ヤマギの手記
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エンタメに抱かれて。

僕の毎日の日課の一つとして韓国ドラマ「華麗なる遺産」を観賞というのがある。

華麗なる遺産は2009年上半期のドラマで、韓国内では最高視聴率47.1%を記録した大ヒット作だ。

現在日本で再放送されていて(北海道だけかな?)、今日最終回だったのだ。


最近、遅ればせながら僕にも韓流ブームが訪れている模様。

少女時代も気になるし、勿論、パク・チソンはアジアNO.1サッカー選手だと思う。


「華麗なる遺産」は一言でいえばシット!フランス語で言えばメルドーだったが、とにかく、ハン・ヒョジュが可愛くて魅力的で久々にドラマのヒロイン、もっと言えば女性に熱狂した。

従来の韓国人とはチェ・ジウンやBOAに代表されるような、しょう油顔にキラリと光る可愛さだけれど、ハン・ヒョジュはどこか違う。

日本人に近い顔。勿論、アイメイクも薄いし韓国人特有の綺麗な体系も兼ね備えてはいるのだが。

そんなハン・ヒョジュが僕は大好きです。


「華麗なる遺産」がシットな点についてだが、日本の昼帯のドラマと変わらないクオリティなのだ。

展開するだけしといて、全て回収するので目いっぱいで、テーマも教訓もそこにはない。

ただ、ストーリーのみ・・・ってドラマってこんなものかな?


結果的にはメルドーだった「華麗なる遺産」だけれども、最終話まで見続けたのにも理由はある。

なにせ、韓国人は面白いのだ。

文化の違いなのか、よくはわからないが、とにかく、設定が粗過ぎて、ぶっとんでる。

こんなの日本でやったら今までやってきた色々なものが崩壊するレベルでぶっとんでる。

クレイジーな人間たちのクレイジーな物語なのだ。

そんな狂乱をごくごく普通、という設定で走り抜けるのだから凄い。

これがグローバル化なのか・・・いや、なにか違う。


僕の持論だがドラマなんてクレイジーであればクレイジーな方が良い。

ごくごくたまに「池袋ウエストゲートパーク」のような名作が現れるけれど、大体最後まで見続けられるのはどれだけクレイジーな作品であるのか、という点に尽きる。

「東京ラブストーリー」がなぜ今でも語り継がれるドラマなのか、「101回目のプロポーズ」がどうして今も皆の脳の片隅に潜んでいるか、答えは鈴木保奈美であれ武田鉄也であれクレイジーな人間だったからにすぎない。

その分、クレイジーさに欠けるラブジェネ、ロンバケなんてのはタイトルだけで、ヒロインが誰だったかすら忘れてしまう。


話は戻して、「華麗なる遺産」だが、わかる人にしかわからないが、ウンソンはバカがつくほどの正直で強気で思いやりがありすぎるし、ファンは寸分の狂いもなくDQNだし、ソンヒは悪すぎるし、スンミは不幸がすぎるし、ジュンセは言ってることもやってることも格好いいのに顔だけついてきてないし。ww

華麗なる遺産の面白さはこれだけで十分だと僕は思う。

そして、なによりも皆純朴の中に生きているのだ。


ウンソンは勿論そうだし、結果的に全員どこか悪人にはなりきれない善人なのだ。

かわいげがある、というのがぴったり。

それが国民性なのかもしれないし、韓国ドラマの伝統なのかもしれないけれど、このドラマで最後まで心の闇を抱えるものは誰ひとりおらず、皆それぞれにハッピーエンドを迎えるんだからクレイジー。

というか、勧善懲悪の流れを最後の最後でハッピーエンドで茶を濁すみたいな真似が一番萎えるんだよなー個人としては。


最終回が終われば、僕はアニメが終わったときにかなり近い孤独と、悲しみを感じる。

やはり、アニメもドラマも大して僕には変わらず、つまるところ内容なんてどうでもいいからクレイジーな世界で現実を忘れさせてくれる一種の機会に過ぎないのだ。

ほんの一時間の間、僕は僕である必要もレーゾンディーテルすら忘れられる。

これが至福と言わずなんと言えるだろうか。

エンターテイメントと共に生きた21年間。そして、それはこれからも僕の心の逃げ場所としてしっかりと地盤を築くのであろうと思う。

悪くないな、エンタメ。


韓国スマホ率高過ぎ!!!


