校歌の広場

校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

最近、私事があり更新できず1ヶ月ぶりになりました。

第42回大会(昭和35年)の優勝校は法政二高校でした。今回は、神奈川県の法政大学第二中学・高校です。

https://www.hosei2.ed.jp/

 

昭和35年夏に優勝、その半年後の36年春も優勝し史上3校目の夏春連覇を果たした名門校です。夏春夏三連覇を目指した36年夏もベスト4に進出しましたが、浪商に敗れています。11回の出場で昭和32年夏の準優勝も含め19勝を挙げていますが、昭和63年夏が現状最後となっています。今秋(2025年)は県大会準優勝と躍進、33年ぶりに関東大会に進出しましたが残念でした。

 

川崎市中原区に所在し、約1.5km東に東京都と県境をなす多摩川が流れています。最寄り駅は南武線、東急目黒線・武蔵小杉駅または元住吉駅でしょうか。

 

昭和14年当時、法政大学の予科が川崎市に移転していましたが、川崎市に中等学校が不足していたため同じ敷地に附属中学として設立されました。

大学予科とは旧制大学に進学する前段階にあたる高等教育機関で、基本的に旧制高校と同等の教育が行われたそうです。学制改革後は新制大学の教養学部などに統合昇格して解消しました。

法政二中時代は独自の校歌があり、作詞:井本健作 作曲:松谷厳で開校間もなく作られたと思われます。

旧制・法政二中 (全4番)

 遙かにあふぐは 霊峰富士の

 雲さへはばかる その厳かさ

 こなたに望むは 清流多摩の

 瑠璃を溶かせる その美しさ

 いざいざ讃えん 自然の恵み

 

1番は川崎市の自然を歌ったものですね。ただし私の資料では4番のうち、2,3番が略されていて詳細不明です。

また、法政一高の前身・法政中についても不明です。昭和11年創立なので、下記の大学校歌を歌っていた可能性はありますが…

 

その後、昭和20年の空襲で被災して二中の校舎はほぼ全焼、しばらくは米軍に接収されたりと満足な教育環境ではありませんでした。ようやく学制改革の頃に校舎が再建、校名も法政大学第二高校となりました。Wikiでは「他の私立校のように新制中学校を併設しなかった」とあり、これは上記のように終戦直後は校舎が無く生徒募集を行わなかったため新制学年でいう”中学生”が在籍せず、高校から再スタートを切る形になりました。

昭和61年に併設型中高一貫校・混合型で附属第二中学校が開校、また創立以来長らく男子校でしたが平成28年度から共学化しました。

現在の校歌は法政大学に準じ、作詞:佐藤春夫 作曲:近衛秀麿です。

法政ニ (全2番)

 若きわれらが 命のかぎり
 ここに捧げて ああ愛する母校
 見はるかす窓の 富士が峯の雪
 蛍集めん 門の外濠
 よき師よき友 つどひ結べり
 法政 おおわが母校
 法政 おおわが母校

 

大学の校歌として制定されたのは昭和5年ですが、法政大学附属校がいつから大学と同じものになったのかは不明です。

法大の校歌制定のいきさつについてはこちら→https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/symbol/koka/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54


これで今年の更新を終ります。皆々様、良いお年を。

今夏、久しぶりに沖縄県に行ってまいりました。

沖縄県は妻の実家があるので、夫婦ではかれこれ10回以上行っているのです。

たいていは沖縄市を拠点としていて、国際通り美ら海水族館首里城といった観光の定番も行ったりしましたが、他にも本島最北の辺戸岬ナゴパイナップルパーク東南植物楽園、最大のイオンモール沖縄ライカムなどなども訪問しています。季節によってはエイサー祭りや道ジュネー、那覇の大綱挽などのイベントも見物に行ったりしていました。

 

沖縄県は日本列島南西のに位置し、うちなーんちゅは本土のことを”内地”と言っています。当然ながら”内地”からのアクセスは飛行機か船舶しかありません。

このブログに関しては、昔は琉球といい琉球王朝があったこと、太平洋戦争最大の激戦地となったこと、戦後20年以上は米国の統治下にあり学校も琉球政府が管理していたことなどが重要な事柄となっています。

