校歌の広場

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、沖縄県の中部商業高校です。

http://www.chubu-ch.open.ed.jp/

 

宜野湾市は沖縄県の中南部に位置し、西側は東シナ海に面しています。

滋賀県における琵琶湖よろしく市域の中央部分を米軍普天間飛行場(普天間基地)が占め、北部にもキャンプ・フォスターが展開する”基地の町”ですが、周辺には鍾乳洞もある沖縄八社のひとつ普天間宮や海岸部にはトロピカルビーチなどいくつか見所もあります。

 

中部商業高校は宜野湾市の南部に昭和40年開校しました。

ちなみに沖縄県内では工業高校、農林高校も北部・中部・南部それぞれがあります。中部工業高校は美来工科高校に改称、”北部商業高校”は名護商業高校が相当する形でしたが、北部工業高校と統合して名護商工高校となっています。

校歌は作詞:嘉味田宗栄 作曲:伊志嶺朝次です。制定は開校数年以内ではないかと思われます。
中部商 (全3番)
 風かおる 我如古くしはら
 きびの葉の さわだつあたり
 たたずまい ゆかしき丘辺
 海原の 広がるみえて
 あらたなる 生命はぐくみ
 そそり立つ うまし学び舎

 

1番は宜野湾市の風景とその中に立つ学校を歌います。我如古は難読地名で「がねこ」と読みますが、続く「くしはら」とはなんだろうかと考えた結果、次のような結論(私見ですが)に至りました。

「くしはら」の”はら”はだとすれば、九州以南では田原坂=たばるざか、春日原=かすがばる、高原=たかはる、新田原=にゅうたばる等々、原を”はる”・”ばる”と読む例が多いことが知られています。沖縄県内でも南風原=はえばる、与那原=よなばるあたりは有名かと。それらと同じように「くしはら」は元来「くしばる」だとすれば、これは後原(くしばる)のことでしょう。沖縄県内でしばしば見られる地名で、那覇市や沖縄市、八重瀬町などの他、学校のある宜野湾市でも喜友名後原などいくつかあります。集落の後方の野原、あるいは崖地を意味する言葉だそうですが、いわゆるグスク(城)の近くに所在している場合も多いようです。我如古に付随するならば我如古グスクは舌状丘陵上にあり、中部商業高校のあたりに切通しの道があったとされます。つまりは”我如古グスクの後方の崖をひらいた地=くしはら”、ではないでしょうか。

宜野湾市周辺は沖縄戦では嘉数高地の激戦があったところで、今はすっかり宅地化していますが、戦後は”さとうきび畑”の歌のような光景がかつては広がっていたのでしょう。ちなみにこの歌の初演は昭和42年で開校と同時期です。私も10回ほど沖縄を訪問していますが、本島内をドライブしていると南部の南風原町や糸満市などには今でも月桃やきびの葉がさざめいているのを見かけます。そうした静かな台地から海が眺められ、新たに入学してくる学生を育むために立つ美しい中部商業高校、という歌詞ですね。

 

高校野球では平成14年、16年夏の2回、甲子園に出場していますが未勝利です。今や沖縄尚学・興南の二強に割って入るのは容易くない状況ですが、近年も決勝進出するなど力はありまた甲子園で見てみたい学校のひとつですね。

西日本の校歌紹介がかなり滞ってしまっているので、今回から改めて紹介していこうと思います。

 

今回は、鳥取県の境高校です。

https://www.torikyo.ed.jp/sakai-h/

 

境港市は県の西部、米子市から北西に伸びる弓ヶ浜半島先端部に位置する町です。市名の由来は幕末の地誌『伯耆志』に「浜の目(半島北部の郷名)の北極にして、北、出雲国島根郡に相対す…」のように伯耆国と出雲国の”境”に位置する港という意味のようです。

境港は日本有数の漁獲量を誇り、名物のズワイガニクロマグロ、他にもイカやサバなどが豊富に穫れるため水産業者育成の境水産高校(現・境港総合技術高校海洋科)もありました。しかし近年漁業従事者も全国的に一貫して減少・高齢化しているようです。

また水木しげる氏出身の町として大々的なPRを行っており、特に有名なゲゲゲの鬼太郎にあやかってJR境線に鬼太郎列車を走らせたり、終点境港駅から水木しげる記念館までの道を水木しげるロードとして整備し様々なブロンズ像を設置したりイベントを行っています。

 

