新潟県立 長岡高等学校 (古い校歌シリーズ その2) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、新潟県の長岡高校です。

http://www.nagaoka-h.nein.ed.jp/

 

新潟県長岡市の中心部、長岡駅から東にほど近い140年以上の歴史ある学校です。

中越地区のトップ校に位置づけられており、国公立大学への進学者が大多数を占めます。

 

学校の創始は明治5年開校の長岡洋学校ですが、その源流を辿れば文化5年(1808年)に設立された越後長岡藩の藩校・崇徳館にまで遡ると言えましょう。

戦国時代の上杉家に代わってこの地に入封した堀家が江戸時代初期に長岡藩を立藩しましたが、すぐに牧野家に取って代わり明治まで続きました。

長岡藩は、幕末の戊辰戦争で奥羽列藩同盟に加わり北越戦争で新政府軍と激しい戦闘を繰り広げた末に敗走、長岡藩士や城下の民はその日の食料にも事欠くほどに困窮してしまう事態になってしまいました。

見かねた支藩から百俵ほどの米が送られてきたとき、時の長岡藩大参事・小林虎三郎は「百俵の米も食えば無くなるが、学校を作って若者の教育に充てれば明日の千俵、万俵にも等しい財産になる」「苦しいときこそ人づくりが必要」と諭して困窮していた藩士達の反対を押し切り、米を売却した資金で明治2年に国漢学校を創立しました。これが有名な「米百俵の精神」です。

その国漢学校はわずか2年で廃藩置県とともに消滅してしまいましたが、当時は国漢学とともに洋学局と医学局が併設されていて、その洋学局の流れを汲んで明治5年に新設されたのが長岡洋学校です。

その後、長岡学校長岡尋常中学校など多くの改称・変遷を経て明治33年に県に移管とともに県立長岡中学校に落ち着きました。そのまま学制改革で長岡高校となり現在に至っています。

 

校歌は第一校歌第二校歌があり、どちらも旧制時代に作られたものですが第二校歌の一部を変更した以外は現在でも歌われているそうです。

第一校歌は作詞・原作:本富安四郎 作曲:植村クニで、明治36年制定です。
旧制・長岡中、長岡高校 第一校歌 (全5番)
 我が中学の其の位置は 構は八文字 浮島の
 兜の城と名も高き 旧城跡を前に見て
 峨々たる嶮峰 鋸は 其の東面に天を指し
 本島一の大河なる 信濃川は其の西に
 汪洋広野を浸しつつ 北海さして流れゆく

 

1番は長岡中学校の環境、2番で学校の歴史、3番以降で学校の矜持と学生の目標を歌う、という構成になっています。1番に鋸山や信濃川といった定番の山川とともに長岡城が歌われていますが、長岡城の別名”兜城”、また縄張りの由来から”苧引形兜城”、信濃川と栖吉川から水堀を廻らせた様から”八文字構浮島城”とも呼ばれていたのを巧みに織り込んでいます。

長岡城は小規模ながら梯郭式の立派な城だったそうですが、先の戊辰戦争により破壊されて廃城となり城址は新政府による意図なのか長岡駅に転用されたため、現在は全く遺構や面影はありません。「旧城跡」とは長岡駅のことなのです。ただ、長岡駅の開業は明治31年なので制定当時はまだいくらか城址の面影は残っていたのかもしれないと思いますが…

3番「剛健忠武の熱血を、維新の歴史に濺ぎたる、彼の先輩の烈を継ぎ…」はもちろん、佐幕派として幕府に忠を尽くした立場の長岡藩士を歌っています。”遺烈””忠烈”のようにの字は気性が強く徳義に厚い人、また先人の功績の意味もあり、戦前の校歌に散見される言葉です。

 

第二校歌は作詞:堀口大學 作曲:深井史郎で昭和16年制定です。

創立70年を機に新しい校歌作成の機運が盛り上がり、卒業生で詩人でもあった堀口大學に依頼して出来上がったとのことで、制定に関しては文部省の省令による検閲?があったらしいそうです。
旧制・長岡中 第二校歌 (全4番)
 翳すゆかりの三葉柏 源淵とほきわが藩の 
 高き精神を新しく ここに伝へて剛健の 
 校風守る一千余 北の丈夫 血はたぎる

 

長岡藩主・牧野家の家紋「三つ柏」から始まり、ここでも長岡の歴史と学校の気風を第一に歌っていますね。3番「歴史かがやく長岡の、文の林に生ひたてる、若木は国の柱ぞと…」は、明治9年に長岡学校として”開校”したとき、当時の新潟県令が詠んだ和歌「長岡の文の林に生い立てる 若木は国の柱とぞなれ」を取り入れています。

 

昭和26年の創立80周年に際して、戦前に作成された第二校歌を作詞者に依頼して戦後の民主的な風潮に即した歌詞に改訂したと伝えられています。

具体的には3番の後半部分「修文錬武日も足らぬ、われらよ学徒報国団」を「智育体育日も足らぬ、われらよ自由民主の子」に、また4番を全面的に改訂しています。

長岡高校 第二校歌 (全4番)

 翳すゆかりの三葉柏 源淵とほきわが藩の 
 高き精神を新しく ここに伝へて剛健の 
 校風守る一千余 北の丈夫 血はたぎる

 

高校野球では夏のみ6回全国大会に出場していますが、初出場時は米騒動で開幕直前に中止となり試合できずに鳴尾球場から去っています。

戦前の長岡中時代に1勝を挙げていますが、戦後は昭和52年、54年とも初戦敗退で校歌は流れていません。