夏の旧制中等学校野球大会は昭和22年の第29回大会が最後となります。
終戦直後から文部省と連合国最高司令部(GHQ)による教育制度の改革が検討され、いわゆる「六・三・三・四制度」を採用し、この年に”学校教育法”、”教育基本法”を制定して翌23年春に新制高等学校が発足しました。
昭和23年春の選抜は制度上は新制高校として開催されたのですが、旧制→新制変更の過渡期だったため混乱を避けるために旧制時代の校名で行なったそうです。
第29回大会の優勝校は小倉中学校でした。ちなみに小倉中は翌夏も小倉高校として優勝しており史上5校目の夏連覇を成し遂げています。
今回は、福岡県の小倉高校です。
春11回・夏10回の全国大会出場を誇り、通算27勝は福岡県代表校では最多です。昭和20年代が全盛期で、優勝2回、準優勝2回もこの期間です。その後はやや低迷し、昭和53年春が最後の出場ながら勝利して校歌も流れました。29回、30回大会の連覇の立役者でエースの福嶋一雄氏がつい最近(9月)他界されたそうです。
北九州市の公立校では東筑高校と並ぶトップ校に位置付けられ、古くから「質実剛健」「文武両道」の精神を受け継ぐ伝統校で110年ほどの歴史があります。
地元の九州大学や九州工業大学など九州一円の国立大学の他、京阪地方の難関大学に進学する学生が多いようです。制服には”霜降り”と呼ばれる小倉織のグレー調が使われ、小倉高校のアイデンティティのひとつにもなっています。
学校の源流は小倉藩の藩校・思永館にまで遡るようですが、その直系は以前紹介した育徳館高校であり、その分校が小倉城下に開校し明治15年に小倉中学校と改称しました。この小倉中は中学校令(1府県1学校設置の原則)でわずか5年で廃校し前史として扱われています。
正史としての小倉中学校は明治41年に復活の形で開校、そのまま学制改革で小倉高校となり現在に至っています。昭和24年度のみ小倉北高校という校名でしたがすぐ元に戻りました。
追記:”北高”の校名については在校者、卒業生のみならず教育関係者や一般人まで論議沸騰したそうです。同窓会は”小倉高校”復帰を強く要望し、同市内の高校も改称に巻き込む運動がなされたようで、福岡県の見解は「”北高”は案にして正式発表されておらぬにつき、”小倉北高校”を”小倉高校”にしても差し支えなしとす」とのことで早速改称に踏み切っています。巻き込まれた形の他校は結局そのままで改称していません。
上記のように昭和24年夏の甲子園では”小倉北高校”として出場しているのですが、学校は”小倉高校”として出場希望だったのを県の校名審議会の裁定がまだ出ていなかったためやむなく決めたものだそうです。直後の二学期から県の最終決定前にもかかわらず校門の校名板を”小倉高等学校”と書き改めた、といいます。如何に渇望していたかがよくわかりますね。正式認可は翌年4月でした。
初代校歌は作詞:出口隆治 作曲:山内常光で大正12年制定です。
旧制・小倉中 初代(全4番)
喜久の長濱 風清く 朝靄霽るる 六連島
波路遙かに こがれゆく
船に世界の文明を 送り迎ふる関門は
是ぞ我等が学ぶ里
初代校歌は”間に合わせの校歌”とあり、4年後に創立20周年記念として第二校歌が作られました。作詞:元永辰夫 作曲:大塚淳で昭和3年制定です。
旧制・小倉中 二代目(全3番)
大空涵す 玄海の 深き知徳を称へつつ
足立の山を仰ぎては 殉国の意気 いや高し
戦後はこの第二校歌を一部手直ししたものが現在でも歌われています。
小倉高校 現校歌 (全3番)
大空涵す 玄海の 深き知徳を称へつつ
足立の山を仰ぎては 愛国の意気 いや高し
1番「殉国の意気」→「愛国の意気」と2番「文武の道」→「文化の道」に改められ長らく変更されませんでしたが、校是の「文武両道」に鑑みて2番を元に戻してほしいとの要望に沿って平成8年か9年頃に「文武の道に」になりました。
2番「偲ぶもゆかし先人の、文武の道にしるしたる…」は、小倉藩主・小笠原忠真や黒田官兵衛に細川忠興を思い起こすでしょうが、未検証ながら小倉に居住していたとされる武将・乃木希典と文豪・森鷗外を指すのではないかと思っています。特に乃木希典は明治天皇の大喪の儀の直後に殉死したというのが1番「殉国」にも当てはまると思いますね。
追記:昭和15年頃までは第一、第二とも式典で歌われていたようですが、今日では第二のみが正式校歌とされます。
さて、戦前シリーズは夏の大会はこれで完結とします。
選抜大会もいつか改めて紹介したいと思いますね。といっても夏と重複が多く、紹介していない学校は第一神港商・東邦商・愛知商・徳島商くらいですが…