QUOD TIBI HOC ALTERI

QUOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 四国八十八箇所(八十一番)(1)の続き。本堂に向かう。

 

 

鐘楼

 

薬師堂

 

行者堂

 

 

阿弥陀堂

 

本堂

 

大師堂

 

 

九社明神

 

弁財天祠

 

 Wikiによれば、白峯寺は、「香川県坂出市の五色台の白峯中腹の標高284.0 m付近にある真言宗御室派の寺院。綾松山、 洞林院と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第八十一番札所。寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峯山頂に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした。また、円珍(智証大師)が貞観2年(860年)、山頂に輝く瑞光を見て登頂、そのとき地主神である白髪の老翁より神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に輝き、芳香薫ずる可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み、当寺本尊として安置し、仏堂を創建したと伝えられている」という。

 

 白峯寺で納経後、奥之院毘沙門窟を参拝する。

 

七棟門

 

 

本坊

 

 

 八十二番へ向かう遍路道に入る。

 

 

 

 

 

下乗石&摩尼輪塔

 

 

 

 

奥之院入口

 

 

 

 

 

白峯寺奥之院(毘沙門窟)

 

 

 

 毘沙門窟参拝後、麓に鎮座する神谷神社に向かう。

 

帰りの石段

 

瀬戸大橋

 

松井神社 

 

 

神谷神社一の鳥居

 

注連柱?

 

神谷荒神社

 

手水舎

 

二の鳥居

 

境内社

 

神門?

 

本殿

 

 

 

 

 次に、影向石を見に行く。

 

 

影向石

 

 Wikiによると、神谷神社は、「坂出市東部、五色台の一峰・白峰山の麓に鎮座する神社。式内社で、旧社格は郷社。本殿は造営年代が明らかな流造社殿の中では最古のもので、国宝に指定されている。そのほか、重要文化財の木造随身立像などの神宝を現在に伝えている」という。

 

 神谷神社参拝後、坂出駅まで戻り、今回のお宿に向かう。

 

坂出駅に到着した観音寺行き列車

 

 観音寺駅に到着。

 

 

観音寺駅改札前

 

今回のお宿

 

本日の夕食

 四国遍路に行ってきた。今回は、香川県観音寺市に宿泊して、付近の札所を巡礼する。まずは、八十一番白峯寺。

 

羽田空港

 

搭乗口

 

高松行き飛行機

 

機内の様子

 

 高松空港到着。

 

 

 高松空港到着後、坂出駅までリムジンバスに乗り、坂出駅前で自転車をお借りして、八十一番に向かう。

 

JR坂出駅

 

 坂出駅から線路沿いの金山通りを進み、坂出江尻町交差点を通過し、県道16号を進む。

 

坂出江尻町交差点

 

県道16号

 

県坂出合同庁舎前

 

 

 綾川(新雲井橋)を渡る。

 

 

綾川

 

 五色台方面に進む。

 

 

 

 交差点を渡り、県道180号に入る。

 

 

 左折して、五色台方面に進む。

 

 

 

 右折する。

 

 

 

 鳥居が見えたので、参拝する。

 

高家神社鳥居

 

注連柱&随神門

 

拝殿

 

 

本殿

 

観音寺山門

 

仁王像

 

 

 「坂出市観光協会」HPによると、「往古ここに高家首の一族が居住し、遠祖の天道根命を奉斎して氏神とした里人には森の宮とも奉称され、貞観9年従五位下を奉られています(つまり、「国史見在社」)。 崇徳上皇葬送の途中、高家神社(高屋町)までくると、にわかに風雨が起こったので、葬送の列は いったん棺を大きい石の上に置きました。するとその石に血がしたたり落ちました。棺を置いた石の台は、今も境内に安置されており、高家神社のことを「血の宮」とも呼んでいます」という。

 

 高家神社参拝後、白峯寺に向かう。

 

県道180号

 

 

 

 

中ノ地蔵

 

 

 

杓子谷の地蔵

 

 

 

 ここで自転車を降りて、ここからは歩く。

 

 

 

 

 

 石段を上る。

 

 

 

 

 平坦な場所に出た。

 

 

崇徳天皇白峯陵

 

 

 もうすぐ到着。

 

 

白峯寺七棟門

 

御成門

 

護摩堂

 

勅額門

 

頓証寺殿

 

霊樹

 

 本堂に向かう。

 

 

(続く)

 展示替えがあったので、竹橋の東京国立近代美術館に行ってきた。東京駅から皇居東御苑(江戸城本丸)経由で向かう。

 

東京駅

 

日本工業倶楽部

 

丸の内仲通り

 

 

江戸城大手門

 

 

三の丸尚蔵館

 

同心番所

 

百人番所

 

中之門跡

 

大番所

 

中雀門前の坂

 

本丸跡

 

富士見櫓

 

宮内庁楽部

 

江戸城天守台

 

東京国立近代美術館&平川濠

 

北桔橋門

 

東京国立近代美術館

 

 それでは、入ってみる。

 

1階エントランス

 

 4階1室から見ていく。

 

竹内栖鳳「飼われたる猿と兎」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「利口な猿は手の届かぬところに柿を落として飢え、従順な兎は飽食してまどろむ。それぞれの性質をよく表わす対比的な情景が、迫真の描写によって捉えられているが、これらは自宅に飼っていた猿や動物園の兎の写生をもとに制作された。栖鳳はこれ以前に発表した《獅子図》(1901年)、《大獅子図》(1902年)において、ヨーロッパの動物園で初めて実見したライオンの写生をとりいれ、従来の唐獅子の定型を打ち破ったとの評判を得ていた。この作品のうちにも、観察と写生とによって日本画の動物表現を越えて行こうとする自負が窺われる」という。

 

菱田春草「秋木立」

 

鏑木清方「新富町」

 

