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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

第41回大会は西条高校が優勝しました。今回は、愛媛県の西条高校です。

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昭和31年の春夏連続出場を始めとして春夏6回ずつ、計12回甲子園に出場しています。現在まで極端に長いブランクがあるわけでもなく、割合コンスタントに出ている印象でしょうか。夏のほうが戦績が高く昭和34年に優勝、ベスト4が2回あります。

 

学校は愛媛県の東予地方に位置する西条市に所在しJR伊予西条駅から北西に約1km、その校地は西条藩の藩庁・西条陣屋と呼ばれる遺構の中にあります。西条陣屋は西条城とも呼ばれることもあるようですが、西条藩は3万石の小藩だったので城持ち格になれず小規模な陣屋を築くに留まりました。陣屋といっても四方に堀をめぐらしたり一部には石垣もある立派なもので、東側の堀を渡ると陣屋の大手門が高校正門として堂々と建ち歴史の風格を感じさせます。

 

明治29年に愛媛県尋常中学東予分校として創立、3年後に独立して西条中学校となりました。学制改革で西条第一高校となりましたが、翌年に西条第二高校(旧制西条高等女学校)と統合して西条北高校に改称しています。西条南高校は現在の西条農業高校です。その後、昭和30年に西条南高校の普通科を統合して西条高校となり現在に至ります。
現在の校歌は作詞:高野辰之 作曲:信時潔で昭和10年制定です。
西条 (全4番)
 四国の連峰 そびらに負いて
 燧の洋に 向かいて立てる
 わが西条は 人の気剛に
 力と熱とに 伸びゆく処

 

詞曲とも東京音楽学校に依頼し、西条町や石鎚山、加茂川などの自然や地図、土地の歴史、学校の沿革などの資料を送付したようです。「そびら」は背中や後ろのこと、燧灘に向かって立つと後ろに四国山地を背負うような形になるのを形容したものです。

人の気剛に」部分は、おそらく「人の気、剛に」で人間の生命活動エネルギーとしての””が、気性や意気の逞しき””となって現れているという意味なのではないかと思うのですがどうでしょうか。旧制中学校歌では剛健とか剛毅という言葉が頻繁に使われていて、男子の心身が逞しくしっかりしていることを理想とする傾向がありました。

 

開校が明治29年にしては制定時期が遅めですが、実は旧校歌はありました。作者は不明ですが、「東愛媛」というタイトルで大正3年頃に作られ5番まであったようです。

旧制・西条中 旧校歌 (全5番?)

 東愛媛の 県とて

 雲嶺 うしろを守りつつ

 八潮路 前を遮れば

 気もさはやかに 朝日子の

 光まづさす 道の前

 万象の色さへ 喜びを

 たたふる里の 学び舎の

 吾等七百の 健男児

 

雲嶺」は雲居に連なる石鎚山などの四国山地、「道の前」は道前平野を指すと思われます。

 

もうひとつの前身校、西条高等女学校は明治40年に西条実業女学校として開校し、大正11年に西条高女に改称しています。

高女の校歌は作者不明ですが、明治44年制定ということはわかっています。
旧制・西条高女 (全2番)
 あやにかしこき すめらぎの

 下したまひし みことのり
 学びの道の 大綱と

 定められたる 教へごと

 朝な夕なに くりかへし

 深くも 胸に刻みつつ
 皆とりどりに いそしみて

 文の林に 分け入らむ

 

すめらぎの下したまひしみことのり」は教育勅語でしょう。明治天皇が明治23年に日本の教育の基本方針として発布以降、終戦まで国民の教育機関の基礎となっていました。「朝な夕なにくりかへし…」とあるように、戦前は小学校の修身教科書の冒頭に載っていて幼少時から教育勅語の暗記、暗唱、音読ができるよう練習に努めることが求められていました。

ある資料に「明治43年5月「師範学校教授要目」、明治44年7月「高等女学校及実科高等女学校教授要目」および「中学校教授要目」で、教育勅語について「勅語ノ全文ニ就キテ丁寧慎重ニ述義シ、且之ヲ暗誦暗書セシムヘシ」と定められ、師範学校や中学校・高等女学校における教育勅語の暗誦暗記が義務づけられた。」とあり、西条高女の校歌制定はまさにこの年に定められた条文に沿った内容と言えることが伺われます。

 

現在の西条高校は、東予地方では今治西高校に次ぐ進学校とされています。進学先としては四国を中心とした西日本の国公私立大学が多いようです。

部活動では野球部の他に、全国大会最優秀を獲得し日本一経験のある合唱部や、書道パフォーマンス甲子園出場もある書道部などが代表的といえましょう。

 

