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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

大変長らくブログをお休みしてしまい、すみません。

およそ5ヶ月ぶりの投稿になってしまいました…

新記事を楽しみにしておられる方もいらっしゃるかと思い心苦しく思っていたのですが、なかなか再開の筆がとれず申し訳ないです。

 

今回からしばらく、少し趣向を変えてみようと思います。

三好達治。この人の知名度としては、詩歌に興味があれば名前を知っているくらいのレベルでしょうか?戦前・戦後を通じて日本でも有数の詩人として活躍しました。

代表作としては阿蘇山の「艸千里」や、太郎を眠らせ太郎の屋根に雪ふりつむ…の「」、合唱曲で歌われることもある「」などが知られているところです。

それはさておき、このブログは校歌がメインなので三好氏が作詞した校歌について語ってみたいと思います。

三好氏が作詞した校歌は意外と少ない…というか有名な詩人にしては少なすぎる部類です。高校で4校、補作が1校、大学と中学校で1校ずつ、計7校らしいのです。

その理由は、校歌に関しては自身の人生に負い目を感じていたのか「自分は将来どんな不品行をするかわからぬ、そうしたときに私が作った校歌が純真な生徒に歌われるのはしのびない…」として、多くの学校から依頼があったにもかかわらずほとんど断っていたからだそうです。

 

最初は福井県の三国高校です。

 

坂井市は福井県の北部に位置し、福井県第二の人口を擁する町です。平成18年に坂井郡に属する三国町、丸岡町、春江町が合併して成立しました。

このうち三国町は九頭竜川の河口部に位置し、”三國湊”は奈良時代から歴史に現れる日本海側の重要港だったとされます。室町時代は”三津七湊”のひとつ、江戸時代は福井藩との九頭龍川の舟運と日本海を回航する北前船の交易で栄えた三国の町並みは豪商や廻船問屋などの旧邸や町家が立ち並ぶ歴史的建造物に富み、平成29年には日本遺産にも認定されました。

町の北部の海岸は名勝・東尋坊雄島のある景勝地で観光客も多く訪れています。

 

そうした由緒ある町にある学校は、明治42年創立の旧制三国高女と大正11年創立の旧制三国中を前身として、昭和23年の学制改革で両校を統合して三国高校となりました。

校歌は作詞:三好達治 作曲:林伯人で昭和23年制定です。三好氏にとってはこれが最初に作った校歌になると思われます。

三国高校 (全3番)

 心高かれ 若人は
 雲美しき 朝あけに はるかにのぞむ 白山の
 雪の嶺より いやきよく 心高かれ 若人は

 

前述の通り校歌作詞に消極的だった三好氏は、この時も固辞する意思が強かったようです。

しかし妻・アイとの新婚生活を送った地、5年間も慣れ親しんだ”心のふるさと”三国町の高校からの依頼ということで、何度かの交渉を経て作詞にこぎつけ完成しました。

現在も三好達治直筆の校歌が残されていて、学校の歌碑のほうは現在と同じなのですが額面に入れられて飾られているほうは「…、風ふきはらふ雲の上に、はるかにのぞむ白山の…」と少し違います。「風ふきはらふ…」を後に「雲美しき朝あけに…」と変えたものと思われますね。

 

旧制も紹介しましょう。三国中は作詞:鴻巣盛廣 作曲:陸軍戸山学校で昭和5年制定です。

旧制・三国中 (全3番)

 越路の山脈 青垣なして 漲る大江 海波に注ぎ
 水郷静かに甍を竝らべ  眺望も盡きせぬ岡の上高く
 松嵐さやけき聖地を卜し 聳ゆる殿堂 我等が校舎

 

1番は三国の環境をふんだんに取り入れています。2番「怒濤に峙つ荒磯の巌は、動かず搖がぬ剛毅の姿」が東尋坊を歌っていると思われます。

 

三国高女は作詞:城越健次郎 作曲:松村重利で制定年は不明です。

旧制・三国高女 (全2番)

 錦ヶ丘の空高く あしたに仰ぐ白山の
 潔き姿に映えて立つ わが学舎に栄あれ
 をとめわれらの理想をいだく わが学舎に栄あれ

 

高校野球では、夏のみ3回の甲子園出場があります。このうち昭和50年に1勝して校歌が流れています。

またいつか出場することがあれば、ゆったりした曲調の校歌を再度聞いてみたいものですね。

今回は、富山県の新川高校です。

https://www.niikawa.ed.jp/

 

富山県の東部、蜃気楼で有名な魚津市にある学校で、ここでの新川は「しんかわ」ではなく「にいかわ」と訓みます。

古来の新川郡は富山市の神通川以東から現在の魚津市や滑川市などを含め新潟県境にまで及び、富山県のほぼ東半分を占める広大な郡部でした。”新川”とは県東部から富山市を通って富山湾に流れ込む常願寺川のことです。

