モモです


かなり無理めの時間帯のテレビ番組なんですが

オススメしたいものがあります。


今日から4日連続なので、1回目は終了してしまったのですが

なかなか良いので、あと3回見れそうな人はチャレンジしてみてね。


教育テレビの朝5:35からの30分番組

「北山修-最後の授業」


この番組は先週の夜に放送されたものの、再放送です。

私はその3回目から観て、勉強になるなあ、と思って。

で、昨日再放送があることに気づいたのです。


北山修さんは、精神科医で、臨床心理士のお仕事をされていますが

40年ほど前には、フォーク・クルセーダーズというグループで

音楽活動をされていた方です。


グループ解散後、精神科医への道を歩み、昨年度まで九州大学で

教鞭をとられていたのですが、その最後の授業をテレビに公開する

という試みをしたのが、この番組です。


1回目の放送では、『裏』について、興味深い講義がありました。

日本人は、言葉に表現できないことを、「裏」と呼んだ。

なぜなら、心を言葉にするのはできないから。


それを敢えて言葉に表そうとするのが、精神分析。

心を言葉にすることには、様々な利点や弊害がある。

などなど・・・


ここには書ききれないほどの、参考になるお話がありました。

もし、早起きして見れない人は、録画してでも。

それから、この内容は、実はすでに本になって出版されています。

http://www.msz.co.jp/news/topics/07543.html

番組観れなければ、本もいいかもね。内容は見てないので

わかりませんが。


私も今日早起きしたせいで、2度寝しちゃったぐぅぐぅ





モモです


7月11日にMISIAのライブに行ってきました。音譜
今回は、河口湖ステラシアターという、円形劇場での屋外ライブ。


何度か、MISIAのライブに行って、いつも思うのは
彼女の歌は、なぜこんなに心の奥深くに響いてくるのだろう、
ということ。

その歌唱力も素晴らしいのですが、ただそれだけではない、
感情を揺さぶられて、全身にしみわたってくる歌声。
言葉では、なんとも表現しようのない感覚があります。


今回の会場はお客さんとの距離が近いこともあり
熱唱のあまり、ステージに倒れこむ場面も数回あるほど
いつにもまして、MISIAはのっていました。


そして、曲の合い間のMCで、こんなエピソードを語ってくれました。

昨年、彼女のおじいさんが亡くなられたそうです。
亡くなる直前にも、病床にあるおじいさんに会いに行くことは
できたそうなのですが、
お葬式に行って、親族がそれぞれの席についたときのこと。
親族ひとりひとりに宛てた、おじいさんからのお手紙が
席に置いてあったそうです。


その中には、こんなメッセージが

「今日、ここに来てくれてありがとう。私の体はもうここで皆さんと
一緒にいることはないけれど、心はいつもそばにいますよ。」


私の記憶があいまいで、その文章は正確ではないと思います。
けれど、その内容に私はとても感動しました。
きっと、MISIAのおじいさんは、いい人生を歩んで、幸せな死を
迎えることができたのだろうと。


その話のあとに、歌った曲は “逢いたくていま”
昨年、ドラマ 『仁』 の主題歌になった曲です。

この曲を書くベースになったのが、おじいさんからの手紙だった
そうです。

大事な人と逢えなくなっても、時空を超えて心は通じ合える。
そんな想いをこの曲に託したという。

http://www.youtube.com/watch?v=oEL0RUjriLI&feature=channel


このエピソードを聞いて、MISIAの歌が心の深いところにまで
届いてくるのがなぜなのか、ちょっとわかったような気がしました。

モモです


毎日、激暑ですね~ヒマワリ
私は、暑さには強いのですが、今年はさすがにバテバテです。


しばらく投稿しない間、いろいろと書きたいことはあっても
なんだかやる気がしなくて、時だけが経ってしまいました。


先週は大阪へ行き、明太子やもみじ饅頭にも、久々に再会し
慌しい日程でしたが、充実していました。
もうちょっと、大阪でゆっくりして、おいしいもの食べたり
したかったけど。

で、明太子に会ったときに、なんだかいつもと違うマダムモード
だったので、思わず写真撮影しちゃいました。

このブログ上で公開しようと思ったけれど、それもちょっとね・・・
と考えて、写真をブログメンバーなら見れる画像フォルダーに
アップしておいたので、良かったら見てみてね。



前置き長くなりましたが、そろそろ本題に入りたいと思います。

最近、あるテーマが私の周りによく登場します。
前回に投稿した内容も、それと重なるのですが、
図書館へ行っても、テレビを観ていても、なぜか生と死について
のテーマが気になるというか、目に飛び込んできます。