第38回大会は平安高校、39回大会は広島商業高校が優勝しました。

このブログで書き落としてはならないのが、昭和32年の第39回大会から夏の甲子園で校歌斉唱が始まったことでしょう。これまで春の選抜大会では吹奏のみだったのが、夏の選手権大会では校歌演奏(斉唱)と校旗掲揚となり、第一号は香川県の坂出商業高校でした。

 

第40回大会(昭和33年)は柳井高校が優勝しました。今回は、山口県の柳井高校です。

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大正14年夏の初出場を皮切りに春4回、夏7回出場していて、昭和33年夏に優勝、昭和47年夏に準優勝するなど16勝をあげています。最後の出場は昭和59年夏となっています。

 

柳井市は山口県の南東部、”室津大島半島”に位置する瀬戸内海沿岸の町です。大畠瀬戸を挟んで対岸に周防大島があり大島大橋で結ばれています。市内を流れる柳井川沿いには瀬戸内海の物資交易の要衝として栄えた商家の名残りの「白壁の町並み」が続き、重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。

 

学校はJR柳井駅から西方に所在し大正10年に周東中学校として設立、2年後に柳井中学校に改称しています。

学制改革で柳井高校となり、翌年に柳井女子高校と統合して共学の新・柳井高校となったのですが、昭和27年には東西の校舎に分けて東校舎は女子、西校舎は男子というように”共学”は形骸化している状態になりました。

こうしたことはこの頃の山口県下に広がった男女別学の風潮を受けたのでしょうか?以前紹介した下関南高校や長府高校のように完全分離とまではゆかず校舎別だけにとどまりましたが、昭和35年西校舎の老朽化に伴う建て替えの際に東校舎廃止の形で完全統合しました。
校歌は作詞:久継啓作 作曲:近藤義次で大正11年制定です。
柳井高校 (全3番)
 琴石山に あかねさす
 栄えの光を仰ぎては
 高き理想を望むべく

 瀬戸内海に照る月の 真澄の影を眺めては

 清き希望に生きぬべし

 

補作:柳井高校とあるように、現在の歌詞になったのは高校になってからです。といっても変わったのは最後の校名部分だけで、制定当初からは「周東健児の意気を見よ」→「柳中健児の意気を見よ」→「柳高健児の意気を見よ」と変遷しています。

琴石山は柳井市街の東方に聳える標高545mの山で、柳井市の象徴のひとつでもあります。比較的登りやすいことからハイキングに人気で、その頂上からは瀬戸内海の絶景が眺められます。下の柳井高女の校歌でも2番に歌われます。

 

柳井高校のもうひとつの前身は明治40年開校の柳井女学校に始まります。3年後に柳井高等女学校となり昭和23年の学制改革で柳井女子高校に、翌年に柳井高校と統合しましたが東校舎としてしばらく男女別学状態でした。
高女の校歌は作詞:鈴木敏也 作曲:岡本真一郎で昭和7年制定です。
旧制・柳井高女 (全3番)
 麗らけき春の朝の
 陽のひかり櫻に映えて
 いつくしき愛の表徽に
 少女子の理想は高し

 

この校歌は柳井女子高校に受け継がれ、柳井高校と統合しても東校舎(旧高女校舎)で「学校の歌」として残ったそうですが、東校舎廃止とともに歌われなくなったようです。

 

こうして100年以上の伝統がある学校ですが、来年(令和8年)近隣の4高校と共に再編統合して新・柳井高校と新・田布施農工高校となること、校歌も公募して今秋まもなく発表することなどが公表されています。

歴史ある「琴石山にあかねさす…」の校歌も消えてしまうことは確実で、寂しく感じますね…

 

第35回の優勝校は前々回で紹介した松山東高校から分離独立した松山商業高校、その翌年は中京商業高校(現・中京大中京高校)でした。

第37回大会(昭和30年)の優勝校は四日市高校でした。今回は三重県の四日市高校です。

https://www.shiko.ed.jp/index.php

 

全国大会初出場は昭和22年春、このときは和歌山県の田辺中に大敗しています。昭和30年夏に初出場・初優勝を遂げたあとは昭和42年夏が最後になっていて通算3回の出場となっています。その後も県内では時々上位に勝ち上がることがあり、今秋(2025年)はベスト4に進出しました。残念ながら東海大会には届きませんでしたが期待はされていると思います。

 

学校は四日市市の北部、富田と呼ばれる地域に所在していて近鉄富田駅のすぐそばにあります。

今年で125周年を迎えた伝統校で、明治32年に三重一中に次ぐ三重県第二中学校四日市高等女学校(当初は裁縫学校)が開校しました。中学は大正8年に富田中学校に改称し、同15年には富洲原高等女学校も別途開校しています。