日本三大急流”を知っていますか?一般的には富士川・球磨川・最上川を指すのですが、それよりも勾配率(標高からの落差と距離の比率)が高いのが常願寺川です。2600mの水源からわずか56kmほどで海に注ぎ、「滝のようだ」とも言われたそうです(のちに別の川と判明しましたが…) 三大急流に数えられなかったのは、全国的な知名度が他の川に比べて低かったのが理由のようです。

 

そうした由来の名を持つ学校は、昭和48年に高岡日大高校の分校・魚津校舎として開設されたのが始まりです。

高岡日大高校は昭和37年に高岡東高校として開校、昭和45年に母体が日本大学と提携して高岡日大高校と改称し、提携解除してからは高岡向陵高校となっています。

校歌は本校と同じで作詞:大島文雄 作曲:室崎琴月、開校同年制定のようです。

高岡日大高・高岡日大高魚津校舎 (全3番)

 立山の 輝く空を仰がずや

 その光 眸に湛え さやかに知性を磨く

 行けよ 真実の道

 ひとすじに われら行かん われら行かん

 高岡日大 日大高校

 

そして昭和55年に独立して新川高校と改称しました。同じような経緯を持つ学校として土浦日大高の分校から準付属校として独立した岩瀬日大高校がありますが、魚津校舎の場合は日大との提携解除直後に独立したため魚津周辺の広域名称として新川高校としたと思われます。

校歌は作詞:清川七良 作曲:洗足学園魚津短大で独立同年の制定です。「燦たり新川高等学校」というタイトルが付けられているようです。

新川 (全3番)

 風薫る 加積の里は

 恵み豊けき 稔りの象徴

 不退の決意 心に秘めて

 われら進まむ 研学一如

 あゝ燦たり 新川高校

 

加積の里」は新川郡の中でも魚津や滑川周辺一帯の旧名・加積郷に由来し、とりわけ稲作が盛んだったのを「稔りの象徴」と歌うのでしょう。

 

富山県の私学としては平均的な学校という印象です。

今回は、大分県の日田三隈高校です。
http://kou.oita-ed.jp/hitamikuma/

日田市は大分県の北西部に位置する日田盆地の中の町です。英彦山を始めとする山地に囲まれているため寒暖差が激しく、特に夏季はテレビで最高気温がたびたび出てくる地域でもありますね。
江戸時代は幕府の直轄領(天領)として栄え、日田城の城下町は江戸期や明治期に建てられた商家や蔵などが残る「小京都」の佇まいがあります。豆田地区は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、人気のある観光地になっています。
校名にもなっている「三隈」は、九州第一の大河である筑後川の本流上流部の大分側での呼称・三隈川に由来しています。また市内にある日隈・月隈・星隈の3つの丘の総称とも言われ、学校はこのうちの星隈公園や光岡駅の近くにあります。

昭和39年に日田三隈商業高校として新設されました。実質は日田高校の商業科・家庭科が分離独立した形のようです。昭和58年に普通科を増設して現校名に改称、平成8年には総合学科に改編されて現在に至ります。
校歌は作詩:小野茂樹 作曲:中山開二で昭和42年制定です。校名変更後も歌詞に変更はありません。
日田三隈 (全3番)
 紫におう 四方の山
 亀山の森の影深し
 名も光岡の丘高く
 文化爛漫 咲くところ
 吾が学び舎はそびゆなり


2番「宜園の遺風薫る地に、学ぶ吾等の…」は日田にあった私塾・咸宜園を取り入れています。1805年に儒学者の廣瀬淡窓が開いた咸宜園は、学歴・年齢・身分を問わず誰でも門下生として受け入れて平等に教育しました。明治30年に閉園するまでここで学んだ門下生は五千人近くと言われ、出身者には高野長英や大村益次郎などがいます。
3番「見よ吹上の霧晴れて、星隈青く輝くを」は、吹上神社のある高台と青葉輝く星隈丘を指したものでしょう。吹上台は市内が眺望でき、時に日田を覆う”底霧”が晴れて学校のある星隈丘に学ぶ学生の前途を「邁まん三隈」と締めています。

部活としてはインターハイ準優勝経験のあるボート部や弓道部などが活躍しています。

いつのまにか1ヶ月も間を空けてしまいました…

今回は、岐阜県の大垣日大高校です。日本大学の準付属高校で、日大系列の学校は東海地方ではここと静岡県の日大三島高校の2校だけです。

http://www.ogaki.ac.jp/

 

大垣市は岐阜県第二の商工都市で、揖斐川と杭瀬川に挟まれた”水都”をなし、中心部を流れる水門川は岸辺の桜や船下りや匠を凝らした橋が架けられ、西濃の花見の名所となっています。