沖縄県の高校は現在70校ほど。調査して判明した校歌の数は旧制などを含め約100曲となっています。

 

さて、沖縄県最大の図書館は沖縄県立図書館です。

沖縄県で”唯一の軌道線”ゆいレールで旭橋駅下車、久茂地川を渡ると那覇オーパと呼ばれるビルがあります。1階は県内各地へ運行する最大のバスターミナルがあり、3~5階が図書館となっています。

元々はもう少し東の寄宮地区にあったようですが、平成30年に現在地に移転してきたので館内は割合きれいです。

 

沖縄・琉球関連の郷土資料は5階。学校史や学校要覧などほとんどが開架ですが、小中高が混合で五十音順で並べられているため特定の学校を探すのにやや時間がかかるかと思います。

”校歌集”としては『沖縄県全高等学校校歌集』というのがありますが、各高校の公式HPにある学校要覧の校歌部分を編集した体裁なので確認程度で充分でしょうか。他に『戦前の学校 校歌集』『旧制中等学校・高等女学校 校歌集』もあり楽譜付きで載っています。

 

沖縄県立図書館(2回訪問)

アクセスのしやすさ… 那覇空港から直結のゆいレールで旭橋駅下車、徒歩5分ほど。私はもっぱらレンタカーで送迎でしたが(笑)
所蔵本の充実さ… 学校史、学校要覧とも申し分なく充実しているほうかと思います。校歌集もいくつかあります。
所蔵形態など… 学校史は多いし開架扱いなので便利なのですが、それを打ち消すのが著作権に関する厳しさ。歌詞や楽譜は当然として、例えば個人の回想記なども却下でした。この図書館でこうした方法で研究するには時間的な余裕や筆写などの根気がなければ全くお奨めはできない、というのが個人的な感想です。

図書館HPによれば「国会図書館に準じた複写可能範囲」を定めているようですが…運用については少々違うのかもしれません。

この他、沖縄市立図書館をも訪問したことはあります。

 

不明なのはつくば開成国際高校、最近開校したばかりで未制定?の沖縄中央高校くらいかと思います。

 

第41回大会は西条高校が優勝しました。今回は、愛媛県の西条高校です。

https://saijo-h.esnet.ed.jp/

 

昭和31年の春夏連続出場を始めとして春夏6回ずつ、計12回甲子園に出場しています。現在まで極端に長いブランクがあるわけでもなく、割合コンスタントに出ている印象でしょうか。夏のほうが戦績が高く昭和34年に優勝、ベスト4が2回あります。

 

学校は愛媛県の東予地方に位置する西条市に所在しJR伊予西条駅から北西に約1km、その校地は西条藩の藩庁・西条陣屋と呼ばれる遺構の中にあります。西条陣屋は西条城とも呼ばれることもあるようですが、西条藩は3万石の小藩だったので城持ち格になれず小規模な陣屋を築くに留まりました。陣屋といっても四方に堀をめぐらしたり一部には石垣もある立派なもので、東側の堀を渡ると陣屋の大手門が高校正門として堂々と建ち歴史の風格を感じさせます。

 

明治29年に愛媛県尋常中学東予分校として創立、3年後に独立して西条中学校となりました。学制改革で西条第一高校となりましたが、翌年に西条第二高校(旧制西条高等女学校)と統合して西条北高校に改称しています。西条南高校は現在の西条農業高校です。その後、昭和30年に西条南高校の普通科を統合して西条高校となり現在に至ります。
現在の校歌は作詞:高野辰之 作曲:信時潔で昭和10年制定です。
西条 (全4番)
 四国の連峰 そびらに負いて
 燧の洋に 向かいて立てる
 わが西条は 人の気剛に
 力と熱とに 伸びゆく処

 

詞曲とも東京音楽学校に依頼し、西条町や石鎚山、加茂川などの自然や地図、土地の歴史、学校の沿革などの資料を送付したようです。「そびら」は背中や後ろのこと、燧灘に向かって立つと後ろに四国山地を背負うような形になるのを形容したものです。