学制改革でこれらを統合して四日市高校となり、翌年には四日市実業高校、河原田高校をも統合して総合制・四日市高校となりましたがすぐに数校が分離してスリム化、現在に至ります。

四日市高校の校歌は作詞:佐佐木信綱 作曲:弘田龍太郎で昭和24年制定です。両氏とも三重県ゆかりの大人物で知られますね。
四日市高校 (全3番)
 地球をめぐる 潮の音

 耳にとめつつ 学ぶ吾等
 かがやきみちて 平らけく

 和む朝日の 伊勢の海

 

高校となった年の秋に早速校歌作成に着手、郷土出身の佐佐木氏に依頼することになり翌24年に完成しました。この時に四日市高校生徒に宛てた手紙が残っています。要約すれば「これから10年15年の間こそ日本にとって大切な時である。諸君はこれから勉強し巣立っていくのであるが、日本を良くするかしないかは諸君ら若い人がよく勉強するかしないかにかかっている。一人一人が立派な日本人になることを望む…」といった内容です。そのまま現在にも通じる教訓と感じなければいけないでしょう。

なお作曲者の弘田氏はこの3年後に逝去しているので、ほぼ晩年の作といえます。

 

旧制のものも一挙に紹介しましょう。四日市高女初代と富洲原高女は割愛して、三重二中、富田中、四日市高女の3つです。

三重県第二中時代の校歌は、作詞・作曲:山脇萬吉で大正前期の制定です。

旧制・三重二中 (全6番)
 西には聳ゆ鈴鹿山 東に湛ふ伊勢の海
 山は崢嶸 威厳あり 海は洋々 雅量あり
 あゝ我が三重二中 あゝ我が三重二中

 

富田中に改称してから校名部分を変えたのかどうかは判明していません。

2番「小碓命の眠れる地…吾が足三重に勾るまで、勤倹尚武力めまし」は三重県名の由来にちなむのでしょうか。倭建命(ヤマトタケル)は小碓命(オウスノミコト)とも呼ばれ、『古事記』では東国遠征から大和への帰り道に鈴鹿の能褒野というところで亡くなったとされます。その直前に「吾が足三重の曲がりなして、いたく疲れたり」と零していたといい、そこが三重郡となり現在の四日市市三重地区といわれています。実際に四日市周辺には杖をついて登ったという杖衝坂、血を洗い落としたという日本武尊御血塚社、足を洗ったという足洗池など様々な伝承地があります。

そうした古代の英雄のように、困難があってもよく働き質素に武勇につとめよとする内容ですね。

 

富田中時代の校歌は、作詞:宮地雄吉 作曲:弘田龍太郎で昭和11年制定です。

旧制・富田中 (全3番)
 西を劃れる鈴鹿嶺の 
嶺より落つる朝明や
 清き流れの行く処
 鳥出の里に地を占めて
 星霜ここに四十年
 白亜の壁は寂びたれど
 棕梠の葉風の囁きも 
古き歴史の香に匂ふ

 

作詞者の宮地氏は当時の校長で、短歌や俳句に長け棕梠の実会という詩歌の会合を開いていたとされます。ここでの「朝明」は、明け方の朝の意味ではなく四日市市北部を流れる朝明川です。河川名や地域の読みは”あさけ”ですが校歌では”あさあけ”になっています。「鳥出の里」は現在の富田地区に鎮する鳥出神社周辺で、この神社のHPに社名の由来として「倭建命の白鳥に化して飛出給ひし地なる故に鳥出といふ」とあり、白鳥となって飛び立った倭建命(と事代主命)を祀っています。

2番に「羽城の松の濃翠に、蓋世の雄秀吉の、雄図は今も残れるを…」と豊臣秀吉が出てきます。小牧・長久手の戦いの終盤で伊勢の羽津城に陣を敷いて織田信雄と対峙、のちに講和したといい、この後は九州、小田原、奥羽を平定して天下統一するのでそのことを簡単に表しているのではないかと思われます。

 

四日市高女の校歌は2つありましたが、後年のものを紹介します。作詞:佐佐木信綱ですが作曲者は不明です。あるいは初代のものを踏襲しているかもしれません。制定は大正15年で、創立25周年を記念して作られました。

旧制・四日市市立高女 (全3番)
 東にのぞむ伊勢の海
 西に連なる鈴鹿山
 深き心につとめつつ
 高き思ひを養はむ

 

