校歌の広場 -29ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は三重県です。

三重県は南北に細長い県で、突出した大都市が無く人口は比較的分散しています。
四日市市と津市が30万人ほどの他は、鈴鹿市など中規模の町が県の北半分ほどに散らばっている感じですね。

ここもやはりお勧めは三重県立図書館でしょう。
あとはそれぞれの市町村の図書館ですが、やはり一部の地域しかカバーしていないようです。

三重県立図書館 (延べ4回訪問)
県庁所在地・津市の北郊、一身田地区にあります。県外からは名古屋や大阪から鉄道で行くのが現実的です。
津駅で降りて西口からまっすぐ道なりに行けば図書館や博物館などがある三重県総合文化センターにたどり着きますが、約2kmほどの距離です。
徒歩で25分ほどとあるので散策がてら歩くのも悪くなさそうですが、総合文化センターは高台にあり行きはけっこうな登り坂になります。バスでは10分程度で到着します。
時間があれば、駅近くにある津偕楽公園を訪問してみるのも良いでしょう。津藩・藤堂氏の別荘として整備され、桜やツツジの名所として賑わいがあり蒸気機関車D51も静態保存されています。

アクセスのしやすさ… JR、近鉄とも津駅下車が便利ですが駅からがやや遠い。駅西口から総合文化センター行・夢が丘行のバス。徒歩ではきついでしょう。
所蔵本の充実さ… 県立図書館だけあって学校史は充実していますが、1校1冊が多かったような? 学校要覧もそこそこあります。
所蔵形態など…○ 校史は開架扱いらしく書棚に多く並べられていること、コピー可能の点が良いです。

総合文化センターなのでいくつかの建物があり、初めて訪問したときはホールや会議室などが多くて迷ってしまうかもしれません。
図書館は生涯学習センター棟の1階にあります。迷ったら一度広場に出てみて、エントランス案内表示が緑色の建物が生涯学習センター棟なのでそちらに向かってください。
開館時間は平休日とも9時~19時なので調査時間は充分といえます。(ただ今年3月中は長時間自粛の目的で17時までとなっています)

ここも時間をかければ、ほぼ全校収集は可能でしょうか。旧制に関しては作者が不明なところもあるので完璧とは言えないのですが…
自身の調査では、荻原伊賀いくつかの私立が不明です。

今回は、新潟県の長岡高校です。

http://www.nagaoka-h.nein.ed.jp/

 

新潟県長岡市の中心部、長岡駅から東にほど近い140年以上の歴史ある学校です。

中越地区のトップ校に位置づけられており、国公立大学への進学者が大多数を占めます。

 

学校の創始は明治5年開校の長岡洋学校ですが、その源流を辿れば文化5年(1808年)に設立された越後長岡藩の藩校・崇徳館にまで遡ると言えましょう。

戦国時代の上杉家に代わってこの地に入封した堀家が江戸時代初期に長岡藩を立藩しましたが、すぐに牧野家に取って代わり明治まで続きました。

長岡藩は、幕末の戊辰戦争で奥羽列藩同盟に加わり北越戦争で新政府軍と激しい戦闘を繰り広げた末に敗走、長岡藩士や城下の民はその日の食料にも事欠くほどに困窮してしまう事態になってしまいました。

見かねた支藩から百俵ほどの米が送られてきたとき、時の長岡藩大参事・小林虎三郎は「百俵の米も食えば無くなるが、学校を作って若者の教育に充てれば明日の千俵、万俵にも等しい財産になる」「苦しいときこそ人づくりが必要」と諭して困窮していた藩士達の反対を押し切り、米を売却した資金で明治2年に国漢学校を創立しました。これが有名な「米百俵の精神」です。

その国漢学校はわずか2年で廃藩置県とともに消滅してしまいましたが、当時は国漢学とともに洋学局と医学局が併設されていて、その洋学局の流れを汲んで明治5年に新設されたのが長岡洋学校です。

その後、長岡学校長岡尋常中学校など多くの改称・変遷を経て明治33年に県に移管とともに県立長岡中学校に落ち着きました。そのまま学制改革で長岡高校となり現在に至っています。

 

