QUOD TIBI HOC ALTERI

QUOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 展示替えがあったので、上野の東京国立博物館に行ってきた。

 

東博正門前

 

 1階1室(彫刻)から見る。

 

 

「菩薩半跏像」(飛鳥時代)

 

「十一面観音菩薩立像」(唐時代)

 

 解説によれば、「稀少材である白檀という香木を用い、着衣や装身具にいたるまで全身を一材から彫出す、檀像を代表する優品。緻密な彫刻とインド風の顔立ちに特色があり、中国から請来されたとみられるが、日本における檀像表現の手本ともなった。明治まで奈良県多武峯の談山神社に伝来した」という。

 

「阿弥陀如来および両脇侍立像」(善光寺式:鎌倉時代)

 

 「文化遺産オンライン」によると、「阿弥陀如来の背中には銘文が刻まれており、これが善光寺の阿弥陀如来を模して作った、光背付きの三尊像であること、1254年に現在の栃木県那須地域で制作されたことが記されています。日本の仏像の歴史においては、由緒ある仏像に信仰が集まり、その模像が作られるということがしばしばありました。善光寺式三尊像は、その最も典型的な例といえるでしょう」という。

 

「如意輪観音菩薩坐像」(鎌倉時代)

 

 「文化遺産オンライン」によると、「如意輪観音菩薩は、あらゆる願いを叶える如意宝珠の功徳を表わした仏です。表面全体を黒色系とし、着衣に細く切った金箔を貼り付けて文様を表わすのは、稀少材である檀木を用材とする檀像を意識したものとみられます。頭部内に光背や小仏像などの納入品が確認されています」という。

 

「大威徳明王騎牛像」(鎌倉時代:浅草寺蔵)

 

「不動明王立像」(平安時代)

 

 解説によれば、「巻き髪で、左肩に弁髪を垂らし、右目を見開き、左目は眇める、右下牙で上唇を、左上牙で下唇を噛む姿は、9世紀末に成立し、流行した不動明王のスタイルです。この像は突出する右眼と、右肩上がりの体勢に呼応するように腰帯等の襞が右上に集まるところが特徴的です」という。

 

「大日如来坐像」(平安時代)

 

「聖観音菩薩立像」(平安時代:観心寺蔵)

 

 4室。

 

「金銅尾長鳥文華鬘」(鎌倉時代)


 「文化遺産オンライン」によると、「かつて滋賀・浄厳院に伝来した華鬘のひとつ。中央の総角をはさんで、左右に宝相華唐草を透彫し、一対の尾長鳥を鋲で留めている。やや平板ではあるが、大型で唐草の展開も伸びやかであり、鎌倉時代前期の作と見てよい」という。

 

「木製彩色迦陵頻伽文華鬘」(室町時代)


 「文化遺産オンライン」によると、「高野山金剛峯寺の鎮守天野社(丹生都比売神社)に伝来したもの。やや縦長の木板製で、胡粉を塗り、迦陵頻伽と宝相華を彩色して表わす。婦人乗馬図や胡蝶舞図華鬘とともに神社の社殿に懸けられたものであるが、これは仏教的な意匠を表している」という。

 

 2階に上がり、11室(縄文・弥生・古墳)に入る。

 

大階段

 

11室入口 

 

火焰型土器(縄文時代)

 

突線鈕式銅鐸&埴輪「挂甲の武人」、壺形土器

 

遮光器土偶

 

 解説によれば、「大きな目が、雪原の照り返しから目を守るイヌイットの遮光器に似ているところから遮光器土偶と呼ばれます。縄文時代晩期前半の東北地方で盛んにつくられ、太い手足から細く締まった手首や足首にいたるまで極めて様式化の進んだ土偶です」という。

 

 20室(浮世絵)に入る。

 

鳥文斎栄之「楊貴妃・牡丹図」

 

 

鈴木春信「見立玄宗皇帝・楊貴妃」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「川辺で憩う若い男女が肩を寄せ合い、一管の笛を共に奏でています。この構図の特徴から、本図は江戸の町の恋人たちを、唐代の玄宗皇帝と楊貴妃になぞらえて描いていることがわかります。絵師春信の巧みな画面づくりを示す作品です」という。

 

鈴木春信「玄宗皇帝双六遊びを見る図」

 

鈴木春信「七夕の短冊を書く美人」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「旧暦7月7日の七夕の夜(6日から7日にかけて)、五色の飾りをつけた竹に短冊や梶の葉に願いを書いて飾りました。伊勢物語を暗示させる八つ橋の模様を配した振り袖姿の若い娘が思案顔で筆を手にしています。円窓の中に若い男女の恋情を託した可憐な作品です」という。

 

川又常辰「汐汲み図」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「平安時代、在原行平が須磨で出会った姉妹、松風と村雨が、行平の形見の烏帽子と狩衣を身に着けている場面。作者の川又常辰について詳しいことはわかっていませんが、肉筆画を得意とした川又常行の門人あるいはその系譜に連なる絵師と考えられています」という。 