四日市高校には普通と国際の2コースがありますが両方とも三重県でトップレベルに位置づけられ、主に三重大学や名古屋大学、他には東大、京大にも合格多数など実績のある進学校です。スーパーサイエンスハイスクール(SSH)にも指定されています。

部活動は文武両道を目指していてどの部も活発に活動しているようです。

 

第33回大会優勝校は平安高校で、2度目の優勝です。
第34回大会(昭和27年)の優勝校は芦屋高校でした。今回は、兵庫県の芦屋高校です。
 
野球部が兵庫大会に初参加したのが昭和21年、その大会でいきなり優勝して全国大会初出場。夏は昭和21~28年の8年間で6回出場と圧倒的な強さを誇り、夏は優勝1回、春は準優勝とベスト4が1回ずつと優秀な戦績で16勝しています。
昭和34年春が現状最後の出場となっていますが、兵庫県は現在でも公立校がちょこちょこ出てくる土地なので今後に期待したいものです。
 
阪神間の旧制中学としては後発で、精道村から芦屋市として市制施行した昭和15年に芦屋中学校として開校しました。しかし芦屋周辺は神戸市に近いことから度々空襲に遭い、とうとう昭和20年の神戸大空襲でほぼ灰燼に帰してしまいました。芦屋中も専用校舎を失い、終戦後は数か所の国民学校(戦中の小学校相当)に分散して授業再開したそうです。
そのような時代に明るい話題をとでも思ったのでしょうか、当時の生徒会によってそれまで無かった校歌作成の機運が起こり、数ヶ月かけて完成しました。
作詞:浅生孝之介、岡本仁 作曲:池尻景順で昭和21年制定です。
旧制・芦屋中(全4番)
 春曙の打出浜
 東の空に茜さし
 平和の女神 微笑みぬ
 翠ヶ丘の梅かほる
 わが学び舎に おのこらは
 つくよ 時代を告ぐる鐘
 
芦屋の四季を詠み込んだ格調高い詞で、芦屋川六甲山打出浜などの学校周辺の環境を盛り込んでいます。
翠ヶ丘の梅薫る」とはこの付近にある打出天神社に関係するような気がします。打出天神社は有名な”打出の小槌”物語ゆかりの神社で、芦屋の沖に棲む龍神が持つ”何でも叶う小槌”を時の朝廷に献上し云々と謂われています。そして神社のHPによれば「室町時代に葦屋荘が北野天満宮の社領地となったことから天神さま(菅原道真公)を勧請し…」とあることから学問の神・菅公の象徴の梅にあやかって取り入れたのかもしれませんね。実際鳥居や本殿の両側に紅白の梅が対で植えられていて春の訪れを待って咲き盛るそうです。
2番「昔の光ほの見えて」は作詞者の浅生氏が、鎌倉時代に成立した新古今和歌集のうち藤原良経が詠んだ和歌「いさり火の 昔の光ほの見えて 芦屋の里に飛ぶ蛍かな」に感動して取り入れたとあります。こうした”葦と蛍”のセットは市立芦屋高校の校歌でも「昔の光ほの見ゆる、蛍に芦の旗かげに…」と歌われました。
戦後に作られたためか行進曲のような豪快勇壮なものではなく、明るく伸びやかな調べが特長的です。
ちなみに校歌選定のとき生徒投票での次点だったものを”自治会歌”として校歌と同時に制定したとあり、このあたりの事情は同校同窓会「あしかび会」HP中の『芦高五十年史』に詳しい記述があります。
 
校歌制定の翌年にようやく現在地に独自の校舎が定まり、さらに翌年の学制改革で芦屋高校になりました。
同時に共学になった後も一部を変更したのみで、現在まで受け継がれています。
芦屋高校(全4番)
 春曙の打出浜
 東の空に茜さし
 平和の女神 ほゝゑみぬ
 翠ヶ丘の梅薫る
 わが学び舎に 若人は
 つくよ 時代を告ぐる鐘
 
先の芦高五十年史の中で「夏の甲子園出場五度目にして全国優勝を実現し、…芦高校歌が甲子園球場に響きわたった」とは、今でいうアルプス席で生徒たちが歌ったものでしょうか。
 
現在の芦屋高校は、進学面では主に関西や西日本地方の国公私立大学が多いようです。部活動としてはサッカー部やバレー部などの他に、インターハイ出場経験のあるヨット部やカヌー部といった水上系の部があります。
 

第32回大会優勝校は松山東高校でした。ということで今回は愛媛県の松山東高校です。

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松山東高校は本質的には旧制松山中の後継ですが、下で詳述するように一時的とはいえ旧制松山商業学校の後継でもあるので、この時の出場記録や優勝は松山東と松山商で分け合う形とされているようです。決勝は四国勢同士となり鳴門高校に勝利して優勝しました。

