最期は穏やかに眠りたい。

だから今、私は

自分の感覚を大切にしている。



いつかは終わりが来る。
それは誰にとっても、

変わらない事実だと思う。


小学生の時、交通事故に遭い、
頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、大腿骨骨折。
5日間の昏睡の後、

奇跡的に意識を取り戻した私に、
医師からこう告げた。


「脳が発作を起こしたら即死の可能性がある。

一瞬一瞬を大切に生きなさい」


私はそれを、
難しい言葉としてではなく、

体で受け取った。

 


命は一秒も保証されていないということを、
11歳の私はあの瞬間に本当の意味で知った。


あの経験があったから、

「やりたいことはすぐやる」

「言いたいことはすぐ言う」が
自分の軸になった。

 


後回しにしない。

今死んでも後悔しない選択をする。
それが、あの日から私の中にある

生き方の基準になっている。


それから何十年も経った今、
私には一つの願いがある。


最期は、穏やかに眠りたい。


それは、
後悔を一つも残したくない、

という意味ではない。

 


人生に完璧な終わり方なんて

ないと思っているから。

 


失敗もある。

うまくいかないこともある。
それは誰の人生にもあることだと思う。


ただ、思い出す場面がある。


誰かの期待に応えるために頑張り続けて、
自分がどう感じているかより、

どう見られているかを先に

考えていた頃の自分を。


疲れていても「まだいける」と思い込んで、
嫌だと感じていても

「これくらい普通だ」と押し込めて、
本当はどうしたいかより、

どうすべきかを優先して生きていた。


起業してからも、

子育てをしながらも、
自分の感覚を後回しにしながら

動き続けた時期があった。

 


その頃の私は、

忙しいことが充実の証だと思っていたし、
頑張り続けることが

正しいことだと信じていた。


でも、ある時から気づき始めた。

自分の感覚がわからなくなっていた、

ということに。


何が好きで、何が嫌で、
何が嬉しくて、何が悲しいのか。
聞かれても、すぐに答えが出てこない。
自分のことなのに、

どこかぼんやりしている。


そういう状態で最期を迎えたくない、

と思うようになった。


穏やかに眠れる人というのは、
きっとすべてうまくいった人ではなくて、
自分の感覚を大切にしながら

生きてきた人なんじゃないかと思う。


失敗もあった。後悔もある。
思い通りにならなかった日もたくさんあった。

 


それでも、

「私はちゃんと私として生きた」と

感じられること。

 


自分の感覚を置き去りにせず、

本音を基準に選んできたと言えること。


それが、穏やかな最期に

つながるんじゃないかと思っている。


そのためには、今日の自分の感覚を
ないがしろにしないことだと思っている。


大きなことじゃなくていい。


今日、本当は休みたかった。
今日、本当はこれが嫌だった。
今日、あの言葉が少し嬉しかった。


そういう小さな感覚を、
「そう感じているんだね」と

自分で受け取ってあげること。

 


感覚に気づいて、

それを無視しないこと。


その積み重ねが、
「私はちゃんと私として生きた」という感覚を、
少しずつ作っていくんだと思う。


最期に穏やかに眠れるかどうかは、
その日の終わり方じゃなくて、
今日をどう生きたかの積み重ねだと、

私は思っている。

なんとなく、しっくりこない。
うまく言葉にはできないけど、
どこかが「違う」という感じがする。


でも理由が説明できないから、
「気のせいかな」と流してしまう。


周りから見れば何も問題ないし、
むしろ恵まれている状況だったりする。
だから余計に、この違和感を

持ってはいけない気がしてしまう。


そうやって、

自分の感覚に蓋をしてきた人が、
思いのほか多い。


でも、

違和感はエラーじゃない。


違和感は、今の状況と

自分の本音のあいだに
「ズレがありますよ」と

教えてくれているサインだから。


痛みが体の異変を知らせるように、
違和感は内側の声が「ここじゃない気がする」と
静かに伝えようとしている。


だから無視するほど、
どこか満たされない感覚が積み重なっていく。


私自身も、違和感を何度も後回しにしてきた。


このままでいいのかな、と感じながらも、
「でもちゃんとやれているし」と押し込めていた。


でも結局、

その違和感はなくならなかった。
むしろ、しばらく経ってから

「あの時のズレがここにつながっていたんだ」と
気づいた。


違和感は、消すものじゃなくて、
聞くものだと思う。


「何が引っかかっているんだろう」
「本当はどうしたかったんだろう」


そこに少しだけ意識を向けてみる。
すぐに答えが出なくてもいい。


ただ、その感覚を

「なかったこと」にしないでほしいと思う。


違和感を感じられるということは、
まだ自分の感覚が

生きているということだから。

何かを選ぼうとする時、
「これは正しい選択なのか」

と考えてしまうことありませんか?