人の気剛に」部分は、おそらく「人の気、剛に」で人間の生命活動エネルギーとしての””が、気性や意気の逞しき””となって現れているという意味なのではないかと思うのですがどうでしょうか。旧制中学校歌では剛健とか剛毅という言葉が頻繁に使われていて、男子の心身が逞しくしっかりしていることを理想とする傾向がありました。

 

開校が明治29年にしては制定時期が遅めですが、実は旧校歌はありました。作者は不明ですが、「東愛媛」というタイトルで大正3年頃に作られ5番まであったようです。

旧制・西条中 旧校歌 (全5番?)

 東愛媛の 県とて

 雲嶺 うしろを守りつつ

 八潮路 前を遮れば

 気もさはやかに 朝日子の

 光まづさす 道の前

 万象の色さへ 喜びを

 たたふる里の 学び舎の

 吾等七百の 健男児

 

雲嶺」は雲居に連なる石鎚山などの四国山地、「道の前」は道前平野を指すと思われます。

 

もうひとつの前身校、西条高等女学校は明治40年に西条実業女学校として開校し、大正11年に西条高女に改称しています。

高女の校歌は作者不明ですが、明治44年制定ということはわかっています。
旧制・西条高女 (全2番)
 あやにかしこき すめらぎの

 下したまひし みことのり
 学びの道の 大綱と

 定められたる 教へごと

 朝な夕なに くりかへし

 深くも 胸に刻みつつ
 皆とりどりに いそしみて

 文の林に 分け入らむ

 

すめらぎの下したまひしみことのり」は教育勅語でしょう。明治天皇が明治23年に日本の教育の基本方針として発布以降、終戦まで国民の教育機関の基礎となっていました。「朝な夕なにくりかへし…」とあるように、戦前は小学校の修身教科書の冒頭に載っていて幼少時から教育勅語の暗記、暗唱、音読ができるよう練習に努めることが求められていました。

ある資料に「明治43年5月「師範学校教授要目」、明治44年7月「高等女学校及実科高等女学校教授要目」および「中学校教授要目」で、教育勅語について「勅語ノ全文ニ就キテ丁寧慎重ニ述義シ、且之ヲ暗誦暗書セシムヘシ」と定められ、師範学校や中学校・高等女学校における教育勅語の暗誦暗記が義務づけられた。」とあり、西条高女の校歌制定はまさにこの年に定められた条文に沿った内容と言えることが伺われます。

 

現在の西条高校は、東予地方では今治西高校に次ぐ進学校とされています。進学先としては四国を中心とした西日本の国公私立大学が多いようです。

部活動では野球部の他に、全国大会最優秀を獲得し日本一経験のある合唱部や、書道パフォーマンス甲子園出場もある書道部などが代表的といえましょう。

 

第38回大会は平安高校、39回大会は広島商業高校が優勝しました。

このブログで書き落としてはならないのが、昭和32年の第39回大会から夏の甲子園で校歌斉唱が始まったことでしょう。これまで春の選抜大会では吹奏のみだったのが、夏の選手権大会では校歌演奏(斉唱)と校旗掲揚となり、第一号は香川県の坂出商業高校でした。

 

第40回大会(昭和33年)は柳井高校が優勝しました。今回は、山口県の柳井高校です。

https://www.yanai-h.ysn21.jp/

 

大正14年夏の初出場を皮切りに春4回、夏7回出場していて、昭和33年夏に優勝、昭和47年夏に準優勝するなど16勝をあげています。最後の出場は昭和59年夏となっています。

 

柳井市は山口県の南東部、”室津大島半島”に位置する瀬戸内海沿岸の町です。大畠瀬戸を挟んで対岸に周防大島があり大島大橋で結ばれています。市内を流れる柳井川沿いには瀬戸内海の物資交易の要衝として栄えた商家の名残りの「白壁の町並み」が続き、重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。

 

学校はJR柳井駅から西方に所在し大正10年に周東中学校として設立、2年後に柳井中学校に改称しています。

学制改革で柳井高校となり、翌年に柳井女子高校と統合して共学の新・柳井高校となったのですが、昭和27年には東西の校舎に分けて東校舎は女子、西校舎は男子というように”共学”は形骸化している状態になりました。

