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QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

 本日は、ウィーンを出て、壮麗な修道院の所在地として有名なメルクとドナウ川のヴァッハウ渓谷に行ってきた。

 

朝ご飯

 

 まずは、ÖBB(オーストリア国鉄)の列車に乗車してメルクに向かう。

 

 

 約1時間半程度でメルクに到着した後、修道院を目指して歩く。

 

 

駅前通り

 

 

 すぐに目の前の丘の上に、修道院の偉容が見えてきた。

 

 

 

Stadtpfarrkirche

 

 

Kolomanibrunnen

 

 

 

 強い日差しのもと、若干きつい坂道を登ると、やっと正門に到着。

 

Portal

 

Ostfassade

 

Prälatenhof

 

 

 

Kaiserstiege

 

Kaisergang

 

 

Stiftskirche

 

 

Stiftspark mit Gartenpavillon

 

 

Bergl-Fresko im Gartenpavillon

 

 メルク修道院は、ベネディクト会に属する修道院。ドナウ川を見下ろす岩山に建ち、ヴァッハウ渓谷に隣接している。設立は1089年、バーベンベルク家のオーストリア辺境伯レオポルト2世により、ランバッハ修道院出身のベネディクト会修道士に城が寄進されたことによる。今日に残る見事なバロック建築の修道院は、1702年から1736年にかけて、ヤコブ・ブランタウアーの設計により建設されたという。

 

 修道院内は、現在は残念ながら、全て撮影禁止。したがって、画像はないが、以前撮影されたものがあるので、参考までにそれを掲載しておく。

 

Marmorsaal

 

Bibliothek

 

Stiftskirche

 

 次に、メルクからクルーズ船に乗り、1時間30分程度かけて、クレムスまでヴァッハウ渓谷を下る。

 

崖下から見えた修道院

 

St. Leopold Brücke

 

 

 

クルーズ船の桟橋

 

 

 それでは、クレムス行きの船に乗り込む。以下は、渓谷の様子。

 

Kloster Schönbühel

 

 

Burgruine Aggstein

 

Teufelsmauer?

 

Ruine Hinterhaus

 

Wehrkirche St. Michael?

 

 

Stift Dürnstein

 

 

 

 

 

 クレムスが見えてきた。

 

 

 クレムス到着後、旧市街を経由して駅まで歩き、鉄道に乗り、ウィーンに帰ってきた。

 

Steinertor

 

 

本日の夕ご飯

 夏季休暇ということで、オーストリアの首都ウィーンに行ってきた。行く計画はあったのだが、コロナで行けなかったこともあり、なんと20年以上ぶりである。今回は、東京駅八重洲口から高速バスに乗り、成田空港に向かった。

 

 

 成田空港でオーストリア航空便に搭乗後、約13時間の飛行でウィーンに到着。コロナ前は主にロシア上空を飛行していたが、おそらく戦争中ということで、ロシア上空を避けるようにして飛行していた。

 

 

 

機内食

 

お宿最寄りの駅構内

 

今回のお宿

 

 この日は、ここまで。


 翌日は、まずは、クリムトの作品がお目当てであるが、ベルヴェデーレ宮に行った。

 

朝ご飯

 

駅前(Tegetthoff-Denkmal)

 

 天気は晴れ。東京ほどではないが、それでも暑い。SバーンのQuartier Belvedere駅から歩いて向かう。

 

ベルヴェデーレ宮正門

 

上宮

 

 

 

 来てみると、オーバーツーリズム対策ということなのか、時間指定の入場制限がされていた。入場できるまで、2時間程度あるので、楽友協会のあるカールスプラッツまで行ってみた。

 

カールスプラッツ駅

 

 

Albertina Modern

 

楽友協会

 

カールス教会

 

 そうこうしている内に、入場時間になったので、再度ベルヴェデーレにやって来た。

 

 

Sala Terrena

 

マリア・テレジア像

 

Carlone-Saal

 

 このバロック様式の美しい宮殿は、ハプスブルク家に仕えたプリンツ・オイゲン(サヴォイア家の血を引くフランス貴族)が、当時の代表的な建築家であるヨーハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラント(Johann Lukas von Hildebrandt)に、夏の離宮として造らせたものであるという。1714から1716年にかけて下宮(Unteres Belvedere)、1720から1723年にかけて迎賓館である上宮(Oberes Belvedere)が建設された。今は美術館となっているが、早速気に入った作品を掲載してみる。

 

磔刑像

 

Thronende Maria mit Kind

 

Madonna des Johannes Hinderkircher

 