 

 本館を出て、東洋館に行く。

 

東洋館

 

 1階1室(中国の仏像)。

 

「十一面観音龕」(西安宝慶寺:唐時代)

 

 4階8室(中国の書画)。

 

趙之謙「花卉図四屛」

 

張大千「緑荷図軸」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「張爰は中国現代を代表する画家の一人。内江(四川省)の人。号の大千でよく知られます。緑荷とは緑の蓮葉のこと。本図において、張爰は大きな緑荷の中に、清廉を象徴する青白い蓮花を新鮮な感覚をもって印象的に描いています」という。

 

徐三易「花卉図冊」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「徐三易(字は竹堂)は、おそらく新安(安徽省)の人。「玉翁」という人物のために、徐三易が描いた墨の広がりの美しい花卉図に、別の12人が題詩を寄せた画冊です。のちに、明治期に来日し京都に逗留した中華文人たちが多く跋を寄せ、近代の日中交流を物語る興味深い資料ともなりました」という。

 

奚岡「花卉図冊」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「奚岡(字・純章、号・鉄生)は、歙県(安徽省)出身で、詩書画印をいずれも善くしました。本冊では、輪郭線のない没骨法で、水気のある墨と淡彩を巧みに用い、牡丹や蓮花、海棠などの様々な草花を表現しています」という。

 

永瑢「魚蔬図巻」

 

 

 

 「文化遺産データベース」によると、「永瑢(号惺斎)は、乾隆帝(1711~99)の第6皇子。四庫全書編纂の総裁として知られ、詩・書・画をいずれも巧みにしたといいます。湿潤な墨面の広がりを活かして野菜と魚を描き、巻頭の詩で「写生」は必ずしも色彩を必要としない、と述べています」という。

 

計芬&陶琯「花卉雑画図冊」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「計芬は初名を偉といい、字を小隅、号を担石、秀水(浙江省嘉興)の人。陶琯(1794~1849)は字を梅石、号を梅若、鈕雲といい、同じく秀水の人で、緑蕉山館に住しました。計芬は陶琯の姉婿でしばしば共作しており、構図と独特の筆致が魅力的です」という。

 

任頤「荷花蜻蛉図扇面」

 

「褚模蘭亭序」(原跡:王羲之)

 

 

 

 

 「文化遺産オンライン」によると、「唐の褚遂良が臨摸したという褚模蘭亭序として伝来した拓本。宋の米芾跋を付す明の陳鑑(1415~71)旧蔵の摸本(北京故宮博物院蔵)をもとに制作されたことが指摘されます。巻後には明末の王鐸、無名氏、清の馮敏昌、陳常谿、潘正煒による各種の蘭亭序の臨書が合装されます」という。

 

李良「臨十七帖軸」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「唐時代に王羲之の尺牘(手紙)を整理した法帖の1つ十七帖は、29通の尺牘を収めています。本作はその中から4種(郗司馬帖、知足下帖、積雪凝寒帖、服食帖)を臨書したものです。幕末の市河米庵は苦心の末に入手したらしく、「米葊損衣食所聚」の印を捺しています」という。

 

張廷済「楷書蘭亭句対聯」

 

 「文化遺産オンライン」によると、「張廷済は、当時注目されていた青銅器や古印を好み、多くの収蔵を誇りました。阮元(1764~1849)らと共に、清朝における金石学の復興を担った一人です。考証を重んじたこうした学風が、やがて、蘭亭序偽作説へと結びつくことになります。書は米芾を学びました」という。

 

 これで帰宅した。

 金曜&土曜は月例の坐禅会に行ってきた。以下、金曜日の坐禅会場の恵比寿福昌寺の様子。

 

山門

 

本堂

 

閻魔堂

 

 以下、福昌寺坐禅会での提唱で扱った『坐禅用心記』の一文。

 

 「今、坐禅は、正に仏性海に入り、即ち諸仏の体を標す。本有妙浄の明心、頓に現前し、本来一段の光明、終に円照せん。海水、都て増減無く、波浪も亦、退転無し。是を以て、諸仏は一大事因縁の為に世に出現し、直ちに衆生をして、仏の知見に開示悟入せしめ給う。而も寂静無漏の妙術有り、是を坐禅と謂う、即ち是れ諸仏自受用三昧なり、又、三昧王三昧と謂う。若し一時も此の三昧に安住すれば、則ち直ちに心地を開明す。良に知る、仏道の正門なりと。其れ心地を開明せんと欲せば、雑知・雑解を放捨し、世法・仏法を抛下し、一切の妄情を断絶せば、一真実心現成し、迷雲収まり晴れて、心月新たに明らかならん。」(『坐禅用心記』より)

 

 以下、土曜日の坐禅会場の中野成願寺の様子。

 

山門

 

六地蔵

 

本堂

 

 

 

観音堂&開山堂

 