UFOキャッチャーでとった名も知らぬぬいぐるみを部屋に飾りましょう。

ウインズを後にしたのはちょうど午後4時頃。

スティルインラブ以来の三冠馬の誕生に胸を高ぶらせていた。

それと同時に馬券としての負けを噛みしめ僕はぶらりと街を彷徨う。


ギャンブルの負けはギャンブルでしか取り返せない。

ギャンブルの勝ちはギャンブルの負けでしかない。

これは僕の鉄則。


気がつくと僕はパチスロ台の前にいて、なんとなく千円札を台に飲み込ませていく。

リールの回転が僕をどこまでも連れて行くような気がした夕刻。


パチスロをやる人間にしては今更過ぎるが「蒼天の拳」を打っていた。

パチンコ店では今や鬼武者と並ぶ程の勢いで稼働している人気機種。

エウレカセブンのヒットの流れと北斗の拳の後継機として売り出されているが、僕は北斗をそもそも打ったことがないし、エウレカセブンのゲーム性は好きだが、相当暴力的な台だとも思っていて、だからこそより暴力的であろう蒼天の拳を打とうなどと思わなかった。


しかしながら、僕はその台に黙々と千円札を突っ込んでいた。

単純にギャンブルがしたかったのか、はたまた給料日直後という浮ついた気持ちがあったのかもしれない。

無性に僕はARTを欲していたのだ。

ただ、エウレカはいい加減あきたのと、ホール側の渋めの設定が打ち手としては苦しいし、鬼武者は設定判別の容易さから捨てられた台は見込みのない台だとしり込みしてしまう。

そんな安易な理由から僕はケンさんと向き合うことにしたのだ。


さらっとした感想だが、面白かった。

仕様など一切の知識もなく挑み、スイカをそろえるのも精いっぱいだったレベルだったからこそ、新鮮な面白さがあったのかもしれない。

この新鮮さは長く忘却していた気持ちの一つだった。

ひどく投資がかさむ、ボーナスが重いというのはあるが、嵌まれば一撃800~1000枚弱は出る分救いがあるし、状態変動が非常に多いだけに通常時の退屈さがないというのも良い。

なにより、北斗の拳のケンより蒼天の拳のケンの方が格好いい。


蒼天の拳という漫画の存在は知っていたが、僕は一切の中身を知らなかった。

北斗の拳は知っているが、それとどう関連しているか、むしろ関係性の存在すら知らなかったくらいだ。

しかしながら、台を打って3時間くらい経てば、おおよその雰囲気、ストーリーの筋はわかる。

これがパチスロのもっともよいところではないか、と思う。


エヴァンゲリオン、エウレカセブン、共に僕はパチスロ機種としてもアニメ作品としても好きだ。

そして、パチンコ、パチスロが興味を抱くきっかけだったという点が共通している。

僕と同じような経験をしているパチンカー、スロッターは結構多いのではないだろうか。


世の中には名作でも不思議と世に出ないものが多数存在する。

エンターテイメントの域においては宣伝そのものが収益に直結していて、内容は勿論大事だが、それと同等、あるいはそれ以上に宣伝にかかる力も大切な業界だ。

そして、今やあらゆる手段で広告宣伝が出来る時代になったが、パチンコ・パチスロは宣伝方法としてかなり秀逸な方法だと思う。

109に看板を出すより、よっぽどの見返りがあるはずだ。


だが、パチンコ・パチスロはそれ自体が名機であることが大前提であり、これは高い高いハードルだ。

各社凌ぎを削ってヒット商品を生み出そうと努力しているのはこちら側にもありありと伝わってくる。

実機を買うのは打ち手ではなくホールであり、ホールで管理しやすく、尚且つ遊技台としての魅力が高い、という基準をクリアするのはとても難しく、パチスロに関して言えば今は5号機時代の円熟期でもあり、各社法令で定められた機会割のギリギリのところでの勝負になり、これから更に台を作ることが難しい状況になるはずだ。