 中世からルネサンス期の作品らしいが、最初の磔刑像と聖母子像には、素朴な中に荘厳さを感じた。

 

Marmorsaal

 

 

Anton Einsle: Louise von Wertheimstein

 

Jacques-Louis David: Napoleon am Großen St. Bernhard

 

Hans Makart: Magdalena Plach

 

Gustav Klimt: Frauenbildnis

 

Gustav Klimt: Bauerngarten mit Sonnenblumen

 

Gustav Klimt: Amalie Zuckerkandl

 

Gustav Klimt: Fritza Riedler

 

Gustav Klimt: Adam und Eva

 

Gustav Klimt: Judith

 

Egon Schiele: Victor Ritter von Bauer

 

Egon Schiele: Porträt Eduard Kosmack

 

Egon Schiele: Tod und Mädchen

 

Egon Schiele: Kauerndes Menschenpaar

 

Gustav Klimt: Der Kuss

 

 

 二十年以上ぶりに素晴らしい作品を鑑賞することが出来た。わざわざヨーロッパに来た甲斐があるというものである。留学生だった頃、暇さえあれば学生用の格安切符を使って欧州の各都市に行っていたが、行く先々で高名な美術館が必ずあり、それも学生だとただ同然で入れたため、当時はこういった絵画の有難味が分からず、著名な作品を見ても食傷気味で、もううんざりといった感じで、それほど感動することもなかった。その後、月日は流れ、コロナで日本に閉じ込められして、やっと懐かしい欧州にやって来ることが出来た今回は、感慨もひとしおである。

 

 本日は、これでお宿に戻った。

 本日は、月例の中野坂上の成願寺坐禅会に行ってきた。

 

達磨絵

 

山門

 

山門横地蔵尊

 

六地蔵

 

本堂

 

 

 

開山堂

 

 

観音堂

 

 

鍋島地蔵

 

百日紅の花

 

 提唱は、『正法眼蔵』虚空第七十後半部分。

 

 <石鞏道、直得恁地捉始得。恁地捉始得はなきにあらず、ただし石鞏と石鞏と、共出一隻手の捉得なし。虚空と虚空と、共出一隻手の捉得あらざるがゆゑに、いまだみづからの費力をからず。おほよそ尽界には、容虚空の間隙なしといへども、この一段の因縁、ひさしく虚空の霹靂をなせり。石鞏、西堂よりのち、五家の宗匠と称ずる参学おほしといへども、虚空を見聞測度せるまれなり。石鞏、西堂より前後に、弄虚空を擬するともがら面面なれども、著手せるすくなし。石鞏は虚空をとれり、西堂は虚空を覰見せず。大仏まさに石鞏に為道すべし、いはゆるそのかみ西堂の鼻孔をとる、捉虚空なるべくは、みづから石鞏の鼻孔をとるべし。指頭をもて指頭をとることを会取すべし。しかあれども、石鞏いささか捉虚空の威儀をしれり。たとひ捉虚空の好手なりとも、虚空の内外を参学すべし。虚空の殺活を参学すべし。虚空の軽重をしるべし。仏仏祖祖の功夫弁道、発心修証、道取問取、すなはち捉虚空なると保任すべし。先師天童古仏曰、「渾身口に似て虚空に掛る。」あきらかにしりぬ、虚空の渾身は虚空にかかれり。>

 

 「いまだみづからの費力をからず。」見える、聞こえる、思える。我々は、何の作為を弄さなくても、すでに完璧に出来ている。そして我々を包摂する事実には、兎の毛の先程の隙間もない。それ以上でもないし、それ以下でもない。一人残らず、事実からは絶対に外れることが出来ない。それ故、本来何の問題も生じ得ないし、安心もできる。

 

 「石鞏は虚空を自在に扱ったが、西堂は虚空を徹見できなかった。」虚空とは我々の真相、有り様である。訓練した結果、ものが見えるようになったわけではないのと同様に、修行が完了して虚空になるのではない。何もしなくても、我々はすでに虚空そのものなのである。手が同じ手を握ることが出来ないように、虚空が虚空を捉えることなど出来ない。すでに捉え切っているのだから、更に捉える必要がないのである。

 

 独参では、健康診断の結果があまり芳しくなかったことを申し上げたら、「休んでみれば」と言われた。確かに最近、「諸縁を放捨し、万事を休息して」いなかったなと思った。

 浜松の坐禅会に出席したついでに実家に帰省して、翌日は白隠禅師が住持した原の松蔭寺に行ってきた。臨済宗ということもあり、白隠禅師にはあまり興味がなかったが、静岡出身ということもあり、今回初めて訪れてみた。東海道線原駅から歩いて向かう。

 

JR原駅改札

 

 

 旧東海道を東進すると、すぐに徳源寺の寺標が目に入ってきた。

 

 

山門

 

 

参道

 

 

鎮守社?