校歌は第一校歌第二校歌があり、どちらも旧制時代に作られたものですが第二校歌の一部を変更した以外は現在でも歌われているそうです。

第一校歌は作詞・原作:本富安四郎 作曲:植村クニで、明治36年制定です。
旧制・長岡中、長岡高校 第一校歌 (全5番)
 我が中学の其の位置は 構は八文字 浮島の
 兜の城と名も高き 旧城跡を前に見て
 峨々たる嶮峰 鋸は 其の東面に天を指し
 本島一の大河なる 信濃川は其の西に
 汪洋広野を浸しつつ 北海さして流れゆく

 

1番は長岡中学校の環境、2番で学校の歴史、3番以降で学校の矜持と学生の目標を歌う、という構成になっています。1番に鋸山や信濃川といった定番の山川とともに長岡城が歌われていますが、長岡城の別名”兜城”、また縄張りの由来から”苧引形兜城”、信濃川と栖吉川から水堀を廻らせた様から”八文字構浮島城”とも呼ばれていたのを巧みに織り込んでいます。

長岡城は小規模ながら梯郭式の立派な城だったそうですが、先の戊辰戦争により破壊されて廃城となり城址は新政府による意図なのか長岡駅に転用されたため、現在は全く遺構や面影はありません。「旧城跡」とは長岡駅のことなのです。ただ、長岡駅の開業は明治31年なので制定当時はまだいくらか城址の面影は残っていたのかもしれないと思いますが…

3番「剛健忠武の熱血を、維新の歴史に濺ぎたる、彼の先輩の烈を継ぎ…」はもちろん、佐幕派として幕府に忠を尽くした立場の長岡藩士を歌っています。”遺烈””忠烈”のようにの字は気性が強く徳義に厚い人、また先人の功績の意味もあり、戦前の校歌に散見される言葉です。

 

第二校歌は作詞:堀口大學 作曲:深井史郎で昭和16年制定です。

創立70年を機に新しい校歌作成の機運が盛り上がり、卒業生で詩人でもあった堀口大學に依頼して出来上がったとのことで、制定に関しては文部省の省令による検閲?があったらしいそうです。
旧制・長岡中 第二校歌 (全4番)
 翳すゆかりの三葉柏 源淵とほきわが藩の 
 高き精神を新しく ここに伝へて剛健の 
 校風守る一千余 北の丈夫 血はたぎる

 

長岡藩主・牧野家の家紋「三つ柏」から始まり、ここでも長岡の歴史と学校の気風を第一に歌っていますね。3番「歴史かがやく長岡の、文の林に生ひたてる、若木は国の柱ぞと…」は、明治9年に長岡学校として”開校”したとき、当時の新潟県令が詠んだ和歌「長岡の文の林に生い立てる 若木は国の柱とぞなれ」を取り入れています。

 

昭和26年の創立80周年に際して、戦前に作成された第二校歌を作詞者に依頼して戦後の民主的な風潮に即した歌詞に改訂したと伝えられています。

具体的には3番の後半部分「修文錬武日も足らぬ、われらよ学徒報国団」を「智育体育日も足らぬ、われらよ自由民主の子」に、また4番を全面的に改訂しています。

長岡高校 第二校歌 (全4番)

 翳すゆかりの三葉柏 源淵とほきわが藩の 
 高き精神を新しく ここに伝へて剛健の 
 校風守る一千余 北の丈夫 血はたぎる

 

高校野球では夏のみ6回全国大会に出場していますが、初出場時は米騒動で開幕直前に中止となり試合できずに鳴尾球場から去っています。

戦前の長岡中時代に1勝を挙げていますが、戦後は昭和52年、54年とも初戦敗退で校歌は流れていません。

今回から、制定が古い校歌の紹介を始めましょう。

 
このブログで最初に紹介した愛知県の愛知一中(現・旭丘高校)の校歌制定は明治37年、これが"日本最古"と紹介されている文献がいくつかあるようです。
しかし全国は広いもので、それ以前に校歌を制定した学校は少なくとも10校以上はあると思われます。もちろん旧制時代なのですが現在でも歌われているところも少なくなく、まだ未調査の地域でも見つかる可能性はあります。
 
最初は栃木県の宇都宮女子高校です。
 
県都・宇都宮市、JR宇都宮駅から西へ2kmほどの栃木県中央公園近くにある女子校です。通称は"宇女"、"宇女高"で、栃木県でも有数の歴史と進学校として高い人気があります。
 
