校歌の広場 -21ページ目

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

夏の旧制中等学校野球大会は昭和22年の第29回大会が最後となります。

終戦直後から文部省と連合国最高司令部(GHQ)による教育制度の改革が検討され、いわゆる「六・三・三・四制度」を採用し、この年に”学校教育法”、”教育基本法”を制定して翌23年春に新制高等学校が発足しました。

昭和23年春の選抜は制度上は新制高校として開催されたのですが、旧制→新制変更の過渡期だったため混乱を避けるために旧制時代の校名で行なったそうです。

第29回大会の優勝校は小倉中学校でした。ちなみに小倉中は翌夏も小倉高校として優勝しており史上5校目の夏連覇を成し遂げています。

今回は、福岡県の小倉高校です。

http://kokura.fku.ed.jp/

 

春11回・夏10回の全国大会出場を誇り、通算27勝は福岡県代表校では最多です。昭和20年代が全盛期で、優勝2回、準優勝2回もこの期間です。その後はやや低迷し、昭和53年春が最後の出場ながら勝利して校歌も流れました。29回、30回大会の連覇の立役者でエースの福嶋一雄氏がつい最近(9月)他界されたそうです。

 

北九州市の公立校では東筑高校と並ぶトップ校に位置付けられ、古くから「質実剛健」「文武両道」の精神を受け継ぐ伝統校で110年ほどの歴史があります。

地元の九州大学や九州工業大学など九州一円の国立大学の他、京阪地方の難関大学に進学する学生が多いようです。制服には”霜降り”と呼ばれる小倉織のグレー調が使われ、小倉高校のアイデンティティのひとつにもなっています。

 

学校の源流は小倉藩の藩校・思永館にまで遡るようですが、その直系は以前紹介した育徳館高校であり、その分校が小倉城下に開校し明治15年に小倉中学校と改称しました。この小倉中は中学校令(1府県1学校設置の原則)でわずか5年で廃校し前史として扱われています。

正史としての小倉中学校は明治41年に復活の形で開校、そのまま学制改革で小倉高校となり現在に至っています。昭和24年度のみ小倉北高校という校名でしたがすぐ元に戻りました。

追記:”北高”の校名については在校者、卒業生のみならず教育関係者や一般人まで論議沸騰したそうです。同窓会は”小倉高校”復帰を強く要望し、同市内の高校も改称に巻き込む運動がなされたようで、福岡県の見解は「”北高”は案にして正式発表されておらぬにつき、”小倉北高校”を”小倉高校”にしても差し支えなしとす」とのことで早速改称に踏み切っています。巻き込まれた形の他校は結局そのままで改称していません。

上記のように昭和24年夏の甲子園では”小倉北高校”として出場しているのですが、学校は”小倉高校”として出場希望だったのを県の校名審議会の裁定がまだ出ていなかったためやむなく決めたものだそうです。直後の二学期から県の最終決定前にもかかわらず校門の校名板を”小倉高等学校”と書き改めた、といいます。如何に渇望していたかがよくわかりますね。正式認可は翌年4月でした。

 

初代校歌は作詞:出口隆治 作曲:山内常光で大正12年制定です。
旧制・小倉中 初代(全4番)
 喜久の長濱 風清く 朝靄霽るる 六連島
 波路遙かに こがれゆく
 船に世界の文明を 送り迎ふる関門は
 是ぞ我等が学ぶ里

 

初代校歌は”間に合わせの校歌”とあり、4年後に創立20周年記念として第二校歌が作られました。作詞:元永辰夫 作曲:大塚淳で昭和3年制定です。
旧制・小倉中 二代目(全3番)
 大空涵す 玄海の 深き知徳を称へつつ
 足立の山を仰ぎては 殉国の意気 いや高し

 

戦後はこの第二校歌を一部手直ししたものが現在でも歌われています。

小倉高校 現校歌 (全3番)
 大空涵す 玄海の 深き知徳を称へつつ
 足立の山を仰ぎては 愛国の意気 いや高し

 

1番「殉国の意気」→「愛国の意気」と2番「文武の道」→「文化の道」に改められ長らく変更されませんでしたが、校是の「文武両道」に鑑みて2番を元に戻してほしいとの要望に沿って平成8年か9年頃に「文武の道に」になりました。

2番「偲ぶもゆかし先人の、文武の道にしるしたる…」は、小倉藩主・小笠原忠真黒田官兵衛細川忠興を思い起こすでしょうが、未検証ながら小倉に居住していたとされる武将・乃木希典と文豪・森鷗外を指すのではないかと思っています。特に乃木希典は明治天皇の大喪の儀の直後に殉死したというのが1番「殉国」にも当てはまると思いますね。