大銀杏

 

 以下、成願寺坐禅会での提唱で扱った『正法眼蔵』第十一「一百八法明門」の一文。

 

 「無怨親心是法明門、於怨親中生平等故。陰方便是法明門、知諸苦故。諸大平等是法明門、断於一切和合法故。諸入是法明門、修正道故。」(『正法眼蔵』第十一「一百八法明門」より)
 

 今回は、ご提唱で似たような言葉を耳にしたので、以下、ご老師のお弟子さん(松本自證師)の言葉を記しておく。

 

 「坐禅修行って、色々聞くと、言われた言葉の意味が気になってしまい、あーなのかな?こーなのかな?と思うことがあるかもしれませんが、どのような言葉(表現)を耳にしても、そのとおりですから、迷うことはあり得ません。念のために付け加えるなら、『あーなのかな』は『あーなのかな』、『こーなのかな』の時は『こーなのかな』なので、やはり、迷えません。」

 

 誰であろうとも、どんな境遇にあろうとも、我々は一人残らず、何が起こっても、絶対に迷いようがないということである。つまり、「あーなのかな」は、「あーなのかな」であり、それ以外はあり得ない。「あーなのかな」という思いが生じただけで、それは現実には「迷い」ではない。「あーなのかな」という思いを勝手に「迷い」とラベリングすることが、「迷い」なのである。この指摘はまさに親切と言うべきではなかろうか。

 

 色声香味触法、一切は自分でも自分のものでもない。思考妄想の類も同様である。したがって、どんな思いが生じてきても、それに対し一切評価せず、手を付けないでそのままにしておけばいいだけである。そうすれば、常にそのとおりなので、迷いようがない。

 

 あるいは、 これはご老師の常套句であるが、「見えるものにせよ、聞こえるものにせよ、何にせよ、片付けなくても片付いていくんだから、良いでしょう。それに、もし片付かなかったら、前のものが邪魔をして、こんな風に次から次へと見えないし、聞こえませんよ。」

 

 何回、何百回、「砂糖、砂糖」と言っても、絶対に甘い味はしない。あるいは、どんなにありありと炎をイメージしてみても、熱さを感じることは絶対にできない。言葉(概念)や想念は、単なる夢幻空華、(実体の)ないものだからである。

 

 思いを含め、一切は生じて消えるだけの一回限りのもので、実体はない。実在しない以上、それを問題にすることは、現実には不可能である。にも関わらず、問題にするということは、人が自分でそう思っているだけ、つまり、根も葉もない妄想であるということである。これが意味することは、何にせよ、悩み苦しむ人は、ないものを相手に右往左往している、単なる狂人だということである。

 

 いずれにせよ、私的には、ご老師がしばしば示される「今しかない」というお言葉で、全て解決と思っている。この他に示すべき事など全くない。というのも、今しかなければ(そして事実、今しかないのであるが)、問題など、絶対にあり得ないからである。

 

 ちなみに、今回の中野成願寺の坐禅会では、提唱中に近所(というより墓地を挟んだお寺の敷地内)で火災があり、消火活動等で、外は大変であった。しかも、久しぶりに独参できたのに、肝心のことを聞けなかった。失態である。

 

門前に停まっている消防車など

 

 月例の浜松明徳寺坐禅会に行ってきた。そのついでに、実家に寄って、付近の神社を参拝してきた。 今回は、藤枝市に鎮座する青山八幡宮。藤枝駅からバスに乗り、「八幡宮前」バス停下車、参拝する。

 

JR藤枝駅

 

駅前

 

八幡宮前バス停

 

社号標

 

参道

 

鳥居

 

由緒書

 

手水舎

 

神木

 

参道

 

 

 

 虚空蔵山?が見えた。

 

 

 

 

拝殿

 

 

本殿

 

 

 

境内社

 

 

 青山八幡宮は、藤枝市北部の潮山から南東に細長く伸びた尾根筋の末端に鎮座する。創建年代は不明だが、伝承によると奥州へ下向した源義家が、山城の石清水八幡宮を天喜・康平年間(1063年~1065年)、または1088年(寛治2年)に勧請したとされる。武門の神として武家の信仰厚く、1591年(天正19年)に豊臣秀吉から170石5斗の社領について諸役と山林竹木の役を免除する朱印状を発給されており、江戸時代に入ると徳川家康からの庇護を受けた。酒井忠利ら、歴代田中城主からも厚い崇敬を受けたという。旧暦8月13日~15日には例大祭として放生会が開催され、流鏑馬が行われた。大祭の神輿渡御に藤枝宿の屋台が付き従ったのを起源として、「藤枝大祭り」が始まったという。

 

