校歌の広場 -28ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

ここから19世紀以前制定の校歌になります。
今回は、東京都の跡見学園中学・高校です。

文京区大塚に所在する、東京の伝統ある名門女子校のひとつです。
教育者でもあった跡見花蹊女史によって明治8年に設立された私立跡見学校を前身としています。その更に源流は、安政6年(1859年)に東京で開いた女子向けの私塾まで遡るとされているそうです。
東京の女子校では最古の歴史を誇り、また日本人が設立した女学校としては日本最古だそうです。
開学当初から式典などで着用する服(当時は紫紺袴のみ)が定められていましたが、平常時の制服が制定されたのも大正4年とこれも女学校では初です。漫画・ドラマ「はいからさんが通る」のモデル校といわれ、作中の和装は当時の制服を模したものと思われます。

戦中まで長らく跡見女学校でしたが昭和19年に廃止され、改めて跡見高等女学校として再発足し、学制改革で跡見学園となり中学校と高校が相次いで設置されて現在に至ります。
校歌は作詞:大和田建子 作曲:多久毎で明治33年制定です。「花桜」というタイトルが付けられているようです。
跡見学園 (全3番)
 学びの庭に 咲きにほふ
 やまと心の 花ざくら
 かざせや かざせ もろともに
 御代のめぐみの 露そへて

3番「花のしたみち あととめて、なほ分け入らむ 奥までも」は、したみち=となり校祖・跡見花蹊の暗喩と思われます。さらに"桃李もの言わざれども下おのづから蹊をなす"を下地として、花蹊女史の教えを慕って跡見学園で学問を追求する女性の姿を歌っているのでしょう。

現在は完全中高一貫校となり高校の募集は行っていません。
"あね・いもと"の校風のもと「ごきげんよう」の挨拶から始まる学校生活では年上年下の交流が盛んで、どんな行事も中高一緒に行うそうです。
今回は、新潟県の新発田高校です。

新発田(しばた)市は新潟県のやや北部、越後平野の北端に位置する町です。
飯豊山系から流下する加治川の清流と広大な沃野を擁して、この辺りは新潟県でも有数の米どころでもあります。加治川はかつては日本一、東洋一と言われた長大な桜堤で有名でしたが、日本海の海岸砂丘に遮られる形で流路が湾曲していたため度々水害が発生、桜も多くが伐採されました。

新発田藩の城下町でもあり、菖蒲が自生する湿地帯に築かれたため"菖蒲城"という別名があります。
新発田城は明治期に一旦廃城となり城郭も破却されましたが、長年復活が望まれて平成初期に古写真や資料を元に伝統的手法で復元して一般公開されています。天守代用の御三階櫓の屋根はT字形になっていて、鯱が3つ載るのは全国でもここだけだそうです。

学校は新潟県下で4番目の旧制中学、新発田町外67ヶ町村組合立北蒲原尋常中学校として明治29年に創立、翌年に開校しました。同時に佐渡中学校も設立されています。
明治33年に新発田中学校と改称し、そのまま学制改革で新発田高校となり現在に至ります。通称"芝高"と呼ばれる県北の進学校で、多くの学生が国公立を始めとする大学に進学しています。
校歌は作詞:渡部坦治、久代左司馬 曲:海軍歌「勇敢なる水兵」で明治34年制定です。
新発田 第一校歌? (全10番)
 蒲城の東 五十公野の
 大空高く 聳ゆるは
 これぞ吾々 学生が
 教を受くる 校舎なる

勇敢なる水兵とは、明治28年発表の七五調4行で10番構成の海軍軍歌です。作曲者は奥好義、日清戦争で敵艦を攻撃した結果を案じて殉死した水兵を歌ったとされます。
新発田高校のこの校歌は先に曲があってそれに詞をつける、いわゆる"替え歌"形式だそうです。このような例は讃美歌や旧制呉港中(現・呉港高校)第一校歌があります。
原曲から取り入れたとはいえ10番まである校歌は全国的にも希少です。長い校歌のひとつですがテンポが非常に速く、1番で20秒強、10番フルで歌っても4分ほどではないでしょうか。
6番や9番など戦後改訂されたと思しきところもあるので、いつか遠征して調査してみたいと思います。

