時習館高校についての補足(古い校歌シリーズ その16?) | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

以前、歴史のある高校シリーズで愛知県の時習館高校を紹介しました。

https://ameblo.jp/hakutsuru45/entry-12508316831.html

 

この記事で触れた「明治30年頃に歌われていた?とされる校歌」について、後追い調査しましたので少々補足したいと思います。

「時習館史」という、1500ページにも渡る校史では歴代では5つの歌が歌われていたとされます。最初は「豊橋尋常中学時習館校歌」、次に「三河男児の歌」、応援歌「三州の野に」、「豊橋中学校歌」、現在の「時習館高校歌」です。このうち三河男児の歌は三河地方の学校で広く歌われていた愛唱歌のようなものとあり校歌とは言えません。

校史の時習館中校歌は、正確には明治30年頃の卒業生が「…校歌あり、しかし今は口に出す人も少なく後代に忘れられないよう記録に留めておく」として書き残したものが伝えられている、ということだそうです。

 

時習館高校の前身は明治26年に私立補習学校時習館として創設され、2年後に豊橋町立となり豊橋尋常中学時習館と改称しています。

初代校長は高知県尋常中学校から転任してきた石川一氏。この名前、気付いた人もいるでしょうか?古い校歌シリーズで紹介した高知追手前高校の前身・旧制高知中学校の初代校歌を作られた人です。高知中学校の校歌「折りてかざさん、大丈夫が…」は追手前校史によれば明治28年8月10日制定とあります。

さて、時習館中の校歌はいつ頃作られたのでしょうか?石川校長は明治28年5月から1年間だけ在任、その後埼玉県の浦和中に転出とあります。つまり、上記の高知中の校歌制定時にはすでに高知には居なかったことになりますね。

 

とりあえず、この「初代校歌」とされているものを紹介します。

旧制・豊橋尋常中学時習館 (全?番)

 昔を今にくりかへし あげよ雲井に名も高く
 宮路の山の夕つつじ 入日にもゆる くれなゐの
 赤き心の一すじに つくせますらを 君のため

 豊あし原に風なぎて やまと嶋根のゆるぎなく
 しらすみくには浦安の 青人草ものどかなり
 今はむかしを三河なる 矢はぎ太刀はく武士の
 たけき心は なりかぶら ひびく川波 おと高し

 淵瀬さだめぬ とよ川や 大平川の みづのあわ
 きえしたもうて 世の中は 現にあらぬ夢なれや
 名のみ流るる八ツ橋の 蜘蛛手のみづの末かけて
 真砂かずよる石巻の 山のみ雲にそびゆなり

 昔を今にくりかへし あげよ雲井に名も高く
 宮路の山の夕つつじ 入日にもゆる くれなゐの
 赤き心の一すじに つくせますらを 君のため

 

以上が記録されている校歌の全文で、作者などは不明とされています。

興味深いのは「後任の二代目松浦校長をして素晴らしいと言わしめた」いう一文があるのです。このことから石川校長時代に作られたこと、もっと言えば高知中と同じく石川氏自身が作ったのではないかと推測されるのですが、確実とは言えないまでも可能性は高いと思うのです。

七五調28節と長いこと、「つくせますらを、君のため」など高知中に通じるところも感じますが、高知中に比べてかなり平易な内容になっているのは土地柄や校風の違いもあるのでしょうか。

 

石川校長時代に作られたとすれば上記のように明治28年か遅くとも翌年までには作られたことになり、高知中に次いで古い校歌となります。ただ、「明治30年と云えば(補習学校)創設4,5年経っているが校歌を歌う人も知る人も少なく、数年のうちに消え去ったと思われる」ともあり残念ながら短命に終わったようです。