 それで、肝心の坐禅会の提唱は、飯田儻隠『碧巌集提唱録』第二十則「翠微禪板」の本則著語。


 ちなみに本則は、「擧す。龍牙翠微に問ふ。如何なるか是れ祖師西來の意。微云く。我が與めに禪板を過し來れ。牙禪板を過して翠微に與ふ。微接得して便ち打つ。牙云く。打つことは卽ち打つに任す。要且つ祖師西來の意無し。牙又臨濟に問ふ。如何なるか是れ祖師西來の意。濟云く。我が與めに蒲團を過し來れ。牙蒲團を取つて臨濟に過與す。濟接得して便ち打つ。牙云く。打つことは卽ち打つに任す。要且つ祖師西來の意無し。」 


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【本則著語】『諸方舊話、也要勘過』この著語を二つに分けて見る人もある。ありふれたことをとかく看のがすものぢや。しつかり手に入れぬとまさかの時に狼狽せにやならぬ。
 

 『用禪板作什麼』なぜいきなり打たないかと圜悟氣をもむ、微は自ら微の手段がある。他是非吾じゃ。『洎合放過』すんでのことに逃がさんとしたが、まあよかったと手段の鈍さをせめた。『嶮』禪板で打たれでもしたら大失敗であるべかりしを、相手がその手を用ひなかったのでよかった、危險々々。


 『也是把不住』龍牙もまた手ぬるいわい。禪板でしたか打てばよい。『駕輿靑龍不解騎』微の命じた禪板を手に入れながら用ひ得なかった。『可惜許』敵を鏖にし得べきに。『當面不承當』目の前にありながら受取り得ぬは残念々々。古人のことばかりと思ふまいぞ。無常迅速時不待人ぢゃ。下坡不走快便灘得、下り坂でも走らねば渡舟にのりそこねるぞ。咄。


 『著』目的の達したことぢや。よく打ったとなり。『打得箇死漢濟甚事』元來活龍に非ず、打得て何かせんと後語の力なきを諷した。『也落在第二頭了也』本分の上からは打といふも老婆ぢや。達磨が九年面壁して何にも云はぬには及ばぬ。そこで龍牙の次の句を吐かしむるに至つたものぢや。

 『這漢話在第二頭』初問のところに活潑の手段がなければならぬ。打着を待ちて何かせん、『賊過後張弓』遲い々々。

 『諸方舊公案再問將来』くどい々々。『不直半文錢』殘羹敗醤何の價かあらん、今日の公案禅も猛省するがよい。
 

 『曹溪(六祖)波浪如相似無限平人被陸沉』鄕愿德之賊也。似て非なるが故に是故悪彼侫者とある。相似禅に沈酔したら却つて學ばざるの平穏なるに若かずと林微のまねごとや盲打を戒めた。打つことはたれでもうつ。内容即龍蛇の力天地懸隔。一は宇宙的一は自己的ぢや。『一狀領過』乍去林微も手段圓かならず、三人同罪ぢゃ。『一坑埋却』若し是れ圜悟ならば三人を活埋せん。恐らく天下太平を致さん。

 

 『依然把不住』一着を放過すれば第二に落在す。『依然不怜悧』いつもながら顔を挫くの勇氣がない。打てばよいのに。『依稀越國髣髴楊州』翠微に行ても臨濟に行っても、不相変手段の遅鈍なるを罵ったのぢや。何ぞ忽焉として換骨脱體せざるや。

 『著』よい打ちどころぢゃ。『可惜打這般死漢』鶏を割くに何ぞ牛刀を用ひんやぢや。『一模脱出』二大士手段一般ぢや。何か珍らしい手段がなかったであらうか。
 

 『灼然』てつきり慣手段に出づるであらうと思ふてゐた。『在鬼窟裡作活計』死中に活を得る者古も猶稀である。古今の情を捨てて一大新機軸をいだせ。報恩有分ものか。『將謂得便宜』これで勝ち得たと思うてをる。笑止のことぢや。『賊過後張弓』劔去久矣、露柱笑呵々。福本にはこの語なしと。

 

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 今回の提唱で心に残った言葉:

 

 「鄕愿德之賊也(陽貨第十七)。似て非なるが故に是故悪彼侫者とある。相似禅に沈酔したら却つて學ばざるの平穏なるに若かずと林微のまねごとや盲打を戒めた。打つことはたれでもうつ。内容即龍蛇の力天地懸隔。一は宇宙的一は自己的ぢや。」

 

 打つ方も打たれる方も、全く分かっていないのに、「打」(あるいは「喝」)という形を以て万事済ませてしまう。これが「祖師西來意」か、と。まさに、「鄕愿德之賊也」、つまり偽善者である。日本(人)同様、禅宗も、見せかけだけで中身のない、単なる形式主義の虚仮威しに堕落したということであろう。

 

 「本分の上からは打といふも老婆ぢや。達磨が九年面壁して何にも云はぬには及ばぬ。」

 

 殊更何もしなくても完璧に出来ているのに、打ったり喝したり、一体何のつもりなのであろうか。全て余計ごとである。見る前に見える。聞く前に聞こえる。このように、何かする必要が本当に何もない。儻隠老師も黙っておられれば、もっと良かったのに、気の利いたようなことを喋り散らして、本来要らぬことをなさっている。故に結局は、「要且無祖師西來意」である。

