うーたんパパさんのブログ記事「【2025年組】地頭シャッフルの始まりです」のリブログ記事第3弾、完結編です(笑)。


「その1」「その2」を元に、中学・高校の学習内容を考えてみます。ちょっとアラカルト的な読み物になってます(笑)。


地頭シャッフル その1

地頭シャッフル その2



はじめに


大学受験における「地頭」が反映される要素って何かな?と考えてみます。


①新しい概念を理解する能力

②知識、スキルを使いこなす能力

③抽象的な概念を理解・活用する能力

④記憶力

⑤努力を継続する能力

⑥自己マネジメント能力

⑦多科目を並行して進める能力


最も「地頭」の違いが出るのが、①だと思います。そして②も連動しています。1を聞いて、0.1しかわからない人、1わかる人、10わかってすぐに応用問題を始める、2桁くらい能力に幅がある感じです。この能力の残酷な差が「地頭シャッフル」の主たる要因である、と言ってもいいかもしれません。


③は、①とは違う別の能力だと最近思うに至りました。実体のあるもの⇒抽象化・モデル化して扱う、という思考ができない、どこまでも「具体例」がないと話が進まない人がいます。そして、そういう人が必ずしも①②の能力に欠けているわけではないので、違う能力なのだと思います。この能力が低いと、高校の数理系の科目は、絶望的な「無理ゲー」になります。


④は言うまでもないですね。記憶力にどうしてここまで個体差があるのか分かりませんが、1〜2回で覚えられる人と、何度繰り返しても覚えられない人がいるのは、間違いない事実です。


⑤は才能の一部です。これを「誰でもできること」だと勘違いするから、多くの悲劇が起こるのだと思います。


⑥は「昔の優等生」は持っていたけど、予備校・塾サービスがこれを代行するようになって、現在は⑥を磨く機会のない残念な学生が増えた、と嘆く人もいます。


⑦は「キャパの大きさ」と言えば良いでしょうか。科目数の多い難関国立大学に入る為には必要な能力です。

 

世の中には①〜⑦を高いレベルで全部持っている「天才」もいますし、あまり恵まれない人もいます。「地頭シャッフル その2」にも書きましたが、自分の持っている能力で勝負するしかないのが、人生なのだと思います。




大学受験での「地頭シャッフル」


国立大学への進学を主軸に据える私立の中高一貫校や、大学受験塾など、先取り教育が花盛りです。この先取り教育の目的は、それぞれの生徒の学力ピークを「高3の3学期よりも前」に持ってくること、つまり高3受験時に「もう少し時間があれば合格できた」という状態に陥るのを防ぎ、大学浪人を回避することにあります。

別の言い方をすると、高3までに「伸びしろ」を使い切り「やり切った」状態にする為、浪人による学力向上は期待できなくなります。また、残念ながら「ピークの高さ(各人の限界点)を上げること」には寄与しません。ここに「地頭の限界点」が見えてしまいます。そうすると、次のようなことが起こります。


・先取り教育で先行する為、高2くらいまでは上位層に位置することができる

限界点が高くなかった場合(地頭の限界)、地頭の良さで勝る、適当にしか勉強してこなかった生徒や、公立中学⇒公立高校に確率論で存在する秀才・天才(田舎の秀才・神童系)に、高3になってから抜かれていく


要するに、中学受験の5年生後半に始まる「地頭シャッフル」と同じ現象が、高3で起きることになります。更に、中学入試は「参加者の限られた地域限定の大会」ですが、大学入試は「地頭が良い人は全員参加の全国大会」ですから、「地頭シャッフル」はより鮮明に起こります。

地頭の限界点がどこにあるかは「やってみないとわからない」のですが、限界点が来た時の「プライドの置き所」は自分で落としどころ見つける必要があります。


ついでなので、某・大学受験塾について記載しておきます(あくまで個人の見解です(笑))。

「あの塾の演習量の1/2〜1/3くらいやれば合格できるよ」というのは、元「田舎の秀才・神童系」からよく聞く話です。「伸びしろ」を残さない為に、塾のカリキュラムでそれだけやらせているということでもあるし、大学入学後、地方出身の学生の方が伸びる(伸びしろがある)と言われる理由もこの辺にある気がします。