 解説によると、「《築地明石町》、《新富町》、《浜町河岸》の三部作は、清方にとって思い出深い町の風情を、ふさわしいモチーフと似つかわしい女性像によって象徴的に描いた作品です。新富町は古くから劇場をかかえた土地柄で、花街としても知られました。女性は新富町芸者。縞の着物に小紋の羽織という粋な装いです。背景には新富座。清方が生まれた年に新築なった新富座は、ガス燈、絵看板に、やぐらのない建物が特徴の近代的な劇場でした。明治期に全盛を誇った新富座も大正に入ると衰退し、関東大震災で被災して廃座となりました。清方がここに描きとどめた風情は、すでに失われて久しいものでした」という。

 

鏑木清方「築地明石町」

 

 解説によると、「明石町は、明治期にはハイカラな外国人居留地でした。水色のペンキが塗られた柵は、そこに洋館があることを示しています。朝霧にかすむ帆船のマストも、画面に異国情緒を添えます。朝顔ももう終盤。秋の風に袖をかきよせる女性は、上流の夫人を思わせる夜会巻ともイギリス巻とも言われた髪型で、指には大きな金の指輪をはめています。清方にしては珍しく、イメージに合う知人の女性、江木ませ子にモデルを頼み、スケッチにのぞんだことも知られています」という。

 

鏑木清方「浜町河岸」

 

 解説によると、「《浜町河岸》は、清方が明治時代末に足かけ6年にわたって暮らした、日本橋の浜町を主題としています。清方はこの町に似つかわしい女性として、踊りの稽古帰りの町娘を選びました。というのも、この町には、歌舞伎舞踊の振り付けで一時代を築いた2代目藤間勘右衛門が、明治初頭から家を構えていたからです。背景には隅田川。対岸には左に深川安宅の火の見櫓、右に新大橋が描かれています。この橋は、清方が浜町から本郷龍岡町に引っ越したちょうどその年に、鉄橋に架け替えられました」という。


山口蓬春「榻上の花」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「松岡映丘を指導者とする新興大和絵会に属して、新しい大和絵の創造という線上で仕事を続けてきた山口蓬春は、しかし、すでに1932年の《市場》では、大和絵という枠をこえて近代的な感覚をもった新鮮な画風に入っていた。そして、この画家は、戦後ことに1950年前後にマチスやブラックなどフランス近代絵画の造形解釈を積極的に参考にした意欲的な作品を描いている。この《榻上の花》はこの時期の代表的な作品で、椅子や花や洋梨など対象物の形は単純化され、画面全体の明快な装飾的色面構成の組織に組みこまれている。日本画において近代的造形に取り組んだ作品として当時注目された」という。

 

横山大観「或る日の太平洋」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「敗戦という形で太平洋戦争が終結したあと、日本画の置かれた状態はきわめて厳しいものであった。敗戦直後の状況はしばしば価値の転換あるいは価値の無政府状態という言葉で語られるが、そのひとつの現象が自由主義、民主主義の強調と、伝統的、国粋的思潮に対する徹底的な否定であった。戦時体制下において国粋主義的な潮流に支えられていた日本画が、戦後激しい批判にさらされたのはむしろ当然であったのかも知れない。しかし華麗な画歴をほこる横山大観は、さまざまな批判にも動ずることなく、自らの姿勢を守り通した。彼は批判によって作風を転じなければならない理由を見いだすことができなかったし、現実問題として1945年の時点ですでに77歳の高齢に達しており、時代の潮流に対応しようとする気持ちも持ち合わせていなかったようである。逆巻く波涛の彼方に霊峰富士を望み、海中に龍をひそませた晩年の傑作《或る日の太平洋》は、戦いに敗れた祖国に対する老画家の屈折した思いと、時代の流れに抵抗する強固な意志が示されているように感じられる」という。

 

 2室。

 

平田松堂「木々の秋」

 

 

 

 3室。

 

藤島武二「匂い」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「この作品《匂い》は、帰国後の移行期にあたる作品である。チャイナドレスをまとい、香を楽しむ女性には、浪漫主義的な優美さがまだ認められるが、一方で筆致や色彩はより単純化され、また女性の腕や左端の花瓶などが形成する画面構成の堅固さなど、造形的要素への関心の強さもうかがえる」という。

 

岡田三郎助「紅衣夫人」

 

岸田劉生「病院の待合室」

 

橋口五葉「夏装之娘」

 

柳瀬正夢「門司港」

 

 4室。

 

織田一磨『大阪風景』より「道頓堀」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「『方寸』の同人たちによる自画・自刻・自摺りを主唱した創作版画運動は、織田にそれまでの単なる画工ではない美術家としての強い意識をうえつけた。また画風を形成するうえでは、当時耽美主義、浪涅主義の温床とされた「パンの会」に加わったことによる影響が大きいといえよう。それは、失われたものへの愛惜と憧憬というかたちで表れ、作品では、本格的に版画家として第一歩を記した〈東京風景〉(20点組、1916ー17年)に示されている。この連作では、近代化の名のもとに古いものが日ごとにすたれ、こわされていく東京にあって、明治の面影をとどめ、さらには江戸の残影すら感じさせる情景を求め、下町を中心に取材されている。次いで制作された、この作品が含まれる〈大阪風景〉(20点組、1917ー19年)でも、織田の視点は郷愁にみち、それは少年期をすごした大阪であればいっそう強いものであったと思われ、いずれもが石版画特有のやわらかく微細な絵肌とあいまって、効果的に表現されている」という。

 

織田一磨『画集新宿』より「新宿カフエー街」

 

織田一磨「三人の女給」

 

織田一磨『画集銀座第一輯』より「酒場バッカス」

 

 6室。

 

小磯良平「練習場の踊子達」

 

 「文化遺産データベース」によると、「練習場の一隅でバレエのコスチュームを身につけた女性達がくつろいでいる。1930年代、小磯は踊り子や裁縫女を題材とした、自身が好んだ西洋画家の一人ドガを思わせる作品を多数残しており、本作品もその一つである。楽器を手に持ち踊り子達の間に立っている男性のモデルは、詩人で中学以来の親友である竹中郁だといわれている。小磯が群像表現に取り組み始めたのは本作品発表前年の第2回新制作派展出品作からで、本作品は彼の群像作品としてはごく初期のものであるが、その堅牢な画面構成には古典的な西洋絵画の学習成果が表れている」という。


