雨のあとに虹 その142
俊之はパソコンに向かってメールを打って検索をした。文書を書いて疲れると珈琲を飲んで一休みした。時計を見ると日付が変わるまでには1時間ほどあった。目をパソコンから離して窓外を見ると空には月や星が輝いていた。そんな時にインターフォンが鳴った。人が尋ねてくる時間ではなかった。
「はい!」
俊之は言ってドアを開けると前には久美子が立っていた。
「俊さん。」
久美子は言った。そのあとの言葉続かずにそのまま黙っていて目には涙を浮かべていた。
「久美ちゃん。」
俊之は言った。いつもとは様子が違う久美子に俊之は気づいたがそれ以上は何も言わなかった。俊之が黙っていると久美子は玄関から入ってくるといきなり自分の全体重を俊之にかけてしっかりと俊之の後ろに手を回した。俊之はとっさに久美子を受止めていた。
「俊さん終わった事はもういいからね。」
久美子は言った。
「どうしたの?」
俊之が言うと
「これからが大事です。」
久美子は言った。
「何があったの?」
俊之が言うと
「この世にいらない人間なんていないのは解っているはずでしょ?」
久美子は言った。
「久美ちゃん落着いてよ。」
俊之が言うと
「目の前に幸福があったらすぐに掴み取らないとすぐに逃げていくのよ。」
久美子は言った。言いながら久美子の背中は小刻みに揺れていた。俊之は久美子を抱きとめながら久美子に何があったのかを少しずつ悟っていた。
ふたりには時々誰にも邪魔をされない時間が流れる時がある。今夜はその何度目かの夜であった。その夜は俊之が俊之であり久美子が久美子であった。ふたりとも自分に正直で嘘はつかなかった。久美子は女性として少しずつ成長していき俊之は男としての自覚を深めていた。夜は少しずつ朝に変化してきていた。
「早くからすみません。」
おしゃれな喫茶店の席に俊之と桑田は座っていた。漫画家の桑田は精悍で俳優のような風貌であった。
「天門先生の本のためですから何をおいても優先させていただきますよ。」
俊之は言った。俊之は天門が書く本の取材を桑田から受けていたのだ。
「早速ですみませんが天門先生と出会ったいきさつからお聞かせください。」
桑田が言うと
「解りました。」
俊之は桑田の目を見て言った。
「失礼します。」
桑田は言ってレコーダーのスイッチを入れた。
「今から3年前の暮れにテレビの企画がありましてね。」
俊之は言った。
「おはようございます。」
久美子が出勤して言った。
「おはよう。」
ひとみが久美子を見て言った。小百合も
「おはようございます。」
と言ってタイムカードを押した。
「昨日は私が午後から用事があって仕事を抜けたけど忙しかったみたいね。」
ひとみが言うと
「私も講義のあとにもいろいろあって大変でした。」
久美子は言った。久美子はひとみに俊之の事を話そうかと思ったが今は話さない方が良いと考えていた。
山本は役員室に遅れて入ってきた。田所がきちんと自分の席に座っているのを確認すると
「おはようございます。」
と田所は言ったが元気な無いようである。
「実務は中村光二くんに任せるから君は総武との交渉の場にいるだけで良いからな。」
山本は言った。田所は力なく
「はい。」
と言っただけであった。
「9時30から17時30分までこの席に座っているようにしてくれ!」
山本は言った。田所は
「解りました。」
と言ったが不満がありそうな表情だった。
「昼休みは12時00分から13時00分までだぞ。」
山本は厳しい口調で言った。
雨のあとに虹 その141
「高村さんのブレーンを連れて来ても良いから総武の舵取りはお願いします。」
春香は言った。
「僕も引受けた以上は責任を持って生命がけでさせていただきますよ。」
俊之が言うと春香は安心するように
「三友商事との業務提携や総武鉄道の延長プロジェクトが早急の課題ですけどね。」