明治8年に当時の栃木県庁所在地だった栃木町(現・栃木市)に栃木女学校として開校しました。140年以上の歴史がある、現存する公立の女子校では日本最古の学校だそうです。
明治12年に栃木県第一女子中学校と改称しましたが、興味深いのは"女子中学校"という名称です。女子の旧制中等教育学校は、ほとんどが最初から"女学校"か"高等女学校"だった中で極めて異例なことでした。
更に数年後に旧制・栃木県第一中学校(現・宇都宮高校)と合併して中学校の女子部となりました。とは言っても共学ではなかったようですが、これもまた他に例を見ない制度でした。
 
県庁が宇都宮に移転するとともに学校も移転し、明治26年に尋常中学校から独立して宇都宮高等女学校、宇都宮に2校目の高女が開校したのに伴い昭和6年に宇都宮第一高等女学校と変遷したのち、学制改革で宇都宮女子高校となりました。
学制改革の際、市立宇都宮高女を統合したようですが、この学校に関しては校歌などは未調査により不明です。
 
校歌は2つあり、どちらも旧制時代に作られました。
初代校歌は作詞:篠崎雄二郎 作曲:栗本清夫で明治36年制定です。
旧制・宇都宮高女 旧校歌 (全1番)
 くれ竹の 常磐のみどり なつかしや
 みさをのかゞみ 学びの友 雪にもをれず
 撓みなく あしたにゆふべに 睦びつゝ
 よみ書き たち縫ひ いそしめや
 賢母良妻 これぞこの下野の華 御代の花
 あなゆかし 黒髪の山高く
 幸の湖 ふかきを心
 いざいざ 波風のどかに 千とせ経よ
 
2代目の校歌は作詞:小林良一 作曲:梁田貞で大正10年に制定、これが現在の校歌です。
宇都宮女子高校 現校歌 (全2番)
 恵みの波を たたへたる
 幸の湖 水きよみ
 二荒の峰の 姫小松
 千代も変はらぬ 影うつす
 これぞここなる まなびやの
 庭に集へる 乙女らの
 心をこめて 朝夕に
 磨く操の かがみなる
 
栃木県の北西方、関東平野の北限をなす日光連山でひときわ目立つのは男体山です。男体山は別名二荒山(ふたらさん)、黒髪山とも呼ばれる霊峰で、山岳信仰の対象となり日光二荒山神社の奥院が置かれています。
幸の湖とはその近くにある中禅寺湖のことで、明治天皇が風光明媚な光景から命名されたそうです。宇都宮にあってこの湖を歌ったのは、栃木の名勝とともに明治天皇が何度かこの地に行幸されたことも少なからず影響していると思われます。
 
初代校歌の冒頭「くれ竹の常磐のみどり…みさをのかゞみ…雪にもをれず、撓みなく…」は、ことわざ"雪圧して松の操を知る"を取り入れたものでしょうか。
呉竹や松に女性としてのしなやかさや節操を、上品さを花に見立てて、婦女の徳を立てよという内容は戦前特有のものですが、大正時代まではまだ勇壮さよりは柔らかい言葉で歌われているものが多いようです。
 
進学校ですが部活動も盛んで、弓道部や競技かるた部、放送部などが全国大会に出場しています。

今回は、三重県の四日市工業高校です。

 
四日市市は三重県北部に位置する工業都市です。
古くから東海道43番目の宿場、また四日市庭浦と呼ばれた水運の重要港として栄えてきました。
東海道の宮宿と伊勢国を結ぶ海上交通は、桑名宿との"七里の渡し"が主でしたが、四日市宿との"十里の渡し"も急行便のような役割で運行されていたそうです。
近年は石油科学コンビナートが進出して中京工業地帯の一角を占める三重県随一の工業都市となった反面、四日市ぜんそくが発生した負の歴史もあります。
四日市港はきらびやかな工場夜景が有名になり、うみてらす14など観光スポットがいくつかある他、クルーズ船も運行しています。
 
学校は大正11年に四日市商工補習学校として創立し、四日市商工専修学校を経て四日市市立商工学校となりました。
旧制時代の校歌は作詞:佐佐木信綱 作曲:弘田龍太郎で、新旧とも制定年は不明です。(追記)昭和14年制定です。
旧制・四日市商工 (全3番)
 世界を照らす 旭日の皇国
 聖地 伊勢の湊 四日市
 日本の産業 興さむために
 振へ共に 鵜の森の業士
 