小林万吾「富士」

 

 7室。

 

東山魁夷「映象」

 

 「文化遺産データベース」によれば、「≪映象≫はスウェーデンのノルディングローに取材し,朝の澄み切った鏡のような入り江や山の静かな湖の印象をまとめた作品である。画面はほとんど白黒のモノクロームに近い色彩に統一され,鏡のような水面によって裸木の林が実景と倒影の上下対称となっている。透明な視覚が行き渡り,無音の静けさに耳が研ぎ澄まされるような超現実的な世界,画家の言う「北国特有のきびしさと神秘の世界」を実現している」という。

 

東山魁夷 版画集『古き町にて−北欧紀行』

 

 

 

東山魁夷「冬華」

 

東山魁夷「白夜光」

 

 10室。

 

山内多門「金剛連峰」

 

 

水田硯山「瀞峡積翠図」

 

石山太柏「幽溪」

 

広本進「赤目の溪谷」

 

徳岡神泉「月明」

 

藤田嗣治「ラ・フォンテーヌ頌」

 

藤田嗣治「動物宴」

 

 2階ギャラリー4

 

藤田嗣治「五人の裸婦」

 

 「軽井沢安東美術館」によると、「1923年のサロン・ドートンヌで発表した本作品は、藤田が初めて裸婦の群像表現を試み描いた大作です。また1914年以降、藤田と親交のあったパブロ・ピカソが1907年に描いた《アヴィニョンの娘たち》(油彩・キャンバス ニューヨーク近代美術館蔵)の構図とよく似ていることから、ピカソの影響も感じられる作品でもあります。横にほぼ一列に並んだ五人の裸婦は中央に立つ「視覚」を中心に、向かって左から触覚、聴覚、味覚、嗅覚の「五感」を表しているともいわれており、背景のベッドの天蓋と裸婦の足元に敷かれた「ジュイ布」風の細密な描写が、彼女たちの「乳白色の肌」をいっそう引き立てています。《五人の裸婦》が描かれた2年前の1921年、藤田は初めて裸婦を発表し、その作品は「素晴らしき乳白色の下地」と絶賛されました。キャンバスそのものが人肌の柔らかさや滑らかさを表すことを目指した藤田は、白く光沢感のあるリアルな肌質を作り出すことに成功したのです。以後、藤田はこの技法を用いて主にベッドの上の裸婦を描いていきますが、1923年、立像かつ群像表現の《五人の裸婦》を完成させます。同じような表現で描かれた裸婦として、《舞踏会の前》(1925年 油彩・キャンバス 大原美術館)があります」という。

 

岡本太郎「コントルポアン」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「岡本太郎は川崎市の生まれ。父は漫画家、岡本一平。母かの子は歌人で小説家。1929年両親の渡欧に向行してパリに向かう。前衛的なグループ「アプストラクシオン・クレアシオン」(抽象・創造)の一員として活動し、またシュルレアリスム(超現実主義)の影響を受ける。40年に帰国。戦後は、文明以前の人間の原始的な活動を賛美し、それを現代に復活させることで一境地を開いた。「コントウルポワン」(対位法)とは違った旋律どうしを同時に組み合わせる作曲技法。どこか生き物をおもわせる二つの形態が向き合う本作品にふさわしい題名である」という。

 

荻須高徳「モンマルトル裏」

 

森田元子「想い」

 金曜日及び土曜日は、恵比寿福昌寺及び中野成願寺での月例坐禅会に出席した。

 

中野成願寺山門

 

六地蔵

 

大銀杏

 

本堂

 

 

 

観音堂

 

鍋島地蔵

 

 今回の福昌寺でのご提唱で、特に感銘を受けた箇所:「…或いは室外通見し、或いは身中通見し、或いは仏身を見、或いは菩薩を見、或いは知見を起こし、或いは経論に通利す、是の如き等種種の奇特、種種の異相は、悉く是、念息不調の病なり。…国王・大臣・権勢の家、多欲・名聞・戯論の人も、亦近づいて之に住することを得ざれ。」(「坐禅用心記」より)

 

 提唱後の質疑応答で、耳に残ったご老師のお示し:「まだできていない、まだ悟っていないから、まだ何か(修行)しなければだめだと思っている。(それが余計なんです。)」

 

 中野成願寺でのご提唱で取り上げられた箇所:「正見是れ法明門なり、漏尽聖道を得るが故に。正分別是れ法明門なり、一切の分別と無分別とを断ずるが故に。正語是れ法明門なり、一切の名字、音声、語言は、響きの如しと知るが故に。正業是れ法明門なり、業無く報無きが故に。正命是れ法明門なり、一切の悪道を除滅するが故に。正行是れ法明門なり、彼岸に至るが故に。正念是れ法明門なり、一切法を思念せざるが故に。正定是れ法明門なり、無散乱参昧を得るが故に。」(『正法眼蔵』第十一巻「一百八法明門」より)

 

 ご提唱だけでなく、独参や提唱後の質疑応答で、それに肝心の坐禅中も、いろいろなことを耳にし目にした。しかし今、家に帰ってきて、それらが何一つ残っていない。あんなにありありと見えかつ聞こえていたものすべてが、もはやどこにもない。影も形もない。綺麗さっぱり、何もない。

 

 このように、やることなすこと全てがその傍から消えていくということは、実に素晴らしいことというだけでなく、我々がひとり残らず完全に救われている、確たる証拠でもある。何もしなくても、全て片付いていく(済んでしまう・消えてしまう)のである。これでは悩み苦しみようがない。

 

 あるいは、たとえ一時悩み苦しんだとしても、それも必ず止む。よしんばずっと悩み苦しみたいと思ったとしても、それは土台無理なのである。このように、我々の実態は、例えれば、何にも絶対に穢されない、清浄にして無垢な金剛石のようなものである。そしてこの事実を見て大安心できなければ、それはおかしいというものである。

 

 最後に、今日のやり取りの中で思い出した言葉:「話には用はない。事実に用がある。」(井上義寛老師のお言葉)

