佐賀県立 多久高等学校 | 校歌の広場

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、佐賀県の多久高校です。

https://www.education.saga.jp/hp/takukoukou/

 

多久市は佐賀県のほぼ中央部に位置する多久盆地の中の町です。

山に囲まれた多久市は梅と歴史の里です。かつては唐津炭田の中心鉱の多くを有する炭鉱町でもありました。

唐津炭田は江戸時代中期から採掘され、明治~大正年間には「肥前の炭鉱王」と呼ばれた高取伊好の事業開発成功もあって唐津市周辺は大いに栄えたそうです。しかし次第に良質で埋蔵量の豊富な三池炭田や八幡製鉄所などを持つ筑豊炭田に押され、戦後はエネルギー革命によって急激に衰えて多くが閉山しました。

その高取伊好が多久邑(佐賀藩の支藩扱い?)と縁が深かったことから多久家屋敷の跡地を庭園に改修したのが今の西渓公園です。山水庭園は桜や梅、ツツジなどの四季折々の美景が眺められる他、郷土資料館や先覚者資料館、様々なイベントが開催されています。

また多久聖廟と呼ばれる国の重要文化財があることでも知られています。多久邑領主の多久茂文は多久の統治には教育が重要という考えによって郷学”東原庠舎”を設置、学問の象徴として講堂に儒教の祖・孔子像を安置しました。東原庠舎は当時の藩校に準ずる学問所ですが、他の藩校と違い武家以外の町民などにも広く門戸を開いています。明治の改革で廃止されましたが、近年になって多久市立の義務教育学校(小学校・中学校)の全てを数校の小中一貫校とした際に校名に使用されています。

その講堂を聖廟に転用して多久聖廟となり、足利学校や閑谷学校に次いで古いものとされています。建築様式は日本式ですが随所に中国様式も取り入れられ、彫刻なども中国風だそうです。

 

その”孔子の里”にある学校は、昭和38年に機械・電気2科の多久工業高校として開校しました。多久市には小城高校多久分校がありましたが同時期に閉校しています。

体育館の西側には高さ12mのクライミングウォールがあり、学校の登山部や地元のクライミング愛好者が練習しています。高校スポーツクライミング競技では団体優勝するなど県内でも強豪です。

工業高校時代の校歌は作詞:古賀残星 作曲:小松清で昭和39年制定です。
多久工業高校 (全3番)
 有明の海 遠くみて

 梅が香におう 多久の丘
 仰ぐ天山 白雪に

 ああ若人の あさぼらけ
 雄々しくろがね 火華散る

 ああ多久工 多久工高

 

その後、平成14年に学科を改編して総合学科を設置、多久高校と改称しました。

作詞:米倉利昭 作曲:小林旭で平成16年制定です。工業科の最後の生徒が卒業して閉科するとともに新しく制定したということです。
多久高校 (全3番)
 梅匂う 歴史の里に

 新しき光は満ちて
 集ひ来る友を結べる

 仁愛の教えのままに
 明日を目指す 我ら多久高校

 

どちらも梅と多久聖廟が取り入れられていますね。

多久工2番「椿の花の聖廟に、四哲の像はかがやけり」は、聖廟に孔子像とその弟子4人(顔子・子思子・曽子・孟子)の像が並べて安置されているのを歌ったものです。3番「東原しょう舎の 伝統に…」は、上記の学問所・東原庠舎のことです。「飛竜のたくみ」とは、おそらく聖廟の天井に描かれた蟠龍のことと思われます。多久邑の絵師によって描かれたこの龍はあまりに精緻で、夜な夜な廟から抜け出して人を驚かすため抜け出せないようにとか天に飛び去ってしまわないように鱗を一枚未完成のままにしたという伝説があるほどです。

多久高1番「仁愛の教えのままに…」は儒教でいう””、普遍的な「愛」「思いやり」を意味する五徳のひとつで人間関係を構築する上で最も重要なものとされています。学校生活でもこの”仁愛”をもって人と接しましょう、ということでしょうか。

 

以前紹介した和気閑谷高校の前身の閑谷学校足利学校に比べると知名度は高くありませんが、同じく文教の里として山あいに静かにたたずむ郷学の足跡を訪ねてみたいものです。