松山中としては昭和8年に春夏連続出場して夏の方で2勝。そして松山東で昭和25年夏に優勝、平成27年春に21世紀枠で82年ぶりの出場を果たし初戦で勝利を挙げ校歌が流れました。

 

創立は公式HPによれば愛媛県松山中学となった明治11年としているそうですが、更に源流をたどれば文政11年(1805年)開設の松山藩校・明教館になるようです。明治時代に多くの変遷・改称を経て明治34年に松山中学校に定まりました。

旧制の校歌は作詞・作曲:林古渓で昭和6年制定です。これ以前にあったかどうかは確認できていません。
旧制・松山中 (全3番)
 二柱神 いとなましし

 二名の島の 伊予のくに
 そびえて繁りぬ 扶桑の大樹

 清くけだかき 我等の心

 

前半は古書「古事記」における四国の成り立ちを表しています。イザナギ・イザナミ神の国産み神話では、淡路島に次いで二番目に生まれた”伊豫之二名嶋”が四国島となり、この島は4つの顔があったといいます。それぞれを男女2組(愛比売・飯依比古、大宜都比売・建依別) と捉えて二名の並び立つところの意味とする研究があります。愛比売が「えひめ」で愛媛県、建依別が高知県に対応していて、高知商業高校などの「建依別」はこれに由来しています。

そして現在の愛媛県伊予市の海岸には、地質学的に新生代中期頃(2300万年~160万年前)の地層が露出しており、ここから多くの古代植物の珪化木(埋もれ木の化石)が出土します。この化石は「扶桑木(ふそうぼく)」と呼ばれ県指定の天然記念物にもなっています。「扶桑」とは古代中国の伝承で東の果ての海中にあるとされた伝説の巨木のことで、そこから転じて中国では日本を「扶桑国」とも呼んだそうです。北欧伝説の”世界樹”ユグドラシルに通ずるものがありますね。

伊予の伝説では、大昔ここに富士より高く天にも届かんばかりの巨木があり、その樹が落雷で倒れたところ大分県まで届いたのでこの”橋”を歩いて九州に渡ったというお話があるそうです。「そびえて繁りぬ、扶桑の大樹…」とは、かつて人々が仰ぎ畏れた巨木のように心を清く気高きものにせんとする意でしょうか。

松山中といえば正岡子規がOBで後に野球を伝えて県内最初の野球部創部に関わったり、夏目漱石が英語教師を務めたりした名門としても有名ですね。

 

昭和23年に学制改革で松山中学が松山第一高校に、松山商業学校はそのまま松山商業高校となりましたが、翌年にこの2校を統合して総合制の松山東高校となりました。

総合制とは旧制の中学校、高等女学校を継承する普通科と、実業学校から継承する専門科をひとつの学校内でまとめて賄おうとする教育政策(ニュアンスはこうだと思います)で、当初は全国各地で盛んに統合が行われていました。そのため旧制で優勝経験もある松山商野球部の流れで松山東高校も県内で一躍強豪校となりました。

その後、総合制高校は日本の国土事情や教育事情や風習に合わないとされて徐々に崩れはじめ、松山東高校も普通科と商業科を分離する方向となり商業科は昭和27年に松山商業高校として分離独立していきました。

校歌は作詞:洲之内徹 作曲:近衛英麿で昭和28年制定です。
松山東高校 (全3番)
 眉きよらかに 頬はあつく

 いのちまた 燃えたり
 かかる日の かかる朝なり

 青雲の思ひ 流れやまず 流れやまず

 茜明けゆく 空のはたて

 

校名や地名が一切入らず、自然環境らしき詞は2番前半の「青柳」くらいのものでしょうか。松山中学時代から植えられていた柳の木に由来するようです。初代は道路拡張で伐採されてしまい、二代目は枯死、三代目は初代柳の挿し木が4年前に植えられていてこれから伸びていくことでしょう。柳の葉ずれが琴のように響いて若い心に同調している…という感じでしょうか。

また校歌とは別に通信制の歌として「通教の歌」も制定されています。ただこちらは来年度に新設される北条清新高校との統合で消滅の危機にあります。

 

愛媛の県立高校としては古今トップ校に位置づけられ、難関国立や難関私大にも多数の合格者を出し進学実績も申し分ないものです。

ボート部で活躍する部員の青春活劇を書いた小説『がんばっていきまっしょい』が、映画やドラマ、アニメ化されて野球部の甲子園出場とともに一躍注目されたのは記憶に新しいところですね。