 浜松明徳寺の月例坐禅会に行ってきた。

 

和地西交差点

 

明徳寺参道石段

 

 彼岸花が咲いていた。

 

 

本堂

 

 お昼休みには、付近に鎮座する曾許乃御立神社を参拝した。

 

曾許乃御立神社一の鳥居

 

参道

 

二の鳥居

 

 御手洗池が見えてきた。

 

 

御手洗池

 

男坂

 

三の鳥居

 

手水舎

 

神木

 

拝殿&本殿

 

拝殿内

 

随神像

 

 

神楽殿

 

 今回の提唱は、飯田欓隠『碧巖集提唱録』の、第二十一則「智門蓮華」。 

 

(垂示)法幢を建て宗旨を立す。錦上に花を舗く。籠頭を脱し角駄を卸す。太平の時節。或は若し格外の句を辨得せば擧一明三。其れ或は未だ然らずんば舊に依つて伏して處分を聽け。 

(提唱)『建法幢立宗旨』これは出世爲人底ぢや。師家の店びらきぢや。品物が少いと買手がないから法財は多く蓄へておくがよい、白隱も乳房細くちやよい子ができぬといふた。乍去良賈深藏如處君子有盛德容貌如愚とあるから、買手の方でも表面の店付ばかり見て、奥行を見ぬと買ひ損ふ、汾陽は大衆六人、藥山は十人、而かもいづれも枯淡で托鉢でくうてをる。滿身只道のみぢや。よい品物は人の見ぬところに深く藏してある。小賣弄はやらぬ。目利のよい案内者(良友)を撰んでかふがよい。とにかく滿身菩提心ありて正師の印證を得て越格の大伎倆ある宗師家で、大旗を弄する手腕あるを要するぢゃ。さてこそ次の著語底の一句がでた。


 『錦上舖花』これでこそ佛麗の惠命も相續され凉蔭樹も打出され、從て國家安泰となってゆく。見渡せば柳櫻をこきまぜて都ぞ春の錦なりける。銅頭鐵額此山中に在りぢや。人の多きをいふのではない。一人でも眞個抱道の士さへあれば大叢林ぢやと慈明もいふた。一人にても錦上舗花といふべきぢや。たとへ千百人ありとも道心なくんば、叢林にあらず。猛省一番せねばならぬ。
 

 『脱籠頭卸角駄』前の一句は建立門ぢや。生かす方、放行門の方ぢや。ここは勦絕門ぢや、殺す方、把住ぢや。驅耕夫牛奪飢人食ぢや。裸を今一度裸にする。從前の悪知悪覺を蕩盡して内外打成一片の處ぢや。千古の重擔をおろした處ぢや。ソコを馬がクツワヅラを除き、重荷をおろして、自由に食ひあるくにたとへたのぢや。即ち參天の荊棘林を透過して、佛祖の縛を解開したところ、即ち眞乎無字をぶちぬいたところぢや。


 『太平時節』これも著語底ぢや。山中の賊は平げやすく、心中の賊は平げがたし。先づ自家の太平を得て人をも國をも太平ならしむべしぢや。「殺せ々々我身をころせころしはてて何もなき時人の師となれ」。
 

 『或若辨得格外句』これは前二句即ち建立と勦絶を超越して、何人も蹤跡を見出すことができぬ。昨夜泥牛入海去、直到如今不見蹤。「この道や行入なしに秋の暮」。
 

 『舉一明三』これも著語底、短評ぢや。この語は第一則の垂示にある論語の舉一隅明三隅といふ略語で、尋常俊發のことに用いてあるが、今はそうでない。一かと思ふと三、三かと思ふと一で、とんと數量に涉らない方に見るがよい。羚羊懸角といふ語がある。羊の王は角を高枝にかけて眠るとのこと、さすれば猛獸もあとを見出し得ぬとのことぢや。

 『其或未然、依舊伏聽處分』上の三句で師家分上の好標本即ち妙境をいひ盡したが、それが手に入らば碧巖を焼いてもよいが、それが得られずばいつもの通り頭を下げて命令をきかねばならぬ。次下の公案に参じてその人となれよ。圜悟の忠告ぢや。

(本則)擧す。僧智門に問ふ、蓮花未だ水を出でざる時如何。智門云く、蓮花。僧云く、水を出て後如何。門云く、荷葉。 

(提唱)『擧僧問智門、蓮花未出水時如何』借事問ぢや。蓮花をかりて父母未生以前の自己の面目をだして見よといふのぢや。諸佛出世以前とでも天地開闢以前といふても同じことぢや。やみの夜に鳴かぬ鳥の聲きけば生れぬ先の父ぞ戀しき。つまり時の問題ぢや。時はいつも時ぢや。「年ごとにさくや吉野の櫻花木をわりて見よ花のありかを」さくも時、さかぬも時、時ならぬ時やある。われも時かれも時ぢや。古も時ぢや。今も時ぢや。「時は今天が下しる五月闇」これ光秀が天下をとる野心の句ぢやが、善意にとればこれで人生問題を解決するに足るとおもふ。過去も未来も只今ばかり、久遠劫がしまってはない、今となってきてをる。今の過去に對する長いき、今の未來に對する無限を看取せよ。いつも今ぢや。どこも今ぢや。盤珪の臼挽うたに、過去も未来も只今ばかり、議論するより只うたうたへとあった。欲知過去因見現在果。今ぢや々々。欲知未来果見現在因。今ぢや々々。今に高く眼光を放てよ。拄杖子吞乾坤とか、一塵起て大地收る、一毫頭上挑日月「世の中は今より外はなかりけり昨日は過ぎつあすは知られず」只今になりきりて俯仰天地に愧ざるを期せよ。宇宙は其人の所有ならんぞ。三界は實に我家ぢや。其中の衆生は實に我子ぢや。本家鄉ではないか。大愛底ではないか。天下太平錦上舗花處が今にあるが、修せざるには現れず、證せざるに得ることなしぢゃ。「かれはてて而も花さく梅が枝に聲をもたてず鶯のなく」これが分ればこの智門の則も分る。もし又會せずんば天邊の月にとへ。さだめて月は呵々大笑せん。さて又智門の答へに參ずるのよ。