こうした特色ある町の一角に境高校があります。海の近くではなく、駅でいえば境港駅のひとつ手前の馬場崎町駅とふたつ手前の上道駅の中間あたりの内陸地に所在しています。

前身にあたる旧制境中学校境高等女学校とも昭和15年に創立開校し、学制改革と再編を経てこの2校と余子水産高校を統合して境高校となりました。このうち水産科は後年、境水産高校として独立しています。

開校時はほぼ戦中時代とあって校舎建設や勤労動員に明け暮れ、校歌作成の余裕がなくそのまま終戦を迎えるまで校歌は作られませんでしたが、終戦直後頃から校歌制定の要望が毎年のように出されいくつか学生歌が作られています。昭和27年夏に甲子園初出場した際は『霊峰大山』と称する歌が披露され、これは応援歌となっています。

校歌は作詞:薮田義雄 作曲:下総皖一で昭和32年制定です。

境 (全3番)

 朝日に映えて 聳えたつ

 むらさき深き 大山を

 日毎に仰ぎ 励みつつ

 若き学徒の つどう園

 われら 境高校生

 希望よ 花と咲きかをれ

 

昭和26年頃に本格的な制定委員会が設けられ、全校生徒から歌詞に盛り込む語句アンケートを募集したり境港市周辺の基礎データを元に池田亀鑑氏に作詞を依頼したそうです。池田氏は国文学者で特に『源氏物語』研究で有名だったのですが詩歌作りは専門ではないため遅れに遅れました。ただ戦前少なくとも由良高女(現・鳥取中央育英高校)の校歌を作っているのでノウハウが無かったわけではないと思うのですが…。その後、昭和31年に2回目の校歌制定委員会が発足し歌詞を公募、その添削選定を再度池田氏に依頼しようとした矢先に逝去してしまいました。

作成は振り出しに戻り、学校関係者によって下総皖一氏に作曲依頼を承諾してもらい作詞は下総氏が推薦した薮田義雄氏に決定しました。薮田氏は鳥取県や境港市の様子を知らないため一度現地に行ってから…という考えだったようですが、それでは時間がかかるので卒業式に間に合わせられるよう資料を持って上京し無理を言って作ってもらった、となっています。

2番「霞か雲か匂やかに、天まで続く大天橋」は弓ヶ浜半島そのものを指すのでしょうか。その成り立ちは京都北部の宮津にある天橋立と同じく砂の体積によって形成された「日本最大の砂州」なのです。付け根の米子周辺に注ぐ日野川流域から流下してくる砂が堆積し、周辺の収束風と美保湾の海流が回り込んで徐々に弓なりに形成されたそうで、あまりにも大規模で果てが見えないことを例えたものではないかと思います。防風林、防砂林として松が植えられており「日本の白砂青松100選」にも選ばれています。

 

野球部は鳥取県有数の強豪校で、春2回、夏8回甲子園に出場しています。春夏ともに1勝を挙げていて、平成2年に夏の初勝利で流れた校歌は私の記憶にも残っていますね。ちなみに昭和48年春に出場した際、大会本部から2番の歌詞の一部がおかしいのではないかという指摘があり改訂されたものが今日まで歌われています。

 

3連続で静岡県というのもどうかとは思いましたが、最後の紹介ですのでお許しを(笑)

今回は佐佐木信綱氏です。”佐々木信綱”と書かれることも多いようですが、本人は明治頃から佐佐木を使用しています。

三重県鈴鹿郡石薬師村(現・鈴鹿市)出身の歌人・国文学者で、生涯に詠んだ歌は一万首以上とも言われています。特に万葉集の研究で知られ、第一回(昭和12年)文化勲章の受賞者でもあります。

私がこの人を知ったのは国語の教科書の副読本に載っていた「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」の歌。大学時代に関西にいたとき、唐招提寺や薬師寺を訪ねたことを思い出しますね。

明治から戦後くらいまで活躍し、校歌も北海道から長崎まで約120校ほど作ったそうです↓

佐佐木信綱顕彰会 http://nobutsuna-karuta.org/

 

今回は、静岡県の浜松聖星高校です。

https://hamamatsu-seisei.jp/

 

浜松市街のやや西方の佐鳴湖に近い蜆塚地区に所在し、昭和31年に浜松海の星高校として開校したカトリック系のミッションスクール校です。校名の「海の星」とは”海星"と同じく聖母マリアを意味し、キリスト教の始祖で”神の子”イエス・キリストの母マリアはクリスチャンにおいての希望の象徴、導きを与える星に例えられています。

