Hardnutのブログ -111ページ目

Africa Update

新聞の国際欄を見ていると、アフリカはこの世に存在しないのではないかと思うほど扱いがない。記事はないけれど本日の朝日新聞には、「1日150円、ペットボトル1本で救える命がある」とかという、いつものアフリカ人の子供の「可哀想な」写真を掲載して募金協力を求めている広告があった。


田中宇(たなか・さかい)の国際ニュース解説というメルマガの配信を受けていて、昨日と届いたメルマガが「アフリカ統合」という題で興味深い内容だったので紹介する。

http://tanakanews.com/090707africa.htm

中国のアフリカ戦略と比較して、日本のアフリカ外交のには戦略が欠如していると云う指摘があるがまさにその通りと思う。アフリカに限らず北朝鮮も「日本は米国の意のままに動くから米国とだけ交渉していればよい」とコケにされているが、日本は、かつて非欧米勢力として途上国から期待された時期もあったのに残念だ。

別に中国に対抗しろということではなく、日本はもっと視野を広げてアフリカと向き合う必要がある。TICADを主催していればそれでOKとは行かないのだ。


もうひとつ。「米国はアフリカを遺伝子組み換え作物の実験場に」という浜田和幸と云う人の記事を紹介する。

http://moneyzine.jp/article/detail/154637

ビル・ゲイツの進める現代版「ノアの方舟計画」は食糧争奪戦争の序盤戦で、米国の穀物メジャーやモンサントなどがアフリカでやりたい放題をやっていて、将来世界の食糧は米国に押さえられるという記事である。

実際にモンサントが南アを拠点に販路を広げている「Pioneer21」というトウモロコシの種は遺伝子組み換えがされており、病気・害虫に強く収量がこれまでの品種より多いが、トランスフォーマーと呼ばれ収穫した第二世代を播いても発芽しないよう改良されている。つまり、一旦この品種に切り替えたら最後、モンサントから種を買い続けなければならないのだ。『食糧争奪戦争』浜田和幸著(学研新書)と云う本に詳しく書いてあるらしい。

アフリカ各国政府は、遺伝子組み換え作物を許可するのに前向きだが、なんとかならないのだろうか。


欧米ばかりではなく、中・印・韓なども食糧増産のための農耕地収奪競争をアフリカで繰り広げている。

『栄光への5000キロ』 

石原裕次郎の23回忌法要をがあったが、菩提寺で法要を執り行うと大勢の人が集まりすぎて収容できないなどという理由があったにせよ、国立競技場とはちょっと大袈裟なのではと云う思いがした。


今からちょうど40年前の映画で裕次郎主演の『栄光への5000キロ』というサファリ・ラリーを舞台にしたものがあった。当時はまだケニア・ウガンダ・タンザニアの関係が良好で国境も自由に行き来できたので、疾走コースがこの三ヵ国にまたがる「East Africa Safari Rally」と呼ばれていた。

日産ブルーバードSSS全盛のころで日産の宣伝映画みたいだったという記憶がある。そんなうろ覚えの映画だが、裕次郎の恋人役の浅丘ルリ子が裕次郎に手編みのセーターをプレゼントして、裕次郎がラリーで泥にはまって脱出できなかったときそのセーターをタイヤに噛ませて脱出するというシーンだけがなぜか鮮明に覚えている。


1971年にウガンダでアミンがクーデターを起こし、アミンは真っ先にインド系住民を追放した。この中にウガンダで砂糖財閥を築き上げたがこれでケニアに逃れてきたメータ一族なども含まれていた。1980年前後に日産バイオレット(160J)で連勝を続けたサファリ・ラリーのスーパースター、シェッカー・メータの一族である。

その後もウガンダではアミンの圧政が続き、ウガンダ軍は1978年にはタンザニアに侵攻するが失敗して逆にタンザニア軍がカンパラまで攻め入って結局アミンは1979年に失脚した。

ニエレレ大統領のタンザニア社会主義政権も行き詰まり70年代後半にケニアとの国境を封鎖してしまったので、東アフリカ・サファリ・ラリーは、ケニア国内でいくつかのステージ(Leg)に分けて開催する「Safari Rally」となっていた。

それでも1981年に初めてナマで見たサファリラリーに興奮して、ラリーカーがオフロードのコースを走っている間に舗装された幹線を通って次のポイントへ先回りをしてという「追っかけ」を夢中でやった。

いろいろな理由でサファリラリーは事実上消滅してしまったが、あのイベントは東アフリカに残しておきたかった。


We are the world !

中学2年生だった1968年、初恋の彼女にビアフラ戦争で餓死に瀕した子供の写真が掲載された新聞記事を見せられて「わたしたちもこの人たちのために何かしなければならないのではないか」と云われ、彼女がなんだか遠い存在に感じられた記憶がある。

あの戦争がきっかけとなって餓死に追い込まれた人は200万人とも言われ、骨と皮だけに痩せ細ったアフリカ人の子供の写真は痛ましく、衝撃的だった。


ケニアに住んでいた1984年、隣国エチオピアを旱魃が襲い大量の難民が発生し、このニュースが世界に配信された。1984年のクリスマスにこれを米国で見ていたハリー・ベラフォンテが先日急逝したマイケル・ジャクソンやクインシー・ジョーンズに声を掛け、M.ジャクソンとライオネル・リッチーが共同で作詞作曲の「We are the World」の曲が完成した。ただちにUSA for Africa(United Support of Artists for Africa)の活動としてクインシー・ジョーンズのプロデュースで1885年にこの曲がリリースされ、♪We are the world,,,の世界的大合唱となり、難民の映像と難民キャンプへ爆撃のように貨物機から食料を投下する映像などが繰り返しメディアを通じて流された。


日本政府も緊急援助を決め、数量は不明だが、当時、食管制度で余っていた古古米を援助した。

数ヶ月後、2kgの紙袋に詰められて「Japanese Rice」と書かれた米がナイロビのスーパーなどの店頭に並んだ。本当の話で、モンバサで陸揚げしてエチオピアへ運ばれるものが、どう云う訳かケニアで流通したのだ。


数年後、日本の芸能人の間で「アフリカに100万枚の毛布を送ろう」というような活動があったようだが、日本からの毛布は見かけなかった。


餓えたアフリカ人の子供の写真を見せられたら誰だって「何かしてやりたい」て思うのは極自然な感情だろうが、なかなか簡単にこちらの気持ちは伝わらないし即効性のある対応は難しい。

それと、逆にこの手の写真を使って「救済されなければならないアフリカ」を強調されるのもあまり気持ちの良いものではない。