 

 最後に、(ご老師、手前に座っておられる参禅者の方を扇子で優しく打たれて)「ピシッ」「こうやって叩かれると、すぐに叩いた人の方を見て、叩かれた処にいない。すぐ、『誰が叩いた』となる。それじゃだめですね。いいですか、身体に聞いてご覧なさい。井上が叩いたなんて、言いませんから。事実は誰が叩いたんでもないですよ。ただ、(ご老師、扇子で机を叩かれて)「ピシッ」ってあっただけですよ。わかりますか。…」

 展示替えがあったので、近所の(川端)龍子記念館に行ってきた。大森駅から歩く。

 

大森駅西口

 

 

 池上通りを南下する。

 

闇坂

 

 

 

熊野神社社号標

 

 大森郵便局バス停の角を右折する。

 

 

 環七の高架下をくぐり、右折する。

 

 

中央一丁目バス停

 

 ファミマの角を左折する。

 

 

 

龍子記念館入口

 

龍子記念館

 

 

 それでは、入館する。

 

「立秋」

 

「百蟇図」

 

「土」

 

「水巴」

 

 「花鳥諷詠」

 

「阿修羅の流れ(奥入瀬)」 

 

「炎庭想雪図」

 

 

 

「渦潮」

 

「御来迎」

 

「百子図 」

 

 「獺祭」

 

「沼の饗宴」

 

 ネット上で解説が見つからないので、以下、記念館の展示情報を転載する。

 

 「本展(『彩る、生きものたち。川端龍子の観察と想像』)は、生きものをテーマに、日本画家・川端龍子(1885–1966)の作品を紹介します。龍子は1920年から、現在の龍子記念館の向かいに位置する龍子公園の敷地に、1966年に亡くなるまで暮らし、そこを終の棲家としました。龍子の暮らしには、様々な生きものたちがいました。《立秋》(1932年)は、庭の飼犬を描いた一作で、飼犬の視線は主人である龍子を見ていると想像でき、愛犬との親しみに満ちた日常が表れています。《百蟇図》(1963年)では、龍子公園内の「爆弾散華の池」周辺に生息する蛙を題材とし、画面には複数の蛙が、正面や側面、あるいは仰向けなど、さまざまな角度から捉えられています。

 

 龍子は身近な生きものを描写した一方で、想像の世界や自然界の諸現象をも生きもので表現しました。《夢》(1951年)は、中尊寺金色堂のミイラが調査されたことを受け、棺を開けた途端、蛾の群れが飛び舞うという幻想的な光景として描き出しました。自然現象を描いた作例には、《渦潮》(1956年)や《御来迎》(1957年)があります。前者は、鳴門の渦潮を架空の生きものである龍の姿を借りて表現し、後者は、富士登山での流動する雲海を白馬が駆ける様子として表現しました。その他、《百子図》(1949年)や「河童シリーズ」など、龍子が描いた「かわいい、おもしろい」生きものたちも展示します。龍子の作品に描かれた生きものたちは、身近な観察から想像の世界に至るまで、多様なかたちで表現されています。本展を通して、生きものたちが彩る龍子の世界をお楽しみください。」

 

 次に、これまた近所の池上妙見堂のあじさいが咲く頃なので、行ってみる。

 

東急池上駅

 

本門寺通り

 

本門寺新参道

 

 

題目塔&霊山橋

 

 右折して呑川沿いに歩く。

 

妙見橋

 

呑川

 

照栄院山門

 

本堂

 

 照栄院は、東京都大田区池上にある日蓮宗寺院。山号は朗慶山。池上本門寺の塔頭で、本行寺・理境院と共に池上三院家の一つ。池上中道不二庵法類の柳嶋法縁に属する、という。

 

妙見坂

 

境内の紫陽花

 

手水舎

 

 

妙見堂

 

 妙見堂は、慶応2年 (1866年)に再建された檀林(照栄院)の鎮守。安置する妙見菩薩立像は、加藤清正の息女・瑶林院が夫である徳川頼宣の追善菩提の為に本門寺に奉納したものという。妙見堂を参拝後、隣接する同じく本門寺塔頭の養源寺に行くが、こちらの紫陽花はもう終わりかけていた。

 

養源寺山門

 

本堂

 

境内の紫陽花

 

 これで帰宅した。

 四国八十八箇所(八番&九番)の続き。熊谷寺で納経後、今回最後の札所は、第十番切幡寺。まずは徳島自動車道に沿って西進する。

 

 

 

 

 九頭宇谷川に沿って南下する。

 

 

 

 県道139号に入る。

 

 

 鳥居が見えたので、参拝する。

 

赤田神社

 

参道

 

二の鳥居

 

拝殿

 

本殿

 

 赤田神社は、式内社の建布都神社の論社という。参拝後、県道139号を西進する。

 