こうしたことはこの頃の山口県下に広がった男女別学の風潮を受けたのでしょうか?以前紹介した下関南高校や長府高校のように完全分離とまではゆかず校舎別だけにとどまりましたが、昭和35年西校舎の老朽化に伴う建て替えの際に東校舎廃止の形で完全統合しました。
校歌は作詞:久継啓作 作曲:近藤義次で大正11年制定です。
柳井高校 (全3番)
 琴石山に あかねさす
 栄えの光を仰ぎては
 高き理想を望むべく

 瀬戸内海に照る月の 真澄の影を眺めては

 清き希望に生きぬべし

 

補作:柳井高校とあるように、現在の歌詞になったのは高校になってからです。といっても変わったのは最後の校名部分だけで、制定当初からは「周東健児の意気を見よ」→「柳中健児の意気を見よ」→「柳高健児の意気を見よ」と変遷しています。

琴石山は柳井市街の東方に聳える標高545mの山で、柳井市の象徴のひとつでもあります。比較的登りやすいことからハイキングに人気で、その頂上からは瀬戸内海の絶景が眺められます。下の柳井高女の校歌でも2番に歌われます。

 

柳井高校のもうひとつの前身は明治40年開校の柳井女学校に始まります。3年後に柳井高等女学校となり昭和23年の学制改革で柳井女子高校に、翌年に柳井高校と統合しましたが東校舎としてしばらく男女別学状態でした。
高女の校歌は作詞:鈴木敏也 作曲:岡本真一郎で昭和7年制定です。
旧制・柳井高女 (全3番)
 麗らけき春の朝の
 陽のひかり櫻に映えて
 いつくしき愛の表徽に
 少女子の理想は高し

 

この校歌は柳井女子高校に受け継がれ、柳井高校と統合しても東校舎(旧高女校舎)で「学校の歌」として残ったそうですが、東校舎廃止とともに歌われなくなったようです。

 

こうして100年以上の伝統がある学校ですが、来年(令和8年)近隣の4高校と共に再編統合して新・柳井高校と新・田布施農工高校となること、校歌も公募して今秋まもなく発表することなどが公表されています。

歴史ある「琴石山にあかねさす…」の校歌も消えてしまうことは確実で、寂しく感じますね…

 

第35回の優勝校は前々回で紹介した松山東高校から分離独立した松山商業高校、その翌年は中京商業高校(現・中京大中京高校)でした。

第37回大会(昭和30年)の優勝校は四日市高校でした。今回は三重県の四日市高校です。

https://www.shiko.ed.jp/index.php

 

全国大会初出場は昭和22年春、このときは和歌山県の田辺中に大敗しています。昭和30年夏に初出場・初優勝を遂げたあとは昭和42年夏が最後になっていて通算3回の出場となっています。その後も県内では時々上位に勝ち上がることがあり、今秋(2025年)はベスト4に進出しました。残念ながら東海大会には届きませんでしたが期待はされていると思います。

 

学校は四日市市の北部、富田と呼ばれる地域に所在していて近鉄富田駅のすぐそばにあります。

今年で125周年を迎えた伝統校で、明治32年に三重一中に次ぐ三重県第二中学校四日市高等女学校(当初は裁縫学校)が開校しました。中学は大正8年に富田中学校に改称し、同15年には富洲原高等女学校も別途開校しています。

学制改革でこれらを統合して四日市高校となり、翌年には四日市実業高校、河原田高校をも統合して総合制・四日市高校となりましたがすぐに数校が分離してスリム化、現在に至ります。

四日市高校の校歌は作詞:佐佐木信綱 作曲:弘田龍太郎で昭和24年制定です。両氏とも三重県ゆかりの大人物で知られますね。
四日市高校 (全3番)
 地球をめぐる 潮の音

 耳にとめつつ 学ぶ吾等
 かがやきみちて 平らけく

 和む朝日の 伊勢の海

 