都会に住んでいる「能力の限界点≒合格ライン」の生徒には向いている塾なのかもしれませんが、地頭的に余裕がある人は、自分で企画して勉強した方が、お金も時間も勉強量も節約できます。




科目の各論について

数学と理科は、以前、このブログで考察したことがあります。「物事を抽象化する能力」「抽象化した概念を扱う能力」の上限値が人によって違うのかな、というのが、うーたんパパさんのブログを拝見した後の、最近の自分の考えです。

「抽象的な概念を扱うこと」が苦手でも、中学範囲の理科や高1くらいの数学までは、パターン学習で「型」を使いこなすことで「誤魔化し」が効きます。
しかし、数学は高2の三角関数や微積分のあたり、化学のmolの概念や状態方程式、物理は初っ端(運動方程式)から、パターン学習による「型」使いでは捌ききれなくなって成績が沈没していく、そんな感じなのかなと思います。

逆に数理系に秀でた人間は、「抽象化された概念の本質を理解し、具体的な事象に適用する」ということをずっと変わらずにやっているだけなのですが、学年が進むにつれて「周りの人間が何故かできなくなっていく」感覚だと思います。

「地頭シャッフル」というよりは、「地頭ドロップアウト」と表現する方が正しいのかもしれません。


文系科目と言われる教科:国語、英語、社会のいずれも「人間のやっていることを理解する」分野であり、数理系の科目に比べれば「具体的な事象」を扱うので、基本的にはやった量と成果に正の相関があります。
ただし「新しいことを学習する能力」は個人差が大変大きいので、この学習能力の差は、先取り教育を受けて先行していた「凡」な生徒が、後発の学習能力の高い生徒に追い抜かれていく、という現象に繋がります。

【英語】
この現象が最も顕著なのが先取り教育が盛んな英語でしょう。中学入学時に「自分は英語ができる」と思っていた生徒が、中学入学後にガチで英語学習を始めた生徒に抜かれていく・・・本当によく聞く話です。残念ながら、先取り教育で「貯金」はできても、学習能力が向上するわけではありません。
別に、英語の先取り教育を否定するわけではありません。「凡人」だと割り切って、事前に「貯金」を作るのは、戦術として悪くないです。ただ他者より長くやっているからできた「少しの貯金」を、自分の才能だと勘違いするから「イタイ」のです。

【国語】
現代文は最もシャッフルされない分野です。
何故なら、できない生徒が「覚醒」することはあっても、元からできる生徒ができなくなることがないからです。現代文は論理的思考で解答に至る科目なので、実際は数学に近いです。しかも数学と違って「新しい概念を理解する」必要がないので、一度やり方を身に付けた生徒が「できなくなる」ことがほとんどありません。現代文の得意な生徒が「現代文は勉強しなくてできるから一番楽」と言う理由もここにあります。
古典は、ほとんどの生徒が同じスタートラインなので、やった分だけ「収穫量」も増えます。大学入試レベルまでの古典は「地頭の良し悪し」が問われる難易度に至らないので、苦にならない生徒は、やったらやっただけ「成果」につながる、おいしい科目です。

【社会】
「興味がない」「記憶力が悪い」以外にできない理由が見つけられない科目だと思っていましたが、うーたんパパさんのブログを拝見して、「知識の出し入れの能力」が別途必要なのね、と理解しました。



うーたんパパさんのブログ記事をリブログさせていただいた、「地頭シャッフル」も、これで終わりです。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

本稿の結論としては、

今の成績•成長率が今後も継続するとは考えない方が良い

でしょうか。良い方にも悪い方にも振れます。卑屈になることも慢心することもなければ、人生としてそうそう失敗はしないのではないか、と思います。

補遺