 

 

稱念寺

 

 標識に従い、進む。

 

 

 

 

 再び徳島自動車道の高架をくぐる。

 

 

 

 切幡寺にやっと到着。

 

切幡寺仁王門

 

仁王像

 

 

八大龍王堂(鎮守)

 

杖無し橋

 

 参道を進む。

 

 

経木場

 

 

 

手水舎

 

鐘楼

 

本堂

 

 

奥殿

 

大師堂

 

 

不動堂

 

 

大塔

 

 

 奥の院を参拝する。

 

 

 

 

奥之院:八祖大師堂

 

 

 切幡寺は、徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗寺院。得度山、灌頂院と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第十番札所。寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。

 

 そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる、という。

 

 切幡寺で納経後、阿波川島駅まで歩き、そこから徳島駅まで徳島線に乗車し、徳島駅から徳島空港までバスに乗り、徳島空港から飛行機に乗って羽田空港に帰ってきた。

 

県道237号

 

 

 鳥居が見えたので、参拝する。

 

 

八幡宮

 

拝殿

 

 

本殿

 

粟島神社

 

本殿

 

 元々は粟島神社の社地に、後から八幡宮が遷座してきたような様子が感じられた。

 

県道237号

 

 

 善入寺島を経由して、吉野川を渡る。

 

 

 

 大野島(潜水)橋を渡る。

 

 

吉野川

 

善入寺島

 

 

 画像ではわからないが、左手の草原でたくさんのモンシロチョウが飛び交っていた。

 

 

 川島(潜水)橋を渡る。

 

 

 

吉野川

 

川島(潜水)橋

 

阿波川島駅に停車中の徳島行き車両

 

徳島駅

 

徳島空港

 

羽田空港

 

 徳島の四国八十八ヶ所巡礼三日目は、まずは第九番法輪寺に向かう。鴨島駅から歩く。

 

徳島駅構内の阿波池田行き車両

 

鴨島駅

 

国道318号

 

江川・鴨島公園

 

 

 

 阿波中央橋が見えてきた。

 

 

阿波中央橋

 

 吉野川を渡る。

 

 

 阿波市に入る。

 

 

吉野川

 

 

 善入寺島(吉野川の川中島)が見える。

 

 

 吉野川を渡り終えた後、国道318号をさらに北上する。

 

 

 

 左折して、県道12号を西進する。

 

 

 標識に従い、右折する。

 

 

 

 そろそろ九番に到着。

 

 

法輪寺仁王門

 

仁王像

 

 

境内

 

手水舎

 

鐘楼

 

本堂

 

 

 

 

大師堂

 

 

 

 

 

方丈

 

 法輪寺は、徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗寺院。正覚山、菩提院と号す。本尊は涅槃釈迦如来で毎年2月15日に開帳される。四国八十八箇所第九番札所。巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺もしくは法淋寺と号した。

 天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 – 1648年)に現在地に移転して再興され、田園の中にあるため「田中法輪寺」と呼ばれ、当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」ことから、現在の山号と寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に失火にて鐘楼堂を残して全焼、明治になって現在の堂宇が再建された、という。法輪寺で納経後、次に第八番熊谷寺に向かう。 

 

 

県道139号

 

 

鳥居

 

 

 徳島自動車道の高架の向こうに、大きな仁王門が見えてきた。

 

 

 

熊谷寺仁王門

 

仁王像

 

 

境内入口

 

本坊山門

 

本坊

 

多宝塔

 

 

 

多宝塔内部

 

 

 

 

参道

 

 

二天門

 

二天像

 

 

 

本堂

 

 

鐘楼

 

 

大師堂

 

 

 熊谷寺は、徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗寺院。普明山、真光院と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第八番札所。寺伝によれば、815年(弘仁6年)空海(弘法大師)がこの閼伽ヶ谷で修行をしていた際、熊野の飛瀧権現(熊野那智大社の別宮飛瀧神社の祭神)が現れて「永く衆生済度の礎とせよ」との宣託をし、1寸8分 (約5.5 cm) の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊とした、という。熊谷寺で納経後、今回最後は第十番切幡寺。


(続く)

 四国八十八箇所(二十二番&二十三番)の続き。平等寺で納経後、新野駅まで戻り、再度牟岐線に乗り、桑野駅で下車、バスに乗り、和食東バス停下車、第二十一番太龍寺に向かう。

 

桑野駅に到着した徳島行き車両

 

桑野駅

 

駅前

 

 鳥居が見えたので、参拝する。

 

桑野天神社鳥居

 

 参道途中にお寺があったので、参拝する。

 

梅谷寺

 

観音堂

 

桑野天神社

 

拝殿

 

「桑野上」バス停付近

 

「和食東」バス停付近

 

 標識に従い、右折する。

 

 

 

 神社と思われる目立つ社叢が見えたので、近づいてみる。

 

蛭子神社鳥居

 

手水舎&随神門、夫婦杉

 

