浜松明徳寺の月例坐禅会に行ってきた。
和地西交差点

明徳寺参道石段

彼岸花が咲いていた。

本堂

お昼休みには、付近に鎮座する曾許乃御立神社を参拝した。
曾許乃御立神社一の鳥居

参道

二の鳥居

御手洗池が見えてきた。

御手洗池

男坂

三の鳥居

手水舎

神木

拝殿&本殿

拝殿内

随神像


神楽殿

今回の提唱は、飯田欓隠『碧巖集提唱録』の、第二十一則「智門蓮華」。
(垂示)法幢を建て宗旨を立す。錦上に花を舗く。籠頭を脱し角駄を卸す。太平の時節。或は若し格外の句を辨得せば擧一明三。其れ或は未だ然らずんば舊に依つて伏して處分を聽け。
(提唱)『建法幢立宗旨』これは出世爲人底ぢや。師家の店びらきぢや。品物が少いと買手がないから法財は多く蓄へておくがよい、白隱も乳房細くちやよい子ができぬといふた。乍去良賈深藏如處君子有盛德容貌如愚とあるから、買手の方でも表面の店付ばかり見て、奥行を見ぬと買ひ損ふ、汾陽は大衆六人、藥山は十人、而かもいづれも枯淡で托鉢でくうてをる。滿身只道のみぢや。よい品物は人の見ぬところに深く藏してある。小賣弄はやらぬ。目利のよい案内者(良友)を撰んでかふがよい。とにかく滿身菩提心ありて正師の印證を得て越格の大伎倆ある宗師家で、大旗を弄する手腕あるを要するぢゃ。さてこそ次の著語底の一句がでた。
『錦上舖花』これでこそ佛麗の惠命も相續され凉蔭樹も打出され、從て國家安泰となってゆく。見渡せば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける。銅頭鐵額此山中に在りぢや。人の多きをいふのではない。一人でも眞個抱道の士さへあれば大叢林ぢやと慈明もいふた。一人にても錦上舗花といふべきぢや。たとへ千百人ありとも道心なくんば、叢林にあらず。猛省一番せねばならぬ。
『脱籠頭卸角駄』前の一句は建立門ぢや。生かす方、放行門の方ぢや。ここは勦絕門ぢや、殺す方、把住ぢや。驅耕夫牛奪飢人食ぢや。裸を今一度裸にする。從前の悪知悪覺を蕩盡して内外打成一片の處ぢや。千古の重擔をおろした處ぢや。ソコを馬がクツワヅラを除き、重荷をおろして、自由に食ひあるくにたとへたのぢや。即ち參天の荊棘林を透過して、佛祖の縛を解開したところ、即ち眞乎無字をぶちぬいたところぢや。
『太平時節』これも著語底ぢや。山中の賊は平げやすく、心中の賊は平げがたし。先づ自家の太平を得て人をも國をも太平ならしむべしぢや。「殺せ々々我身をころせころしはてて何もなき時人の師となれ」。
『或若辨得格外句』これは前二句即ち建立と勦絶を超越して、何人も蹤跡を見出すことができぬ。昨夜泥牛入海去、直到如今不見蹤。「この道や行入なしに秋の暮」。
『舉一明三』これも著語底、短評ぢや。この語は第一則の垂示にある論語の舉一隅明三隅といふ略語で、尋常俊發のことに用いてあるが、今はそうでない。一かと思ふと三、三かと思ふと一で、とんと數量に涉らない方に見るがよい。羚羊懸角といふ語がある。羊の王は角を高枝にかけて眠るとのこと、さすれば猛獸もあとを見出し得ぬとのことぢや。
『其或未然、依舊伏聽處分』上の三句で師家分上の好標本即ち妙境をいひ盡したが、それが手に入らば碧巖を焼いてもよいが、それが得られずばいつもの通り頭を下げて命令をきかねばならぬ。次下の公案に参じてその人となれよ。圜悟の忠告ぢや。
(本則)擧す。僧智門に問ふ、蓮花未だ水を出でざる時如何。智門云く、蓮花。僧云く、水を出て後如何。門云く、荷葉。
(提唱)『擧僧問智門、蓮花未出水時如何』借事問ぢや。蓮花をかりて父母未生以前の自己の面目をだして見よといふのぢや。諸佛出世以前とでも天地開闢以前といふても同じことぢや。やみの夜に鳴かぬ鳥の聲きけば生れぬ先の父ぞ戀しき。つまり時の問題ぢや。時はいつも時ぢや。「年ごとにさくや吉野の櫻花木をわりて見よ花のありかを」さくも時、さかぬも時、時ならぬ時やある。われも時かれも時ぢや。古も時ぢや。今も時ぢや。「時は今天が下しる五月闇」これ光秀が天下をとる野心の句ぢやが、善意にとればこれで人生問題を解決するに足るとおもふ。過去も未来も只今ばかり、久遠劫がしまってはない、今となってきてをる。