校歌の広場 -18ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

春の選抜中等学校野球大会の続きです。

第14~18回大会は順に浪華商中京商東邦商岐阜商東邦商が優勝しましたが、昭和16年の日米開戦で中断せざるをえなくなりました。

昭和22年、戦後の再開初にして旧制最後の大会となる第19回の優勝校は徳島商業学校でした。

今回は徳島県の徳島商業高校です。”四国四商”のトリという形になりました。

 

徳島県の代表校は、旧制時代は昭和13年春の撫養中以外は徳島商の独壇場でした。昭和17年夏のいわゆる「幻の甲子園」の優勝校でもあります。

戦後もコンスタントに出場していて、旧制・新制を通じて春夏計41回出場、41勝を挙げている名門校です。優勝、準優勝はともに1回ずつです。

 

県都・徳島市の中心部からやや東方の城東町に位置し、河口が近い吉野川が北を流れています。

学校は明治42年に徳島商業学校として開校し、学制改革期に城東城北高校の商業科として統合されたものの昭和27年に分離独立して現在に至ります。

校歌は作詞:脇太一 作曲:朝比奈隆で制定年は不明です。追記:昭和30年制定です。

徳島商 (全3番)

 はためく旗に あひ寄りて

 若人われら 胸を張る

 眉山を仰ぐ 眼ざしは

 ただよふ雲を とかすかな

 われら 徳島商業に

 みよ 伝統の誇りあり

 

校訂に竹中郁氏が関わっていたそうで、随所にその影響が感じられます。3番「世界の風の行き交ひを、左右のつばさにさばき分け、おのれの道を進みゆく…」は校章のマーキュリーを連想させ、世界の市場に向かう商業人を表している感じですね。

旧制時代の校歌は未調査により不明です。

追記:昭和30年に全国で一般募集がかけられ、選考結果で脇太一氏のものが選ばれました。脇氏の原作は2番構成だったのを竹中氏に校訂依頼してできたのが現在のものです。発表会を開催する予定が台風で中止となり後日改めて開催したというエピソードがあります。

 

旧制徳の校歌は作詞:井上義男 作曲:里見良堯で昭和11年制定です。やや遅い時期なのですが、それまでは生徒が自由に作詞して大学の寮歌に合わせて時々合唱していたとあります。

旧制・徳島商(全3番)

 渭の山川を 朝な夕な

 学びの友と 仰ぎ望み

 士魂に培ひ 商才磨く

 校風燦たり 我等が徳商

 

商業系ながら就職より進学の割合が高い傾向にあり、徳島県の伝統校らしく部活動も盛んです。

 

私事で恐縮ですが、年頭からさらに多忙となり更新が不定期になるかもしれませんが、それでも折を見て更新していきたいと思います。

春の選抜中等学校野球大会の第12回大会は再び岐阜商が優勝しました。

第13回大会優勝校は愛知商業学校でした。戦前は中京商・東邦商・享栄商と並び「愛知四商」の一角でもあった古豪です。

今回は、愛知県の愛知商業高校です。

https://aichi-ch.aichi-c.ed.jp/index.html

 

旧制時代の愛知代表は大正時代はほぼ愛知一中が独占していたのですが、それに風穴を開けたのが愛知商です。大正15年夏の初出場を皮切りに愛知商として春9回・夏6回、瑞陵高校時代を含めれば更に3回の甲子園出場がありの勝利数は17勝、全て旧制時代に挙げたものです。

 

名古屋市東区のほぼ中央部に位置し、進学校で有名な東海中・高校も近くにあります。

東隣には尾張藩の霊廟である建中寺があり、校地も尾張藩の流れを汲む旧制明倫中(現・明和高校)の跡地を流用したものです。また北東にある徳川園は尾張藩が造営した日本庭園で、戦争末期の空襲で被害を受けましたが黒門や蘇山荘などいくつかの建築物は有形文化財に登録されています。

学校は大正8年に愛知県立商業学校として創立し、しばらくして瑞穂区に移転し愛知県商業学校と改称しました。

旧制時代の校歌は作詞:芳賀矢一 作曲:小松耕輔で大正15年制定です。
旧制・愛知商 (全2番)
 大名古屋市を下に見て
 瑞陵上に聳え立つ
 この学び舎に学ぶ人
 出入年々 かはれども
 高き理想をかざしもつ
 男子一千 意気同じ

 

学制改革で熱田高(旧制熱田中)、名南高(旧制実務女学校)、貿易商業高とともに総合制高校として統合され瑞陵高校となりました。”瑞陵”とは瑞穂ヶ丘の意味で、瑞穂区の伝統校を表したものと言えましょう。

