展示替えがあったので、上野の東京国立博物館に行ってきた。
東博正門前
1階1室(彫刻)から見る。
「菩薩半跏像」(飛鳥時代)
「十一面観音菩薩立像」(唐時代)
解説によれば、「稀少材である白檀という香木を用い、着衣や装身具にいたるまで全身を一材から彫出す、檀像を代表する優品。緻密な彫刻とインド風の顔立ちに特色があり、中国から請来されたとみられるが、日本における檀像表現の手本ともなった。明治まで奈良県多武峯の談山神社に伝来した」という。
「阿弥陀如来および両脇侍立像」(善光寺式:鎌倉時代)
「文化遺産オンライン」によると、「阿弥陀如来の背中には銘文が刻まれており、これが善光寺の阿弥陀如来を模して作った、光背付きの三尊像であること、1254年に現在の栃木県那須地域で制作されたことが記されています。日本の仏像の歴史においては、由緒ある仏像に信仰が集まり、その模像が作られるということがしばしばありました。善光寺式三尊像は、その最も典型的な例といえるでしょう」という。
「如意輪観音菩薩坐像」(鎌倉時代)
「文化遺産オンライン」によると、「如意輪観音菩薩は、あらゆる願いを叶える如意宝珠の功徳を表わした仏です。表面全体を黒色系とし、着衣に細く切った金箔を貼り付けて文様を表わすのは、稀少材である檀木を用材とする檀像を意識したものとみられます。頭部内に光背や小仏像などの納入品が確認されています」という。
「大威徳明王騎牛像」(鎌倉時代:浅草寺蔵)
「不動明王立像」(平安時代)
解説によれば、「巻き髪で、左肩に弁髪を垂らし、右目を見開き、左目は眇める、右下牙で上唇を、左上牙で下唇を噛む姿は、9世紀末に成立し、流行した不動明王のスタイルです。この像は突出する右眼と、右肩上がりの体勢に呼応するように腰帯等の襞が右上に集まるところが特徴的です」という。
「大日如来坐像」(平安時代)
「聖観音菩薩立像」(平安時代:観心寺蔵)
4室。
「金銅尾長鳥文華鬘」(鎌倉時代)
「文化遺産オンライン」によると、「かつて滋賀・浄厳院に伝来した華鬘のひとつ。中央の総角をはさんで、左右に宝相華唐草を透彫し、一対の尾長鳥を鋲で留めている。やや平板ではあるが、大型で唐草の展開も伸びやかであり、鎌倉時代前期の作と見てよい」という。
「木製彩色迦陵頻伽文華鬘」(室町時代)
「文化遺産オンライン」によると、「高野山金剛峯寺の鎮守天野社(丹生都比売神社)に伝来したもの。やや縦長の木板製で、胡粉を塗り、迦陵頻伽と宝相華を彩色して表わす。婦人乗馬図や胡蝶舞図華鬘とともに神社の社殿に懸けられたものであるが、これは仏教的な意匠を表している」という。
2階に上がり、11室(縄文・弥生・古墳)に入る。
大階段
11室入口
火焰型土器(縄文時代)
突線鈕式銅鐸&埴輪「挂甲の武人」、壺形土器
遮光器土偶
解説によれば、「大きな目が、雪原の照り返しから目を守るイヌイットの遮光器に似ているところから遮光器土偶と呼ばれます。縄文時代晩期前半の東北地方で盛んにつくられ、太い手足から細く締まった手首や足首にいたるまで極めて様式化の進んだ土偶です」という。
20室(浮世絵)に入る。
鳥文斎栄之「楊貴妃・牡丹図」
鈴木春信「見立玄宗皇帝・楊貴妃」
「文化遺産オンライン」によると、「川辺で憩う若い男女が肩を寄せ合い、一管の笛を共に奏でています。この構図の特徴から、本図は江戸の町の恋人たちを、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃になぞらえて描いていることがわかります。絵師春信の巧みな画面づくりを示す作品です」という。
鈴木春信「玄宗皇帝双六遊びを見る図」
鈴木春信「七夕の短冊を書く美人」
「文化遺産オンライン」によると、「旧暦7月7日の七夕の夜(6日から7日にかけて)、五色の飾りをつけた竹に短冊や梶の葉に願いを書いて飾りました。伊勢物語を暗示させる八つ橋の模様を配した振り袖姿の若い娘が思案顔で筆を手にしています。円窓の中に若い男女の恋情を託した可憐な作品です」という。
川又常辰「汐汲み図」
「文化遺産オンライン」によると、「平安時代、在原行平が須磨で出会った姉妹、松風と村雨が、行平の形見の烏帽子と狩衣を身に着けている場面。作者の川又常辰について詳しいことはわかっていませんが、肉筆画を得意とした川又常行の門人あるいはその系譜に連なる絵師と考えられています」という。
