校歌の広場 -20ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、神奈川県の弥栄高校です。

https://yaei-h.pen-kanagawa.ed.jp/

現在は相模原青陵高校と統合して相模原弥栄高校となっていますが、ここでは弥栄高校を紹介します。

 

相模原市中央区弥栄に位置する学校で、弥栄東高校弥栄西高校が統合して新設・弥栄高校として開校しました。

最寄り駅はJR横浜線・淵野辺駅と相模線・上溝駅でしょうか。南隣に野球場や銀河アリーナを持つ淵野辺公園があります。

歴史的に見れば、この周辺は戦前の大正4年に設立された陸軍自動車学校が、戦後はその敷地を接収して米軍施設”キャンプ淵野辺”として使用されていたところです。キャンプ淵野辺は昭和49年に日本に返還、跡地は「三分割有償処分方式」を基に払い下げられて国・相模原市・留保区に分けられ、その相模原市部分の一帯は学校や博物館などになりました。グーグルマップで見ると淵野辺駅南方の住宅地の中に長方形の緑豊かな区画があるのが判るでしょうか。それが元・キャンプ淵野辺です。

 

昭和58年、弥栄地区の学校敷地を東西に分割する形で弥栄東高校弥栄西高校が開校しました。なぜひとつの学校としてではなく東西に分けたのかという疑問がありますが、まず当時は団塊ジュニア世代の高校進学数が急増しつつあったこと、その後は減少に転じる予測から、当初から将来的な統合を見込んでいたのではないかと思います。実際「神奈川百校計画」の最終段階では最初から統合・廃校を見込んで比較的簡素な校舎や施設で建造されたところもあったようです。

また、生徒数の急増に伴う多様化への対応として特色を打ち出すため、神奈川県初の専門コースと”2校間連携教育”のパイオニア校という意味合いも大きかったのです。弥栄東高校は普通科の他に音楽コース・美術コース、弥栄西高校は体育コース・外国語コースがありました。学校施設は東西の校舎とそれぞれをつなぐ共同棟があり、授業や部活動は連携、様々な行事(文化祭・体育祭・球技大会など)も両校合同、校章も両校とも盾を図案化したものなど様々な面で一心同体のような関係でした。

似たような事例としては千葉県浦安市幕張にあった「幕張三校(幕張北・幕張東・幕張西)」で、なんと校地を3分割して互いに隣接した別々の学校という形態だったのです。ここも現在は統合されて幕張総合高校というひとつの学校になっています。

 

弥栄東高校の校歌は作詞:多田真佐子 補作:岩崎厳 作曲:寺島雅春です。 
弥栄東 (全3番)
 みどり濃き 木立を背に 
 相模野の風に立つ 
 学び舎ここに 集える若人 
 弥栄東高校 
 築きあげよ 新たな理想

 

弥栄西高校は作詞:田中寛子 補作:校歌制定委員会 作曲:寺島雅春です。
弥栄西 (全3番)
 西に丹沢 相模の流れ 
 四季折々の色添えて 
 ひかり輝く 我らが母校 
 英知と技を育むところ 
 弥栄 弥栄 弥栄西高

 

この2つの校歌の制定年月日は不明ですが、作曲者が同じからか歌詞は別でも両校ともコード(和音)進行が同じように作られ、「異体同心」のごとく単独でもハーモニーでも歌えるという特異な校歌となっています。

東高3番「窓ひかる二つの校舎」、西高2番「東西ともに手をとりて、結ぶ絆ぞ…」と連携教育らしい詞もありますね。

 

平成20年に「相模原方面・集合型専門高校」として東西を統合、国際科・芸術科・スポーツ科学科・理数科の4科を設置する”新校”弥栄高校として開校しました。現在は更に改編されて普通科・音楽科・美術科・スポーツ科学科の4科になっています。