学制改革で県に移管され、一旦四日市高校に集約されたあと昭和25年に工業科が分離独立して現校名になり現在に至ります。
かつては伝統的な地場産業の焼き物・萬古焼の技術を学ぶ窯業科がありましたが、現在は物質工学科の一部になっています。
高校の校歌は作詞:佐佐木信綱 作曲:信時潔です。(追記)昭和26年制定です。
四日市工 (全3番)
 伊勢の海 波のおと豊に
 さかゆる港 四日市
 鵜の森に近き 学び舎に
 学ぶ 工業の技術と精神
 
校訓"技術と精神"は、職業人は技術と共に精神の練磨が必要不可欠なものという意味で取り入れられています。
追記:新旧ともに歌われる「鵜の森」とは、四日市駅の近くにある鵜の森公園・鵜森神社を指します。浜田城趾があったところで、神社には城主・田原家四代を祀っています。
旧校地は鵜の森公園の北近くにあり、今は四日市市民公園となっているようです。学校は昭和57年に南方の日永地区に移転しました。
 
佐佐木信綱氏は戦前から戦後にかけて関東・東海・近畿地方で多くの学校の校歌を作られました。
戦前に作った学校が戦後同氏に再び新しい校歌を依頼することもあった中で、特徴的なのはその戦前の校歌の内容を一部分残す、いわゆる"改訂"のような形が多いような気がしますね。
この四日市工も、旧制3番「颯爽明くる朝の空に、力づよく高く動なき、鈴鹿の高嶺ぞ…」が現在の2番「颯爽と明くる朝空に、かがやきむかふ鈴鹿山…」に受け継がれています。
 
高校野球では、平成前半に春夏3回ずつの甲子園出場があり2勝を挙げました。
今回は、岐阜県の斐太高校です。

岐阜県北部、日本最大の面積を誇る高山市にある創立130年を超える伝統校です。
"斐太(ひだ)"という字はもちろん飛騨のことで、万葉集の頃はこの表記だったので取り入れたとのことです。

明治19年に飛騨三郡経営高山学校が岐阜県で2番目の中等学校として創立しましたが、開校2ヶ月後に早くも斐太学校と改称しています。高山周辺に限定せず、飛騨地方一円を代表する学校の意味合いを持たせたのでしょうか。三郡というのは大野・荒城・益田郡でこの3つで飛騨国を形成していたようです。
明治21年に県に移管して斐太中学校となり、そのまま学制改革で斐太高校となって現在に至ります。
卒業式のときに行われる"白線流し"で有名で、ドラマにもなった早春の伝統行事は高山の名物ともなっています。
校歌は作詞:今村勝一 作曲:楠見恩三郎で明治41年制定です。
斐太 (全3番)
 そそり立ちたる 乗鞍の山
 たぎち流るる 宮川の水
 山と水とを 後へに前に
 控えて抱きて 我等は集ふ

公式HPにある音源は1,2番と3番の間奏があまりにも長いので、もしかしたら昔は5番くらいはあったのでは?と思ったのですが、校史などで検証してみても当初から3番構成だったようです。
乗鞍岳や宮川といった自然に抱かれた学校で、理想に向かって切磋琢磨していこうと歌っています。

白線流しについて、もう少し紹介しましょう。
例年3月の卒業証書授与式が終ったあとに、学校近くの大八賀川に全校生徒が集まり惜別の歌を交換しながら白線を流し、永遠に変わらぬ友情を誓うというものです。アメリカの卒業式でのハットトスみたいなものでしょうか。
白線とは中学生の制帽に付いていた白い線のことで、旧制中学校からの伝統なのですが、共学になった戦後からは女生徒のセーラー服のスカーフも一緒に結んで流すようになりました。テレビなどではスカーフが連なって川に流れていく光景が多く見られますね。
 
校歌ではありませんが、特例でこの惜別の歌も紹介します。
巴城ヶ丘別離の歌 (全2番)
 巴城ヶ丘に のぼりえて
 春秋ここに 三星霜
 雄壮清き アルプスの
 峰を仰ぎつ 去る雲に
 思い托して 我は行く

今年は新型コロナウィルス禍で在校生が参加できず、やや寂しい行事となりましたが、伝統はこれからも続いていくことでしょう。