しかし米国主導の総合制は日本の実情に合わないとみなされて早々と崩れ、かねてから”愛商”復活の声が強くなっていた矢先の昭和26年に商業科単独の愛知商業高校として分離独立しました。校地も瑞穂区から東区徳川に移転して現在に至ります。

校歌は作詞:山崎敏夫 曲は旧制を踏襲したもので昭和36年制定です。
愛知商業高校 (全3番)
 丘の若草 夢を呼ぶ  新樹のかげに風立てば
 悠久の空 雲は行き  力と意気と われ誇る
 自由の世界 仰ぎつつ 理想は高し わが愛商

 

この歌は瑞陵高校から分離独立して2年後の昭和28年に校歌代用の「愛商の歌」として作られました。この年を校歌制定年とした資料もあるようですが、この時点ではあくまでも代用です。その後、生徒会などの強い要望で昭和36年に正式な校歌として認定されました。

旧制の伝統を受け継ぎつつ、全体的に新生愛商と男女共学など時代を如実に反映した明るめの内容になっています。

昭和23~26年春までの瑞陵高校商業課程時代はもちろん昭和25年制定の瑞陵の校歌ですが、瑞陵の校歌はまた別記事で紹介するとしましょう。

春の選抜中等学校野球大会、第8~10回大会の優勝校は順に広島商、松山商、岐阜商でした。

 

第11回大会優勝校は東邦商業学校でした。

今回は、愛知県の東邦高校です。

https://www.toho-h.ed.jp/

 

以前紹介した中京大中京と並び愛知県の「私学四強」の一角を占める強豪校で、全国でも有数の名門校です。

春の東邦」と呼ばれるように、戦前戦後を通して選抜大会のほうが出場・戦績とも夏を上回っています。春30回・夏17回の計47回出場、夏は昭和52年の準優勝1回ですが春は平成31年(5月から令和のため)を含め優勝5回、準優勝2回で、通算勝利数は75勝で歴代6位となります。特に春の優勝5回は全国最多を誇ります。

奇しくも平成初と平成最後の大会を優勝で飾ったことでも話題になりましたね。

 

名古屋市の東、名東区平和が丘にある学校で100年近くの歴史があります。

すぐ西に”平和”の元になったと思われる平和公園があり、昭和20年の戦争末期に相次いだ名古屋大空襲で大きな被害を受けた都市部の復興計画のひとつとして、各地の寺院境内墓地を集約移転した公園だそうです。尾張徳川家の尾張藩主・徳川宗春や織田信長に仕えた平手政秀の墓碑があります。

 

大正12年に現在のJR千種駅近くの赤萩町に東邦商業学校として創立しました。当初は英国のカレッジを参考にした学校を目指していたようで今日の”学風”の下地になっています。

同年に開校した中京商業学校(現・中京大中京高校)と同じく当時高まりつつあった野球に力を入れていたのですが、初出場が遅れたこともあり「中京に追い付け追い越せ」がモットーだったそうです。

旧制時代の校歌は校史には残されているものの、作詞・作曲者、制定年は不詳とされているのですが昭和9年以前からあったようです。

旧制・東邦商 (全5番)
 金鯱の光り 天を摩し

 伊勢湾頭に旭照る
 千種の薫り 高き野に

 大旆立てし マーキュリー
 あゝ清新の集まりて

 美はしきかな 東邦校

 

マーキュリー」部分は戦中はどう歌ったのか気になるところですね。「金鯱」は名古屋城、「千種の薫り高き野」は地名の千種と種々の樹木や花を掛けたものでしょうか。

3番「北シベリヤに雲興り、風南清に荒るるとも、ああ茲に在り東方の、日出づる国の健男児」は、季節風や降雪の多い日本の気候だけでなく、日清・日露戦争を乗り越え勝利した”東方の邦=日本”の若者が目指す商業教育の学校ということでしょう。

 

昭和23年の学制改革で東邦高校となり現在に至りますが、昭和41年に現在地に全面移転し昭和60年には男女共学に移行しています。愛知県の公立が早くから共学だったのに対し、私立は共学より男子校・女子校の割合が多く、その中で東邦高校は女性の社会進出の必要性を感じ早い段階で共学に踏み切ったのです。

また創立以来の商業科が平成29年に100周年を目前に閉科して普通科4コースと美術科となっています。

高校の校歌は作詞:尾崎久彌で曲は戦前のものを踏襲しています。制定は昭和23年です。
東邦 (全3番)
 あゝ夭々の大平野

 呼ばゞ応へむ 沖つ鳥
 東海の衝 一廓に

 巨然とそゝり 香ぐはしき
 清新にして溌溂の

 見よや我等の東邦校
 

冒頭の「夭々」は若々しい、瑞々しい意味なので瑞々しく肥沃な尾張平野というのでしょう。「呼ばゞ応へむ沖つ鳥」はよく解りません。”沖つ鳥”は鴨や味にかかる枕詞のようなのでそうした地名か何かかと思いましたが…。あるいは古くは海岸線がこの付近まで迫っていたことから文字通り”海の沖にいる鳥”とか、空を海に例えたものかもしれません。