言った。春香が言おうとしている事は俊之もすでに承知していた。
「僕なりの方針は考えてありますよ。」
俊之はあくまでやわらかい口調で言った。
「こういう所しか知らなくてね。」
矢島は行きつけの小料理屋へ久美子を連れて来ていた。久美子は周囲を見回して
「私は小料理屋さんに来るのは初めてです。」
と言った。小料理屋と言ってもかなりの高級感がある店である。
「それは良かった。」
矢島は言った。
「落着いて素敵ですね。」
久美子が言うと
「遠慮しないで座って!」
矢島は丁寧な口調で言った。
「失礼します。」
久美子は言って座った。
「高村さんに総武をお任せします。」
田中が運転する社用車から出て来て春香は言った。
「任せてください。」
社用車から降りた俊之が言うと
「おやすみなさい。」
春香は言った。俊之のマンションの前は静か声が少し響いている。
「明後日には会社に顔を出します。」
俊之は春香に言った。
「その時には軽く主要メンバーを紹介します。」
春香は言って俊之のスーツにある胸ポケットに封筒を入れた。
「これは大丈夫ですよ。」
俊之が言うと春香は
「いいから何かの時に使ってね。」
春香は言った。
「そんなに気を使わなくても大丈夫ですよ。」
俊之が言うと
「総武のトップにはお金が必要になるはずよ。」
春香は言った。
「まだ仕事はしていないですよ。」
俊之が言うと
「父からも渡すように言われたのよ。」
春香は言いながら社用車に入った。田中は春香が座るのを確認すると社用車を静かにスタートさせていた。俊之は去っていく社用車を見送った。
「そんな事があったのですか?」
久美子は言った。矢島から俊之の家族のについて聞いていたのだ。俊之は必ずしも望まれて生まれてきたわけではなかった事を聞いて久美子は自分の事のようにショックを受けていた。父親は仕事もせずにほとんど俊之とは交流が無かった事にも驚きがあった。母親はどこかで俊之が疎ましく妹の静江だけに愛情をかけた事については同じ女性として複雑な気持ちがあった。久美子自身にもその可能性はゼロではなかったのだ。その代わりにおじいさんにはかわいがられていた事が俊之の心を和ませていたのがよく理解できた。友人や仲間に恵まれていて学力など才能もあった事が俊之の運命を良い方向に持ち上げてくれた事は良かったと思っていた。うわさとは言え俊之が小学生の頃に近所のおばさんから俊之と静江にと貰ったケーキが俊之の口には入らなかったらしい事などは久美子の胸を大きく締め付けていた。
「こんな話をするべきではないのかもしれないけどね。」
矢島は言った。久美子は
「お話を聞かせていただいてよかったです。」
と言った。
「久美子さんが高村と真剣な付合いをしているのなら知っておいてもらいたいと思ってね。
矢島は言った。
「俊さんにそんな事があったとは知りませんでした。」
久美子は言った。
「あいつはまだ心のどこかに呪縛のようなものがある。」
矢島が言うと
「呪縛ですか?」
久美子は矢島の目を見て言った。
「一見しては気づかないが自分の幸福には背を向けるところがあってね。」
矢島は言った。
「俊さんはどこかで孤独な空気を持っていますね。」
久美子が言うと
「久美子さんならそれを解放できるかも知れないと思ったものだからね。」
矢島は言った。矢島の言葉を聞いて久美子は思い出していた。
「最初に出会った頃は笑顔でも心では笑っていないような雰囲気がありました。」
久美子が言うと
「高村はいつも表面だけが笑顔だよね。」
矢島は言った。
「時々寂しそうな表情をする事もありました。」
久美子が言うと
「久美子さんも気付いていましたか?」
矢島は言った。
「最近はなくなってきたようにも思いますけどね。」
久美子が言うと
「きっと久美子さんに正直な自分を出せるようになったからだろうね?」