平成29年に女子校から共学となり浜松聖星高校に改称しました。

南には蜆塚遺跡が公園となって整備されており、縄文時代後期の貝塚とその周辺に住居跡や墓地が発掘されて公開され、また当時の住居が想像復元されています。

 

開校当初は聖歌338番「そらのかなた」が校歌代用として歌われていました。なぜ聖歌338番なのかは学校史からはわからなかったのですが、当時学校を運営していたのが聖ベルナルド女子修道会(BEC)だったことが大きいのでしょう。
この組織は6世紀に聖ベネディクトが興したベネディクト会の戒律を護持するシトー会が世界に散らばり、その中から19世紀に新しい修道会として誕生した、ということです。聖ベルナルドはマリアを”Stella Maris・海の星なる聖母”と呼び、大洋を航海する船を安全に導きます女神とみなしていました。その教えを最も表しているのが聖歌「Ave Maris Stella」や「そらのかなた」だったのではないでしょうか。

 そらのかなた まさやけく

 ふなじしめす うみのほし

 波をけたてて 我等はゆく

ちなみに”海の星”はほとんどの場合北極星(ポラリス)を指し、北の空に夜中位置を変えないことから古来世界中で航海の目印とされていたことは周知のとおりですが、他に金星やシリウスに該当する説もあります。どちらも明るい星で、特に金星はカトリックで地中海沿岸から見る明け・宵の明星とする解釈のもと崇拝の対象とされ、「そらのかなた」の”海の星”も内容からすると夜空に光る北極星ではなく朝夕に輝く金星です。

 

さて開校からしばらく経った昭和37年、校旗と校歌を制定してはどうかとの議があり色々検討の結果、佐佐木信綱・信時潔の組み合わせで進めることになりました。そして佐佐木氏の快諾を得て当時居住していた熱海まで資料持参で訪問、約2ヶ月後に完成しましたが、この時佐佐木氏は実に91歳の超高齢で学校関係者も心配するほど体が衰えていたそうです。

作詞:佐佐木信綱 作曲:信時潔で昭和38年制定です。

浜松聖星 (全3番)
 あけぼの まぢかし 澄みゆく空に
 さやかに 船路を示す 海の星
 仰ぎて 祈らく 心は ひとつ
 真理を学ばむ 真理に生きむ
 真理は 人の世の命
 よき地浜松 浜松のよき学校

 

「真理」は他の”海星”の校歌でも三重・海星愛と真理に育まれ」や長崎・海星旧2番「螢に雪に究めん真理」、宇都宮神戸海星女子学院2番「真理の道を一筋に」など特に強調して歌われています。校章にあるVERITASも真理の意味で「真理を学び、真理と愛に基づいて生活する人になるという本校の理念を表しています」だそうです。

あけぼの=夜明け近くに船路を示す海の星、これもやはり明けの明星たる金星でしょうか。

学校関係者が「明日を夢み、未来を望む青年への心へ贈る温かい指標が、今日ほどに”海の星”にぴったりするときはない」と評した校歌は共学となった現在も歌われ続けているのです。

佐佐木氏はこの年(昭和38年)終わり頃に92歳で逝去、信時氏も2年後(昭和40年)に亡くなりました。

 

現在ではミッションスクールとしてチャペルアワーやステラサンクタクリスマスと称するコンサートを行っている他、留学による実践英語教育や理数教育(STEAM)のICT分野で目覚ましい活躍があります。

穂積忠氏は生涯で校歌をどのくらい作ったのでしょうか。

死後に纏められた『穂積忠全歌集』には校歌は収録されていないそうですが、才ある詩人の割にはあまり作らなかったようで多く見積もっても10校くらいではないかと思われます。しかも最も活躍していた戦前でも確認できるのは1校、韮山中学校だけです。

これは歌・詩作を生業にしていたわけではなく、本業は教師だったからです。旧制韮山中から國學院大学に進学、大学卒業後すぐに長野県の高等女学校の教師になっています。関東大震災で実家のある伊豆に帰郷後は死去するまでそこを離れていません。勤務していた三島高女(現・三島北高校)、韮山中伊東高女(現・伊東高校)は、すでに校歌があったので新たに作る機会がなかったというのもあるでしょうか。戦後作で確認できるのは校長となった三島南高校を始め小中高6校ほど。

 