 『智門云蓮花』過去は過去に落謝し去って、天地は只即今となってきてをる。蓮花は久遠劫の因の總へてより来る今の果である。一花開世界春なり。一蓮開いて世界蓮なり。即今蓮花をだして見よ。四時しほれぬ七佛以前からぶつとほし今ぢや々々。今を知れば久遠の過去は歴々分明ぢや。今ほど長いきしたものはない。「百歳をいのる人こそはかなけれ本より死なぬ心ある身に」今に参ぜよ。々々。未生以前はどこにをつた。ここにをつた。つらをつきだせ。


 『僧云出水後如何』今の外に前後があると思ふか、此僧蓮花とこたえられた前後裁断の血滴々が分らなんだ。只是蓮花と手輕くとなへて見よ。今の延びたのが未來ぢや。その外に後はない。後になれば何億年でも今ぢや。されば出後も蓮花は蓮花ぢや、蓮花のみとなると轉處の妙をかぐから、荷葉とこたえた。佛にもなるが鬼にもなるのよ。


 『門云荷葉』蓮花の花に執着する念をとるのぢや。東家爲馬西家爲驢。自携瓶去沾村酒歸来著衫爲主人ぢゃ。「傀儡師胸に懸けたる人形箱佛ださうと鬼をださうと」隨縁赴感無不周ぢゃ。荷葉はかえうとよむ。葉の字は迦葉の時はせうとよむ。
 

(本則著語)『鈎在不疑之地』不疑はお悟りをさす。お悟りにつられてる氣の毒なものぢや。即今何の疑ひかあるぢゃ。天桂は「驢耳彈琴」に疑著も亦無上菩提なりと云ふてをる。どこへも逃げやうがないことを知らぬ。平原秋樹色。沙麓暮鐘聲。□『泥裏洗土塊』間はねば少しは見よいが、口から出せばいよ々々きたなし。無言却有功ぢゃ。□『那裏得言消息来』どこからそんな便りをきいてきた。未出水前の蓮花のありやう筈がないではないか。問處の矛盾を抑下した。


 『一二三四五六七』これは子供でもよく知ってることをあげた。花の數ふべきにもあたる。蓮花の面目分明何を疑ふ者かあらん。□『疑殺天下人』蓮花と答へねばよかったに、却って懐疑の種を蒔いたぞ。
 

 『莫向鬼窟裹作活計』出不出に引かかつて、巣窟を作すを責めた。要行便行、要坐便坐咳睡掉臂豈別人の力を借んや。□『又怎麼去也』蓮花といはれてもまだ分らぬのか。未出水が分れば出水後は分らねばならぬ筈ぢや。

 『幽州(北地)猶自可。最苦是江南』蓮花の時はまだ疑ひが淺かりしが、二度の答で彌々分らなくなったと智門を抑した。語原は幽入大金の亂を避けて江南に行く、宋南渡の後江南尤も多難なりし故かくいふ。□『両頭三面』色々にいひかえて彌々迷宮に入らしめた。□『笑殺天下人』色々に面相をかえて人の笑具となった。凡て著語は向ふ一倍の力をださぬと分らぬ、いかにゑらい人でも云へばそれだけ負けぢやから、どんなにでもつけ得らる筈ぢゃが、中々よい著語は少ないものぢや。

(頌)蓮花荷葉君に報じて知らしむ。出水未出の時と何如れぞ。江北江南王老に問へ。一狐疑して了りて一狐疑て。 

 

(提唱)『蓮花荷葉報君知』分明覿面ぢゃ。蓮花の時は盡天盡地皆蓮花ぢゃ。荷葉の時はどこまでも荷葉ぢや。この一聲自己を求むるに不可得ぢや。どこに疑ふところがある。但し服すると服せざるとは醫のとがに非ずと知れ。
 

 『出水何如未出時』何如を何ぞしかんとよんでは通じにくい。いづれぞとよむがよい。どちらも違ひがないといふことぢや。いつも今ぢや。時ぢや。その時はその時ばかりぢや。天地は其物の天地ぢや。一花開世界春なり、一葉落知天下秋ぢゃ、蓮花の時は蓮花で大休歇せよ。荷葉の時は荷葉で主人公となれ。随處爲主縁即宗するばかりよ。
 

 『江北江南問王老』南泉自ら王老師といふたが、今は南泉の事ではない。支那には王、張、李、趙、といふ姓が最も多い。東村王老夜焼銭といふ王老で、只おやぢといふ事である。今は轉じて且く諸知識をさすのぢや。かく丸出しにして見せても分らねば、あちらこちらと諸知識に問ふて見るがよかろうが、自己の脚跟下を忘れて外に向ひて問いまはつたとて分る筈の者でないぞ。咄。

 

 『一狐疑了一狐疑』江南にとふて分らねば、又江北にとふ。一重に一重を添へば展轉して疑のはるる時節はないだらう。一狐疑了は疑ひ去るの意で、明了になるの了ではない。決すべきに決せざれば反て天の咎をうくともあるぞ。成程玆だと其物それにつきあたる機発の好時節はそれそこにきておるが、脚跟下をすてて外に走りては萬劫にも浮ぶせはないぞ。野狐の性疑多し。氷河を渡るに水聲を聴きつつ渡るさまいとおかし。水聲を聞いて鳴らざる時氷厚しと見て渡るとのこと、漢書文帝紀の註にあり。

 

(頌著語)『老婆心切』かくまで老婆心切を受けてもまだ気が付かぬとの底意ぢや。□『見成公案』我宗有言句金刀剪れども開けずぢゃ。蓮華(是什麼)荷葉(道什麼)の現成底、擬議せば三十棒。□『文彩巳彰』しかしあまりむきだしも人をして他に依らしめて自發するに害があるぞ。宝鏡三昧にも但形文彩即屬染汚とあると抑えた。