今の過去に對する長いき、今の未來に對する無限を看取せよ。いつも今ぢや。どこも今ぢや。盤珪の臼挽うたに、過去も未来も只今ばかり、議論するより只うたうたへとあった。欲知過去因見現在果。今ぢや々々。欲知未来果見現在因。今ぢや々々。今に高く眼光を放てよ。拄杖子吞乾坤とか、一塵起て大地收る、一毫頭上挑日月「世の中は今より外はなかりけり昨日は過ぎつあすは知られず」只今になりきりて俯仰天地に愧ざるを期せよ。宇宙は其人の所有ならんぞ。三界は實に我家ぢや。其中の衆生は實に我子ぢや。本家鄉ではないか。大愛底ではないか。天下太平錦上舗花處が今にあるが、修せざるには現れず、證せざるに得ることなしぢゃ。「かれはてて而も花さく梅が枝に聲をもたてず鶯のなく」これが分ればこの智門の則も分る。もし又會せずんば天邊の月にとへ。さだめて月は呵々大笑せん。さて又智門の答へに參ずるのよ。
『智門云蓮花』過去は過去に落謝し去って、天地は只即今となってきてをる。蓮花は久遠劫の因の總へてより来る今の果である。一花開世界春なり。一蓮開いて世界蓮なり。即今蓮花をだして見よ。四時しほれぬ七佛以前からぶつとほし今ぢや々々。今を知れば久遠の過去は歴々分明ぢや。今ほど長いきしたものはない。「百歳をいのる人こそはかなけれ本より死なぬ心ある身に」今に参ぜよ。々々。未生以前はどこにをつた。ここにをつた。つらをつきだせ。
『僧云出水後如何』今の外に前後があると思ふか、此僧蓮花とこたえられた前後裁断の血滴々が分らなんだ。只是蓮花と手輕くとなへて見よ。今の延びたのが未來ぢや。その外に後はない。後になれば何億年でも今ぢや。されば出後も蓮花は蓮花ぢや、蓮花のみとなると轉處の妙をかぐから、荷葉とこたえた。佛にもなるが鬼にもなるのよ。
『門云荷葉』蓮花の花に執着する念をとるのぢや。東家爲馬西家爲驢。自携瓶去沾村酒歸来著衫爲主人ぢゃ。「傀儡師胸に懸けたる人形箱佛ださうと鬼をださうと」隨縁赴感無不周ぢゃ。荷葉はかえうとよむ。葉の字は迦葉の時はせうとよむ。
(本則著語)『鈎在不疑之地』不疑はお悟りをさす。お悟りにつられてる氣の毒なものぢや。即今何の疑ひかあるぢゃ。天桂は「驢耳彈琴」に疑著も亦無上菩提なりと云ふてをる。どこへも逃げやうがないことを知らぬ。平原秋樹色。沙麓暮鐘聲。□『泥裏洗土塊』間はねば少しは見よいが、口から出せばいよ々々きたなし。無言却有功ぢゃ。□『那裏得言消息来』どこからそんな便りをきいてきた。未出水前の蓮花のありやう筈がないではないか。問處の矛盾を抑下した。
『一二三四五六七』これは子供でもよく知ってることをあげた。花の數ふべきにもあたる。蓮花の面目分明何を疑ふ者かあらん。□『疑殺天下人』蓮花と答へねばよかったに、却って懐疑の種を蒔いたぞ。
『莫向鬼窟裹作活計』出不出に引かかつて、巣窟を作すを責めた。要行便行、要坐便坐咳睡掉臂豈別人の力を借んや。□『又怎麼去也』蓮花といはれてもまだ分らぬのか。未出水が分れば出水後は分らねばならぬ筈ぢや。
『幽州(北地)猶自可。最苦是江南』蓮花の時はまだ疑ひが淺かりしが、二度の答で彌々分らなくなったと智門を抑した。語原は幽入大金の亂を避けて江南に行く、宋南渡の後江南尤も多難なりし故かくいふ。□『両頭三面』色々にいひかえて彌々迷宮に入らしめた。□『笑殺天下人』色々に面相をかえて人の笑具となった。凡て著語は向ふ一倍の力をださぬと分らぬ、いかにゑらい人でも云へばそれだけ負けぢやから、どんなにでもつけ得らる筈ぢゃが、中々よい著語は少ないものぢや。
(頌)蓮花荷葉君に報じて知らしむ。出水未出の時と何如れぞ。江北江南王老に問へ。一狐疑して了りて一狐疑て。
(提唱)『蓮花荷葉報君知』分明覿面ぢゃ。蓮花の時は盡天盡地皆蓮花ぢゃ。荷葉の時はどこまでも荷葉ぢや。この一聲自己を求むるに不可得ぢや。どこに疑ふところがある。但し服すると服せざるとは醫のとがに非ずと知れ。
『出水何如未出時』何如を何ぞしかんとよんでは通じにくい。いづれぞとよむがよい。どちらも違ひがないといふことぢや。いつも今ぢや。時ぢや。その時はその時ばかりぢや。天地は其物の天地ぢや。一花開世界春なり、一葉落知天下秋ぢゃ、蓮花の時は蓮花で大休歇せよ。荷葉の時は荷葉で主人公となれ。随處爲主縁即宗するばかりよ。