手水舎

 

随神門

 

随神像

 

 

拝殿

 

 

本殿&境内社

 

 

 

境内の巨木

 

 蛭子神社は、徳島県那賀町に鎮座する神社。式内社の和奈佐意富曽神社の論社。境内に大木多く、随神門の前には5本の大木が「門杉」を形成している。太龍寺縁起によれば、天長2年(823年)、空海が遷宮したと伝わる。古くは鷲敷社、中世には和食大明神、蛭子大明神と称したという。

 

 蛭子神社参拝後、太龍寺に向かう。

 

 

 那賀川に架かる田野橋を渡る。ロープウェイのゴンドラが見えた。

 

 

那賀川

 

 

 太龍寺ロープウェイの乗り場が見えてきた。

 

 

 

 ロープウェイ山麓駅に到着。

 

 

 

 

 それでは、乗車する。

 

 

 

 

 

ニホンオオカミ像

 

 

 やっと到着。

 

 

太龍寺入口

 

手水舎

 

本堂前石段

 

本堂

 

 

求聞持堂

 

鎮守社

 

 

弁天堂

 

多宝塔

 

巨岩

 

大師堂

 

 

御影堂

 

 

中興堂

 

相輪橖

 

鐘楼門

 

持仏堂

 

護摩堂

 

六角経蔵

 

 仁王門を撮影するのを忘れた。納経後、舎心ヶ嶽(奥の院)を参拝する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 到着した模様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太龍寺は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗寺院。舎心山、常住院と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所の第二十一番札所。延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。
 

 空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰の序文に「…阿國大瀧嶽に…勤念す…」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。

 天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建された、という。

 

 舎心ヶ嶽参拝後、和食東バス停から桑野駅までバスに乗り、桑野駅から徳島方面行きに乗車し、徳島駅に戻ってきた。

 

ロープウェイ山上駅

 

帰りのゴンドラ

 

 

和食東バス停

 

桑野上バス停を出発した路線バス

 

桑野駅に到着した徳島方面行き車両

 

徳島駅

 四国八十八箇所巡礼二日目は、徳島駅から牟岐線日和佐駅まで乗車し、まずは第二十三番薬王寺を巡拝する。

 

徳島駅前

 

牟岐行き車両

 

車窓から見えた景色

 

 

 

日和佐駅

 

 薬王寺瑜祇塔が見えた。

 

 

 瑜祇塔を目指して進む。

 

 

 

寺標&仁王門

 

仁王門

 

仁王像

 

 

女厄坂

 

鐘楼

 

方丈

 

男厄坂

 

本堂

 

 

 

肺大師

 

鎮守堂

 

大師堂

 

 

地蔵堂

 

十王堂

 

大楠

 

 立島が見えた。

 

 

本堂

 

霊牌堂&瑜祇塔

 

還暦坂

 

瑜祇塔

 

 

瑜祇塔から見えた景色

 

本坊

 

 

 薬王寺は、徳島県海部郡美波町にある高野山真言宗寺院。医王山、無量寿院と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所の第二十三番札所で、厄除けの寺として知られる。寺伝によれば、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建と伝わる。弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が厄除けのため薬師如来像を刻み、伽藍を建立、という。

 薬王寺で納経後、日和佐駅に戻り、徳島方面行きに乗車し、新野駅で下車、二十ニ番平等寺まで歩く。

 

新野駅

 

県道35号

 

 

 

 

 室比賣神社(式内社)側を通過する。

 

 

 桑野川に沿って歩く。

 

 

大歳橋

 

 

 標識に従い、左折する。

 

 

 

桑野川

 

 平等寺が見えてきた。

 

 

平等寺本坊

 

山門

 

仁王像

 

 

鐘楼

 

境内

 

大師堂

 

 

 

観音堂

 

弘法の霊水

 

男厄除坂

 

本堂

 

 

 

護摩堂

 

 平等寺は、徳島県阿南市新野町にある高野山真言宗寺院。白水山、医王院と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第二十二番札所。寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称された、という。

 平等寺で納経後、新野駅まで戻り、再度牟岐線に乗車し、桑野駅で下車、バスに乗り、和食東バス停下車、第二十一番太龍寺に向かう。

 

(続く)

 四国八十八箇所(十八番)の続き。恩山寺で納経後、「恩山寺前」バス停から立江寺方面のバスに乗り、「立江小」バス停下車、第十九番立江寺を参拝し、立江駅から日和佐駅に向かう。


県道28号

 

立江寺山門

 

仁王像

 

 

手水舎

 

本堂

 

 

大師堂

 

多宝塔

 

神変堂

 

客殿・納経所

 

毘沙門天立像


 立江寺は、徳島県小松島市立江町にある高野山真言宗寺院。橋池山、摩尼院と号す。本尊は延命地蔵菩薩。四国八十八箇所第十九番札所で「四国の総関所」、また「阿波の関所」として知られる。立江寺参拝後、立江駅に向かうが、しかし、牟岐線内で接触事故が起きたということで、乗る予定だった日和佐方面行きの列車が運休になったので、予定を変更して、立江駅から徳島駅を経由して、鴨島駅に向かうことにする。