新発田高校の公式HPやその沿革、同窓会でも校歌は「蒲城の東」だけ載っているのですが、ある文献によれば旧制時代にはもう一つ校歌が制定されていたはずです。
相馬御風作詞、中山晋平作曲のものだったようで歌詞、制定年は未調査により不明です。

高校野球では平成28年夏に新潟県大会決勝に進出し、あと一歩で甲子園出場というところでしたが惜しくも初出場は成りませんでした。
今回は、山梨県の日川高校です。

山梨市は山梨県の東北部、甲府盆地の最東部にある町です。
フルーツで有名な山梨県にあって果樹園が多く、ブドウさくらんぼなどが特産品です。また寒暖差が大きく晴天の日も多いことから国産ワインの醸造が盛んで、ワイナリーも発達している地域です。
市内の清白寺は足利尊氏によって開基されたといわれ、仏殿は国宝に指定されている他、西湖梅や御衣黄桜などが植えられているそうです。

県都・甲府につづく旧制中学校の山梨県第二中学校として明治34年に開校した、120年ほどの歴史ある学校です。
"日川"は甲州市などを流れる笛吹川の支流の河川名ですが、ここの場合は当時東山梨郡日川村だったことからの校名です。日川村は昭和29年に周辺の2町4村と合併して山梨市となりました。
明治39年に日川中学校と改称したあと、昭和23年に学制改革で日川高校となりました。

最初に歌われていたのは"開校記念歌"と呼ばれるものです。作者は不明ですが、開校と同時ならば明治34年ということになります。
旧制・日川中 開校記念歌(全7番)
 年は明治の三十四 二十二日はうつきにて
 我この日川中学校 此の大御代に生れけり

1番に開校の日付が歌われているのが開校記念らしいですね。「うつき」は卯月で4月の意味です。
4番「…黄金鉄石も、熔さん夏の日ありとも、などかは熔けん我が心…」、5番「…千山万岳の、埋れん冬の雪とても、などか埋れん我が心…」と、学校がある甲府盆地の内陸性気候に耐える心根を励ます歌でもあります。
このため、校史でも次に紹介する二代目が制定されるまでの15年間、実質公式的な校歌扱いされていたとあるようです。開校当初は二中だったので最初から「日川中学校」と歌われたのかは調査が及ばず不明です。

現在の校歌でもある2代目の校歌は、作詞:大須賀乙字 作曲:岡野貞一で大正5年制定です。
日川高校 (全4番)
 天地の正気 甲南に
 籠りて聖き 富士が根を
 高き理想と 仰ぐとき
 吾等が胸に 希望あり

日川高校の校歌で特徴的なのは3番の歌詞でしょう。「…天皇の勅もち、勲立てむ時ぞ今」部分は戦前戦中の時点では大日本帝国憲法下で当たり前の表現ですが、戦後になっても一言一句そのまま受け継がれたのです。
この部分は非常にナイーブな問題なので、このブログでは詳しくは触れませんが「日川高校校歌問題」などで検索してください。訴訟も起こされ、東京高裁まで審理されたようです。
2番が河川・日川を歌っていると思われます。

高校野球では、春1回・夏4回の計5回甲子園出場があります。平成25年夏は待望の初勝利を挙げ、校歌が流れました。
他にはラグビー部が県の強豪で、花園大会でも上位に食い込むことがあります。ウェイトリフティング部はオリンピック選手を輩出したこともあり、インターハイ優勝回数は全国最多だそうです。
今回は、愛知県の安城農林高校です。

安城市は愛知県のほぼ中央、西三河地方の田園都市です。
二子古墳などの大規模なものも含めて古墳や遺跡が多く、古代からこの地域は人間活動があったことが判っています。
室町時代頃から台頭してきた松平氏は三河各地に分家を置き、このうち後世の徳川氏につながる安祥松平家が本拠地としていたのが安城でした。
徳川家康の祖父・松平清康によって本拠が岡崎に移され、徳川家康で天下統一した後も安城時代からの家臣は"安城譜代"として幕府でも重要な地位を占め続けました。