本館を出て、東洋館に行く。
東洋館
1階1室(中国の仏像)。
「十一面観音龕」(西安宝慶寺:唐時代)
4階8室(中国の書画)。
趙之謙「花卉図四屛」
張大千「緑荷図軸」
「文化遺産オンライン」によると、「張爰は中国現代を代表する画家の一人。内江(四川省)の人。号の大千でよく知られます。緑荷とは緑の蓮葉のこと。本図において、張爰は大きな緑荷の中に、清廉を象徴する青白い蓮花を新鮮な感覚をもって印象的に描いています」という。
徐三易「花卉図冊」
「文化遺産オンライン」によると、「徐三易(字は竹堂)は、おそらく新安(安徽省)の人。「玉翁」という人物のために、徐三易が描いた墨の広がりの美しい花卉図に、別の12人が題詩を寄せた画冊です。のちに、明治期に来日し京都に逗留した中華文人たちが多く跋を寄せ、近代の日中交流を物語る興味深い資料ともなりました」という。
奚岡「花卉図冊」
「文化遺産オンライン」によると、「奚岡(字・純章、号・鉄生)は、歙県(安徽省)出身で、詩書画印をいずれも善くしました。本冊では、輪郭線のない没骨法で、水気のある墨と淡彩を巧みに用い、牡丹や蓮花、海棠などの様々な草花を表現しています」という。
永瑢「魚蔬図巻」
「文化遺産データベース」によると、「永瑢(号惺斎)は、乾隆帝(1711~99)の第6皇子。四庫全書編纂の総裁として知られ、詩・書・画をいずれも巧みにしたといいます。湿潤な墨面の広がりを活かして野菜と魚を描き、巻頭の詩で「写生」は必ずしも色彩を必要としない、と述べています」という。
計芬&陶琯「花卉雑画図冊」
「文化遺産オンライン」によると、「計芬は初名を偉といい、字を小隅、号を担石、秀水(浙江省嘉興)の人。陶琯(1794~1849)は字を梅石、号を梅若、鈕雲といい、同じく秀水の人で、緑蕉山館に住しました。計芬は陶琯の姉婿でしばしば共作しており、構図と独特の筆致が魅力的です」という。
任頤「荷花蜻蛉図扇面」
「褚模蘭亭序」(原跡:王羲之)
「文化遺産オンライン」によると、「唐の褚遂良が臨摸したという褚模蘭亭序として伝来した拓本。宋の米芾跋を付す明の陳鑑(1415~71)旧蔵の摸本(北京故宮博物院蔵)をもとに制作されたことが指摘されます。巻後には明末の王鐸、無名氏、清の馮敏昌、陳常谿、潘正煒による各種の蘭亭序の臨書が合装されます」という。
李良「臨十七帖軸」
「文化遺産オンライン」によると、「唐時代に王羲之の尺牘(手紙)を整理した法帖の1つ十七帖は、29通の尺牘を収めています。本作はその中から4種(郗司馬帖、知足下帖、積雪凝寒帖、服食帖)を臨書したものです。幕末の市河米庵は苦心の末に入手したらしく、「米葊損衣食所聚」の印を捺しています」という。
張廷済「楷書蘭亭句対聯」
「文化遺産オンライン」によると、「張廷済は、当時注目されていた青銅器や古印を好み、多くの収蔵を誇りました。阮元(1764~1849)らと共に、清朝における金石学の復興を担った一人です。考証を重んじたこうした学風が、やがて、蘭亭序偽作説へと結びつくことになります。書は米芾を学びました」という。
これで帰宅した。





































































































































































































































































































































































































































































































