転職するべきか、しないべきか。
続けるべきか、手放すべきか。
言うべきか、黙っているべきか。


正しい答えを見つけてから動きたい。
間違えたくない。
後悔したくない。


そうやって、選べないまま

時間が過ぎていくことがある。


でも正直に言うと、
正しいかどうかなんて、

後になってみなければわからない。


選んだ時点では誰にもわからないし、
10年後、20年後に振り返って初めて

「あれでよかった」と思えることもあれば、
「あの選択がなければ」と思うこともある。


それは選んだ時に正しかったかどうかではなく、
その後をどう生きたかによって

変わってくるものなんですよね。


私自身、過去には何度も

「正しい選択」を探してきました。



でも今振り返ると、
正解を探していた時間より、
自分の感覚を信じて動いた時間の方が、
ちゃんと自分の人生になっていた気がしている。


正しさを基準に選ぼうとすると、
どこまで行っても答えが出ない。


正しさは未来にしかないから。


今この瞬間にあるのは、
「自分がどうしたいか」という感覚だけだと思う。


その感覚を後回しにして正解を探し続けることが、
実は一番遠回りだったりする。


正しいかどうかは、後でわかる。
だから今は、自分の感覚に正直に選んでいい。


そう思えた時から、
少しずつ楽に動けるように

なっっていったんだよね。

「もうこういう考え方はやめよう」
そう思ったことが、あなたにも

一度はあるんじゃないかと思う。


それでもまた同じ考え方が戻ってくる。
気づいたら同じパターンで動いている。


そのたびに、
「意志が弱いから」
「本気じゃないから」
と自分を責める。


でも、本当にそうなんだろうか?


古い思考がやめられない時、
それは意志の問題じゃないことが

多いんじゃないかと、最近よく思う。


その思考は、昔の自分が

生き延びるために作り上げたものだから。


「失敗したら終わり」という考え方も、
「誰かに頼ってはいけない」という考え方も、
「自分を後回しにして当然」という考え方も。


かつてはそれが、

自分を守る鎧だったのかもしれない。

だからこそ、簡単にはほどけない。


問題は、その鎧が今の自分にも

まだ必要かどうかだと思う。


昔はそれで乗り越えてきた。
でも今、同じ思考が出てくるたびに、

どこかしんどくなっていないか。


やめようとしてやめられない。
その繰り返しが続いているとしたら、
変えようとする方向が違うのかもしれない。


思考は、否定してもなくならない。


「こんな考え方はダメだ」と責めるより、
「この考え方は、いつ頃からあるんだろう」と、
少しだけ距離を置いて眺めてみる。


そうすると、見えてくることがある。


その思考が生まれたのには、

かならず理由があったはず。

 


過去の自分が、

必死に考えた末に選んだ答え

だったのかもしれない。



それがわかると、責めるより先に、
少しだけ「ああ、そうか」と

思えることがある。


古い思考をやめるのは、
頑張って上書きすることじゃなくて、


今の自分には、

もう別の選択ができるということに、
静かに気づいていくことなのかもしれない。

幸せになりたい。
昔の私は、ずっとそう思っていた。


何かを手に入れたら。
何かがうまくいったら。
誰かに認めてもらえたら。

 


そうしたらやっと、

幸せになれると思っていた。


だから頑張った。
結果を出そうとした。
期待に応えようとした。
ちゃんとしていれば、

いつか幸せが来ると信じていた。


でも、どれだけ手に入れても、
どれだけうまくいっても、
「幸せになった」という感覚は来なかった。


そこには、すぐ次のものを

探している自分がいた。
もっと、もっと、と動き続けていた。


今思うと、あの頃の私は
幸せをどこか遠くにあるゴールだと思っていた。
頑張って辿り着くもの、

達成するもの、として捉えていた。


だから今の自分の感覚より、
次の目標の方が大事だった。
今ここにあるものを受け取る前に、
もう次を見ていた。


それは、自分を置き去りにしながら

走っている状態だったんだと思う。


でも今は、少し違う感覚がある。


幸せって、なるものじゃなくて、
気づくものなんだと思っている。


朝、コーヒーを飲んでいる時間。
誰かと他愛もない話をした後のじんわりした感じ。
今日やりたいことを今日やれた時の感覚。


それを「いいな」とちゃんと受け取れている時、
そこにもう、幸せがあった。
ただ、気づいていなかっただけで。


「幸せにならなきゃ」と思っている間は、
今ここにあるものが見えにくくなる。


足りないものを探す目になっているから。
あるものより、ないものの方が先に見える。


幸せは、どこかに

到達した先にあるんじゃなくて、
今の自分の感覚をちゃんと

受け取れている状態のことだと、

今は思っている。


それに気づいてから変わったのは、
大きな何かではなかった。


今日の自分が何を感じているかを、
少しだけ丁寧に扱うようになった。
疲れていたら疲れていると認める。
嬉しかったらちゃんと嬉しいと受け取る。
小さな「いいな」を流さないようにした。


自分を置き去りにしない、ということは、
何か大きなことをすることじゃない。


今日の自分の感覚を、
なかったことにしないこと。
それだけで、

毎日の景色が少しずつ変わっていく。