また、教育交流を主眼とした高大連携も多くなされ、理化学研究所、美術大学や音楽大学などと専門大学や幅広い進学ニーズに合わせた教育を行なっています。

校歌は作詞:校歌歌詞選定委員会 作曲:足立誠で平成20年制定です。
弥栄 (全3番)
 緑の風が吹く 青き空の下
 受け継ぎし 誇りの校章
 盾かざす 我が胸に 
 英知と勇気の 二つの翼
 拓け 歴史を 弥栄高校

 

東西両校の校歌を折衷したような感じですね。作曲者は違いますがあえて意識して東西両校と同じコード進行で作られたそうで、3校それぞれでも全体でも歌うことができるようです。

2番「集える星あかり、金蘭を照らして競いあい、希望の道を進んでいこう弥栄人」は、学生を星に見立て”金蘭の友”、”金蘭の契り”のように厚い友情を育み、心豊かで世界に開かれた視野を持つ「弥栄びと」になってほしいという意味が込められています。また金蘭は学校の花にもなっているようです。

完全体?となった盾の校章、両校を翼になぞらえて比翼の鳥として未来に向かう様など、他の高校とは一味違う”弥栄”を端的に表したともいえるでしょう。

 

部活動は運動部・文化部とも非常に盛んで、全国大会や関東大会に進出したり数々のグランプリや上位入賞をあげたりしています。

以前、歴史のある高校シリーズで愛知県の時習館高校を紹介しました。

https://ameblo.jp/hakutsuru45/entry-12508316831.html

 

この記事で触れた「明治30年頃に歌われていた?とされる校歌」について、後追い調査しましたので少々補足したいと思います。

「時習館史」という、1500ページにも渡る校史では歴代では5つの歌が歌われていたとされます。最初は「豊橋尋常中学時習館校歌」、次に「三河男児の歌」、応援歌「三州の野に」、「豊橋中学校歌」、現在の「時習館高校歌」です。このうち三河男児の歌は三河地方の学校で広く歌われていた愛唱歌のようなものとあり校歌とは言えません。

校史の時習館中校歌は、正確には明治30年頃の卒業生が「…校歌あり、しかし今は口に出す人も少なく後代に忘れられないよう記録に留めておく」として書き残したものが伝えられている、ということだそうです。

 

時習館高校の前身は明治26年に私立補習学校時習館として創設され、2年後に豊橋町立となり豊橋尋常中学時習館と改称しています。

初代校長は高知県尋常中学校から転任してきた石川一氏。この名前、気付いた人もいるでしょうか?古い校歌シリーズで紹介した高知追手前高校の前身・旧制高知中学校の初代校歌を作られた人です。高知中学校の校歌「折りてかざさん、大丈夫が…」は追手前校史によれば明治28年8月10日制定とあります。

さて、時習館中の校歌はいつ頃作られたのでしょうか?石川校長は明治28年5月から1年間だけ在任、その後埼玉県の浦和中に転出とあります。つまり、上記の高知中の校歌制定時にはすでに高知には居なかったことになりますね。

 

とりあえず、この「初代校歌」とされているものを紹介します。

旧制・豊橋尋常中学時習館 (全?番)

 昔を今にくりかへし あげよ雲井に名も高く
 宮路の山の夕つつじ 入日にもゆる くれなゐの
 赤き心の一すじに つくせますらを 君のため

 豊あし原に風なぎて やまと嶋根のゆるぎなく
 しらすみくには浦安の 青人草ものどかなり
 今はむかしを三河なる 矢はぎ太刀はく武士の
 たけき心は なりかぶら ひびく川波 おと高し

 淵瀬さだめぬ とよ川や 大平川の みづのあわ
 きえしたもうて 世の中は 現にあらぬ夢なれや
 名のみ流るる八ツ橋の 蜘蛛手のみづの末かけて
 真砂かずよる石巻の 山のみ雲にそびゆなり

 昔を今にくりかへし あげよ雲井に名も高く
 宮路の山の夕つつじ 入日にもゆる くれなゐの
 赤き心の一すじに つくせますらを 君のため

 