だからこそ、蒼天の拳をはじめとしてまだまだ発掘されていないアニメや他のエンターテイメントに目を向けていく必要があると僕は思う。

何かを通して何かに出会う、という簡単そうで難しいことの手助けをしてほしいと思う。

僕らは知らず知らずのうちに自分のテリトリーを狭くしていく。

大人になればなるほど偏向的になる。

全く興味がないことに目を向けるのは本当に億劫で、僕らは悩むこともなくそれを自分のテリトリーから取り除いているのだ。

僕もそうだ。

全く興味がないことを少しでも興味がある方向に誘導すること、それがパチスロのひとつの社会貢献にもなるんだと僕は思っている。









女王決定前夜。

食欲の秋、読書の秋、など秋には特別な枕詞がつく。


秋は競馬界にとっても重要な意味を持つ。

一年の集大成として大きなレースが毎週開催され、名馬が凌ぎを削る姿は多くの競馬ファンの楽しみの一つだ。

僕も競馬初心者でありながら、秋を楽しみにしていたファンの一人である。

そして、明日はその中でも楽しみなGI競走「秋華賞」の日だ。


2010年の3歳牝馬クラシック路線は混迷を極めている。

女王アパパネが阪神JF、桜花賞、優駿牝馬とGI3勝を挙げているが、そのレースぶりは決して楽勝とは言い難かった。

阪神JFを勝利し2歳女王の栄冠を掴んだアパパネだったが、桜花賞トライアルのチューリップ賞では9番人気のショウリュウムーンに屈し2着。

迎えた桜花賞では最後の1Fでオウケンサクラを捉え半馬身差での辛勝。

そして、優駿牝馬ではデビューが遅く初対戦となったサンテミリオンとの壮絶な叩きあい。

最後は並んでゴール板を通過し、GIでは初となる同着だった。

アパパネは強い。その強さはウオッカの華々しさ、ブエナビスタの堅実さとは異なり、紙一重のところを潜り抜ける逞しさと勝負根性にあると僕は思う。

アパパネの競馬はとても泥臭いのだ。

しかし、彼女が名牝であるということに間違いなく、僕は今回も彼女から勝負したいと思うのだ。


各馬をみていきたい。


アパパネ:前走ローズSはテンが極めて速く、中盤弛み、上がりが速い典型的な中弛みのレース。しかし、阪神競馬場の構造から考えて、テンの速さはデフォルトよりやや前の馬にかかる負担が大きいと考える。

その中での4着確保はむしろ立派とも言え、明らかな緩め残しに加え、本調子ではないところから考えてもアパパネはこの世代ではハナ差で確実に抜けている。

というより、文句のつけどころがなく、今回も泥臭く勝つのだろうと思う。


アプリコットフィズ:クラシックでは成果が出なかったが、クイーンSの走りっぷりからも確実に力をつけてきた印象。輸送も心配なさそうで、武豊を鞍上に迎えいれ準備は整った。

不安視しているのは斤量面の問題と、脚質の問題。やはり、前からいくのは相当な地力がいるレースだけに、簡単にはクリアできないだろうし、クイーンSで背負った斤量より3キロ重いのは小柄な馬だけに影響が大きそう。


サンテミリオン:優駿牝馬からの直行での参戦。輸送の問題、鞍上の問題、夏をどう超えたか不明で問題は山のようにある。しかしながら、ハイレベルだった優駿牝馬をアパパネと同着、更にはレース経験の浅さから底の見えない強さをこの馬から感じざるを得ない。


ワイルドラズベリー:ローズS2着が評価されてか、前日最終でサンテミリオンと同数の3番人気。当日は落ちて4,5番人気にはなるだろうけれど、妙味が皆無。白百合Sはハイレベルで同舞台と適性面も問題なしでローズSよりは上積みも期待できるが、妙味が皆無・・・おさえまで。


ショウリュウムーン:クイーンSでは前塞がれの5位で、悲観すべき内容ではない。優駿牝馬も17着と大きく負けたが、先行策とスタミナの欠如が問題だった。10Fの本番はそこまでのスタミナを要求してこない。