追記:昭和15年頃までは第一、第二とも式典で歌われていたようですが、今日では第二のみが正式校歌とされます。

 

さて、戦前シリーズは夏の大会はこれで完結とします。

選抜大会もいつか改めて紹介したいと思いますね。といっても夏と重複が多く、紹介していない学校は第一神港商・東邦商・愛知商・徳島商くらいですが…

太平洋戦争で中断していた中等学校野球大会は、戦後の昭和21年の第28回大会から再開しました。しかし甲子園球場は米軍に接収されていたため使用できず、近隣の阪急西宮球場での開催となりました。

この第28回大会優勝は浪華商業学校でした。第1回大会大会以来の優勝を目指した京都二中は準優勝に終わっています。

今回は、大阪の大体大浪商高校です。

http://www.ouhs-school.jp/namisho/

 

大阪代表は意外なことに旧制時代は春夏とも優勝回数は1回だけで、初優勝はどちらも浪華商です。市岡中・八尾中・日新商といった常連校もいるにはいましたが、上位進出が多かったのが浪華商で16勝を挙げています。

戦後も”大阪私学7強”の一角として強豪校に数えられ、昭和30年春と36年夏に優勝、春に2回の準優勝があり通算で春夏計49勝していますが昭和54年に春夏連続出場した後は甲子園から遠ざかっています。最近では平成14年春に復活して1勝して校歌が流れました。

 

学校は大阪府南部の泉南郡熊取町にあり、和泉山脈の西麓に大小の池が点在する中に大阪体育大学や浪商中と浪商本部も同居する広大な敷地にあります。最寄り駅はJR熊取駅でそこから南東に5kmほど、バスや自転車で10~15分です。

大正10年に浪華商業実修学校として創立し、2年後に浪華商業学校と改称しました。当初は天王寺区、次いで南区、東淀川区と移転を繰り返し、戦中の一時期は淡路工業学校とされたものの戦後の学制改革で浪華商業高校となりました。

昭和34年に商業科の他に普通科を設置して浪商高校に改称、昭和38年に茨木市に再度移転、平成元年に熊取町に再々移転完了とともに大阪体育大学浪商高校と改称して現在に至り、令和3年に創立100周年を迎える予定です。

校歌は作詞:本校文芸部 作曲:多忠亮で昭和2年制定です。

旧制・浪華商 初期校歌 (全5番)

 嗚呼六甲ゆ 朝風の

 淡路廣野に吹き満てば 
 玲瓏 淀の水澄みて

 生気溢るる 我が母校

 

ここでの「淡路」は淡路島ではなく大阪市東淀川区淡路町を指します。前年に南区から移転してきた記念か、初の卒業式が挙行されるということで校歌が作られたものと思います。

旧3番は「…星高く、やがては満つる新月に、O,N,Sを溶き合わす、我が校章ぞ…」は校章の図案を解説したもので下記のリンクに当時の校旗(校章)が見られます。

https://www.namishogakuen.jp/100th/history/

この後に1番や3,4番の改定を経て現在の歌詞に落ち着きました。

大体大浪商 現校歌 (全4番)

 茅渟の浦曲ゆ 朝風の

 大和広野に吹き満てば 
 玲瓏 淀の水澄みて

 生気溢るる 我が母校

 

茅渟の海茅渟の浦は大阪湾の古称で堺以南の和泉国あたりの海を指すそうですが、校歌では大阪市以西の兵庫県沿岸東部(尼崎市や神戸市など)でも見られます。現在地に移転した後も大阪平野や淀川が残る校歌を変えなかったのは伝統を重んじたためでしょうか?

 

大体大浪商高校の系列校に同法人設立の大阪青凌中学・高校があります。

団塊ジュニア世代の生徒が急増しつつあった昭和58年に、大阪私立中高連の要請で浪商高校高槻学舎として開校しました。2年後に中学校を併設して中高一貫教育を開始とともに現校名となり、平成12年に男子校から共学に転換して現在に至ります。令和元年にそれまでの高槻校舎から隣町の島本町に移転しました。

浪商の分校から始まった経緯を持つことから校歌も浪商と同じものを使用しています

 

往時の浪商は野球部の活躍もあり良くも悪くも”やんちゃ”な学校として有名でしたが、現在は落ち着いた環境と中高一貫教育の教育方針もあってか「文武両道」にふさわしい学校たらんとする生徒が集まっています。

大阪も甲子園出場校の顔ぶれが変わっていく中、名門校の復権を期して再び甲子園に出場してほしいものですね。

第25、26回と史上4校目の夏連覇を果たしたのは海草中学校でした。

昭和15年開催の第26回大会は戦時下での開催となり、「全日本中等学校体育競技総力大会」の各種競技の一部門として行われました。甲子園球場周辺一帯で野球の他に陸上、体操、バレーボールなどの8種目が甲子園一帯で催され、甲子園球場に集った合同開会式で大会の幕が開いた、といわれるそうです。

