鳥取県立 境高等学校 | 校歌の広場

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高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

西日本の校歌紹介がかなり滞ってしまっているので、今回から改めて紹介していこうと思います。

 

今回は、鳥取県の境高校です。

https://www.torikyo.ed.jp/sakai-h/

 

境港市は県の西部、米子市から北西に伸びる弓ヶ浜半島先端部に位置する町です。市名の由来は幕末の地誌『伯耆志』に「浜の目(半島北部の郷名)の北極にして、北、出雲国島根郡に相対す…」のように伯耆国と出雲国の”境”に位置する港という意味のようです。

境港は日本有数の漁獲量を誇り、名物のズワイガニクロマグロ、他にもイカやサバなどが豊富に穫れるため水産業者育成の境水産高校(現・境港総合技術高校海洋科)もありました。しかし近年漁業従事者も全国的に一貫して減少・高齢化しているようです。

また水木しげる氏出身の町として大々的なPRを行っており、特に有名なゲゲゲの鬼太郎にあやかってJR境線に鬼太郎列車を走らせたり、終点境港駅から水木しげる記念館までの道を水木しげるロードとして整備し様々なブロンズ像を設置したりイベントを行っています。

 

こうした特色ある町の一角に境高校があります。海の近くではなく、駅でいえば境港駅のひとつ手前の馬場崎町駅とふたつ手前の上道駅の中間あたりの内陸地に所在しています。

前身にあたる旧制境中学校境高等女学校とも昭和15年に創立開校し、学制改革と再編を経てこの2校と余子水産高校を統合して境高校となりました。このうち水産科は後年、境水産高校として独立しています。

開校時はほぼ戦中時代とあって校舎建設や勤労動員に明け暮れ、校歌作成の余裕がなくそのまま終戦を迎えるまで校歌は作られませんでしたが、終戦直後頃から校歌制定の要望が毎年のように出されいくつか学生歌が作られています。昭和27年夏に甲子園初出場した際は『霊峰大山』と称する歌が披露され、これは応援歌となっています。

校歌は作詞:薮田義雄 作曲:下総皖一で昭和32年制定です。

境 (全3番)

 朝日に映えて 聳えたつ

 むらさき深き 大山を

 日毎に仰ぎ 励みつつ

 若き学徒の つどう園

 われら 境高校生

 希望よ 花と咲きかをれ

 

昭和26年頃に本格的な制定委員会が設けられ、全校生徒から歌詞に盛り込む語句アンケートを募集したり境港市周辺の基礎データを元に池田亀鑑氏に作詞を依頼したそうです。池田氏は国文学者で特に『源氏物語』研究で有名だったのですが詩歌作りは専門ではないため遅れに遅れました。ただ戦前少なくとも由良高女(現・鳥取中央育英高校)の校歌を作っているのでノウハウが無かったわけではないと思うのですが…。その後、昭和31年に2回目の校歌制定委員会が発足し歌詞を公募、その添削選定を再度池田氏に依頼しようとした矢先に逝去してしまいました。

作成は振り出しに戻り、学校関係者によって下総皖一氏に作曲依頼を承諾してもらい作詞は下総氏が推薦した薮田義雄氏に決定しました。薮田氏は鳥取県や境港市の様子を知らないため一度現地に行ってから…という考えだったようですが、それでは時間がかかるので卒業式に間に合わせられるよう資料を持って上京し無理を言って作ってもらった、となっています。

2番「霞か雲か匂やかに、天まで続く大天橋」は弓ヶ浜半島そのものを指すのでしょうか。その成り立ちは京都北部の宮津にある天橋立と同じく砂の体積によって形成された「日本最大の砂州」なのです。付け根の米子周辺に注ぐ日野川流域から流下してくる砂が堆積し、周辺の収束風と美保湾の海流が回り込んで徐々に弓なりに形成されたそうで、あまりにも大規模で果てが見えないことを例えたものではないかと思います。防風林、防砂林として松が植えられており「日本の白砂青松100選」にも選ばれています。

 

野球部は鳥取県有数の強豪校で、春2回、夏8回甲子園に出場しています。春夏ともに1勝を挙げていて、平成2年に夏の初勝利で流れた校歌は私の記憶にも残っていますね。ちなみに昭和48年春に出場した際、大会本部から2番の歌詞の一部がおかしいのではないかという指摘があり改訂されたものが今日まで歌われています。