 『泥裏洗土塊』あまり説き過ぎてきたないぞ。□『分開也好』曰く分開して見せるもまたよいであらう。分けて見てもやはり同じであったと、そこで大悟するものがないともいへぬ。□『不可儱去也』儱侗は不知貌とある。ぼんやりしてはいけぬぞと氣をつけた。蓮花荷葉の端的、何ぞ直下に看取し去らざるや。


 『主人公在什麼處』家に主人公が居らぬと狐狸の住み家となる。外に向って問ひまはるには及ばぬ。どこでも主人公なることがわからぬか。いたいお灸ぢや。人間到處有青山ぢや。ゆめさめて衣のうらをけさみれば珠かけながら迷ひぬるかな。□『問王老師作什麼』眼は横に鼻はたてなるつらをして外に求むるうろたえ坊主。□『儞自踏破草鞋』衣裏の珠を忘れて外に向って求むる愚かさよ。漸々攻撃の手がはげしくなる。

 

 『一坑埋却』元來師家が老婆を垂れるのは悪いのぢや。師學ともに一坑に活理したら天下泰平なるべきに。□『自是儞疑』物おもへば澤邊の螢我身よりあこがれいづるたまかとぞおもふ。また曰く幽霊の正體見たり枯尾花。また曰く、ともかくも風にまかせて枯尾花。物は用ひようにこそ。□『不免疑情未息』まだ分らぬか、かくまでいふても馬耳東風か、それこれを見よと今おれが如意をあぐるを看破せよ。□『打云会麼』機發を促したのぢや。これが分るかと打つ。打つ今何物かある。今この一打なんと見る。古人の書入に端的で底を抜いたが好いはとあった。擬議せば三十棒。

 

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 「いつも今ぢや。どこも今ぢや。」「今の外に前後があると思ふか。」「その時はその時ばかりぢや。」ご老師と同じことを欓隠老師も仰っている。つまり、「今しかない(現実しかない)」。誰も否定できない絶対的事実である。そして、今の現実から「どこへも逃げやうがない」故に、我々はすでに皆、何の造作をしなくても、徹底決定している。本当に「今しかない(迷えない)」からである。

 

 それで、たとえ疑義なるものが生じたとしても、ただそれだけである。現実には何の影響も与えない。つまり、何の問題もない。こんなことを問題にすること自体、おかしな話である。つまり、問題なのは、疑義(思い)が生じることではなく、それを問題としてみなすこと(すでに済んでしまったことを取り上げて、それが起こらないようにしようとすること)である。それは全くの徒労であるというより、本当に馬鹿げたことである。

 

 独参では、ご老師は、「ほとんどの人は、何もしなくても、このままで足りていることを知らない。この様子を知らない」と示された。

 

 最後に、(ご老師、机を扇子で叩かれて)「ビシッ」「誰もこんなことが悟りであるなんて、思えない。」

 

 あるいは、「見えているすべてが自分の様子であることを、皆さん知らないでしょ。ここまでは自分でそれ以外は他なんて、境界線みたいなものは、実際にはないですよ。」

 天候がすぐれないが、本日も、秩父札所巡礼に行ってきた。今回は、後回しにしてきた難所の二番真福寺。これで午年総開帳は結願。西武秩父駅前から定峰行バスに乗車し、光明寺入口バス停で下車、歩く。

 

横瀬駅付近で見えた武甲山

 

西武秩父駅に停車中の三峰口行き直通列車

 

西武秩父駅前バス停

 

「光明寺入口」バス停

 

 

 案内板に従い、進む。

 

 

二番納経所(光明寺)前

 

 

 二番札所に向かう。

 

 

 弁天橋を渡る。

 

 

大棚川

 

「左二番道」

 

 

 

 秋海棠が咲いていた。

 

 

 

 大棚橋を渡る。

 

 

大棚川

 

 

 

大棚川

 

 

 そこかしこに彼岸花が咲いている。

 

 

 

 

 大棚川の水量が多い。

 

 

 

 

 巡礼道に入る。

 

 

 

大棚川

 

 

 

 

 車道に出る。

 

 

 

 暑くさえなければ、この坂道もそれほど苦ではない。

 

 

 

 

 

 

 そろそろ二番に到着。

 

 

二番駐車場入口

 

参道

 

石段

 

大棚救世観音

 

 

 

集会所

 

二番真福寺観音堂

 

 

 

「観音霊験記」

 

鎮守社?

 

 Wikiによると、真福寺は、「埼玉県秩父市にある曹洞宗の寺院。山号は大棚山と号する。秩父札所の第二番。長享年間(1487年~1489年)の水害で秩父33ヶ所から外されたが、信者からの復活要望で室町時代後期に34ヶ所目の札所となった。また、これにより、西国33ヶ所、坂東33ヶ所に秩父34ヶ所を合わせて日本百観音となっている。当初は現在「古堂」と呼ぱれるところに奉祀されており、その後、江戸時代の初期に高篠山の中腹の現在地に移って諸堂のある大伽藍を構えていたが、1860年(万延元年)の火災により焼失した。現在の観音堂は1908年(明治41年)に再建されたもので、入母屋造銅葺屋根、三間四面の構造である」という。

 

 真福寺で納経後、四番及び五番を経由して「語歌橋」バス停からバスに乗車し、西武秩父駅まで戻ってきた後、電車に乗って帰宅した。

 

 

 左折する。

 

 

 大棚川を渡る。

 

 

 

 

 

四番金昌寺仁王門

 

仁王像

 

 

参道

 

石仏

 

 

 

観音堂

 

 

「観音霊験記」

 

慈母観音像

 

奥の院入口

 

六角堂

 

 

奥の院

 

 

 

語歌橋バス停付近から見えた語歌堂

 

帰りの西武秩父駅

 秩父札所午歳総開帳(三十三番)の続き。取方の大露頭を見た後は、下吉田椋神社に向かう。

 

 

 

 

 横断歩道を渡って、左折する。

 

 

 右手の道に入る。

 

 

吉田川

 

 

旧武毛銀行本店

 

 

椋神社社号標

 

 吉田中橋を渡る。

 

 

吉田川

 

 

 左折する。

 