以上が記録されている校歌の全文で、作者などは不明とされています。

興味深いのは「後任の二代目松浦校長をして素晴らしいと言わしめた」いう一文があるのです。このことから石川校長時代に作られたこと、もっと言えば高知中と同じく石川氏自身が作ったのではないかと推測されるのですが、確実とは言えないまでも可能性は高いと思うのです。

七五調28節と長いこと、「つくせますらを、君のため」など高知中に通じるところも感じますが、高知中に比べてかなり平易な内容になっているのは土地柄や校風の違いもあるのでしょうか。

 

石川校長時代に作られたとすれば上記のように明治28年か遅くとも翌年までには作られたことになり、高知中に次いで古い校歌となります。ただ、「明治30年と云えば(補習学校)創設4,5年経っているが校歌を歌う人も知る人も少なく、数年のうちに消え去ったと思われる」ともあり残念ながら短命に終わったようです。

今回は、佐賀県の多久高校です。

https://www.education.saga.jp/hp/takukoukou/

 

多久市は佐賀県のほぼ中央部に位置する多久盆地の中の町です。

山に囲まれた多久市は梅と歴史の里です。かつては唐津炭田の中心鉱の多くを有する炭鉱町でもありました。

唐津炭田は江戸時代中期から採掘され、明治~大正年間には「肥前の炭鉱王」と呼ばれた高取伊好の事業開発成功もあって唐津市周辺は大いに栄えたそうです。しかし次第に良質で埋蔵量の豊富な三池炭田や八幡製鉄所などを持つ筑豊炭田に押され、戦後はエネルギー革命によって急激に衰えて多くが閉山しました。

その高取伊好が多久邑(佐賀藩の支藩扱い?)と縁が深かったことから多久家屋敷の跡地を庭園に改修したのが今の西渓公園です。山水庭園は桜や梅、ツツジなどの四季折々の美景が眺められる他、郷土資料館や先覚者資料館、様々なイベントが開催されています。

また多久聖廟と呼ばれる国の重要文化財があることでも知られています。多久邑領主の多久茂文は多久の統治には教育が重要という考えによって郷学”東原庠舎”を設置、学問の象徴として講堂に儒教の祖・孔子像を安置しました。東原庠舎は当時の藩校に準ずる学問所ですが、他の藩校と違い武家以外の町民などにも広く門戸を開いています。明治の改革で廃止されましたが、近年になって多久市立の義務教育学校(小学校・中学校)の全てを数校の小中一貫校とした際に校名に使用されています。

その講堂を聖廟に転用して多久聖廟となり、足利学校や閑谷学校に次いで古いものとされています。建築様式は日本式ですが随所に中国様式も取り入れられ、彫刻なども中国風だそうです。

 

その”孔子の里”にある学校は、昭和38年に機械・電気2科の多久工業高校として開校しました。多久市には小城高校多久分校がありましたが同時期に閉校しています。

体育館の西側には高さ12mのクライミングウォールがあり、学校の登山部や地元のクライミング愛好者が練習しています。高校スポーツクライミング競技では団体優勝するなど県内でも強豪です。

工業高校時代の校歌は作詞:古賀残星 作曲:小松清で昭和39年制定です。
多久工業高校 (全3番)
 有明の海 遠くみて

 梅が香におう 多久の丘
 仰ぐ天山 白雪に

 ああ若人の あさぼらけ
 雄々しくろがね 火華散る

 ああ多久工 多久工高

 

その後、平成14年に学科を改編して総合学科を設置、多久高校と改称しました。

作詞:米倉利昭 作曲:小林旭で平成16年制定です。工業科の最後の生徒が卒業して閉科するとともに新しく制定したということです。
多久高校 (全3番)
 梅匂う 歴史の里に

 新しき光は満ちて
 集ひ来る友を結べる

 仁愛の教えのままに
 明日を目指す 我ら多久高校

 

