うーたんパパさんのブログ記事「【2025年組】地頭シャッフルの始まりです」のリブログ記事第2弾です。先に書いておきますが、第3弾まであります(笑)。


地頭シャッフル その1



「地頭」を議論する前提として、「努力しても、個人の能力・資質によって到達点には限界がある」ということを認める必要があると自分は思います。

スポーツだったら、例えば陸上競技で「努力すれば100mを10秒以内で走ることができる」なんていう人はいないでしょう。日本人だと、ごく僅かな選手しかこの領域には至っていません。
では「努力すれば100mを11秒以内で走ることができる」でしょうか?「10秒以内」よりはできる選手はぐっと増えるでしょうが、大半の日本人には不可能です。
この「n秒以内」の「n」がどんな値になるか、それは本人の生まれ持った肉体に依存する、ということを認めない人はほとんどいないと思います。

しかしこれが勉強の話になると、「努力の可能性は無限大」的な「宗教的な何か」、言い換えると「努力信仰」を信じている人は沢山います。
学習能力は肉体のように外見では判断できないからかもしれませんし、「努力」なるもので「試験の合格」を勝ち取ったという経験・自負のある人が多いからかもしれません。
辛辣なことを書くと、才能のある人ほど自分のやっていることを「努力」だと言いません。本人は努力だと言わないけど、努力家を自称している人より、多くの練習・訓練を「努力だと意識せずに」やっています。

でも、そんな努力信仰の人でも、例えば「努力すれば東大の理Ⅲに合格できる」と言う人は稀です。
では「努力すれば東大に合格できる」でしょうか??東大は1学年で約3000人合格できるので、不可能ではないように見えますが、競技人口が少なく見積もっても1学年20万人くらいいるので、「誰でも」は無理でしょう。
そうすると、上記の100m徒競走のアナロジーで、勉強に関しても、

努力すれば〇〇に合格できる

の〇〇の到達点がどこになるのか、そこが最終的にどこになるのかを決める要素に本人の能力・資質があることを認めるのは、それほど困難なことではないと思います。

勉強もスポーツも、こう表現するのが正しいように思います。

・努力すれば、自分の限界点に到達できる
・その限界点は、先天的な才能に依存する



この「先天的な才能」「遺伝」と表現する人がいるから、議論がややこしくなっている気がします。「先天的な才能」が、親の形質を反映する部分があるのは事実でしょうが、それだけでないのは歴史の中に数多ある「ダメな二代目」のお話が教えてくれます。
例えて言うと、「先天的な才能」は「一子相伝の必殺技」ではなく、「皆で並んで買った宝くじが当たるか否か」に近いと思います。それだけ「遺伝」にはランダム性の要素が高いと思われます。
「宝くじの当選金の額の多寡」は、本人のせいでもなければ親のせいでもない、そう考えることができれば、もっと楽に生きられる人も多いのではないかと思います。
才能がないものはないと認めて、手持ちの才能で工夫して生きていく、それが人生のような気もします。



ついでに「努力信仰」についても考察しておきます。

いわゆる「理系職」をやっている人には「努力信仰の信者」はほとんどいない気がします。大学に入って以降扱う自然科学の世界に、理解しようと思っても理解が及ばない領域があることを分かっているからだと思います。
自然現象をモデル化して解釈・理解する学問ですが、必ずしも人間が理解しやすいようにこの世界が構成されているわけではありません。
中学高校で「自分は数理系が得意」だと思って大学に入ったら、数理系の世界には広大な「自分には理解できない領域」があることを知り、「努力すればできる」などという寝言は言わなくなります。

これに対し、いわゆる「文系」には「努力信仰」の「信者」が少なからずいます。人文系の学問や資格試験は「人間がやっていること・やってきたこと」「人間が作ったルール」をトレースするものなので、そもそも人間が理解しやすいようにできています。言い換えれば、この分野は「才能が足りなくても、手数をかけさえすれば理解できる領域が広い」のです。
その為、この分野では「才能が足りなくても、努力して(手数をかけて)試験の合格を勝ち取った」という体験がやりやすく、そこから「自分はやったらから成果が出た⇒努力すれば何でもできる」という論理の飛躍がおこり、「努力信仰」が発生するのではないかと思います。



余談が長くなったので、続きは「その3」で(笑)。


参考文献(笑)