 

 椋宮橋を渡る。

 

 

阿熊川

 

 

 椋神社の鳥居が見えてきた。

 

 

大日堂

 

 

下吉田椋神社鳥居

 

 

拝殿

 

 

 

 

 

八幡神社本殿

 

 

神楽殿

境内社

 

夫婦クヌギ

 

井椋塚古墳

 

 Wikiによると、「椋神社は、「延喜式神名帳」に掲載された武蔵国秩父郡の式内社。旧社格は県社。元は井椋五所大明神と号しており、「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり、現在の呼称になったという。例祭の際に龍勢を打ち上げる秩父吉田の龍勢は有名である」という。


 下吉田椋神社参拝後、「椋神社」バス停から皆野駅までバスに乗車し、「皆野駅」バス停から町営バスに乗車し、「札所前」バス停で下車、三十四番を巡拝する。

 

「椋神社」バス停

 

「皆野駅」バス停に停車中の路線バス

 

皆野町営バス(日野沢行)

 

「札所前」バス停

 

日野沢川

 

三十四番入口

 

参道

 

三十四番寺標

 

秋海棠の咲く参道

 

六地蔵

 

観音堂

 

 

「観音霊験記」

 

讃仏堂

 

結願堂

 

仏足堂

 

水かけ地蔵

 

奥の院(水潜りの岩屋)

 

 

札立峠への巡礼道

 

 

三十三観音

 

 

 Wikiによれば、水潜寺は「埼玉県秩父郡皆野町にある曹洞宗の寺院。山号は日沢山と号する。本尊は千手観世音菩薩。秩父札所三十四観音霊場および日本百観音霊場の「結願」の寺である。観音堂近くに水潜りの岩屋という岩窟があり「長命水」という水が湧いている」という。

 

 水潜寺で納経後、皆野駅まで町営バスに乗車し、皆野駅から西武秩父駅を経由して帰宅した。

 

「札所前」バス停前

 

 

「皆野駅」バス停に戻ってきた町営バス

 

皆野駅

 

皆野駅に入ってきた三峰口行き列車

 

西武秩父駅から見えた武甲山

 本日も、秩父札所巡礼に行ってきた。今回は、三十三番と三十四番。まずは、三十三番菊水寺。西武秩父駅前から「栗尾」行バスに乗車し、「泉田」バス停で下車、歩く。

 

飯能駅を出発する西武秩父行き列車

 

西武秩父駅前で見えた武甲山

 

「泉田」バス停前

 

 右折し、県道283号を進む。

 

県道283号

 

 

 ようばけが見えてきた。

 

 

 

 案内板に従い、右折する。

 

 

 

 

 今回は、ちょっと寄り道をして、ようばけを見に行く。

 

 

 

山の神古墳

 

 

 赤平川の河原に降りていく。

 

 

ようばけ

 

 

 「ジオパーク秩父」によれば、「昔の人が、畑の日が暮れてもしばらく陽が当たって輝くこの大きな崖を見て、太陽の当たる崖という意味で「ようばけ」と呼んだといわれます。「ハケ」とは崖の古い言い方です。高さ約100m、幅約400mに及ぶこの露頭は、秩父盆地に厚く堆積している約1550万年前の新第三紀の地層が侵食されてできたもので、「日本の地質百選」に選ばれています。この地層は、古秩父湾がだんだん浅くなっていったころの海底(水深約20m ~ 200m)で堆積したもので、崖の下半部の泥質砂岩を「奈倉層」、上半部の粗い縞模様の砂岩泥岩互層を「鷺ノ巣層」と呼んでいます。最近では、これらはまとめて「秩父町層下部」とも呼ばれ、秩父盆地の南西部から中央そして北東部まで、盆地内に広く分布している地層です」という。

 

 ようばけを見た後は、再び三十三番を目指す。

 

 

 奈倉妙見宮が見えてきたので、参拝する。

 

 

妙見宮鳥居

 

 

仁王像

 

 

本殿

 

 案内板によると、「妙見宮の創立は永禄元年(1558)奈倉氏が秩父の妙見菩薩(秩父神社)を勧請したものと伝える。仁王像が安置され妙見宮を守護している。桁行182.0 ㎝、梁間158.0 ㎝高さ約580 ㎝を測る。屋根は柿葺きで正面に唐破風と千鳥破風が付く春日造の神社建築である。棟札から安永3年(1774)の建造と知られる」という。

 

 奈倉妙見宮参拝後、さらに進む。

 

 

 

 奈倉橋を渡る。

 

赤平川

 

 

八幡沢の滝

 

 さらに進む。平地なので歩くのも楽である。

 

 

 

 

 案内板に従い、左折する。

 

 

 三十三番駐車場が見えてきた。

 

 

三十三番菊水寺入口

 

参道

 

本堂

 

「観音霊験記」

 

本堂裏

 

 Wikiによると、菊水寺は、「埼玉県秩父市にある曹洞宗の寺院。なお、当寺の本来の名称は「大桜山長福寺」である。奈良時代、行基によって開山されたが、1569年(永禄12年)、武田氏と後北条氏の戦いにより全焼した。そのため、別当だった近くの「長福庵」に(行基作の)観音像を移した。1592年(文禄元年)、長山賢道によって「長福庵」から「長福寺」という寺に整備拡充された」という。

 

 三十三番で納経後、次に、下吉田椋神社を経由して、三十四番に向かう。

 

 

 

 

 

 

 赤平川を渡る。

 

取方の大露頭

 

 

 

 「ジオパーク秩父」によると、「吉田川との合流点の南、赤平川の右岸に幅約800mに及ぶ巨大な露頭があり、吉田取方総合運動公園を取り囲んでいます。この取方の大露頭で見られるくっきりとした縞模様の地層は「タービダイト」といわれる、深海の海底扇状地の堆積物です。陸から流れ込んだ泥や砂は、海の波により大陸棚に広がりますが、深海には届きません。大地震などが起こると大陸棚から砂や泥が深海底に混濁流となって流れ込み、粒子が荒い砂は先に、細かい泥はゆっくり沈みます。これが繰り返されることできれいな縞模様になりました。地層はほぼ水平に堆積したものですが、地殻変動により南(右側:秩父盆地の中心)に約30度傾いています。また、地層が大きく曲がっているところも観察できます。これは、古秩父湾が深海であった約1600万年前、北側の山地が隆起して南側が沈んでいったとき、まだ固まっていない海底の地層が地震などによってゆるい斜面をすべり落ちた「海底地すべり」に巻き込まれたり、折り畳まれたりしたもので、「スランプ褶曲」といいます」という。
 

