『栄光への5000キロ』
石原裕次郎の23回忌法要をがあったが、菩提寺で法要を執り行うと大勢の人が集まりすぎて収容できないなどという理由があったにせよ、国立競技場とはちょっと大袈裟なのではと云う思いがした。
今からちょうど40年前の映画で裕次郎主演の『栄光への5000キロ』というサファリ・ラリーを舞台にしたものがあった。当時はまだケニア・ウガンダ・タンザニアの関係が良好で国境も自由に行き来できたので、疾走コースがこの三ヵ国にまたがる「East Africa Safari Rally」と呼ばれていた。
日産ブルーバードSSS全盛のころで日産の宣伝映画みたいだったという記憶がある。そんなうろ覚えの映画だが、裕次郎の恋人役の浅丘ルリ子が裕次郎に手編みのセーターをプレゼントして、裕次郎がラリーで泥にはまって脱出できなかったときそのセーターをタイヤに噛ませて脱出するというシーンだけがなぜか鮮明に覚えている。
1971年にウガンダでアミンがクーデターを起こし、アミンは真っ先にインド系住民を追放した。この中にウガンダで砂糖財閥を築き上げたがこれでケニアに逃れてきたメータ一族なども含まれていた。1980年前後に日産バイオレット(160J)で連勝を続けたサファリ・ラリーのスーパースター、シェッカー・メータの一族である。
その後もウガンダではアミンの圧政が続き、ウガンダ軍は1978年にはタンザニアに侵攻するが失敗して逆にタンザニア軍がカンパラまで攻め入って結局アミンは1979年に失脚した。
ニエレレ大統領のタンザニア社会主義政権も行き詰まり70年代後半にケニアとの国境を封鎖してしまったので、東アフリカ・サファリ・ラリーは、ケニア国内でいくつかのステージ(Leg)に分けて開催する「Safari Rally」となっていた。
それでも1981年に初めてナマで見たサファリラリーに興奮して、ラリーカーがオフロードのコースを走っている間に舗装された幹線を通って次のポイントへ先回りをしてという「追っかけ」を夢中でやった。
いろいろな理由でサファリラリーは事実上消滅してしまったが、あのイベントは東アフリカに残しておきたかった。