コロナ騒動下で (私の人生回想録) | ひだまり 日常生活

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日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

私が初めて新型コロナウイルスのことを知ったのは、あるA型就労支援の事業所に通っていた時のことでした。私と同じ送迎車に乗っていたMさんが私にスマートフォンを見せて、「これ大変やで!《お知らせ》にあるの!」と教えてくれました。その時、私はそんなに大袈裟なことかな、Mさんはいつも不安や心配事ばかり口にしているから過剰に心配しているんだ、その時点では私は新型インフルエンザと同等程度に思っていました。しかしやがてそれがMさんの言ったように大変な事になってしまいました。

感染者があちこちで確認され流行し始めた頃から、事業所の仕事が減ってきて、仕事のない待機の時間が増えました。「3密」を避けるという事を言われ出したのもこの頃だったと思います。にもかかわらず事業所の利用者は増え続け密接密集状態でした。

私は換気をするために目張りされていた窓を開けるようお願いしました。しかし、この窓は以前社長が閉め切りになるように目張りしたものだから開けることが出来ないと言われました。そして、職員さんは小さな換気扇のフィルターを見て「フィルターが汚れてるから換気は出来てるよ」私はがっかりしました。

事業所は運営の為か希望する利用者を職員として採用し、さらに利用者を増やす方向に進みました。精神疾患の利用者が職員になる、毎日がもめ事の連続でした。自明の理です。

朝礼でコロナ感染に注意を促す話が多くなりました。そして、ある日ワクチンを期待する職員さんの発言がありました。私は皆の前で発言などしたことがなかったのですが、この時初めて「インフルエンザウイルスはDNAが二重螺旋で構成されているけど、コロナウイルスは一重螺旋だからウイルスの変異が速く、ワクチンの開発は難しいって、ノーベル賞を受賞された、ほ、ほんじょ博士が仰ってましたっ」としどろもどろに言いました。一瞬その場が凍りついたようになりました。その頃既に世の中は治療薬よりワクチンありきで動いていたのかもしれません。それを言わずにはいられない私がいました。

それから密集密接状態は改善されず利用者が職員になりどんどん利用者が増える、もめ事の絶えないこの事業所をやめて他へ移る決意をしました。

通っていたA型事業所は送迎がありました。運転手さんは酸素ボンベを装着しないと生活ができない方で、送迎車の後ろに酸素ボンベがあり、たまにカタカタと揺れて後続車に追突されたらどうなるかといつも不安でした。ある日運転手さんはインフルエンザワクチンの後遺症で酸素ボンベをつけざるを得なくなった経緯を話してくださいました。私は何と言って返事すればよいか戸惑いました。私の数少ない友達に幼いの頃の予防接種が原因でC型肝炎を患っている人がいます。運転手さんもお友達もそうならなかったらどんな人生を送っていただろうと考えただけで涙があふれてきます。

就労支援事業所はそんなに数が多くないので通える所が限られています。私が見つけたのは自宅から2駅の所でA型B型併設でした。そこは広々とした空間で天井も高く密集にならない十分な空間があり、仕事も物作りの手仕事が中心で伝統産業と福祉との関わりの模索もされていて、私の考えと近かったので気に入りました。ただ、B型からはじめて少しずつ工賃が上がる制度が私には厳しかったです。説明が遅れましたがA型は最低賃金の時給が保証されていていますが、週に何時間と要件が定められています。一方B型は時間の制約がないのですが、お給料は工賃とされていて微々たるものです。

B型に移るとMさんに伝えた時、「そんなん生活やっていかれへん」と言われました。実はその時貯蓄も底をつきかけ逆に支払いがあったのですが、“毎日がもめ事で、補助金という金の卵を産むブロイラー”にはいられない(お世話になった所をこういう表現はしたくないのですが)と思い事業所を退所しました。新たな事業所は研修期間は時給60円だったので交通費にもなりません。しかし私の考えに近い内容なので充実感はありました。その後しばらくして200円になりA型を目指しましたが道のりは遠く、やはりMさんの言ったように「生活やっていかれへん」状態が続きました。

今もそうですが、その頃も情報が溢れかえって何が真実か判断が出来ない状況でした。ウイルスが確認され1年以上経過してもそれが生物科学兵器研究所から漏れ出したものなのか自然発生的に成った物かすら結論が出ていない。ある科学者が唱えていたエビデンス(科学的根拠からの確かさ)の高いもの順に情報を整理すると少しは頭が楽になりました。が、そのことを唱えていた当の科学者が何故か逆の結論との情報を目にしたり、ワクチン慎重派だったある医師が急に推進派になったりと、さっぱり訳が解らなくなりました。これはもう“判断に必要な根本の情報が信憑性に欠けるからだ”いうことに私の中で決着しました。そして行動は自分の考えと矛盾しても本意でなくとも、最悪を想定して行動するしかないと思いました。

例えばマスクは感染を防ぐものではないかもしれないけれど、高齢の母に感染させたくなかったから着用していました。同調圧力ではなく自分なりの結論でした。不織布は息苦しかったので薄手の布マスクを着用しました。意味がないと言われようがこれも私なりの結論でした。毎日洗うのが大変でした。感染が本格的になってくると布マスクも次第に少数派になり何か肩身の狭さを感じました。

新しい事業所に移りしばらくしてワクチン接種なるものが開始されました。日に日に事業所で接種する人が増えてきました。自分から接種したことを私に話す人が幾人もおりました。「38℃熱が出た、しんどかった」「こんなに頭が痛かったの生まれ初めて」という人に向かってワクチンの疑義を話すことは出来ませんでした。接種した人は数日休むので次第にあの人もこの人も情報精査能力(リテラシー)の高いと思われた人も。人それぞれ事情がある、おかれた環境もある、個人の判断とはいえ、その事情や環境も判断の要因となり、そして最終的個人の判断となる。何とも一概に是は是、非は非とならないものだと思いました。

ある時職員さん同士がA社のものかB社のものがよいか議論されていて、私は「そのB社はmRNAの薬の開発目的で創設されてたかだか10年、論文も公表していない会社ですよ」とはとても言えませんでした。こんな状況下でも私達障がい者を支援して働いてくださっている立場の方に一利用者である私がそのようなことを言ってはならない気がしました。そしてもう情報そのものに不信感が高まり、なるべく最低限の情報しか見ないようにしようと努めました。私が得た情報に信憑性がないのだから意見はしないよう努めました。


数人から「接種した?」と直接的な言葉で聞かれました。私はその都度返答に苦慮しました。するつもりがないのに「まだ」とつい言ってしまったこともありました。私は十分な治験が行われていないことなど疑問点を10やそこらは挙げることが出来たかもしれません。けれどあえて議論を避けました。それは私に勇気がないからか、人間関係に軋轢が生じて居づらくなるのが嫌という保身からなのか、もしくは私の言葉が影響してその人が接種をせずに罹患したらどうしようという恐れからなのか、今もわかりません。


そして、とうとうある職員さんが接種の次の日から何ヵ月も休むという事態が起こりました。


私は何とも言葉が出てきません。



繰り返しになりますが、人それぞれおかれている環境も違えば事情もさまざまです。そこに知る情報が異なれば自ずから考えや結論も違ってくるのではないのでしょうか。

回想してみると私は自分の判断が正しいかどうかということではなく、この3年余り自分の環境下なりに最悪を避けてきたように思います。結果はどうあれ、そういう生き方をしてきたのだと。







おわり