どちらも梅と多久聖廟が取り入れられていますね。

多久工2番「椿の花の聖廟に、四哲の像はかがやけり」は、聖廟に孔子像とその弟子4人(顔子・子思子・曽子・孟子)の像が並べて安置されているのを歌ったものです。3番「東原しょう舎の 伝統に…」は、上記の学問所・東原庠舎のことです。「飛竜のたくみ」とは、おそらく聖廟の天井に描かれた蟠龍のことと思われます。多久邑の絵師によって描かれたこの龍はあまりに精緻で、夜な夜な廟から抜け出して人を驚かすため抜け出せないようにとか天に飛び去ってしまわないように鱗を一枚未完成のままにしたという伝説があるほどです。

多久高1番「仁愛の教えのままに…」は儒教でいう””、普遍的な「愛」「思いやり」を意味する五徳のひとつで人間関係を構築する上で最も重要なものとされています。学校生活でもこの”仁愛”をもって人と接しましょう、ということでしょうか。

 

以前紹介した和気閑谷高校の前身の閑谷学校足利学校に比べると知名度は高くありませんが、同じく文教の里として山あいに静かにたたずむ郷学の足跡を訪ねてみたいものです。

今回は、東京の紅葉川高校です。

https://www.metro.ed.jp/momijigawa-h/

 

東京都の荒川河口の近く、江戸川区臨海町にある学校です。

淡海水族館や鳥類園など自然保護を目的とした葛西臨海公園がすぐ南にあり、野球・サッカー・ゴルフ場などのスポーツ施設も多いレジャー地域です。

 

昭和3年に楓川専修女学校として中央区日本橋兜町の日本橋高等小学校の敷地内に併設されたのが始まりです。日本橋家政女学校日本橋高等家政女学校と変遷した後、戦後の昭和21年に紅葉川高等女学校となり学制改革で紅葉川高校になりました。

紅葉川”は江戸時代に江戸城(現・皇居)と京橋川を結ぶ運河の名前だったようです。江戸城西ノ丸にある丘は”紅葉山”と呼ばれ、徳川家康を始めとする歴代将軍を祀る霊廟・御霊屋(おたまや)「紅葉山東照宮」として神聖視されていたそうですが明治維新の際に撤去されました。”東照宮”は近くの上野日光久能山など各所に移して存続しているようです。

その紅葉山を水源として流れる紅葉川は江戸時代後期まで存在していたそうですが埋め立てによって消滅しました。

この紅葉川とは別に”楓川”という水路が昭和40年頃まで存在していました。日本橋がかかる川として有名な日本橋川下流部の首都高速都心環状線江戸橋JCT付近から京橋JCT付近まであたりが元・楓川です。楓川は「もみじがわ」と呼ばれることも多かったようです。

このように学校付近に「もみじがわ」に因む川があったことが紅葉川高校の由来だそうです。

 

校歌は新旧2つあり、旧校歌は作詞:佐藤春夫 作曲:信時潔で昭和26年制定です。
紅葉川高校 旧校歌 (全3番)
 車とどろく ざわめきの
 巷の塵を 厭はねば
 御園の露を 集めきて
 学びの庭に 流れ寄り
 何を 我等に教ゆとや
 名のゆかしさよ 紅葉川

 

御園」は当然皇居のことですね。その水源を江戸城に宿る露に求めたものでしょう。2番「文化を学び、新時代の水上とせん、紅葉川」は新しい時代・文化の先駆者となれとの意味がこめられていると思います。

 

団塊ジュニア世代が多く進学し始める昭和50年代後半、東京でも多くの学校が急増する生徒の受け入れ体制を模索していて紅葉川高校も例外ではありませんでした。

昭和59年に分校の形で墨田校舎を設置し、翌年に墨田校舎が紅葉川高校と改称するとともに江戸川区臨海町に移転、こちらが紅葉川高校の本校になりました。元の日本橋にあった校舎は中央校舎となり平成6年に紅葉川高校に統合されました。本校と分校の関係がそっくり入れ替わって、最終的には紅葉川から程遠い江戸川区に移転した形ですね。

なぜこのように複雑な経緯をたどったのか部外者にはよく解らないのですが、日本橋の校舎が手狭で急増する生徒数に対応しきれなくなったのが発端のようです。

 