矢島は言った。
「最初から比べると少し明るくなりましたよ。
久美子が言うと
「それはよかったよ。」
矢島は言った。
「時間が解決してくれるのは本当でしょうか?」
久美子が言うと
「あの笹川という青年が奇策を考えてくれるらしいね。」
矢島は言うと久美子に日本酒を注いでいた。
「すみません。」
久美子は言った。矢島には自動車の運転があるのでノンアルコールであった。
雨のあとに虹 その140
沢田は榊原から少し離れた所にいた。ひとみとどんな話をしているかは解らなかったが深刻な話であるのは容易に解っていた。以前は沢田も榊原の支持でいろいろな情報を手に入れたていたが年末から山本が沢田に直接指示を出すようになっていた。会社員にとってはよくあることで仕方がないのである。沢田には複雑な思い頭を占有していた。
「これも辛い役目ですね。」
翔太が言うと沢田は振り向いて立っている翔太を見た。
「お前がどうしてここいるのだ。」
沢田は言った。沢田は翔太が立っている事に違和感がなかった。
「沢田さんも僕と共闘しませんか?」
翔太が言うと
「共闘とはどういう事だ?」
沢田は驚いて言った。沢田は翔太素性が解らなかった。
「僕が持っている情報であなたが必要なものは提供します。」
翔太は言った。
「うまい話をだけをするなよ。」
沢田が言うと
「その代わりに逆もお願いしますよ。」
翔太が言うと沢田は
「構わないが俺は会社員だから立場もある。」
と言った。
「それは解っています。」
翔太は言った。
「俺は会社を辞めるわけにはいかない。」
沢田が言うと
「あなたの立場が悪くなるような事は絶対にしません。」
翔太は言った。この駆け引きは翔太の勝ちであった。
久美子を乗せた電車はビルの谷間を走っていた。駅と駅の感覚が狭いので次の駅まではすぐに着いた。乗客が乗り降りするとすぐに電車は走り出す。日が暮れるとドアのガラスに久美子の顔が映し出されていた。久美子は自分の顔の向こうに見える景色を見ていた。
「遅くなってしまってすみません。」
俊之は笑顔で言った。静かな落着いた雰囲気のショットバーである。春香が先に来ていてグラスを傾けていた。
「私も来てからそんなに時間は経っていないから気にしないでね。」
春香は言った。俊之は春香の前に座って春香を見た。春香も俊之を見ていた。
「ゆっくり会えるのは3年ぶりだね。」
俊之は言った。
「3年の時間は長かったわね。」
春香は言った。
「先日は驚きましたよ。」
俊之は言った。
「高村さんには本当に申し訳なくてせめてもの罪滅ぼしと思って父に頼んだのよ。」
春香が言うと
「麗子さんの件は春香さんのせいじゃないよ。」
俊之が諭すように言った。
改札口を出た久美子は自宅の方向へ歩こうと赤信号を待っていた。少しの時間が過ぎて信号が青に変わると久美子は歩き出した。久美子が歩いていると黒い自動車が車道を走って来て久美子を追い越してから止まった。自動車のドアが開いて矢島が顔を出して
「こんばんは!」
と言った。久美子は驚いて
「矢島さん!」
と言った。
「先日はすっかりご心配とご迷惑をかけたね。」
矢島が大きめの声で言った。
「気にしないでください。」
久美子は言った。江紫組の件では翔太や関口が慌てていて久美子には状況が解らないうちに事が終わっていたのである。
「あの時はすっかりお世話になってしまったね。」
矢島が慣れない言葉を使ってぎこちなく言うと
「私は何もしていないからかえってお互い様と言う事にしてください。」
久美子は言った。矢島は少し強面な部分があるが気さくな性格であった。
「時間あれば食事でもどうですか?」
矢島が言うと久美子は矢島の目を見た。
「矢島さんは俊さんのお友達でしたね。」
久美子が言うと
「あの時にはすっかりお世話になったので高村の話でもしたいね。」
矢島は言った。