安城を含めた碧海郡の周辺は、明治時代以前は"安城が原"と呼ばれる雑木や荒れ野の様相でした。
ここに矢作川から取水する明治用水が開通したことで農耕に適した沃土に改良され、農民や入植者の努力によって近代的な農村や集落が形成されていきます。

このような背景に誘致されたのが愛知県立農林学校で、最終的に安城町(現・安城市)に設置されました。
安城市では最初に設立された旧制中等学校で、創立開校は明治34年です。初代校長の山崎延吉氏は農業に教育を取り入れ、農業経営の改革と人材の育成に力を注ぎました。
大正時代には広大な水田の他に畑作、養鶏、養蚕、果樹園なども開かれ多角的経営のもと"日本デンマーク"と呼ばれる農業先進地となり、学校も"日本三大農学校"のひとつとされ全国から農業を志す若者が集まったそうです。
大正11年には安城農林学校と改称しました。

校歌は作詞:熊谷八十三 曲:旧制第一高等学校寮歌で明治34年制定です。
旧制・安城農林学校 (全4番)
 花は桜木 武士の
 心も勇む 春の空
 己が務めを身にしめて
 学の山路を踏み行かば
 楽しき行手は目に近し
 進めや 有為の健男児

「花は桜木、人は武士」のような歌い出しですね。山崎延吉氏の希望で開校4ヶ月後に作られたそうです。
鍬の刃深く打ち込めば…」「斧の柄高く打ち振れば…」が農学校らしい詞ですね。

学制改革で安城農林高校となった直後の昭和25年に一部を改訂して現在の校歌になっています。4番「五度の冬もすぎゆけば…」を「三たびの冬も過ぎゆかば…」などです。
安城農林高校 第一校歌 (全4番)
 花は桜木 ますらをの
 心も勇む 春の空
 己が務めを身にしめて
 学の山路を踏み行かば
 楽しき行手は目に近し
 進めや 有為の健男児

安城のその後は工業化によって農業第一というわけでもなくなったことや、共学にふさわしいものをという時代の流れによって現代的な詞の第二校歌が制定されました。
第二校歌は作詞:二瓶浩明 作曲:寺井尚行で制定年は不明です。平成初期頃にできたのではないかと思いますが…
安城農林高校 第二校歌 (全4番)
 光舞い降る 三河の大地
 未来へ進む 行く手には
 空の広がる 世界がありて
 われら 安城農林の
 若い力は 果てしなし

4番「有始有終橋」とは学校正門手前に架かる橋で、登校・下校の心の切り替えどころや人生には終始があるから何事も全力で行こうという意味があるそうです。
高校野球で勝利したときは、この第二校歌のほうを歌っているようですね。

今回は、広島県の三次高校です。

http://www.miyoshi-h.hiroshima-c.ed.jp/

 

三次市は広島県の北部、”備北”と呼ばれる地域の中心都市です。

中国山地の山あいに位置し過疎地にある中で、庄原市とともに人口密集域のひとつでもあります。地理上島根県との結びつきも強く、以前はJR三江線が運行されていましたが平成30年春に全線廃止されてしまいました。

 

三次市の中心部は、北から西城川、東から馬洗川、南から可愛川(えのかわ)が”三つ巴”のような形で合流してくる全国でも珍しい地域です。ここから江の川となって北流し島根県で日本海に注いでいます。このため”巴峡”とも呼ばれ、400年以上の歴史がある鵜飼いや桜堤の花見、花火など伝統的な行事が多いです。

また、町のある三次盆地は地形上霧が発生しやすく、3本の大きな川から立つ多量の川霧と相まって深い霧となるようです。周囲の高谷山や岡田山など高所から見るとまるで海のように広がり、山々が小島のように浮ぶ様から「霧の海」と呼ばれる幻想的な風景が見られます。