現在の校歌は、作詞:水谷益美 作曲:飯田知香で昭和61年制定です。

中央区から江戸川区に移り、土地や時代情勢が合わなくなったためでしょう。
紅葉川高校 現校歌 (全3番)
 朝日に映ゆる時計塔
 青春の標 高らかに
 わが学び舎に そびえたり 
 希望豊かに 情濃やかに
 きらめく生命 いとおしみつつ
 相敬いて 今日も励まん

 

江戸川校舎は正門の正面にひときわ高い”時計塔”が建っています。登下校の生徒に判りやすいようにか文字盤が割合大きいのが特徴で、学校の「青春の標」となっていますね。

2番の「左近の川」とは左近川を指し、元は江戸川から分流する自然河川だったそうですが都市開発や埋め立ての過程で整備されているため行政的には「水路」扱いのようです。この一部が新左近川で学校のすぐ近くに新左近川親水公園があり、遊歩道沿いに約300本の桜が植えられ花見シーズンには多くの人々が訪れています。

 

なお、旧制以前の校歌については調査が届かず不明です。

昨年のゴールデン・ウィークは、まさに令和改元の時期で色々な改元イベントがありました。

4/30から5/1にかけての夜は年越しさながらのカウントダウンや花火打ち上げ、初詣ならぬ改元詣?で神社仏閣もかなり賑わっていたようですね。

そんな”特別”なGW、私は家内と一緒に甲信旅行がてら校歌調査を行いました。

愛知県から車で長距離ドライブです。長野では善光寺参詣、上田城址軽井沢諏訪湖などを巡った後は山梨方面に。天候も良く、南アルプスや八ヶ岳も新緑とうっすら冠雪しているのがよく見えましたね。

その1日目と3日目に長野図書館に行ってきました。といっても旅行の合間なのでそれほど時間があったわけでなく合わせて7時間くらいの調査でした。

 

長野県は日本国内で4位の面積を持ち、北は長野市から南は飯田市あたりまで広大な地方とそれぞれの文化がある県です。

概して山がちで県歌「信濃の国」にも歌われる”平”と呼ばれる盆地・平地に人口が集中し、また千曲川・天竜川などの大河によって形成された河岸段丘に沿うように宿場町から発展した町が点在しているといった様相です。

県下の高校は150校ほどでしょうか。地勢上分校が割合多かったようです。

 

最大の図書館は県立長野図書館で長野市にあります。1日目は車で、3日目は宿泊地の上田から電車で行ってきました。

長野市の玄関、北陸新幹線としなの鉄道線・長野駅は”善光寺口”と呼ばれる駅西のほうが栄えていて、善光寺まで伸びる道の県都らしい町並みとすぐ近くまで山が迫る光景は”善光寺平”を感じさせてくれます。

反対側の駅東口から南方に15分ほど道なりに歩くと前方に公園の木々が見え、その一角に図書館があります。専用の無料駐車場がもあってありがたかったです。

肝心の学校史などは開架ですぐ読めるのは良い点でしょう。100校近くは並んでいたと記憶しています。複写は楽譜と同一のものは不可、歌詞だけなら許可という感じでした。

”校歌集”は「信州の高校と学舎の歌」と「長野県高等学校航空写真全県版 校歌・沿革」があります。「信州の~」は楽譜付きで良さそうでしたが、上記のように著作権の関係でコピー不可だったので時間制約もあり内容はよく覚えてないです…

結果、だいたい100曲超くらいの成果がありました。分校歌や松本美須々ヶ丘高校の”幻の校歌”など望外のものもあり、また落ち着いて調査してみたいと感じつつ上田から諏訪に向かいました。

 

県立長野図書館 (1回訪問)

アクセスのしやすさ… 長野駅から歩いても15分ほどとアクセスは良好です。

所蔵本の充実さ… 学校史は多いです。校歌集もあり時間をかければ大部分カバーできるでしょう。

所蔵形態など…○ 校史は開架、複写は一部可。