穂積氏は前回でも触れた通り、北原白秋折口信夫に師事しました。始めは韮山中在学時代から白秋門下に入り「穂積茅愁」の号で歌壇に投稿する一介の門人でしたが、白秋と直に会ってからは才を認められ愛弟子となり早々に詩集編纂を勧められるほどになったといいます。一方、進学した國學院大学で折口に学び薫陶を受けるようになった頃から両師の軋轢が芽生えたのではないかと後年の研究家は語り「穂積氏の才能と早熟に対する賞賛が、北原・折口とで共有されず反目し合うという不幸を招いた」、これが後々まで穂積氏の葛藤と心境に暗い影を落とし続けることになったとされます。校長の多忙も相まってストレスも多かったようで3度に及ぶ胃潰瘍発症や死因とされる心臓疾患にこの人の苦難を見る思いです。

 

閑話休題、韮山高校の話に戻りましょう。

https://www.edu.pref.shizuoka.jp/nirayama-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

伊豆の国市は伊豆半島の中北部に位置し、ここも伊豆長岡温泉などいくつか温泉が湧出する出湯の町です。韮山といえば平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆に流され蛭ヶ小島に逗留した地というのが定説ですが、実際のところは『伊豆に配流』のみで”蛭島”は後世の推定地だそうです。そして後北条氏の初代当主・北条早雲が拠点とした韮山城。伊豆・相模平定の足がかりとした城で別名は「龍城」、本拠地を小田原に移したあとも重要拠点でしたが豊臣秀吉の小田原征伐の際に抵抗しながらも落城、のち廃城となってしまいました。韮山は幕府直轄領となり韮山代官所が置かれ、明治時代の廃藩置県直後の数年間は武蔵・相模・伊豆国一円を包括する大県”韮山県”だったこともあります。

見どころのひとつに国指定史跡、また明治日本の産業革命遺産にも指定された韮山反射炉は明治に建設された溶解炉で、主に大砲やキャノン砲などの武器製造に使われました。実際に稼働した反射炉で遺構が現存するのは世界でもここだけとされます。

 

学校は明治6年開設と相当に古く、すでに150年に達した静岡県有数の伝統校です。学校名も10回以上の改称・変遷を重ね、明治34年に韮山中学校に落ち着いたあと昭和23年の学制改革で韮山高校になりました。

現在の校歌は作詞:穂積忠 作曲:佐々木英で大正14年制定です。
韮山高校 (全3番)
 空を仰げば  魂ゆらぎ

 地を踏みゆけば  肉躍る
 歴史は古き 韮山の

 男子の気噴 吹き明れ 

 

制定は大正14年ですが、校歌募集に応じて作詞したのは大正8年です。なぜ6年も空いているのかはわかりませんが、その時点では応募作に適当なものは無いと判断されたのが創立30年記念で有名になっていた穂積氏の作を引っ張り出して完成させた、という感じになるのかもしれません。穂積氏は昭和6年に母校の韮山中に転任しているので自作の校歌も歌っていたのでしょうね。

ちなみに学校関係者の証言によれば実際の原稿には1,2,3番の別はないそうですが、数字譜で書かれた古い楽譜(おそらく制定当時?)を見ると3章に分かれています。本人の意図はもはや知り得ず、分かれても分かれていなくてもどっちでもいいのかもしれません。

2番に龍城が取り入れられ、伊豆・相模平定の足がかりとした城を見守ってきた松のように「勁く、ますぐに、飾りなく」おのおのが伸びよと歌うさまは旧制中学らしさを垣間見ます。

 

大正時代の校歌募集の際「校歌ハ学生ノ元気ヲ鼓舞シ…本校未ダ一ノ校歌ナキヲ憾トシ、茲ニ賞ヲ懸ケテ之ヲ募ラントス…」とあり、これ以前には無かったかのような文面ですが、実は旧校歌はあったようです。古いOBの記憶から採譜されたもので明治期作とされ、3番まであったようですが現在2番までしか再現できず正式な表記や作者は不明だそうです。

韮山中 旧校歌?(全3番?)