 

本堂

 

 

 

庫裏&玄関

 

 臨済宗妙心寺派寺院。建久4年(1193年)に行われた富士の巻狩の際、源頼朝がこの地に陣営を構え、今の寺の位置に陣屋を建てたという伝説が伝わる。正應元年(1288年)、その陣屋を今律寺という律宗の寺に改めたのが、寺の起源である。その後無住の寺となるが、應安元年(1368年)、鎌倉の円覚寺創建に貢献した賢宗祖鑑和尚を開山として迎え、安泰山徳源禅寺と改めて臨済宗円覚寺派の寺として開創された。その後無住時代が続くが、承応3年(1654年)、興津清見寺から松厳宗密老師を招いて準開山とし、清見寺の末寺、妙心寺派となり、今に続いているという。

 

 徳源寺参拝後、浅間神社の社頭を通過し、原の交差点を渡るとすぐに、白隠禅師誕生地が見えてくる。

 

 

 

白隠禅師誕生地

 

白隠禅師産湯の井戸

 

無量堂

 

 

 無量堂参拝後、さらに東進するとすぐに松蔭寺の寺標が見えてくる。

 

 

山門

 

鐘楼

 

庫裏

 

 

本堂

 

 

白隠禅師墓所

 

 臨済宗(現在は白隠宗)寺院。江戸時代に白隠慧鶴が住持した寺として知られている。白隠の父の叔父である大瑞宗育が慶安年間に復興し、5代目住職を白隠慧鶴が、次いで遂翁元盧が住職を務めている。白隠は享保2年(1717年)に住職となり、享保3年、34歳の時、京都妙心寺の第一座となった。その後、松蔭寺には全国から雲水が集まり、白隠の会下で修行したことが知られている。明和5年(1768年)、白隠は84歳で入寂し、この寺の境内に墓がある(県指定史跡)。

 

 松蔭寺参拝後、さらに東進すると、長興寺の山門が見えて来た。

 

 

金毘羅堂

 

本堂

 

 

 

庭園入口

 

庭園

 

 臨済宗妙心寺派寺院。今から約640年前の康安年間、鎌倉建長寺の開山大覚禅師の弟子、友嶽和尚が行脚中、原大塚の海辺にさしかかった時、海の響きに感応道交して歓喜雀躍、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安して一堂宇を建立。これがこの寺の始まりという。その後、江戸時代には、白隠禅師のもとに全国から集まってきた雲水たちの宿坊として使われたという。

 

 長興寺参拝後、原駅に戻り、東海道線に乗って帰途についた。

 月例の浜松の坐禅会に行ってきた。以下は、坐禅会場のお寺の様子。

 

 

 

 お昼休みに、いつものように、近くに鎮座する曽許乃御立神社を参拝した。

 

一の鳥居&社号標

 

参道

 

二の鳥居

 

御手洗池

 

男坂

 

三の鳥居

 

手水舎

 

拝殿&本殿

 

 夏越の大祓ということで、拝殿の前には茅の輪が設えてあった。

 

 

拝殿

 

 

本殿

 

 今回の提唱は、『無門関』第四十四則の「芭蕉拄杖」。


 <芭蕉和尚、衆に示して云く、「你に拄杖子有らば、我れ你に拄杖子を与えん。你に拄杖子無くんば、我れ你が拄杖子を奪わん」。


 無門曰く、「扶けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る。若し喚んで拄杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん」。


 頌に曰く、「諸方の深と浅と、都べて掌握の中に在り。天を撐え并びに地を拄えて、随処に宗風を振う」。>

 

 芭蕉和尚が修行僧に説法して言うには、「諸君に拄杖が有れば私は諸君に拄杖を与えよう。拄杖が無ければ拄杖を奪い取ろう」。
 

 無門が評して、「橋の落ちた川を助けとして渡り、月のない暗闇の村へ伴なって帰る。もしこれを拄杖などと呼べば、あっと言う間に地獄落ちである」。


 そこを頌って言う、「諸方の人間の境涯の浅深、これらはすべてこの掌が握っている。この拄杖で天地を支える。どこへ行っても自在に法を説く」。

 