高校となった年の秋に早速校歌作成に着手、郷土出身の佐佐木氏に依頼することになり翌24年に完成しました。この時に四日市高校生徒に宛てた手紙が残っています。要約すれば「これから10年15年の間こそ日本にとって大切な時である。諸君はこれから勉強し巣立っていくのであるが、日本を良くするかしないかは諸君ら若い人がよく勉強するかしないかにかかっている。一人一人が立派な日本人になることを望む…」といった内容です。そのまま現在にも通じる教訓と感じなければいけないでしょう。

なお作曲者の弘田氏はこの3年後に逝去しているので、ほぼ晩年の作といえます。

 

旧制のものも一挙に紹介しましょう。四日市高女初代と富洲原高女は割愛して、三重二中、富田中、四日市高女の3つです。

三重県第二中時代の校歌は、作詞・作曲:山脇萬吉で大正前期の制定です。

旧制・三重二中 (全6番)
 西には聳ゆ鈴鹿山 東に湛ふ伊勢の海
 山は崢嶸 威厳あり 海は洋々 雅量あり
 あゝ我が三重二中 あゝ我が三重二中

 

富田中に改称してから校名部分を変えたのかどうかは判明していません。

2番「小碓命の眠れる地…吾が足三重に勾るまで、勤倹尚武力めまし」は三重県名の由来にちなむのでしょうか。倭建命(ヤマトタケル)は小碓命(オウスノミコト)とも呼ばれ、『古事記』では東国遠征から大和への帰り道に鈴鹿の能褒野というところで亡くなったとされます。その直前に「吾が足三重の曲がりなして、いたく疲れたり」と零していたといい、そこが三重郡となり現在の四日市市三重地区といわれています。実際に四日市周辺には杖をついて登ったという杖衝坂、血を洗い落としたという日本武尊御血塚社、足を洗ったという足洗池など様々な伝承地があります。

そうした古代の英雄のように、困難があってもよく働き質素に武勇につとめよとする内容ですね。

 

富田中時代の校歌は、作詞:宮地雄吉 作曲:弘田龍太郎で昭和11年制定です。

旧制・富田中 (全3番)
 西を劃れる鈴鹿嶺の 
嶺より落つる朝明や
 清き流れの行く処
 鳥出の里に地を占めて
 星霜ここに四十年
 白亜の壁は寂びたれど
 棕梠の葉風の囁きも 
古き歴史の香に匂ふ

 

作詞者の宮地氏は当時の校長で、短歌や俳句に長け棕梠の実会という詩歌の会合を開いていたとされます。ここでの「朝明」は、明け方の朝の意味ではなく四日市市北部を流れる朝明川です。河川名や地域の読みは”あさけ”ですが校歌では”あさあけ”になっています。「鳥出の里」は現在の富田地区に鎮する鳥出神社周辺で、この神社のHPに社名の由来として「倭建命の白鳥に化して飛出給ひし地なる故に鳥出といふ」とあり、白鳥となって飛び立った倭建命(と事代主命)を祀っています。

2番に「羽城の松の濃翠に、蓋世の雄秀吉の、雄図は今も残れるを…」と豊臣秀吉が出てきます。小牧・長久手の戦いの終盤で伊勢の羽津城に陣を敷いて織田信雄と対峙、のちに講和したといい、この後は九州、小田原、奥羽を平定して天下統一するのでそのことを簡単に表しているのではないかと思われます。

 

四日市高女の校歌は2つありましたが、後年のものを紹介します。作詞:佐佐木信綱ですが作曲者は不明です。あるいは初代のものを踏襲しているかもしれません。制定は大正15年で、創立25周年を記念して作られました。

旧制・四日市市立高女 (全3番)
 東にのぞむ伊勢の海
 西に連なる鈴鹿山
 深き心につとめつつ
 高き思ひを養はむ

 

四日市高校には普通と国際の2コースがありますが両方とも三重県でトップレベルに位置づけられ、主に三重大学や名古屋大学、他には東大、京大にも合格多数など実績のある進学校です。スーパーサイエンスハイスクール(SSH)にも指定されています。

部活動は文武両道を目指していてどの部も活発に活動しているようです。