 カワノナガレヤ ミズノイロ (川の流れや水の色)

 ミガケル ヤマトダマシイノ (磨ける大和魂の)

 オモイハタカキ フジノヤマ (思ひは高き富士の山)

 ココロハキヨキ イズノウミ (心は清き伊豆の海)

 ハコネオロシニ キタエタル (箱根おろしに鍛へたる)

 ニラヤマダンジノ キフウゾヤ (韮山男児の気風ぞや)

 

こちらでは2番に源頼朝と北条氏が出てきます。ただそれほど長く歌われなかったために学校の記録にも残されなかったのかもしれません。あるいは憶測として、他校でも生徒が”校歌”と称して勝手に応援歌のように作って歌っていた記録が稀にあるのでそのような類の歌だったのでは?と考えられます。

 

高校野球では、春夏1回ずつ甲子園出場しています。2回だけとはいえ昭和25年春は初出場初優勝、平成7年夏も2勝と優秀な戦績です。3拍子の校歌ですが、落ち着いた雰囲気ながらも荘重さを感じさせますね。

 

今回は、穂積忠を取り上げます。忠は「ただし」ではなく「きよし」と読みます。

静岡県の伊豆大仁出身で、北原白秋折口信夫の両氏に師事した詩人・歌人として伊豆では有名だそうです。

当人は「学問の師は折口信夫、歌の師は北原白秋」ということを誇りにしていたそうですが、またこの両巨匠から愛弟子と目されていたことから三角関係のような形に悩みもあったようです。もう少し突っ込んだ話は次回、韮山高校で。

 

今回は静岡県の松崎高校です。

https://www.edu.pref.shizuoka.jp/matsuzaki-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView

 

賀茂郡松崎町は、静岡県の東部、伊豆半島の南西海岸に位置する温泉と桜の町です。

伊豆半島は太平洋プレートがフィリピン海プレート下に潜入する部分の上にあり、伊豆諸島と共に火山が連なる地域です。歌で有名な天城山、今は緑に覆われている大室山・小室山など東部火山群などが代表的な山ですね。その成り立ちから熱海や伊東、西海岸でも土肥や堂ヶ島など温泉が豊富な地域で、松崎町でも松崎温泉が湧出しています。松崎温泉は開湯が昭和38年と新しいものの旧家の名残を残す町並みと海岸美もあり「日本で最も美しい村」連合にも加盟しています。

町内を流れる那賀川は春になると川堤に植えられた約1200本の桜が咲き誇り、静岡県でも有数の桜の名所となっています。

 

学校は大正12年に松崎町立女子技芸学校として開校、翌年に松崎実科高女、昭和18年に松崎高女に改称し、昭和23年の学制改革で松崎高校になりました。戦後に松崎実業学校が設立されたようですが、実態はよくわかりません。

校歌は作詞:穂積忠 作曲:小平時之助で昭和28年制定と推測されています。
松崎高校 (全3番)
 明きこころの 象徴とも
 天城の尾根の 空の色
 きよき生命の ひびきとも
 伊豆西海の 潮のおと
 われらが世代 たたへつつ
 ねがはむ 明日のさいはひを
 ああ 校庭の塑像の群
 よき松崎や のびゆく母校

 

松崎高校の学校史での沿革では昭和25~30年の間に作られたとしかありませんが、関係者が校歌について調査講演されたときの記事が載っていました。それによれば校歌の意味や作者の生い立ちなどが説明されている他、校歌が作られた時期の範囲を徐々に狭めていき最後にOB、OGの証言から昭和28年度中との結論を出しています。

穂積氏は昭和27年に胃の手術を終え退院した時には精神的にも気楽になり「師・北原白秋没後これより真の歌出来そうな気さえしはじめたり」との心情からそれまでより割合平易な詞になっていると思われ、以降に作詞したこの松崎高校か静浦東小学校が最後の作品になるのでしょう。穂積氏の死去は昭和29年2月ですが、最後の半年は師・折口の死去の衝撃からもはや歌を作るのもままならないほど憔悴しきっていたそうで、失意のまま心臓疾患で急死しました。

塑像」とは”可塑性のある軟材を用いて形成された立体造形のこと”とあり、松崎高校にはセメントの彫刻作品が現在30体以上あるそうです。これは昭和25年から当時の卒業生による作品として作られ続けているもので、セメント製なので経年劣化で壊れてしまったものもあるのかもしれませんが、学校の特徴的なシンボルとして来校者の目を引いています。

また映画やドラマのロケ地となったことでその道の”聖地”ともなっているそうですね。

 

前身の松崎高女の校歌は制定されなかったようですが、併設されていた松崎尋常高等小学校の校歌を高女に進学してからも歌っていたという証言があるので共通の校歌だった可能性があります。この校歌は現在も松崎小学校に受け継がれているようです。