今回は、岡山県の水島工業高校です。
http://www.mizuko.okayama-c.ed.jp/wordpress/
岡山県倉敷市は古くから天領だったことで代官所が置かれ物産の集積地として栄え、倉敷美観地区の象徴でもある柳並木の川沿いに白壁の蔵が建ち並ぶ佇まいが有名です。
市南部の瀬戸内海に面する地域は水島・児島・玉島と呼ばれる地域で、このうち玉島と児島は昭和42年に倉敷市と合併する前は市でした。この周辺は高梁川の河口に当たるのですが、度々洪水や氾濫を起こしたため流路の改修が大正末期まで行われています。川の沖積作用によって中世からだんだん遠浅になり干拓が進められたため元は島だった連島や児島も陸続きになったのです。
そうして生まれた広大な干拓地のうち、水島地区は戦中から三菱重工航空部門や水島ガスを誘致して工業化が始まり、米軍による水島空襲で破壊されたものの戦後は水島臨海鉄道や水島港の開発整備、農業県から工業県への脱皮を進め県民生活の向上を目的とした県の政策もあって更に重化学工業化が進んでいきます。
瀬戸内の安定した気候や陸海交通の至便さ、岡山や広島などの地方中心都市が割合近距離にあるなど立地条件の良さもあり、石油精製、鉄鋼生産、石油化学・鉄鋼関連工業の基地”水島臨海工業地帯”また”水島コンビナート”と呼ばれる日本の一大工業地域となりました。倉敷市の工業出荷額は全国5位までになったこともあるようです。
その名を冠する学校は倉敷市では倉敷工・倉敷市工に続く3番目の工業高校として昭和37年に開校しました。
”水島”と付いていますが、所在地は水島臨海工業地帯から北に5kmほどとかなり離れた西阿知地区です。開校当時は団塊世代が高校進学する時期に当たり生徒数が急増したこと、水島の重化学工業の発展によってそれを支える工業人の確保が重要になってきたことを受けて、県や地元の誘致によって設立された”水島のための学校”なのだそうです。
その通り、現在でも卒業後の進路で就職先は水島・玉野・児島の”水島”関係が半数を占めています。他も多くは県内の企業に落ち着く生徒が多いようですね。
校歌は作詞:十二村哲 作曲:塩谷純一で、開校直後の制定と思われます。
水島工 (全3番)
高梁川の流れの岸に
智識の渇き うるおして
我らは学ぶ 工業技術
ああ水島その名ぞ 美わし母校
富国の基 探求めて溌く
若き双眸に誇りあり
1番「我らは学ぶ工業技術…富国の基 探求めて…」、3番「…工業日本の旗手たらん」のあたりが深い知識と高い技術を学んで水島や日本の工業人を育成せんとする学校の目標と学生の決意を代弁したものと言えるでしょう。
3番「水島灘に導きよせる、文化の潮 身に享けて、我らは競う春秋三歳…」は世界各地で培われ集まってくる工業文化を学び取り、三年間で更なる発展に寄与するために励めよ、という感じでしょうか。
高校野球では昭和52年夏が唯一の甲子園出場ですが、残念ながら初戦敗退で校歌は流れていません。