秋から早春にかけての寒い朝、概ね晴れの日が好条件のようですね。高谷山には霧の海展望台があり、絶景を見るために人が集まる観光名所となっています。

詳しくはこちら→三次市・巴峡みよし 霧の海に抱かれて美の余韻にひたる

 

このような県北の町に、明治31年に広島県第三尋常中学校として創立されたのが最初です。

その後、数年の内に広島県立第三中学校三次中学校と改称していて、どれも”三”がらみのためか通称”三中”と呼ばれていました。

旧制三次中の校歌は作詞:三次中学第一期生徒 曲は一高寮歌を借りて歌っていたそうです。制定は明治36年です。

旧制・三次中 初代 (全6番)
 比叡尾の山の曙に

 紅匂ふ 花霞
 比熊の紅葉 錦繍の

 裳によする 霧の海
 万岳の翠 たたへきて

 巴描くや 三つの川
 美しき巴峡の片ほとり

 建てるは 三次中学校

 

2番「記せよ偲べよ我が校は、明治三十一の春、動かぬ基建てしより…齢重ぬる百二十年」は、創立(1898年)から現在までの経年数が入るそうです。この部分は毎年変わるようですが、日常は歌う機会はあまり無いのではないでしょうか。

3番には剣道、テニス、柔道、野球などの部活動と思しき詞が入っています。旧制時代には、こういった活動や行事を歌ったものも少なくありませんね。6番は江の川が歌われ、源流から日本海に勢いよく流れていく様を学生の向上の姿になぞらえ未来は希望に満ちていると解釈できます。

 

ところで、公式HPの校歌ページには三次中学校の”もう一つ”の校歌が準備中とあります。

広島遠征で知ったことですが、確かに旧制三次中にはもう一つ校歌がありました。初代校歌は曲が借り物だったこと、詞も個人主義的だと批判されたために新しく作ったのだそうです。

作詞:風巻景次郎 作曲:高田信一で、昭和16年制定です。

明治36年に初代、昭和16年に二代目というのは奇しくも前回の長岡高校(旧制長岡中)と同じです。しかしこちらは戦後は同窓会で歌われるのみでしょうか。
旧制・三次中 二代目 (全3番)
 空は高し 比叡尾

 あきらなり 窓の眺め
 剛健 意気は昂る

 まさにこれ 質実
 校運 窮みあらず
 いよよ勉め励まむ

 我等 勉め励まむ

 

もうひとつの源流である三次高等女学校は、明治41年に双三(ふたみ)郡立技芸女学校として開校、大正10年に三次高等女学校と改称しました。

三次高女の校歌は作詞:風巻景次郎 作曲:高田信一で、これは三次中2代目と同コンビです。高女のほうが先に作られたと思われるのですが、制定年は不明です。
旧制・三次高女 (全2番)
 足引きの山麗はしく

 巴なす 流れも清き
 みよしのに そゝる学屋に

 撫子の友垣むつぶ

 

学制改革で旧制三次中が三次高校に、三次高女が三次西高校になったあと昭和24年に統合されて新制・三次高校になりました。平成31年には校内に三次中学校も併設開校、中高一貫教育を始めました。

三次中・高校の校歌は作詞:井上三喜夫 作曲:戸塚烈で制定年は不明です。
三次中・高校 (全3番)
 若きもの われらあかるく

 みどりなす 山を仰ぎて
 いざともに つとめ学ばん

 霧はるる 日々あたらしく
 輝くは 高き理想ぞ

 栄えあれや 三次高校

 

これら4つの校歌に共通して出てくるのは、やはり三次の象徴”巴峡”と””です。

三中初代「裳に寄する霧の海」「巴描くや三つの川」、 三中二代目「霧は海と深く…」「水は描く巴」、 三女「巴なす流れも清き」、 三高「霧はるる日々あたらしく…」「巴なす流れをくみて」など、三次周辺の人々にとっては身近な存在だからでしょうね。

 

以上が明治36年制定の校歌紹介でした。

これ以外にも見つかる可能性は否めないのですが、それはそれで後日改めて紹介することもあろうかと思います。