まずは、1ヶ月ほど前に読んだ本が、なかなか良かったので、
紹介したいと思います。
『健やかに逝く』 伴 梨香 著


この著者は、ヴィソルカスの学校の1期生で学んだ方ですが、
それより前に、
『海・森・大地の見えざる医師たち ホメオパシー』
という本を出版していて、その中では、ご自分が取材の一環として
ドンのセッションを受けたときの体験談も書いています。


今回の著書の中では、死に対して向き合う中で、何ができるのか
そして、幸せな死とはどういうことなのか
医師、宗教家、そしてヴィソルカスへのインタビューも交えて
理解しやすい言葉で語られています。


私個人にとって、この本の中に語られていることは、今まで
心のなかで、なんとなく感じていたことを、すっきりと表現してもらえた
という清々しさがありました。


そして、本の後半では、アーユルヴェーダについても、日本人医師の
診察を実際に受けて、この療法の目指すところについて、そして
生と死に向き合う姿勢についても書かれています。


なかなか興味深い内容でした。
もし、機会があったら読んでみてね。



長くなりますが、もう一つ。
昨日の夜、教育テレビで放送された、
「食べなくても生きられる」 胃ろうの功と罪

http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html



胃ろうというのは、何らかの原因で、口から食物を取れなくなったときに
胃に穴をあけて、チューブで栄養を送り込むというものです。

以前は、鼻からチューブを入れて栄養を送りこむという方法が主流
だったのですが、この胃から直接入れる方法は、患者さんにとっても
介護する側にとっても、負担が少ないということで、最近増えています。


ただ、そこにも色々な問題があり、意識がなくなっている患者さんや
認知症で、ご自身で判断ができない患者さんに多く使用されている
現実があります。

場合によっては、本人の望んでいない延命治療となっている可能性も
あるわけで、自然な死という観点から言うと、必ずしも最良の選択では
ないということです。


実は、日本に初めて胃ろうを導入した医師本人が、この功罪について
現在は問題意識を持ち、何がその患者さんにとってのベストなのかを
良く考える必要があると提言しています。


その部分だけを聞くと、身勝手なことを言う医者だなって感じるかも
しれないけど、導入した当初は、もちろん患者さんにとっての最良の
選択だと思って始めて、実際にその状態から回復して、
口から食事をとれるようになった方もいるわけです。


ただ、すべての患者さんが、その状態から回復できるわけではなく、
意識のないまま、ただ生かされているということが、その人にとって
幸せなことなのか。

やはり、死をどう受容するかについて考えていくことと、医療を
行うことは切り離すことができない、ということなのですね。


この医師は、自分が始めたことに対して、決してきれいごとだけを
言わず、そのマイナス面にも真摯に向き合っているところは
見習いたいと思いました。


前回に続き、また重いテーマになってしまいましたが
最近は、こんなことばかり考えています。

実は、まだまだ、このネタで書きたいことあるのだけど、
気力のあるときに、チャレンジしたいと思いますビックリマーク



明太子です 音譜


昨日、小雨後のキャンパス内の歩道を歩いていたら


悠々と道を横切っているかたつむり?がいた・・・



私の顔の半分くらいを占めるバカでかいサングラスを

横において、写メしてみました



で、でかい・・・( ̄_ ̄ i)



恐るべし、亜熱帯・・・


でこぼこ丸航海記-亜熱帯なかたつむり


明太子です 音譜


自分の手のシワをいつまでも見るのが

耐えがたくて、また投稿します(・・。)ゞ


タイトルは、雀鬼(じゃんき)と呼ばれるプロの雀士、桜井章一の言葉


ちょっと気に入って書きました。



以下は本からの抜粋…

     (何冊か読んだからどれだったか忘れた・・・ (-"-;A



絶対絶命のターニングポイントこそが勝負どころ

勝負どころはチャンスの中にはない

ピンチの中にこそある


チャンスは誰でも普通にしていればモノにできます

それは勝負どころでもなんでもない


ピンチのときこそ、自分を貫くことが必要なのです

ピンチのときこそ、自分の役割を考えながら果敢に攻めることです


そもそも降りるのは、自分の安全を確保したいがため

けれど、残念ながら不変の安全なんてどこにもない

そんな小手先の技術は大きな危険と背中合わせなのです


得たものを手放したくないから守りに入ろうとする

そこに落とし穴がひそんでいる

守りに入ったり、ひよったりした瞬間、

その人の態勢は悪化を始めるのです


守っている暇は、人生にはない


ピンチのときこそ、人生の愛を信じて

人のために役に立てということなのでしょう


トラブルを避けてはいけない

堂々と受けて立てばいい


「守ろう」と思うからいけないのであって

「受けて立つ」と思えば全く姿勢は変わってくるはず

自分を守ろうと思うから自滅する


真正面から受けて下さい