 「持っている者には与え、持っていない者からは奪う」。「そんな理不尽なこと、できるわけがない」というのは、世間の理屈、一般常識である。しかし、人の情識(思い込み)というものは、実は人を苦しめる原因でもある。単なる情識を絶対と捉える「常識人」ほど、事実真相から遠く隔たっているからである。だからそうした自縄自縛を打ち破るために、こうした則がある。

 

 良い悪い、完成した、いや完成していない、悟った悟っていない、そう言って悩み苦しむのは一体誰なのか?この身体はそんな事は一言も言わない。言った例がない。自分で問題を起こしているだけのことに気が付かない、これが苦の正体である。

 

 独参に行ってきた。私は頭に浮かんでいた昔のこと、身の上話をしてみた。ご老師は、浜松龍泉寺の和尚さんの述べられたことについて、味わい深いということで、評価されていた。そして、雲門文偃の故事を引き合いに出して、人は相当な目に遭わなければ、なかなか思い込みというものから離れられないと述べられていた。今回はこんな様子であった。

 翌日は、清白寺参拝及びさくらんぼ狩りに行ってきた。まずは、酒折宮参拝。

 

酒折宮 鳥居

 

拝殿

 

 

 酒折駅から歩いて参拝。相当な古社という。次に、塩山駅で下車、さくらんぼ狩りに向かう。

 

 

 

 

 

 さくらんぼ狩りの後は、清白寺参拝。東山梨駅から歩く。

 

 

清白寺参道入口

 

参道

 

参道両脇の梅?

 

惣門

 

三門(鐘楼門)

 

 

仏殿

 

 

庫裏

 

手水舎

 

玄関

 

本堂

 

 臨済宗妙心寺派寺院。山号は海涌山、本尊は釈迦如来。開山は夢窓疎石、開基は足利尊氏と伝わる。応永22年(1415年)建立とされる仏殿は国宝で、入母屋造、檜皮葺屋根の方三間裳階付形式の典型的な禅宗様式を取り入れている。また、元禄2~6年(1689年~1693年)に再建されたと思われる庫裏は国の重要文化財で、江戸時代中期の禅宗寺院庫裏として貴重であるという。

 

 禅宗寺院、特に臨済宗寺院は、何処も美しい。しかし残念ながら、肝心の法はすでに廃れていると思われるので、この国のほとんどの文化伝統その他諸々と同様、外面だけであるが。清白寺参拝後、駅に戻り、中央本線に乗車し、帰途についた。

 コロナで行けなかったさくらんぼ狩りを久しぶりに決行するということで、石和温泉に行ってきた。私はあまり興味がないので、例によって付近の神社仏閣を参拝してきた。まずは、甲斐善光寺。善光寺駅から歩いて向かう。

 

山門

 

 

 

境内

 

地蔵堂

 

 

鐘楼

 

金堂

 

 

 

 

大仏

 

薬師堂

 

 浄土宗寺院。山号は定額山。正式には、定額山浄智院善光寺と称する。永禄元年(1558年)、甲斐国の国主武田信玄によって創建された。開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空。本尊は銅造阿弥陀三尊像。撞木造の本堂(金堂)および山門は、国の重要文化財。甲斐善光寺参拝後、次に、東光寺に向かう。

 

 

寺標

 

山門

 

仏殿

 

中門?

 

境内

 

仏殿

 

 

 臨済宗妙心寺派寺院。山号は法蓋山。本尊は薬師如来。甲府五山の一つ。仏殿(薬師堂)は、入母屋造檜皮葺屋根の中世以来の建築様式を残し、国の重要文化財に指定されているという。本日最後は、甲斐国三宮とされる玉諸神社。酒折駅から歩いて向かう。

 

 

 

社号標&一の鳥居

 

二の鳥居

 

手水舎

 

神楽殿

 

拝殿

 

 

 

本殿

 

 

 

 この神社は式内論社とされているが、本来の祭祀の対象は甲斐の国玉と思われるので、私見では、本命は甲州市塩山竹森の同名社ではなかろうか。玉諸神社参拝後、本日のお宿に向かった。

 

本日のお宿

 

 

 

 

 西国三十三所(興福寺南円堂)の続き。南円堂で納経後、春日大社に行く予定であったが、あまりの暑さで断念し、京都に戻り、西国観音とは無関係であるが、臨済宗の巨刹である南禅寺及び相国寺を参拝する。まずは南禅寺。蹴上駅から歩いて向かう。

 

ねじりまんぽ

 

 

何有荘

 

 

南陽院

 

金地院東照宮 楼門

 