『江北江南問王老』南泉自ら王老師といふたが、今は南泉の事ではない。支那には王、張、李、趙、といふ姓が最も多い。東村王老夜焼銭といふ王老で、只おやぢといふ事である。今は轉じて且く諸知識をさすのぢや。かく丸出しにして見せても分らねば、あちらこちらと諸知識に問ふて見るがよかろうが、自己の脚跟下を忘れて外に向ひて問いまはつたとて分る筈の者でないぞ。咄。
『一狐疑了一狐疑』江南にとふて分らねば、又江北にとふ。一重に一重を添へば展轉して疑のはるる時節はないだらう。一狐疑了は疑ひ去るの意で、明了になるの了ではない。決すべきに決せざれば反て天の咎をうくともあるぞ。成程玆だと其物それにつきあたる機発の好時節はそれそこにきておるが、脚跟下をすてて外に走りては萬劫にも浮ぶせはないぞ。野狐の性疑多し。氷河を渡るに水聲を聴きつつ渡るさまいとおかし。水聲を聞いて鳴らざる時氷厚しと見て渡るとのこと、漢書文帝紀の註にあり。
(頌著語)『老婆心切』かくまで老婆心切を受けてもまだ気が付かぬとの底意ぢや。□『見成公案』我宗有言句金刀剪れども開けずぢゃ。蓮華(是什麼)荷葉(道什麼)の現成底、擬議せば三十棒。□『文彩巳彰』しかしあまりむきだしも人をして他に依らしめて自發するに害があるぞ。宝鏡三昧にも但形文彩即屬染汚とあると抑えた。
『泥裏洗土塊』あまり説き過ぎてきたないぞ。□『分開也好』曰く分開して見せるもまたよいであらう。分けて見てもやはり同じであったと、そこで大悟するものがないともいへぬ。□『不可儱去也』儱侗は不知貌とある。ぼんやりしてはいけぬぞと氣をつけた。蓮花荷葉の端的、何ぞ直下に看取し去らざるや。
『主人公在什麼處』家に主人公が居らぬと狐狸の住み家となる。外に向って問ひまはるには及ばぬ。どこでも主人公なることがわからぬか。いたいお灸ぢや。人間到處有青山ぢや。ゆめさめて衣のうらをけさみれば珠かけながら迷ひぬるかな。□『問王老師作什麼』眼は横に鼻はたてなるつらをして外に求むるうろたえ坊主。□『儞自踏破草鞋』衣裏の珠を忘れて外に向って求むる愚かさよ。漸々攻撃の手がはげしくなる。
『一坑埋却』元來師家が老婆を垂れるのは悪いのぢや。師學ともに一坑に活理したら天下泰平なるべきに。□『自是儞疑』物おもへば澤邊の螢我身よりあこがれいづるたまかとぞおもふ。また曰く幽霊の正體見たり枯尾花。また曰く、ともかくも風にまかせて枯尾花。物は用ひようにこそ。□『不免疑情未息』まだ分らぬか、かくまでいふても馬耳東風か、それこれを見よと今おれが如意をあぐるを看破せよ。□『打云会麼』機發を促したのぢや。これが分るかと打つ。打つ今何物かある。今この一打なんと見る。古人の書入に端的で底を抜いたが好いはとあった。擬議せば三十棒。
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「いつも今ぢや。どこも今ぢや。」「今の外に前後があると思ふか。」「その時はその時ばかりぢや。」ご老師と同じことを欓隠老師も仰っている。つまり、「今しかない(現実しかない)」。誰も否定できない絶対的事実である。そして、今の現実から「どこへも逃げやうがない」故に、我々はすでに皆、何の造作をしなくても、徹底決定している。本当に「今しかない(迷えない)」からである。
それで、たとえ疑義なるものが生じたとしても、ただそれだけである。現実には何の影響も与えない。つまり、何の問題もない。こんなことを問題にすること自体、おかしな話である。つまり、問題なのは、疑義(思い)が生じることではなく、それを問題としてみなすこと(すでに済んでしまったことを取り上げて、それが起こらないようにしようとすること)である。それは全くの徒労であるというより、本当に馬鹿げたことである。
独参では、ご老師は、「ほとんどの人は、何もしなくても、このままで足りていることを知らない。この様子を知らない」と示された。
最後に、(ご老師、机を扇子で叩かれて)「ビシッ」「誰もこんなことが悟りであるなんて、思えない。」
あるいは、「見えているすべてが自分の様子であることを、皆さん知らないでしょ。ここまでは自分でそれ以外は他なんて、境界線みたいなものは、実際にはないですよ。」