 取方の大露頭を見た後は、下吉田椋神社に向かう。

 

(続く)

 秩父札所午歳総開帳(三十二番)の続き。法性寺奥の院参拝後、須崎旅館前まで戻り、三十一番観音院に向かう。

 

須崎旅館

 

県道209号

 

小鹿野高校南交差点

 

小鹿野車庫前

 

 国道209号に出るので、左折する。

 

 

国道209号

 

黒海土バイパス前交差点

 

 

松坂三叉路

 

「埼玉の砂防発祥地記念碑」前

 

JA前

 

「栗尾」バス停

 

 右折して、坂を登っていく。

 

 

吉田牧場前

 

 

三十一番入口

 

 

 岩殿橋を渡る。

 

 

 大日堂が見えたので、参拝する。

 

 

 

 さらに進む。

 

 

 

観音茶屋

 

 観音山トンネルに入る。

 

 

 

道路脇の沢

 

大竜寺源泉地

 

 

 三十一番に到着。

 

 

仁王門

 

石段

 

 296段の石段を登っていく。

 

 

 

 

石段脇の沢

 

 ゆっくり石段を登っていく途中、降りてきた参拝者の方に、「頑張って」と声を掛けられた。

 

 

 

 

 

 鐘楼が見えてきた。

 

 

 

境内図

 

 やっと境内に到着。

 

鐘楼

 

観音堂

 

聖浄の滝

 

 

鷲窟磨崖仏

 

 

石仏(弘法大師像?)

 

大師堂

 

石仏(慈母観音像)

 

 観音堂にて納経後、東奥之院に向かう。

 

新生代第3期の地層

 

東奥之院参道

 

 

 

 まずは、馬の繋跡洞窟に向かう。

 

 

 

 

石仏群

 

 

 

 

 

 

石祠

 

東奥之院

 

西奥之院

 

滝の上石仏群

 

 Wikiによれば、観音院は、「埼玉県秩父郡小鹿野町にある曹洞宗の寺院。山号は鷲窟山と号する。創建年代は不明である。口伝によれば、本尊の聖観世音菩薩は行基作といわれていたが、平将門の承平天慶の乱のときに行方不明となってしまった。その後、畠山重忠が当地を訪れ、鷲の巣の中から観音像を発見した。この奇瑞を目の当たりにして、重忠をはじめとする畠山氏 (平姓)は帰依し、この観音像を安置する堂宇を建てたという。その後、江戸時代までは修験道の寺となっていた。本堂の近くに「聖浄の滝」と呼ばれる滝があり、修験道の修行者が水垢離を行っていた。明治初期の神仏分離と修験禁止令により、現在は曹洞宗の寺となっている」という。

 

 東奥之院参拝後、須崎旅館に自転車を返却して、バスに乗車し、西武秩父経由で帰宅した。

 秩父札所午歳総開帳(三十番&十輪寺)の続き。大和武神社参拝後、右折して、般若の丘の裾野道に沿って進む。

 

 

 

 

 

地蔵尊

 

 

 

 

 般若川を渡る。

 

 

 

 

 秩父大神社が見えたので、参拝する。

 

秩父大神社鳥居

 

神楽殿

 

拝殿(覆屋)

 

本殿

 

 秩父大神社参拝後、改めて三十二番に向かう。

 

法性寺寺標

 

 

 法性寺に到着。

 

仁王門

 

仁王像

 

 

境内

 

六地蔵

 

 

本堂

 

 

 

 本堂参拝後、観音堂に向かう。

 

 

 

 

毘沙門堂

 

 

 

 

 観音堂が見えてきた。

 

 

観音堂

 

 

岩窟地蔵

 

「お船観音」扁額

 

「観音霊験記」

 

 観音堂にて納経後、奥の院に向かう。

 

奥の院参道入口

 

 

 

 

 

「巡礼道」

 

龍虎岩

 

金毘羅社

 

 

 

 龍虎岩:足場の岩が滑り、登るのも危険、降りるのも危険。龍虎岩から降りてきて、どうしてこんな危険なことをあえてするのかと思いつつ、さらに進む。

 

「巡礼道」

 

 

 

 

 月光坂を登る。

 

 

 例によって足場が安定せず、登り辛い。

 

 

 

十三仏

 

 

 

 何とか奥の院に到着。まずは、大日如来に向かう。

 

 

「お船岩」

 

 

 

 

 

 到達できる体力と気力がないので、大日如来像までは登らず、次にお船観音に向かう。

 

「お船岩」

 

お船観音

 

 

 

お船観音から見た大日如来側

 

反対側

 

 Wikiによると、法性寺は、「埼玉県秩父郡小鹿野町にある曹洞宗の寺院。山号は般若山と号する。由緒は、奈良時代、行基によって開山されたといわれている。行基は当地で聖観世音菩薩像を彫り、岩場に安置した。これが当寺の起源である。その後、延暦年間(782年 - 806年)に弘法大師空海が大般若経600巻を奉納したと伝えられる。1232年(貞永元年)の眼応玄察の中興が、古文献の上で明らかな歴史になる。その頃は密教系の宗派であったと推測されている。江戸時代の智外宗察の再中興の際に曹洞宗に転宗した。なお、本堂から100メートル奥に行くと「観音堂」がある。更に奥へと進むと「奥の院」があるが、鎖場もあるため、一種の登山をするつもりで、装備と体力と気力を持って臨む必要がある」という。

 

 法性寺奥の院参拝後、須崎旅館前まで戻り、三十一番観音院に向かう。

 

(続く)