今回から、高校野球選手権大会(夏の甲子園)の戦後編を始めます。
目標は昭和最後の大会までですかね…
昭和23年に「全国中等学校優勝野球大会」から新制高校の「全国高等学校野球選手権大会」に看板が掛け替えられ、名目上の「夏の高校野球」もこの大会から始まりました。
第30回大会は前年に小倉中として優勝した小倉高校が連覇しています。https://ameblo.jp/hakutsuru45/entry-12627647073.html
第31回大会(昭24)優勝校は初出場となる湘南高校でした。この大会ではラッキーゾーンが新設されホームランが増加、また開会式で女子高生による先導も始まりました。
今回は神奈川県の湘南高校です。
https://www.pen-kanagawa.ed.jp/shonan-h/zennichi/
神奈川県の高校野球は圧倒的に私学優位で、県立としては今春(令和7年)に21世紀枠で横浜清陵高校が出場するまで実に70年も空いていました。夏の公立最後の出場は平成2年の横浜市立横浜商業高校。県立は昭和26年の希望ヶ丘高校が最後ですが、もちろん全くつけ入る隙が無かったわけではなく、昭和31年から3年連続で神奈川商工高校、昭和47年に秦野高校、平成16年に神奈川工業高校が決勝進出したり少なからずベスト4まで進むこともあるにはありましたが、やはり最後の壁は高いのでしょうか…
湘南高校の甲子園出場は春2回、夏1回で夏は上記のように初出場初優勝を成し遂げましたが、春はいずれも初戦敗退でした。
藤沢市は神奈川県の中東部、相模湾岸に面する町です。江の島を中心とする片瀬や湘南海岸、東隣の鎌倉市とのセットで日本有数の観光エリアでもあります。
学校はやや南北に長い藤沢市の中南部、小田急江ノ島線・藤沢本町駅近くに所在しています。意外と海からは遠いのですが、そもそも「湘南」の範囲はあまりはっきりせず相模の南という感覚的な言葉や地域であって、別に行政区分でもないようです。平成の大合併時に平塚、藤沢、茅ヶ崎各市と3町を合併し人口100万に迫る”湘南市”構想が打ち出されたことがありますが、実現しませんでした。
神奈川県立の旧制中学は第一が横浜、第二が小田原に設置されました。続く第三中学は県中部の厚木と藤沢で猛烈な誘致合戦となり、結果的に厚木に決定し現在の厚木高校につながります。誘致競争に敗れた藤沢には私立藤嶺中学校(2年後に藤沢中に改称、現・藤嶺藤沢高校)が創立しましたが、県立中学設置の希望を諦めていませんでした。
大正10年に満を持して六番目の中学校が藤沢に設置されたとき、既に藤沢中があったために湘南中学校として開校しました。その後、昭和23年に学制改革で湘南高校となって現在に至ります。
初代校長である赤木愛太郎氏は終戦直後まで湘南中の校長職をつとめ、今日の湘南高校の基礎固めをされました。
赤木氏は”知・徳・体”の三位一体が融和した「日本一の学校」を目指していたそうで、生徒の天分を発揮し自由に才能の芽を伸ばすことを旨とする自由な校風は現在まで脈々と受け継がれています。こうした功績を称えて校庭の一角に銅像が立ち、その銅像を中心として庭園”赤木苑”として現在も整備維持されているそうです。
当然校歌も”日本一”を目指したのかどうかわかりませんが「当代一流」の人物が選ばれ、作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰で昭和8年制定、これが現在まで歌われています。
湘南 (全3番)
秀麗の富士を高く 西に仰ぐこの丘
巍々たり我が校 風も薫れり
清明 ここに学ぶ我等
眉わかく 常に純なり
天与の稟質 磨け我と
開けよこの窓 すべて光らむ
北原氏は藤沢の学校周辺を散策し、当時は建物も少ない野原や富士山や相模の海を見渡したそうです。その上で学校の校是や校風などを盛り込んだ詞を作り、山田氏の曲によって立派な校歌となりました。
昭和2年から朝礼での校長の訓話が始まり、それが次第に校訓のようになって「五か条の校訓」( 立身報国・勤勉力行・質実剛健・和衷共同・天分発揮)が定められました。このうち歌詞にそのまま取り入れられているのは立身報国だけですが他にも協同、剛健など意味を織り込んでいるようですね。
ただ戦時中は2番「自由の研学」が軍部当局に睨まれた(文部省の認可が下りなかった?)ようですし、戦後は3番「立身報国」が問題となったこともあるそうですが、一貫して一字一句変わっていません。
県内の公立では横浜翠嵐高校と並び最高レベルの進学校に位置付けられています。横浜国立大学や東京大学に多数の合格者を出し、全国の国公立大学や早慶などの難関校へも多くが進学していく、湘南の名門校です。