今回は、和歌山県の向陽高校です。

https://www.koyo-h.wakayama-c.ed.jp/index.html

 

和歌山県では和歌山中が第1回から14年連続出場していましたが、その連勝を止めたのが海草中です。以降は和中に代わって海草中が台頭し、昭和9年から旧制終了まで和歌山を代表する強豪でした。

旧制時代は初出場の昭和4年夏にいきなり準優勝昭和14、15年夏の連覇など華々しい戦績がありますが、新制向陽高校となった後は夏の出場は無く春のみ5回出場しています。平成22年春は21世紀枠で出場し45年ぶりに勝利して校歌が流れました。

 

和歌山市街から東方、和歌山電鉄貴志川線日前宮駅の近くにある学校です。

前史として明治37年に海草農林学校が開校しましたが、大正4年に同校を廃止して海草中学校が設立されました。和歌山市では2番目の旧制中学校で、名草・海部の両郡が明治29年に合併して成立した海草郡を冠した校名というわけですね。

作詞:稲葉小三郎 作曲:岡野貞一で制定年は不明です。
旧制・海草中 (全2番)
 黄金の征箭 燦然と 朝暾耀ふ日前の
 杜の樹蔭に聳ゆる甍は 我等が学舎 海草中学
 大正の世に生れし栄を 額に受けて若人の
 前途に見ゆる尊き光明 共に追はんと この学舎に
 集へる海南健児の群の 虚空を衝く意気 断えせぬ努力
 かゞやく希望 高き理想は 学舎繞れる白楊の秀枝に

 

作詞者は本校国漢科、校史では稲葉小三郎氏となっています。稲葉氏はここの他に広島県福山高女(現・福山葦陽高校)の校歌も作られています。2番後半に学校を「心の故郷、知識の家居、安息の宿、慰藉の泉」と並べて讃えるところはかなり独特な感覚だと思いますね。

 

学制改革で新制高校に転換した際、和歌山市の学校名選定では”向陽”を採用して向陽高校となりました。平成16年には向陽中学校を併設して中高一貫教育を開始、現在に至ります。

現在の校歌は作詞:見矢龍達 作曲:北原雄一で昭和23年制定です。
向陽高校 (全3番)
 緑に映ゆる 日前の
 杜陰清き 学舎に
 高き理想を求めつつ
 来り集える若人が
 歓呼にぞ 夜は明けそむる
 向陽 向陽 吾等が向陽


3番構成のそれぞれが朝、昼、夕方を表し、全体的に”向陽”=希望に向かう様を表現しています。

日前の杜」とは向陽高校の東隣にある日前宮のことです。日前宮は日前(ひのくま)神宮國懸(くにかかす)神宮が同一境内にあり、天照大神の御鏡を御神体として奉祀し古くは紀伊国一之宮、また官幣大社として伊勢神宮と比肩されるほどの扱いをうけたそうです。良縁・結婚・家内安全祈願の信仰で知られています。太陽が昇るとき、そうした聖域の影が校地に掛かるので「杜陰清き学舎」と歌われるのでしょう。


公式的な記録としては昭和15年の第26回大会が戦前最後の大会です。

昭和16年は戦局が逼迫する中、第27回大会の予選はいくつかの県で途中まで行われたものの7月中旬に中断、全国大会はそのまま中止に追い込まれました。それでも県レベルでは後日決勝まで行なったところも多くあります。

翌17年は文部省と大日本学徒体育振興会なる団体の主催で予選・全国大会が行われましたが、主催者が異なるために公式的な記録にはならず「幻の甲子園」扱いとなっています。ますます戦局が厳しくなり、国威発揚のため英語禁止・競技ルール変更などいろいろな統制の下でやらざるを得ませんでしたが、観客は多かったそうです。

昭和18年から20年の3年間は開催できず、再開は昭和21年まで待たなければなりませんでした。

第23回大会は中京商が4年ぶり4回目の優勝を果たしました。旧制時代の中京商は夏は4回出場して全て優勝という快挙です。

第24回大会優勝校は平安中学校でした。
今回は、京都府の龍谷大平安高校です。

全国大会出場回数は春夏合わせて全国最多の75回を誇る京都の名門校です。
初出場は昭和2年、3回の準優勝を経て前回(昭和11年)の決勝で敗れた岐阜商にリベンジしての初優勝でした。旧制の優勝はこの大会だけですが、戦後は春1回・夏2回で計4回の優勝と同数の準優勝があり、通算勝利数は103勝と中京大中京に次いで2位です。