しかし、あまり強調材料がないうえに、これだけの人気には少しの嫌悪さえ覚えてしまう・・・はぁ。


アニメイトバイオ:ローズSで1着。ローズSと秋華賞の互換性は非常に高いが、果たして本番までの上積みはあるのだろうか、と疑問視する。人気的には買いどころなのだが・・・悩むな。


アグネスワルツ:優駿牝馬3着は非常に価値ある3着だった。しかし、前走ローズSは凡走。おそらく、自分でペースを作れなかったこと、中弛みよりも底力を問う流れの方が得意、というわがままな注文がつくのだろう。今回はハナをきれそうで、内ラチ走れば躍進ありだと個人的には思う。当日のオッズと照らし合わせて妙味を探りたい。


オウケンサクラ:前走はもう少し走れてもよさそうだったが、結果は大敗。負けた理由が実力以外に見当たらず、1F伸びる秋華賞では難しいはずだと読む。


エーシンリターンズ:ローズSが最良の仕上げ。これ以上の上積みはないとみる。消し。


ディアアレトゥーサ:今年の秋華賞を読む上で例年と違うのは、予想外に紫苑Sのレベルが高かったということ。ハイレベルな紫苑Sを制した底力馬のディアアレトゥーサをどうとらえるか。僕は是非買いたい馬。


コスモネモシン:こちらも紫苑S組。内容はディアアレトゥーサと互角。むしろ、上積みでいえばこちらの方が期待できる。妙味もあり。


クラックシード:紫苑S組。上記2頭に比べると内容は見劣りするものの、ハイレベル決着になれば浮上の可能性を持っているし、妙味としても消しにくいのが事実。


アパパネ◎

ディアアレトゥーサ○

アグネスワルツ▲

コスモネモシン△

クラックシード、アプリコットフィズ▽

サンテミリオン☆










大して大きくはないもの。

世間は狭い。


僕は根拠なくそう思っていた。

口にもする。

しかし、どうして世間が狭いとわかりえようか。

家が広い、あるいはキッチンが広いなどは比較のしようがあるものだが、世間は個人的な価値観でのみ測られる、ある意味での想像の産物だ。

僕の世間がどこからどこまでを指すのか、また、世間という実体を伴わない概念の世界は僕にどんな影響を与えているのだろうか。

僕はそんなことを考えてみる。


またしても、僕は出会ってしまった。

偶然にも同い年で地元も一緒で、多数の知り合いを抱える存在と。

そして奇遇にも、その人は女でアパレル店員だったのだから、僕の日常はここ二日だけを切り取れば、刺激的で寓話的だと思う。


世間の狭さを彼女はしきりに嘆き、僕も同調した。

ありとあらゆる事細かな地名や人名を僕も彼女も絶えず話した。

彼女の知り合いの名前が出る、そのたびに僕はひどく狼狽した。

忘れかけていた記憶が彼女の言葉によってふっと鮮やかに蘇り、僕の心を乱した。

僕は地元に対する執着に欠けており、その半生を非難されているような気遅れを感じはじめてもいた。


今、彼らはどうしているのか、という問いに僕はひどく弱い語調で、知らない、とだけしか返せず、僕は適当な嘘すら口走ったかもしれない。

そして彼女はまた、それにしても世間は狭いですね、とにこやかな表情で言う。


彼女と僕の間で交わされた会話のひとつひとつが、おそらく、この世界の99パーセントの人間が関心を抱くことも理解することも出来ない内容だった。

僕らは少しの秘密を簡単に共有するのに成功していた。

ひとつの世界の終わりをまた別の世界で眺めているのだ。

そして、それは実際はひどく近しいものだと気付き、後に全く同じものだと気付かされ、幾度目かの逡巡で僕らは違う世界へと移り住んでいく。


世間が狭い、というのはつまりそういうことだ。

今いる世界との比較でしかない。

今いる世界はたいそう広く、果てしないものだと僕らは錯覚し続けている。

昔の世界と今の世界の狭間の話。それが世間だと僕は深く思う。

昔の世界は終わりの世界で、今の世界は始まりの世界だ。

その狭間は誰もいない、終わらないし始まらない凍結された世界。

世間。





孤独にむせび泣くのは、魂?

