Matatu の由来
後進国はアフリカでもアジアでも南米でもインフラ整備が充分ではないから公共交通機関はバスや小型乗合自動車が「足」の主流となる。
ケニアはMatatuと呼ばれるワンボックスのミニバスが主流だが、今のスタイルになったのはそんなに昔の話ではない。2002年の総選挙でKibakiが政権に就くとMichukiが交通通信大臣に任命され、彼が先ずやったのがMatatuの定員規制とシートベルト強制装着。さらに、車体の色を原則白に統一し車体横に黄色い線を入れて初めてMatatu営業許可が下りるという仕組みを導入した。それまであのワンボックスに20人以上詰め込んで走っていたMatatuが定員14名に制限されたのでMatatu所有者も反発したし、売り上げを確保するために運賃値上げされた一般利用者も猛反発をした。Matatu組合は波状ストライキで政府に対抗したが、政府はこれらを押し切って14名定員を定着させた。
当時、ウガンダや南アでは当たり前だった定員規制がケニアにも導入された訳だ。
Toyota Hi-AceなどのワンボックスがMatatuに使われるようになったのは90年代からように記憶しているが、それ以前は長距離は大型バスで、中短距離はピックアップ(1トン乗用トラック)を改良したもので、乗り降りは車体の真後ろのドアからで、屋根に荷物が積めるようルーフ・キャリァがあり、後部にルーフ・キャリァに上る梯子があった。車内に納まりきれない人が後部ドアや梯子にぶらさかっているのは普通の光景で、時々振り落とされて死者も出たりしていて、長いこと、Matatuと言えばこれだった。
Matatuという呼び名の由来は、Matatu商売が始まった頃の運賃が10セント銅貨3枚の30セントだったことから、キクユ語で数字の3を意味するMatatuからついたものだ。ちなみにスワヒリ語のTatu(3)と同じ言い方だ。
いまは車体がコ綺麗な白に統一されてしまったが、かつてはカラフルな車体にいろいろと面白い標語や教訓染みたことをペンキで書付けていて、それらの中にときどきぷっと噴出しそうなものがあって彼らのユーモアのセンスに関心させられたことがよくあった。
アフリカの爆弾
筒井康隆の短編小説に「アフリカの爆弾」と云う傑作がある。
初版が1971年ということで、約40年も前にこんなことを考えていたとはと感心させられる。さすがは鬼才。
小説の内容は、電器製品販売会社のセールスマン兼集金人の「私」がアフリカ土人部落に派遣され酋長の経済顧問やっているのだが、彼らは原始生活を観光の売り物としているので「客」があるときにはテレビ・電話・家電製品を隠して未開人の生活を「客」に見せ観光収入を得るという前半と、核ミサイルを購入する後半の話だが、アフリカ人のタフさ、したたかさ、そしてしなやかさに感心する者としては、同情の視線を投げかける「客」をおちょくるようなアフリカ人の話は本当にありそうで可笑しい。
今日の朝日新聞にアフリカ特集があり、その特集にリンクしてか「オピニオン」と云うページに東大大学院で日本でのアフリカ報道を研究するウィリー・トコと云うコンゴ人の「アフリカ報道-努力する現地の人の紹介を」という寄稿がある。
日本でのアフリカの報道の有りようと多くの日本人のアフリカに対するイメージに違和感を抱き、「貧困から救済してあげなければならないアフリカ」ばかり強調され、なぜもっと普通に生活するアフリカ人や普通のアフリカが伝わらないかと嘆いている。まったく同感である。
地下鉄車内の広告で、アフリカ人の子供の写真に「1日あたり150円。ペットボトル1本分のお金で救える命がある」というコピーを付けたものを見かけたが、こう云うのもアフリカの一部かも知れないが、全てではない。
彼らは、タフでしたたかでそしてしなかやかだけれども、大多数の人たちは普通に暮らしている。
HarambeeとNyayo
HarabmeeとNyayoの説明を加えておきます。
Harambeeはスワヒリ語で同胞・仲間と云う意味だが、ケニアの初代大統領Kenyattaは演説の最後で「みんなで助け合って建国を進めよう」という意味を込めて「ハァラァーンベィ!」と絶叫して締めくくった。これはたとえば、村民が少しずつお金を出し合ってその村に学校を作ったり、お葬式の費用をみんなで小額ずつ出し合って助け合う行為も「Harambee」と言われるようになり、寄付行為(Donation)もHarambeeと呼ばれるようになった。
実際に、独立後短期間に多数の学校を全国各地につくるには政府・地方自治体には予算がなかったので、このHarambee方式で学校が多く作られ、教師もなかなか雇えなかったりしてので日本からの海外協力隊員の多くが理数科教師・裁縫教師などとして活躍した。もちろん今でも多くの理数科教師隊員がいると思う。
言葉は拡大解釈され、お金を無心する際にもHarabmeeとなり、警察官が交通違反を指摘して見逃してやるからその代わりに「Harambee kidogo(少し)」となったりした。賄賂を表す言葉は一般的には「Bukusisi」「Chai」などインド中東と共通語で、比較的新しいところでは「TKK」と言った。意味はスワヒリ語Toa kitu kidogi(ちょっと取りなさい)の略語である。
Kenyattaが1978年に逝去し、当時副大統領だったMoiがそのまま大統領に就任した。
Moiは建国の父Kenyattaを踏襲しますと云う意味で「Nyayo(スワヒリ語:足跡)」ということを事あるごとに協調し、「Nyayo Philosophy = Peace, Love and Unity」という標語をかかげ国民に団結を訴えた。
Moiが行くところ、人々は人差し指を高くかざして左右に振りながら「Nyayo! Nyayo!」と連呼して迎えていた。
二代目大統領に就任してからしばらくはスムーズな滑り出しだったが、政敵を蹴落とし政権基盤を固め始めた80年過ぎから様子が変わりだし、政権が長期になった90年代からは汚職も日常化し、「Nyayo」も死語となり国全体が殺伐としていった。
三代目、現大統領Kibakiは最初は「Working Nation」などと標語のようなものを掲げようといたが全く盛り上がらず、結局、今は国民へ投げかける標語のようなものはなくなってしまった。