京都駅から北西方向の下京区御器屋町に位置し、東隣には龍谷山浄土真宗本願寺派、通称「西本願寺」や龍谷大学大宮校舎があります。南には京都水族館京都鉄道博物館を擁する梅小路公園があり市民の憩いの場のひとつになっています。

学校は明治9年に滋賀県彦根市に西本願寺系の金亀教校として開校、明治42年に京都市の現在地に移転し翌年に平安中学校と改称しました。
平安の校史では旧制平安中には校歌は無かったと記されています。学校全体で歌われたのは応援歌や宗歌と思われます。

学制改革で平安高校となり、平成20年に龍谷大学との教育連携の強化を進める意義で付属校となり龍谷大学付属平安中学・高校と改称しました。また戦後も長らく男子校でしたが、平成15年に男女共学に転換しています。
宗教学校らしく花まつり涅槃会などの年中行事や講堂仏参、授業にも宗教教育が取り入れられています。

校歌は戦後になってから制定されたそうで、作詞:鴫原一穂 作曲:渋谷光明で昭和20年代頃かと思います。
平安 (全3番)
 むらさき匂う 雲のかなた
 希望の星の 燃ゆるところ
 目指し羽搏く 若き生命
 燦たり ここにこぞる
 おお称えよ称えよ たぎる力を

何となく天理高校の序盤を思い起こすような歌詞ですね。
2番は学校の環境を端的に表し、3番は戦後の風潮を反映してか夜明けのような時代に自由闊達で新たな校風を起こせと歌ったものでしょうか。

創立140年以上の伝統校、これからも新たな歴史を作っていくことでしょう。

第22回大会優勝校は岐阜商業学校でした。

今回は、岐阜県の県立岐阜商業高校です。

http://www.kengisho.ed.jp/index.html

 

市立岐阜商業高校との区別のため通称”県岐阜商”あるいは”県岐商”と呼ばれ、春夏とも28回ずつ計56回の全国大会出場を誇る岐阜県を代表する名門校のひとつです。

夏の優勝はこの大会のみですが春は昭和8,10,15年の3度優勝、準優勝も6回あり、通算勝利数は87勝で歴代4位です。岐阜県内でも近年の私立高校優勢にあって健闘しているといえます。

 

明治36年に岐阜市立岐阜商業学校として開校した120年近い歴史のある伝統校です。昭和10年には女子を対象とした岐阜市立女子商業学校が別途開校しています。

戦後の学制改革で市岐商と市女商が統合して新制岐阜市立岐阜商業高校となりましたが、公立高校の学区制度実施により普通科を併置して校名も長良高校と改称しました。高校三原則に則った形で長良高だけでなく旧制中学上がりの岐阜高加納高にも商業科を設置して生徒を分散させていたようです。

昭和26年に長良・岐阜・加納の商業科を集約した県立岐阜商業高校が設置され、形式上は長良高校からの分離独立となって現在に至ります。

校歌は作詞:伊藤武男 作曲:福井直秋で大正14年制定です。創立20年記念式典に合わせて全校に募集して制定されたそうです。
県岐阜商 (全3番)
 緑滴る 金華山
 水清冽の 長良川
 山河自然の化を享けて
 城北の地に聳え立つ
 我が学び舎を仰がずや

 

城北の地に聳え立つ…」とありますが、現在の校地は岐阜市則武でほぼ西です。校歌では旧校地(現・長良高校)を指していて長良川を挟んで真北に位置します。「山河自然の化を享けて」とは、変化の意味ではなく”感化”か”化育(自然が万物を生成する)”に近い意味で金華山や長良川のような自然の姿を教訓とせよとする考えで戦前に多かった表現です。

2番「三伏の熱、冱寒の威」は、夏と冬の岐阜市の気候を表しています。三伏とは歳時記に”三伏の候”ともあるようにほぼ真夏の酷暑になりやすい時期です。冱寒はその逆で、凍てつくような厳しい寒さのことです。岐阜市は内陸にあるため寒暖差が激しく、最高気温は39.8℃を記録したかと思えば冬は制定当時頃はマイナス10℃以下という日もあったそうです。最低気温はさすがに現在はそこまでいかないようですが…

作詞者はそうした自然に負けない学生の情熱と生き方を表したということです。

 

岐阜市女商の校歌は調査漏れにより不明です。

ちなみに長良高校は岐阜商が分離独立して商業科の生徒が卒業した昭和28年までこの校歌を使用し、普通科単独の高校となった同年に独自の校歌が制定されています。

 

部活動も野球部だけでなく運動系・生産系・文化系の各分野も盛んで、東海大会や全国大会で多く優勝するなど優秀な成績を収めています。