1番は濃尾平野にあって「東海の(要)衝」たる名古屋市の一角に立つ東邦校の偉観を歌っていますね。2番は学校全体で学問、芸術、体育に励む様を、3番は校訓「真面目」を取り入れて、やがて日本を担う重要な使命を帯びていく学生が集まる学校で締めています。

 

2年後に100周年を迎える東邦高校。

部活も野球部だけでなくサッカー部、空手部、吹奏楽部などが全国大会などで活躍していますし、進学面でも私大を中心に実績を上げています。

明けましておめでとうございます。令和3年が始まりました。

今年はどうなるのでしょうか…遠征調査はできるのか依然見通しは立っていません。

 

以前紹介した高校野球の旧制中等学校時代編の続きとして、今回から4回にわたって春大会の優勝校を紹介します。

当時は「選抜中等学校野球大会」という名称で第19回まで開催され、昭和23年の学制改革で現在の「選抜高等学校野球大会」に切り替わりました。旧制時代はまだ学校数もそれほど多くなく、実力のある学校がある程度固まっている傾向だったためか春夏とも同じような学校が上位進出しているようです。そのため優勝校も実数11校のうち春のみ優勝は4校です。

大正13年の第1回大会のみ愛知県名古屋市の山本球場で開催されましたが、この年の夏に甲子園球場が完成して翌春からこちらで開催されるようになり現在に至っています。

第1回から順に高松商、松山商、広陵中、和歌山中、関西学院中が優勝し、第6、第7回と初の春連覇を達成したのは兵庫県の第一神港商業学校でした。

今回は、兵庫県の神港橘高校です。

http://www2.kobe-c.ed.jp/skt-hs/

 

旧制では大正晩期から昭和初期頃の8年間で春夏計10回出場して15勝を挙げた強豪校で、とりわけ春に強く優勝2回を含め11勝しています。

戦後の市神港高時代は春夏5回出場して7勝しました。最後の出場は昭和51年夏です。

 

神戸市兵庫区の西端、会下山町にある学校で、すぐ北にある会下山公園は神戸市を一望できる桜の名所として知られています。古くは”遊園”とも言った通り遊歩道が多く、ジョギング・ウォーキングをする人で賑わっているそうです。

明治40年に私立の神港商業学校として創立しましたが早くも2年後に神戸市に移管されて市立となり、大正10年に同校内に午後定時制の第二神港商設置とともに第一神港商業学校と改称しました。創立当初は神戸市元町に校舎がありましたが、大正5年に現在地に移転しています。

校歌は作詞:安藤正次 作曲:永井幸次で制定年は不明です。追記:会下山校舎に移転した頃の制定とされるのですが正確な時期は不明とされます。資料では大正8年以前にはできていたようです。
旧制・第一神港商 (全4番)
 百船行き交う茅渟の海に 輝く朝日は日々に新
 千街の甍の波の色 月こそ照らせれ 清き光
 心を高くと会下の山に 我等の友がら 道に励む

 

もうひとつの源流である神戸市立女子商業学校は大正6年開校です。数奇なことに前年移転した市神港商の跡地に開校したようです。少なくとも住所は同じです。

その後、昭和18年に第二女子商が開校したことにより第一女子商業学校と改称しました。
校歌は作詞:土井晩翠 作曲:東京音楽学校で、こちらも制定年は不明です。追記:校章、校歌ともに開校同年中に制定されています。
旧制・第一女子商 (全4番)
 茅渟の海の上 幾万の 船をうかぶる神戸の市
 栄の本を培いて 学びの庭に姫百合の
 花の一群 咲き匂う

 

戦後の学制改革で上記の2校が統合して神戸市立神港商業高校となり、翌24年に普通科・商業科・家庭科の総合制の市立神港高校と改称しました。
市神港高校の校歌は作詞:竹友藻風 作曲:飯田信夫で、昭和25年制定です。
市神港 (全2番)
 茅渟の浦波 うち寄せて 世界にひらく大湊
 神戸の市を前に見る 学びの舎の若人よ
 仰げ 理想と信念の 光り輝くこの舎を

 

大阪湾の古称としての”茅渟海”は神戸市の学校でも使用されていますが、長田区より西は”須磨浦”が多くなります。「茅渟」が使われている高校の中ではこの市神港が最も西のようです。(地理的には淡路島を除けば長田区内の夢野台高校が更に200mほど西ですが)

追記:最西はなんと姫路市の姫路東高校でした。どう見てももう播磨灘でしかないはずですが、作詞は同じ竹友藻風氏なので広義的な意味合いで入れたのでしょうか?