最近ではめっきり寒くなった。

暑かった今年の夏も行きかう人々のように過ぎ去り、あとには何も残さない。


毎年服の趣向が著しく変わる僕は大体この季節には苦悩している。

去年は悩み抜いた挙句、大してものを買わなかったことに加え、冬のバーゲンでTシャツを買うなどという奇行に走ったために、今年は尚お金がかかるのは火をみるより明らか。


そんなわけで、僕は10月に入る手前から段々と冬の上着を探して街をさまよっている。


例のごとく、僕は大した理想も描けずにショップを転々としていたのだが、

何店舗か回った末、僕は店員に声をかけられた。

僕は買おうが買わまいが店員と話すのを嫌がるタイプの人間であり、その為、あまりにも接客が必死なショップには近づかないように心がけてまでいる。

通信販売でよさそうなものだが、やはり衣服は手にとって素材や表情などを確かめて、更には自分にフィットするかどうかまで精査して買わなければ納得できない僕がいて、結局、「話しかけられない範囲内」での行動をするしかない。


試着してもいいですよ、という旨の説明にとどまった店員だったが、その後も僕の方を観ているのは明らかで、僕は何を自分で探しているのか、という問いに対する答えを仕方がなく用意し始めていた。

しかし、ほどなくして店員は「どこかで会ったことありますよね?」という意外な質問を繰り出したものだから、僕も返事に詰まる。

店員と目も合わせなかった僕はこの時、この店員、彼女を凝視した。

そして、懐かしい記憶と共に曖昧な彼女の肖像が漫然と浮かんできて、僕は合点いったような顔をしてみせる。


高校の同級生だった。

ただ、彼女は少し大人びていて、僕は4年という歳月の経過とともになにか過ぎ去っていった軌跡のようなものをそこに見た気がして、少したじろいだ。

実際にはオーバーにたじろいでいた。

あまりに色々な偶然と、懐かしい匂いが一気に体に入ってきて、心地いいとも悪いとも言えないふわふわした気持ちにもなったし、第一にこの場をどう取り繕えばいいのかという大きな問題が僕の眼前に海のように広がっていた。


僕は記憶の良い方だから自信がある。

僕は彼女と一切のかかわり合いになったことがなかった。

クラスも違えば生きた環境すら違う。

友達の彼女だったような記憶があるが、その友達すらもう友達だったのか知り合いだったのかはわからない程度の付き合いであり、つまり、彼女とは縁遠い存在だったのだ。


その場を取り繕うために僕は戸惑いを抱えながら、妙に気さくだった。

どうしてだか、彼女は少しも焦らず、僕に接していて、かえってそれに驚かされるほど、彼女は自然だった。

気がつけば、僕は仲の良い女の子とショッピングに来ている大学生、にまでなれた気がした。

それほど彼女はフランクで明るくて、僕は気のきいた冗談すら悠長に口に出していて、一体、僕はなぜ彼女と係り合いにならなかったのか、と自問するくらいだった。


孤独というものはどこからともなく現れ、音もなく消える。

暑かった夏のように、僕らは孤独でない限り孤独を感じないし、逆に孤独が訪れれば身を縮めて人を待つものだ。

そしてなにより、孤独というのはある意味で美徳でもある。

孤独に耐えられることこそが強さなのかもしれないと、僕は幾度となく思っていたし、その精神をつかの間でも手に入れることがあれば、果てのない哀しみの裏側に些細な悦びを感じていた。

孤独の中でしか文学は生まれないのかもしれない、と僕はカフカのごとく思っていた時期もあった。

それは今でもわからない。


だが、僕は本来僕の人生の上に現れることのない人間と出会い、心に何かを残した。

人間は通り過ぎるべき道のすぐそばの道を歩いている人間とも係り合いにならないことが、思ったより多い。

僕はその少し傍の道を少し大人になって片足だけ跨いでみたのだ。

そこにはいつもとほんの少し違う日常があった。

僕はいつもより、誰かとよく話をした。

孤独が少し色を柔らかくして、ぼんやり月を滲ませているみたいに。



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