今日も、朝が来ました。
目が覚めて、呼吸をして、体を起こして、
今日という一日が始まった。
その「当たり前」が、
当たり前ではないということを、
私は身体で知っています。
1987年5月5日。
小学6年生の私は、
自転車で交通事故に遭いました。
頭蓋骨陥没骨折、脳挫傷、
左大腿骨骨折、半月板損傷、靭帯断裂。
助かる見込みは極めて低い
と言われる状況の中で、
5日間、意識がありませんでした。
目が覚めた時、
周りの大人たちが泣いていました。
「奇跡だ」と言っていました。
でも子どもだった私は、
それが奇跡だとは思いませんでした。
ただ、何かが身体の奥深くに刻まれた。
命は、当たり前ではない。
その感覚は、言葉ではなく、
感覚として、今も胸の奥にあります。
「命の保証はできない」という言葉
4ヶ月後、退院する日。
医師からこう言われました。
「脳が発作を起こせば、
そのまま死んでしまうかもしれない。
だから一瞬一瞬を大切に生きなさい。」
子どもながらに、
その言葉の重さを受け取りました。
明日は来ないかもしれない。
次の瞬間がこないかもしれない。
私は、
その感覚の中で生きることを選びました。
怖かったかと聞かれたら、
正直、怖かったです。
でも同時に、不思議なほど
清々しくもありました。
「今すぐに死ぬかもしれないなら、
やりたいことをやろう。」
その日から、
興味を持ったことはすぐにやる
人生が始まりました。
「当たり前」という感覚が命を軽くする
今日も朝が来る。
明日も生きている。
来年も、10年後も、ここにいる。
その「当たり前」の感覚が、
少しずつ命を軽く扱わせていきます。
やりたいことを先延ばしにする。
本音を飲み込んで、明日言おうと思う。
大切な人への感謝を、
いつか伝えようと思ったまま、
伝えないでいる。
その「いつか」「また明日」「そのうち」が、
命の時間を刻々と削っていきます。
でも考えてみてほしい。
今日という一日が、
最後の一日だとしたら。
今日会った人が、
最後に会える人だとしたら。
今日言えなかった言葉が、
永遠に言えなくなるとしたら。
これを本気で考えた時、
今この瞬間の見え方が、
がらりと変わります。
命の有限さを理解した時、選択が変わる
命に限りがあることを、
頭ではなく身体で知っている人は、
選択の質が変わります。
どうでもいいことに、
時間を使わなくなります。
本音を飲み込んで我慢し続けることが、
もったいなくなります。
嫌いな人の顔色を窺いながら生きることに、
意味を感じなくなります。
逆に、本当に大切なことが、
くっきりと見えてくるようになります。
今日会いたい人に会う。
今日言いたいことを言う。
今日やりたいことをやる。
それだけでいいのです。
派手な人生でなくていいです。
誰かに称賛される人生でなくていいです。
ただ、今日という命を、
自分の本音に誠実に使うこと。
それが、私が事故の日から
学んだ生き方です。
もし今日が、
あなたの人生最後の一日だとしたら、
あなたは今日、何をしますか?
誰に会いますか?
誰に何を伝えますか?
その答えの中に、
あなたが本当に大切にしているものが、
すべて詰まっています。
命は有限です。
今日という日は、二度と来ません。
当たり前のように続くと思っていた日常が、
ある日突然変わることを、私は知っています。
だからこそ、
今日を大切に生きてほしい。
今日会いたい人がいるなら、
今日会いに行ってください。
今日言いたいことがあるなら、
今日言ってください。
今日やりたいことがあるなら、
今日やってください。
あなたが今日という命を、
どこに使うかを、自分で選んでほしい。
その選択の積み重ねが、
あなたの人生になっていくのだから・・・