古来から開けた神戸港を「大湊」と呼ぶあたり、この近くに居住していた作詞者の竹友氏の思いがあるのかもしれません。2番「宇奈互の里」とは近くの長田神社に祀られている事代主神の別名・雲梯(うなて)の神が訛ったものと謂われ、学校周辺の古代地名・八部郡、雄伴郡宇治郷宇奈五丘と呼ばれていたのを取り入れたのでしょう。こうした昔の地名を織り込めるのも作者の知識・見識あってのものだと思いますね。

 

こうして110年の歴史を持つ市神港高と同じく神戸市立の兵庫商業高を再編して、平成28年に神港橘高校として統合開校しました。校地は市神港を使用していますが、校舎は解体して新校舎を建設したようです。

市神港・兵庫商の商業科を受け継ぎ、「ひと」を「たから」と捉え、神戸を愛し、支える「人財」を地域とともに育てるコンセプトのもと商業教育”みらい商学科”単科の学校としてスタートしました。

校歌は作詞・作曲:森本純夫で開校同年の制定と思われます。歌詞については正確な表記がわかりませんので一部だけに留めておきます。判明しましたので載せておきます。

神港橘 (全2番)

 海の見える丘に立てば 広がる街

 ともに出会い ともに学び ともに育つ今

 わたしの力は 漲る力

 われらの人財 時代を超えて

 

神港橘高校の特色として”龍獅團”があります。神戸の中華街として知られる南京町で旧正月に行われる「春節祭」で披露される龍舞に影響を受けて、旧・兵庫商業高校の部活動として発足したのが始まりだそうです。兵商が閉校しても後継校に受け継がれ、新しい歴史と伝統芸能は続いていくでしょう。

今回は、奈良県の生駒高校です。

http://www.e-net.nara.jp/hs/ikoma/index.cfm/

 

生駒市は奈良県の北西端に位置し、西には奈良県・大阪府・京都府の境をなす生駒山地の主峰・生駒山が聳えます。

大阪市内まで鉄道で最速20分ほどと割合近距離にあり、奈良市だけでなく大阪のベッドタウンの性格もあるようです。高低差が大きい市域にあって山腹あたりにも住宅地が開発されているため、「生駒ケーブル」と呼ばれるケーブルカーが生活や通勤などの住民の足として活躍している側面もあります。

 

学校は生駒町(当時)の発展と団塊世代の進学が急増しつつあった昭和38年に開校しました。生駒市の中心からやや離れており、最寄り駅の近鉄一分駅か南生駒駅から東方約1kmほどの高台にあります。

校歌は作詞:前川佐美雄 作曲:平井康三郎で昭和39年制定です。
生駒 (全3番)
 朝日たださす 生駒山脈
 われら若人 匂うこころに
 つゆけき生命 日々につちかい
 校章象徴す 樫かたき木の
 強き意志もて 学びつとむる
 われらは生駒 生駒高校

 

前川佐美雄氏は奈良県の歌人で、校歌も奈良県内が多くを占めています。多くの校歌に見られる七五調や五七調ではなく、比較的マイナーな七七調を多用しているのが氏の特徴でしょう。生駒高校もその典型例ですね。

1番「校章象徴す、樫かたき木の…」は、同校の説明によれば”古事記”に詠まれた樫の葉を取り入れたとあります。

当該部分は古事記の中でも有名な部分「倭は国の真秀ろば、たたなづく青垣、山籠れる倭し麗し…」から取り入れたものでしょう。実はこの歌には続きがあり、「命の全けむ人は、畳薦、平群の山の熊白檮(クマガシ)の葉を髻華に挿せ、その子」とクマガシの木が歌われています。また別に”雄略記”にもあり現代語に訳すると「平群(生駒郡)の山のあちこちにある峡谷に、よく繁茂している葉広熊白檮(はびろくまがし)、その下には竹が生え…」という部分があります。クマガシは生駒市の南隣の平群町の町木となっていて、平群町域のマンホールにも意匠されているようです。檪原(いちはら)という地名があるようにイチイガシかクマガシの多いところでしょう。

このように生駒市、生駒高校のシンボルでもある生駒山の象徴として””が選ばれたようですね。

3番「天の戸開け」部分の意図はよく解らないのですが、天の戸は太陽や月星が渡る大空を意味する言葉でもあるようなので図南鵬翼を歌ったと思われます。

 

さて、今年の更新は今回で最後とさせていただきます。次回は年明けですね。

訪問して下さった皆様、良いお年をお迎えくださいませ。