ブダベストの雨
自分がこの世で一番正しいのだと思いがあたり前の世の中だから、そう云う人が会議などで発言の機会を与えられると延々と自論を展開して会議が予定通りに進行できなくなり時間だけがむなしく過ぎて行くということがある。
そんな分かり切ったことに愛想をつかし、いい加減なところで区切りをつけて自室に戻り午睡を決めこんでいたら何か騒がしい。「シュウ雨」と云う単語が転換できないけれどにわか雨を表すあのシュウ雨が、西からの強い日差しが差しこんでいるホテル客室の窓に横から叩きつける。
旅行代理店が募集するアフリカ・ツアーの案内書を見ると、「日差しが強いので帽子とサングラスを携行すること」というようなこと書かれているが、実は、赤道直下のアフリカ諸国では、日中、太陽は真上に来るので以外とまぶしいと云うことはなく、サングラスは必需品ではないことが理解される。ところが、日差しが強いという印象のない欧州、特に北欧の夏季は昼間に普通に街中を歩くにもサングラスが必要となる。太陽は頭上ではなく、ほとんど水平な前方にある。水平線上をいつまでも滑るような移動を続けて沈む気配のない太陽と付き合うのにはサングラスは必需品となり、金髪で透き通るような白い肌の北欧女性が日中サングラスをかけて颯爽と歩く姿は別にファッションとしてではなく必要からであることがよく分かる。
雨のブダペストはこんなものかと、別にどうでもいいことに感激し、にわか雨の後の街かどで客引きをする人と交わす言葉に、この地に生きる人たちの哀愁を見つけていとおしい気持ちになる。
ブダぺシュトは、魅力的でいい街だ。
ブダペストより
木曜日早朝のルフトハンザ成田-フランクフルト便は、エアバス社の最新二階建てA380-800だったのでなんとなく得をした気がした。ただ、原発事故のせいで人の行き来が少ないのか機内はガラガラでちょっと驚いた。
フランクフルト乗継で木曜の晩にブダペストに到着。夕刻とは云え夏時間のこの時期は日没時間が遅いのでホテルに着くまで街の雰囲気は十分に感じ取ることができた。
ブダペストの街はどこか既視感があり、どこで感じた雰囲気かと記憶をたどると、何年か前に訪れたアルゼンチン・ブエノスアイレスであることに気付いた。100年前には南米のパリと呼ばれ、往時は壮麗にして重厚であったと思われる個々の建築群が威圧するような空気を醸し出していたことが想像できるけれど、それらの街並みが今では全体的に煤けて老人の皮膚の思わせる萎えた曇った色を発していた。100年前の同じころ、オーストリア・ハンガリー帝国のもうひとつの首都として「東のパリ」と呼ばれていたこの街は、いまはブエノスアイレスと同じ光を発してていると感じられた。
業界の年次総会で久々に会う人たちは、まず「How is Japan?」の挨拶から始まるのがパターン化してしまった。
これからドナウのクルーズ・ディナーなどと云うものへ行くことになる。
ブダペストへ
今回の東電福島原発事故では、小学生で鉄腕アトムに感化され原子力にあこがれを抱き、原発を何となく容認していた自分の不明を恥じるばかりである。
そして今回は、図らずも誰が本当のことを語り、誰がデタラメなデマやインチキ話をしているのかを見極める機会ともなった。
反原発を訴え続けた高木仁三郎や広瀬隆という人は知っていたけれども、彼らの著書を手に取ることはこれまでなかったが、今回あらためて読んで自分の知見の浅さ狭さ思い知らされた。
それだけに、原発事故以前に誰がどんなことを言い、事故発生直後に誰が何を言い、そして今後に誰がどんなことを言うのかはシビアに見ておく必要がある。
手近かなところでは、インターネットで彼らの主張の一部を知ることができ、「高木仁三郎の『核施設と非常事態--地震対策の検証を中心に--』 」というので検索すると、今回の原発事故を的確に予測し警告していたもとが見てとれるし、広瀬隆のダイアモンド社のWeb Site にインタビュー記事が掲載されている http://diamond.jp/articles/-/12199
一方、豊田有恒の「日本の原発技術が世界を変える」(祥伝社新書)は、科学者でも技術者でもないからある程度の間違いも許されるかも知れないけれど、原発事故後に読んでみれば「えっ、こんなこと云っちゃってる!」「そんなこと云っていいの?」と、今になってみれば呆れて笑える。
それはそれとして、パラダイム・シフトのことをもっと続けようと思うが、明日から所用でかつてのオーストリアハンガリー帝国の帝都のひとつブダペストを訪問し、来週、復路ではドイツ・ドナウの要衝レーゲンスブルグに立ち寄る予定なので、明日からの一週間は気分転換で旬の白アスパラの話などをしてみよう。