金地院 大門

 

 徳川家康の信任が篤かった以心崇伝が住持した塔頭寺院。十万石の格式を与えられただけでなく、五山十刹以下全ての臨済宗寺院の住職の任命権を有した僧録司が置かれたという。小堀遠州作の庭が国の特別名勝に指定されている。

 

東照宮下乗門

 

南禅寺 中門

 

勅使門

 

三門

 

 

 

法堂

 

 

 

 

 

本坊(庫裏)

 

景烈祠

 

 

最勝院

 

 この塔頭の奥之院に行きたかったのだが、帰りの新幹線の時間の都合で無理であった。

 

水路閣

 

天授庵

 

 

 山号は瑞龍山、本尊は釈迦如来。開山は無関普門(大明国師)、開基は亀山法皇。正式には太平興国南禅禅寺と号する。日本最初の勅願禅寺で、「五山の上」に位置づけられた、最も格式の高い臨済宗寺院。南禅寺参拝後、最後に京都五山第二位の相国寺を参拝する。今出川駅から歩く。

 

総門

 

勅使門

 

放生池&天界橋

 

玉龍院

 

光源院

 

法堂

 

 

 

 

 

経蔵

 

八幡宮(鎮守)

 

浴室

 

方丈

 

 

庫裏(香積院)

 

鐘楼(洪音楼)

 

弁天社

 

 

大通院(専門道場)

 

 山号は萬年山、本尊は釈迦如来。開山は夢窓疎石、開基は足利義満。隣接して、本来寺域であった所には同志社がある。足利将軍家縁の禅寺である相国寺を急ぎ足で参拝後、京都駅に戻り、新幹線に乗って帰京した。

 西国三十三所巡礼(與喜天満神社)の続き。第八番の長谷寺参拝。

 

仁王門

 

登廊

 

歓喜院

 

梅心院

 

慈眼院

 

嵐の坂

 

手水舎

 

 

 

蔵王堂

 

 

三百余社

 

鐘楼

 

本堂

 

 

外舞台から見えた大講堂&本坊

 

本堂

 

 

 

 

 

大黒堂

 

愛染堂

 

三社権現

 

 

弘法大師御影堂

 

 

一切経蔵

 

本長谷寺

 

 

五重塔

 

 

奥の院(興教大師祖師堂)

 

開山堂

 

 

本願院

 

 素晴らしい景色と堂宇の宝庫である長谷寺で納経後、七番の岡寺に行く予定であったが、長谷寺での滞在時間が長すぎて、難しくなったので、番外札所の発起院を経由して、九番の興福寺南円堂に向かうことにした。

 

法起院 山門

 

本堂

 

徳道上人御霊廟

 

はがきの木

 

 

 法起院で納経後、長谷寺駅から近鉄奈良駅まで乗車し、到着後、南円堂に歩いて向かう。五重塔修復工事のため、東金堂が拝観できなかった。

 

 

 

 

東金堂

 

中金堂

 

 

南円堂

 

 

鐘楼

 

北円堂

 

三重塔

 

 

猿沢池

 

 藤原氏氏寺である興福寺の南円堂で納経後、春日大社に行く予定であったが、あまりの暑さで断念し、京都に戻り、西国観音とは無関係であるが、南禅寺及び相国寺を参拝することにした。

 

(続く)

 本日は、今回の西国三十三所巡礼最終日。まずは、第八番の長谷寺。近鉄長谷寺駅から歩いて向かう。天候は、晴れ。

 

長谷寺駅前の寺標

 

長谷寺方面の景色

 

 

初瀬交差点

 

参急橋から見た初瀬川

 

旧初瀬参道

 

長谷山口坐神社遙拝所

 

 

 

法起院(西国番外札所)

 

 

 かつて長谷寺の鎮守社であったという、参道途中にある與喜天満神社を参拝する。

 

天神橋から見た初瀬川

 

参道石段

 

與喜天満神社 鳥居

 

泊瀬稲荷社

 

 

手水舎

 

境内

 

中門

 

本殿

 

境内社

 

拝殿

 

鵝形石&沓形石

 

脇門

 

 與喜天満神社参拝後、素盞雄神社を経由して長谷寺に向かう。

 

 

 

素盞雄神社 鳥居

 

玉鬘の大銀杏

 

秋葉社

 

拝殿

 

本殿

 

連歌橋から見た初瀬川

 

門前町

 

中之橋天満神社

 

 やっと長谷寺到着。

寺標

 

総受付

 

普門院不動堂

 

 

仁王門

 

(続く)