もうひとつのシンボル・大垣城は大垣藩の居城で戦前は国宝指定もされた4層4階の名城でした。戦争末期の空襲により焼失してしまいましたが、戦後に復興再建されています。

別名「巨鹿城」と呼ばれ大垣商の校歌にも登場します。元来大垣の雅称として”巨鹿城(おおがき)”と当てられていたのがいつしか大垣城を指すようになり、音読みで「きょろくじょう」と言われるようになったという説があるそうです。

 

その大垣市の中心部、大垣駅の北800mほどの交通至便な林町にあり、周辺は小中学校や公園、アクアウォーク大垣などの商業施設などが固まっている地域です。

昭和34年頃から大垣市藤江町にあった大垣北高校の移転が持ち上がり、それとともにその跡地をどうするかの議論が白熱化しました。

当時は団塊世代が中学や高校に続々進学する時代で、岐阜県下でも新設校が多く誕生しました。大垣市でも大垣女子高(現・大垣桜高)や大垣農業高(現・大垣養老高)、大垣第一女子高(廃校)がこの頃に開校しています。

最も有力だったのは私立高校の誘致で、学校史によればある学校法人や東邦高校の母体が参入を計画、跡地の払い下げを要望したそうですが額面の折り合いがつかず撤退したとあります。最終的に当時の大垣市長主導で日本大学の付属高校誘致案が具体化し、日大との折衝がまとまって準付属高校が大垣に設置されることになりました。

そして大垣北高校が昭和36年に現在地に移転し、跡地に校舎を新築して昭和38年に私立大垣高校が開校しました。創立から準付属でも校名に「日大」が付かなかった例は他に土浦(土浦日大高)や長野中央(長野日大高)があります。

当時の正門看板や学校史の著者欄は「日本大学準付属 大垣高等学校」なのですが正式にはあくまでも「大垣高等学校」だったようです。

 

さて、ここで疑問。現在の大垣日大高校は大垣市林町に所在していますが、藤江町から更に移転したということでしょうか?ネットでいくら調べてもここがよくわかりません。林町は大垣駅の北、藤江町は大垣駅の南側です。

大垣北高校の沿革に昭和35年時点での藤江町校舎の平面図があるのですが、隣接の”中央センイ工場”が現在のイオンタウン大垣だとすればやはり後年移転したとしか考えられないのですが…。現在は集合住宅になっているようですね。

 

校歌は作詞:山崎敏夫 作曲:水谷昌平で昭和39年制定です。
大垣高校 (全3番)
 青垣の山脈いくへ かぐはしの国原よそふ
 ここに集へば 理想は誠実
 朝に仰ぎ 颯爽の風と進まん
 ああ大垣 大垣高校

 

作者はどちらも愛知県で多くの校歌を作り、このコンビでも6校ありますが岐阜県ではここしか名前が見当たりません。

 

その後、更に日大との連携強化・進学面のサポートを進めるために平成元年に大垣日本大学高校に改称して現在に至ります。校歌も同年に改訂されたと思われます。

大垣日大高校 (全3番)
 青垣の山脈いくへ かぐはしの国原よそふ
 ここに集へば 理想は誠実
 朝に仰ぎ 颯爽の風と進まん
 ああ 大垣日大高校

 

高校野球では近年台頭してきた強豪校で、春3回・夏5回の甲子園出場があり、春夏計13勝を挙げています。特に平成19年の春夏連続初出場時は春の準優勝を含め7勝、岐阜県勢の新興勢力を象徴付けました。

今春の選抜高校野球、21世紀枠で選出された沖縄県の具志川商業高校
実は妻の母校でもあります。地元での通称は「具商」、古くは「ピンク商」というアダ名もあったようですね。

3年前の夏、まだ具商が甲子園どころか県大会上位進出もほとんど無かった時期に、訪問…というか校門前まで行ったことがあります。
美ら海水族館から名護を経て東海岸を南下し、うるま市の宇検ビーチで休憩したあと学校に寄ったのです。
時刻はもう午後6時近くになっていましたが、夏だったことと国内でも日の入りが遅い沖縄地方とあって、まだ辺りは明るかったですね。

こちらが正門だと思います。ただ妻によれば昔は正門では無かったというのですが…

西の安慶名城址側から見た校門(通用門?)

開校は45年前ですが、10数年前に改築されたそうで校舎がきれいだなという印象がありました。色も白亜ではなく暖色系が使われています。
さすがにシーサーは載っていないようでしたが。
正門沿いの道路は並木道で、南国的なイメージを出しています。

具デパ」こと具商デパートが有名で、昨年はコロナ禍もありネットショップでオープンしたそうです。
ちなみに"ピンク商業"の由来は30~40年前の女子生徒の制服にピンク色が使われていたから、とのこと。

妻はそんな母校の校歌を忘れていたと宣ったのですが、無事開催された日には思い出してもらいたいものです…
ちばりよー、具商!