらと根は同じかもしれません。古の人が如何に優れていたかということを知ることでこの自信のなさを快復出来るのではないかと思い、拙いながら古典を読み考えています。

※写真は奈良新聞デジタルよりお借りしました。