 

立江駅

 



 鴨島駅到着後、そこから歩いて第十一番の藤井寺に向かう。


鴨島駅

 

 駅前通り(県道155号)を南下する。

 

駅前通り

 

 神社を見かけたので、参拝する。

 

鴨島八幡神社鳥居

 

拝殿

 

本殿

 

 国道318号に出るので、右折する。

 

 

 しばらく進むと標識が見えたので、それに従い左折する。

 

 

 

 

 みかわ橋を渡り、用水路に沿って南下する。

 

 

 

 

 標識を頼りに進む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 山門が見えてきた。

 

 

藤井寺山門

 

鐘楼

 

境内

 

手水舎

 

経木流堂

 

本堂

 

 

 

大師堂

 

 

不動堂

 

白龍弁財天堂

 

 

 納経後、奥之院を参拝する。

 

弁財天鳥居

 

 

奥之院参道(遍路道)

 

幽玄霊谷

 

 

 

 

奥之院

 

焼山寺への遍路道

 

八畳岩&鎮守弁財天祠

 



 藤井寺は、徳島県吉野川市鴨島町飯尾にある臨済宗妙心寺派寺院。金剛山と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第十一番札所。弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地で自らの厄祓いと衆生の安寧を願い、薬師如来像を刻んで堂宇を建立、山へ2町入ったところの八畳岩に金剛不壊といわれる護摩壇を築き、一七日(7日間)の修法を行ったのが開創であると伝えられる。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号したという。 以来、真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展した。

 天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。澄禅の『四国辺路日記』(1653年巡拝)には「三間四面の草堂也、仏像は朽ちる堂の隅に山の如くに積置きたる……」と記される状態であったが、延宝2年(1674年)に臨済宗慈光寺の南山祖団禅師が再興し、それゆえ臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に再び火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍である、という。奥之院参拝後、来た道を戻り、徳島駅に到着した。

 

本日のお宿

 脚のリハビリを兼ねて、四国八十八箇所巡礼に行ってきた。今回は、徳島。

 

羽田空港第二ターミナル

 

 

今回搭乗した飛行機

 

機内

 

 徳島空港到着後、徳島駅までリムジンバスに乗り、徳島駅から牟岐線に乗り、南小松島駅下車、まずは歩いて第十八番の恩山寺に向かう。

 

徳島空港

 

空港リムジンバス

 

徳島駅

 

駅前の様子

 

南小松島駅構内

 

南小松島駅

 

 線路を渡り、南下する。

 

 

県道33号

 

 左折して県道216号に入る。

 

県道216号

 

 

 左折する。

 

 

 「真念遍路道」という標識に従い、進む。

 

県道136号

 

 

 

 小高い丘の上に神社の本殿?が見えた。

 

 

芝生八幡神社鳥居

 

 県道136号を更に進む。

 

 

 

源義経上陸の地碑

 

 寺標と標識、それにバス停が見えてきた。

 

 

地蔵尊

 

 標識に従って右折する。

 

 

 

 

 幹が妙に赤い木と寺標が見えてきた。

 

母養橋

 

毘欄樹&寺標

 

沢と巨岩

 

不動明王?石像

 

恩山寺仁王門

 

仁王像

 

 

 遍路道を登る。

 

 

 

 

 

 修行大師像が見えてきた。

 

 

 あじさいが咲いていた。

 

 

境内入口

 

境内

 

地蔵堂

 

地蔵菩薩坐像&千体地蔵立像

 

十大弟子像

 

大師堂&御母公堂

 

大師堂

 

 

鐘楼

 

本堂

 

 

納経所

 

庫裏(客殿?)

 

 恩山寺は、徳島県小松島市田野町にある高野山真言宗寺院。母養山、宝樹院と号す。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第十八番札所。寺伝によれば聖武天皇の勅願により行基が開基し、当初は「大日山福生院密厳寺」と号する、災厄悪疫を救う女人禁制の道場で、十九番霊場に向かって下る「花折り坂」より上は、女性の立ち入りが許されなかった。

 

 弘仁5年(814年)、空海(弘法大師)が当寺で修行していた際、訪問してきた母(玉依御前)のために、山門の近くの瀧にうたれて、一七日間(7日)の秘法を修し女人解禁の祈願を成就し、母を迎え入れることができ母の恩にこたえることができたことから恩山寺、そして、母に孝養をつくしたことから母養山、その記念に宝樹のビランジュを植樹したことから宝樹院と山号院号寺名を改め、自身の像を刻み安置し、「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓った、という。


 恩山寺で納経後、恩山寺前バス停から立江寺方面のバスに乗り、第十九番立江寺を参拝し、立江駅から日和佐駅に向かう。

 

(続く)