芭蕉拄杖 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 月例の浜松の坐禅会に行ってきた。以下は、坐禅会場のお寺の様子。

 

 

 

 お昼休みに、いつものように、近くに鎮座する曽許乃御立神社を参拝した。

 

一の鳥居&社号標

 

参道

 

二の鳥居

 

御手洗池

 

男坂

 

三の鳥居

 

手水舎

 

拝殿&本殿

 

 夏越の大祓ということで、拝殿の前には茅の輪が設えてあった。

 

 

拝殿

 

 

本殿

 

 今回の提唱は、『無門関』第四十四則の「芭蕉拄杖」。


 <芭蕉和尚、衆に示して云く、「你に拄杖子有らば、我れ你に拄杖子を与えん。你に拄杖子無くんば、我れ你が拄杖子を奪わん」。


 無門曰く、「扶けては断橋の水を過ぎ、伴っては無月の村に帰る。若し喚んで拄杖と作さば、地獄に入ること箭の如くならん」。


 頌に曰く、「諸方の深と浅と、都べて掌握の中に在り。天を撐え并びに地を拄えて、随処に宗風を振う」。>

 

 芭蕉和尚が修行僧に説法して言うには、「諸君に拄杖が有れば私は諸君に拄杖を与えよう。拄杖が無ければ拄杖を奪い取ろう」。
 

 無門が評して、「橋の落ちた川を助けとして渡り、月のない暗闇の村へ伴なって帰る。もしこれを拄杖などと呼べば、あっと言う間に地獄落ちである」。


 そこを頌って言う、「諸方の人間の境涯の浅深、これらはすべてこの掌が握っている。この拄杖で天地を支える。どこへ行っても自在に法を説く」。

 

 「持っている者には与え、持っていない者からは奪う」。「そんな理不尽なこと、できるわけがない」というのは、世間の理屈、一般常識である。しかし、人の情識(思い込み)というものは、実は人を苦しめる原因でもある。単なる情識を絶対と捉える「常識人」ほど、事実真相から遠く隔たっているからである。だからそうした自縄自縛を打ち破るために、こうした則がある。

 

 良い悪い、完成した、いや完成していない、悟った悟っていない、そう言って悩み苦しむのは一体誰なのか?この身体はそんな事は一言も言わない。言った例がない。自分で問題を起こしているだけのことに気が付かない、これが苦の正体である。

 

 独参に行ってきた。私は頭に浮かんでいた昔のこと、身の上話をしてみた。ご老師は、浜松龍泉寺の和尚さんの述べられたことについて、味わい深いということで、評価されていた。そして、雲門文偃の故事を引き合いに出して、人は相当な目に遭わなければ、なかなか思い込みというものから離れられないと述べられていた。今回はこんな様子であった。