富雄丸山古墳に思う | ひだまり 日常生活

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先日奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半)で類例のない盾形銅鏡と蛇行(だこう)剣が発見されました。〔1/25発表〕

“被葬者は中心埋葬者支えた大豪族か長髄彦伝承の原像?”との奈良新聞デジタルの表題もあり、やはり発掘地域から古事記や日本書紀に登場する長髄彦(登美毘古)を想起させられます。

県内に住み古典に親しみたいと思っている私としては、あまり掘り起こしてほしくないというのが本音ですが、最低限ならば、それが私たちの公な自信に繋がるのであればやむを得ない所もあるかと思います。事実今回はこの時代にこれ程の高い技術と芸術性を持っていたことが明らかになったのですから。




ところで、長髄彦(登美毘古)が登場する時代は古事記・日本書紀共に神武天皇の東征の頃になります。神武天皇は西から進行して、ちょうど現在の大阪から奈良に入ろうとしたときに長髄彦(登美毘古)と戦い苦戦を強いられた為、南の紀国(きのくに)の方から入られました。

このところは古事記日本書紀とほぼ同じ内容なのですが、大きく内容の異なるところがあります。それは、「邇芸速日命(にぎはやひのみこと)」(書紀では櫛玉饒速日命と表記)の記述です。

日本書紀では櫛玉饒速日命は天の磐船に乗って天降った事等を詳細に記されています。一方古事記ではかなり簡略化されていて、現代の私たちが読むとよく理解出来ない文章で一読では誤解してしまうようなものです。以下に引用します。

「かれ、ここに邇芸速日命(にぎはやひのみこと)参赴(まゐおもむ)きて、天つ神の御子に白(まを)さく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひて参降り来つ」とまをして、即ち天つ瑞(しるし)を献りて仕へ奉りき。かれ、邇芸速日命、登美毘古が妹登美夜毘売(いもとみやびめ)を娶(めと)して生みし子、宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)。こは物部連(もののべのむらじ)・穂積臣(ほづみのおみ)・婇臣(うねのおみ)の祖(おや)なり。……」『古事記』より

この記述の文頭の方の“天つ神の御子”は神武天皇をさして、台詞の“天つ神の御子”は邇邇芸命(ににぎのみこと)をさしているとのことです。これは文庫本の解説にも書かれてなかったので国立国会図書館のデジタルコレクション『古事記伝』 (巻十九 五十七~)で調べました。よく考えてみれば天降りされたのは邇邇芸命で古事記の内容を知っていて文章を注意深く読めば自ずと推察できるのかもしれませんが、私にはわかりませんでした。双方とも神武天皇のことと読んでしまいました。

では何故日本書紀には櫛玉饒速日命=邇芸速日命(にぎはやひのみこと)のことが詳しく記されていて、古事記には簡略化されているのでしょうか。

ここからは全く私の憶測ですが、日本書紀は物部の祖が天から降ったことをしっかりと記す必要性があったのではないかと思います。日本書紀は他の国の人も読むことを想定して書かれたならば、武(武器)を掌握するのは天から降った神であることを強調したかったのではないかと思います。
そして古事記ではそれは既に了知されていることだから詳しく書く必要性がなかったのかもしれません。当時の人はこの短い文章でこと足りたのでしょう。

古典は現代の私たちが読むとよくわからないことが多いのですが、当時の人ならその時代に生きていたのですから、文章が短くても省略されていても理解できたのだと思います。

古の人は私たちの想像以上に考えて考えて古事記も日本書紀も書かれたのではないでしょうか。

私は心の何処かに何かしら自信のなさがあります。
それは古典を学んで来なかったからかもしれません。
ネットでことさら日本を卑下したり悲観したり、また逆に讚美したりするのを散見します。私の何処かわからない自信のなさもこれらと根は同じかもしれません。古の人が如何に優れていたかということを知ることでこの自信のなさを快復出来るのではないかと思い、拙いながら古典を読み考えています。

※写真は奈良新聞デジタルよりお借りしました。